パクチー犬 3

パクチー入ってたら食えないかもな?と思いながら、覚悟を決めておばちゃんの店に入りました。

(こんばんはー。どうもー。いやー今日は偶然何度も逢っちゃいましたね。なんかご縁があるのかなと思って、さっそくきましたよ)

(あらー、いらっしゃーい、きてくれたのね。ありがとう。
ホント、あんなところで逢うなんてすごい偶然よね)


…あはは。
かっこのなかのセリフはもちろんぼくの空想です。そんな気分だったというだけの話です。
現実は、「こんにちは」と挨拶しただけで、あとはただニコニコ。ニコニコ。それだけです。

「バーミーナムをひとつ下さい」

椅子に腰を落ち着けると、さっそくぼくは言いました。
えへん。
もちろんそのぐらいはタイ語で言えます。

一瞬、おばちゃんはぼくがタイ語を話せると思ったのか、何やら話し掛けてくれましたが、ぼくが元のニコニコ小僧に戻っているのを見て、おばちゃんもまたいつもの笑顔のおばちゃんに戻りました。

他に客はなく、板っきれを張っただけのカウンターを前にぼくは無言で座り、おばちゃんもまた黙々と仕事をしていました。
決して居心地が悪いというわけではないんだけれど、話したくても話せないというのはなかなかに苦痛で、あたりにはなんとなく重苦しい空気が流れていました。

(はい、どうぞ)
バーミーナムが来ました。

(…………)

やっぱりです。
覚悟はしていたもののやっぱり、やっぱりです。
パクチー入り。

ぼくは早急に仕事に取り掛かりました。おばちゃんが後ろを向いた隙を見計らって箸でパクチーを掬い上げ、急いで足下に捨て去ります。
でも時すでに遅く、スープはすっかりパクチーの匂いに包まれていました。

まずいものを無理して食べるというのは辛いもんで、不愉快な感覚さえ湧いてきます。

(こんな臭いもの、一体どこがうまいんだろう?タイ人の味覚はわからん!まったくわからん!)

麺は何とか食べ切ったものの、スープはどうにも飲み切れず、半分以上を残してしまいました。

(おばちゃん、どうもごちそうさま)

どうにも腰が落ち着かず、金を払うや、ぼくはまるで逃げ出すかのようにそそくさと屋台を離れました。



サンダルをペタペタ鳴らしながら帰る途中、ぼくは思いました。

(おばちゃんはいい人なんだけどなぁ。でも、あのバーミーナムは食えねぇよなぁ。気まずいから明日から通り道を変えるしかねえな)

──そんな時です。
ぼくの前に不意に例のションベンたれのやせ犬が現れました。哀願するような赤い目でじっとこっちを見ています。

「おい、犬…」
話し掛けようとしてぼくは、突然、得体の知れない感情にとらわれていた自分にハタと気付きました。

(なんてこった。坊主憎けりゃ袈裟まで憎しってやつかぁ。パクチーとおばちゃんはなんのカンケーもねぇじゃねぇか!)

そうと気付いて愕然としました。おばちゃんと出逢ってからこの方、いつだって心底からの笑顔だったのに、今日はじめて愛想笑いをしてしまった……そんな思いが込み上げてきます。

「言やぁいいんだ、言葉でちゃんと。こうやってお前にだって話し掛けてんだから…、な、ションベンたれ。よし、おれ、明日はちゃんとおばちゃんに言うわ。パクチーいらなーいって!」

ぼくは、ひとり呟くように、そう犬に向かって話かけました。
ションベンたれの彼女は相変わらず無関心の表情のまま、足を引きずりながら反対側の歩道に歩いていきます。
そんな彼女を見送り、ふと見上げれば、排気ガスで煙る空には、おぼろに満月が輝いていました。



気持ちさえこめれば、こころは通じるもんだ。俺はおばちゃんのつくるバーミーナムが嫌いなんじゃない。ただ、パクチーが食えないだけだ…。

翌日─。
敢えて昼飯を抜いて腹をすかせた状態で、おばちゃんの屋台に出かけました。
現地の青年がふたり、麺をすすっています。席は空いているんだから、そのまま行ってもいいんだけれど、何となく気恥かしいような思いにとらわれて、道路の反対側の塀際に隠れるようにして煙草を一服。屋台が無人になるのを待ちました。

ほどなく青年たちは立ち去り、屋台にはおばちゃんひとりが残っています。
実際にそう見えたのか、あるいは過去の追憶がそうさせるのか、それは定かではありませんが、古びた屋台はまるでスポットライトを浴びた舞台のようにキラキラとキラキラと輝いておりました。

