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ぐるぐる

ある日,仕事で車を運転していたらラジオから「なんで大人は働くの?」と子どもから質問されたら大人はどう答えるか?いう問いが聴こえてきた。うーむ,労働とはいったいどういったものだろう!?ぐるぐると考えてしまった。

大人になると大半の人は生活の1/3(もしくはそれ以上)は労働の時間だ。せっかくならやりたいことを仕事にしたい!だとか稼げる仕事が大切だ!とか色々な考えがあるだろう。早速,ラジオから聴こえてきた問いからはずれてしまうのだけれでも,労働といっても注目されにくい労働の部類がある。労働は大きく分けて2種類あると思っていて1つは賃金労働でもう1つは無給労働だ。賃金労働は誰もが想像つくと思うのでここでは説明は割愛させてもらう。そしてもう1つが無給労働だ。例えばボランティア,インターンシップ,家事や手伝いなどだ。この中でも家事という労働がとても気になった。というのも最近,家事についての話をよく耳にするからだ。最近ぼくも家事について妻と話をした。家事というのは労働であるのに労働でないかのように思われている節がある。世の中的に家事は無給なので労働として認められにくい(賃金労働=労働のイメージ)こともあるだろう。しかし最近は家事の労働を賃金労働に置き換えると年収◯◯万円稼いでることになりますとか,家事の作業を視覚化するサービスがあり,家事が本格的に労働として認められるようになりつつあるのだ。家事を賃金労働に置き換えた場合,家事の労働力は賃金労働している人と同じ,もしくはそれよりも多く働いているとも言われている。家事の労働力が見直されたり,サービスを使って家事を分担することはとても良いことだ。しかし労働力を視覚化して比べたり評価することは一見便利なようにみえるけれども,危うい要素を秘めてるのではないか。

家事労働を可視化することは,家事を労働として認められることだったり,家事を分担する手段としてはとても有効なのだけれども,労働を評価する行為が当たり前になってしまうと,人はいずれ労働に優劣をつけるようになってしまうのではないか?と思うのだ。例えば仕事をしている男性と女性が同棲していたとする。家事を可視化することでどちらがより多く働いているかが明確になりお互いの家事の量が明確にみえる。一時的には分担することや,お互いの家事労働を見直すことになってよいのだけれども,家事労働の作業の質や量が可視化によってみえすぎてしまうことで,いつの間にかお互いの家事労働の質や量に優劣をつけるようになってしまう。どちらの方が多く働いているだの,家事も仕事もやっているのになぜ手伝ってくれないの?という話になりうる。家事労働を可視化する以前にも互いに比べる行為はあると思うのだけれども,可視化することでよりいざこざが起こりやすくなってしまうのではないだろうか?うまく分担できているうちは問題ないのだけれども,お互いの心境の変化や環境が変わるなどして分担がうまくいかなくなった場合,二人の関係に亀裂が入りやすくなってしまうこともあるのではないだろうか?男女の関係に限らず様々な関係のなかで比べることや評価するによって問題が起きることはよくあることだろう。可視化することでみえるようになってよい部分もあれば,みえなくなってしまって悪くなる部分もあるような気がする。いったい家事労働の質や量の可視化の引き換えに何がみえなくなってしまうのだろう?

そもそも人間は一人一人,身体の大きさも違えばそれぞれ能力も違う。人それぞれ得意なこともあれば苦手なこともある。賃金労働では対価を払うという面では比べざる負えないのだろう。しかしその他の労働を質や量のものさしで比べることや評価することはおかしいのではないだろうか?計算が苦手な人に計算をやらせ,力のないものに重い荷物を持たせる。時にはそういったことをやる必要はあるのかもしれないけれども,出来るかぎり互いが得意なことを分担してをやった方がよいのではないだろうか?自分ができることに力を注ぎ苦手なことはそれが得意な人にやってもらう。質や量ではなく,そういった分担が大切なのではないだろうか?どちらが仕事を多くやっている,家事の量が少ないーだけではなく,互いにやっている家事労働を認め尊重することが大切なのではないだろうか?

家事労働を可視化して質や量を追求してしまうと互いに満たされているうちはよいのだけれども,満たされなくなると相手に対して不満が出てくる。互いの家事労働の質や量を比べたり評価することよりも,相手を尊重し敬うことが大切なのではないだろうか?"敬う"とは相手を尊んで礼をつくす,尊敬するといった意味があるようだ。相手を敬うことでどちらが上とか下とかではなく互いに対等でいられることができる。対等でいるということは家事や仕事の量を同じにすることではないのだ。

ではどうすることで相手を敬うことができるのだろう?上記の文章を読んで「はいそうですか」と相手を敬うことができれば問題は簡単に解決できる。しかし友だちや家族,仕事仲間などに対してそう簡単に敬うことができれば何も問題はない。もっというと相手を敬っているつもりではあるのだけれども,つい不満に思ってしまうことがあるというパターンが多いのではないだろうか?ここではどうすれば日常から相手を敬うことができるのかという方法や心構えとはーということを話ししたいのではない。それはそれぞれの考えがあると思うから。たまには時間をつくって散歩しながらでも,相手のことを考え,ぐるぐると頭の中で思いを駆け巡らせることもあってもよいのではと思うのだ。

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