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そそる天白(相模原市:宮下本町調査)

近頃、都内に引っ越した。実家のある浜松は天白信仰を調べるにあたって東・西・北へのアクセスの点でにうってつけの場所であった。それに比べると、関東の天白信仰に関わる史跡の報告は少ない。現に多くの先行研究では、関東地方よりも三重県や長野県などの中部地方の報告が多い。(堀田1980、三渡1987、山田2016) それだけ中部地方にその痕跡が多いという単純な理由からだろう。しかしまぁ、せっかく関東地方に引っ越したのだから、数は少ないながらも未だ話題になっていない天白を掘り起こしていく作業も、それはそれで意味があるように思う。境遇に逆らわず淡々とやっていきたい。

さて、都内に引っ越して一発目の調査は神奈川県相模原市である。行ったのは先月10月11日だから一か月近く経っての報告になってしまった。ここはgoogle mapで「天白」の別表記であるとされる「天縛」で検索するとまず最初に引っかかる神社、その名も「天縛皇神社」である。

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立派な社殿である。創建は室町時代の1532年(天文元年)。(小山公民館地域資料編纂委員会2010) この規模からも想像できるように、このあたり一帯(旧小山村)の鎮守であり、この神社を規準に裏に流れる境川に沿って小字が宮上、宮下と分けられている。(橋本の歴史を知る会2018) 通りすがりの男性に尋ねると例祭は8月29日で、例年であればそれなりの規模の祭りになるという。

『新編相模国風土記稿』には次のように書かれている。

「天縛明神社 祭神帝釋天、本地十一面觀音、村の鎮守 例祭七月二十九日、牛頭天王を相殿に置、蓮乘院持下同、△末社 稲荷 △神楽殿 〇神明社 〇熊野社 〇山王社」(蘆田伊人 編1998『新編相模国風土記稿』)

ここからもともと社名が「天縛明神社」だったこと、祭神が帝釈天、十一面観音、牛頭天王で神仏習合の形態をとっていたことが分かる。現在の社名である「天縛皇神社」への変更や、現在の祭神である「伊邪那岐命・伊邪那美命」への変更は神仏分離の影響を被った結果である(相模原市教育委員会1993)ことは想像に難くない。例祭が7月29日なのは旧暦だからだろう。

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さて、ここまで一連の情報を整理してみたが帰納して天白信仰を考えるヒントになるだろうか。

まずは立地。すでに書いたが社殿の背後には境川という川が流れている。今まで天白を見てきた経験からいうと河川の近辺に立地するものが多く、この神社も例外ではない。が、それすなわち「天白信仰」だけの特徴かと言われれば、そうではない。

つづいて創建。1532年。創建年代が分かっているものの中では古い方なのかもしれないが、それでも中世である。となると勧請の経緯を知りたいが、今のところそれが分かる資料は持ち合わせていない。今後資料収集を継続する。

最後に祭神であるが個人的にこれが一番気にかかる。牛頭天王である。もちろん天白が牛頭天王であるという一般化をするつもりはないが、以前に浜松の某神社の神主からこんなことを聞いた。「愛知県に牛頭天王を祀る天白が多い。大概、疫病封じの目的だから昔疫病が流行った7月に祭礼が行われる」と。ここも祭礼は旧暦7月29日でその例に漏れない。となると、この天白は疫病封じ系統のものだろうか、と想像したくなる。現にこの地域の昔語りを集めたパンフレットには明治期の際の神社の統廃合に伴い疫病が流行ったとして、牛頭天王の祟りであると噂されたという記述もあった。(小山公民館地域資料編纂委員会2010)

今言えることは以上である。断片的だがこうして書いてみるとなかなか興味深いポイントがうっすら浮かび上がってくるのが分かる。知的好奇心はそそられる一方だ。今後も地道に続けていきたい。

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【参考文献】蘆田伊人 編1998『新編相模国風土記稿』雄山閣/小山公民館地域資料編纂委員会2010「小山の昔語り」/相模原市教育委員会1993『平成さがみはら風土記稿ー神社編ー』相模原市教育委員会/橋本の歴史を知る会2018「橋本の歴史ガイドブック改訂版」/堀田吉雄1980「天白新考」『山の神信仰の研究』光書房/三渡俊一郎1987『天白信仰の研究』三重県郷土資料刊行会/山田宗睦2016『天白紀行』人間社文庫


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