2011年3月11日に忘れてきた衝動

 このnoteで「天白信仰調査」以外について書くのは初めてである。このブログの題名が「忘れ物拾遺」とあるのは、人びとが忘れ去ってしまった文化や価値みたいなものを、たとえそれが断片的なものであろうと拾い集めて書き留めておこうという意味合いからである。ただ、今回は自分自身の記憶、忘れてはいけない衝動をここに書き留めておきたいと思う。

 題名からも分かるようにそれは東日本大震災の時のことである。あれから10年という節目となる今年(もっとも、被災者の方々からしたらそんなものに意味はないのかもしれない)、偶然なのか僕は被災地と関わる方との縁に恵まれた。その方々との会話の中で「東日本大震災」の話題があがる度に、僕は改めてあの時の記憶を反省しなくてはいけないという感情に駆られるのである。

 2011年3月11日。僕は静岡県内の私立高校の1年生で16歳だった。1年の通常授業はすでに終わり、現代文の補習授業の最中だった。問題を解いている最中、教室全体がゆっくりと揺れ始めた。他のクラスメイトや教員も気づき、「ん?揺れてる?」、「あ、地震だ」とそれぞれに口にした。揺れ自体はそこまで激しいものではなかったが、気味の悪いゆっくりとした横揺れは長時間続いた。これは遠くで大きな地震が起こったに違いないと思った。

 やがて揺れが収まりしばらくすると、校内放送が流れた。「東北地方を震源とする大規模な地震が発生しました」端的にそれだけの放送がだったと思う。それから数時間補習は続行し下校時間になった。ケータイの電源をつけると、親から地震が原因で公共交通機関がダメになっているから父親が迎えに行くという旨のメールが届いていた。東北の地震が、東海地方の公共交通機関にまで影響が出ているという事実を知り、ここで初めて事態の重大さを知ることになった。

 しばらくして、仕事を早々に切り上げた父が学校に迎えに来てくれた。車窓の外を眺めると道路がいつも以上に渋滞している。これではバスは時間通りに運航できまい。なかなか進まない渋滞の中、父と揺れを感じたときの様子を話しながら、普段の倍近くの時間が掛かってやっとのことで帰宅した。

 帰宅すると、母は「これはひどい……」とテレビ画面を食い入るように見ていた。画面にはヘリコプターからのライブ映像で、黒々とした津波が広大な大地に広がる田んぼや畑、ビニールハウスを見る見るうちに飲み込みながら進む様子が映し出されていた。今まで見たこともない光景だった。その瞬間から、「どれだけの人があの濁流の中にいたのだろう」という感情が胸騒ぎとなって僕を捉えた。そして「何かしなければ」、「何かできることはないだろうか」という居ても立っても居られない衝動に駆り立てられた。

 翌朝も胸騒ぎが収まる気配はなかった。テレビには犠牲者の数や避難所の情報、余震の報道が目まぐるしく映し出されていた。登校すると臨時の学年集会が開かれた。内容はもちろん、前日の地震についてである。そこで学年主任は次のように語った。

 「被災地に対して『何かしなければ』と思う者もいるだろう。気持ちは分かるが、このような緊急時こそ落ち着かなくてはいけない。仏教に『一隅を照らす』という言葉がある。大それたことではなく、些細なことにしっかりと取り組むことが尊いという意味だ。お前たちの本分は学業である。今目の前にある学業に丁寧に取り組むことが結果的に被災地のためになる。一隅を照らしなさい」

 今思えば、これは生徒の関心が学業から震災に移らないようにするための、学年主任の方便だということはすぐに分かる。しかし、当時の僕はこれを真に受けてしまった。「こういうときに感情的になってはいけない」、「勉学に励むことが被災地のためになる」 僕は被災地をどこかで気にかけながらも自分にそう言い聞かせ、与えられた春休みの課題をこなした。

 それから2年後。僕は地元、静岡県内の大学に進学した。この時すでに、震災のことは僕の中でかなり薄らいだものになっていた。ところが、大学に入りいろいろな人と関わりを持つ中で、被災地支援やボランティアに関わる人(「きっかけバス」とかいった活動だったと記憶している)が結構いることに気づき、そして驚いた。話を聞くと、ほとんどの人が僕と同じ被災地と縁もゆかりもない学生だった。ただ「被災地のために何かできることはないか」という純粋な気持ちで東北に足を運び、各自様々な支援や活動に携わっていた。中には高校生の時からボランティアを続けているという人もいた。そう、彼らは震災直後、僕に訪れたあの衝動と同じものに純粋に従い、行動し続けていたのである。彼らの語る表情からは被災地への感情が滲み出ていた。「決して震災は過去の出来事ではない現在進行形のことであり他人事ではないのだ」ということを少しでも多く伝えたい。そんな意志が語気から湯気のように立ち上っているのを感じた。

 そのとき初めて僕は震災翌日に学年主任の言葉を真に受けたことを後悔した。僕は今まで被災地に想像力を働かせずにここまで来てしまった。「一隅を照らす」という言い回しを盾に、結果的に見て見ぬふりを貫き通してきてしまった、と。あの時の衝動に従うことは決して愚かなことではなく、むしろ結果的に無かったことにし忘れ去ったことこそ愚かなことだったんだ、と。

 そして気づけば震災から10年余り。被災地に向き合わなかった自分に後悔してから8年余り。僕は大学院生として今の大学にやってきたわけだが、このタイミングでまた被災地に関する取り組みに関わる人との縁が重なった。大学時代に浜松市で3.11のキャンドル・ナイトを主催していた友人や、原発避難区域に関わっていらっしゃる先輩や先生だ。どの人も本気で被災地や被災者に心を寄せ、真剣に向き合ってきた人々である。8年前の支援活動に携わっていた知人たち同様、被災地を語る彼らの目には一点の曇りもない。

 ここ1年、こうした人たちとのやりとりの中で、僕は1つの事実を再認識し、それに伴って1つの思いが芽生えてきた。それは「震災後10年経った今でさえ、まだ、被災地には課題が山積している」という事実であり、それはまた「(皮肉なことに)震災から10年経った今であっても、震災当時行動できなかった自分を後悔するには遅くないのではないか」という思いである。ここにきてやっとスタートラインに着いた。そんな感覚だ。

 もちろん僕のフィールドは別の地域であるし、被災地と深くコミットすることはとてもではないが困難である。でも、何かしらできるはずだ。被災地に思いを馳せるために。1度くらいは被災地に足を運んでみるべきかもしれない。いずれにせよ僕が震災当日に抱いた感情を忘れること、このままなかったことにすることは、多分自分にとってよくない。10年前に忘れてきたあの衝動をもう一度拾いあげ、それをもとに何か1つでも行動する決意表明も兼ねて、ここにそれ書き留めておこうと思う。

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