「こんばんは」

元気な声が自然に出ました。おばちゃんの笑顔も輝いて見えます。

「バーミーナムをひとつください」

紋切り型のタイ語でバーミーナムを注文するや、さっそく身を乗り出すようにして屋台の中を覗きこみ、パクチーのありかを探しました。
くだんのしろものは、プラスチック製の赤いボールの中で碧々としています。

おばちゃん相手にカタコトでではあっても英語を話すのは失礼な気がして、ぼくは深呼吸をしてからこころを込めて念じるように、故郷の言葉・日本語を発しました。

「おばちゃん!」

彼女が顔を上げます。
ぼくは即座にパクチー入りのボールを指差しながら、

「パクチー、パクチー。いらない、いらない」

顔の前で手のひらを左右に振って、いらないことを意思表示しながら、渾身の笑みでそう言い放ちました。気分はテレパシーです。

(おばちゃん、ごめんね。俺、パクチー食えないんだ。嫌いとかそーゆーんじゃなくて、苦手なの。だからお願いだから入れないでね)

おばちゃんやパクチーが嫌いなんじゃない。ただ、ぼくが食えないだけ。悪意なんかこれっぽっちもありゃしないよ……そんな思いをはっきりと伝えたつもりでした。

こころは通じ、おばちゃんもぼくの意図を理解してくれたと見えて、笑顔で「はいはいはい」という感じです。
なんだか大仕事をなし終えた後の気分で、ぼくはこころ穏やかにあたりの景色を眺めていました。


海外旅行というものは、多かれ少なかれ植民地主義的な側面を持っているものです。俗に経済先進国と呼ばれる金持ちの国に生まれた、というただそれだけのことで、二十歳やそこいらの小僧が海外旅行ですからね。

この星には60数億人からの人間が住んでいますが、海外旅行なんぞ出来るのはほんの一握りにすぎません。この世の中の不公平をつぶさに見てきたぼくとしては、だからこそ誠心誠意をもって現地の人たちに接し、『郷に入っては郷に従え』の想いで、庶民の暮らしの傍らを旅させていただきたいのです。

タイ語が話せないこともパクチーが食えないことも確かに負い目ではあるけれど、俺は誠心誠意の思いでこの身ひとつで旅しているつもりだ。札ビラ切って現地人を見下すような真似だけは、決してしてないぞ──。

おばちゃんに気持ちが通じたという思いから、ぼくの精神はやたら高揚していました。

(はじめから言えばよかったんだよ。要はすべてこころの問題なんだよなぁ。言葉なんかじゃないんだ。あはは。テレパシーみたいなもんさ)

空腹もピークに達した頃、バーミーナム完成です。
待ってましたぁ!とばかり振り返り、どんぶりを見て愕然、絶句。
まさに息を飲みました。

なんとそこには超大盛りのパクチーが富士山のように聳え立つ特製バーミーナムがありました。
特別サービスを奮発したおばちゃんの笑顔も「これでどうだ!」と言わんばかりに特別格別です。

あまりの予想外の展開に不意打ちを食らった思いで放心してしまい、おばちゃんの笑顔につられてヘラヘラしているばかりで、誤解を解くタイミングまで逸してしまっています。

ハタと現実に戻りました。事の成り行き上、これはなんとしても食うしかありません。だって十人分ぐらいの超スペシャル大サービスですから。おばちゃんの
“気持ち”
ですから。これをふみにじるわけにはいきません。

なにより『郷に入っては郷に従うもんだ』などと、不遜にも達観したようなことを思ってしまった直後ですから──。

(よし、薬だと思って噛まずに飲み込もう)

作戦を立てます。先ず、口直し用にオレンジ味のジュースを一本頼み、深呼吸ひとつ。富士山のようなパクチーに対峙しました。

「いけー!」

先ずは山頂から八合目付近までをザックリつまみあげ、しゃにむに口の中に放り込みます。
「うっ」となりながらもなんとかジュースで流し込む。一仕事終えてふーっとため息をつくと、例の匂いが鼻腔から蘇ってきました。

箸を止めたらくじけそうな気がして、一気に七合目、六合目と山を崩していきます。
もはや苦行に立ち向かう修行僧の気分でした。

「集中!集中!」

自分にそう言い聞かせながら、涙目で一心不乱にパクチーに食らいついていきます。ようやく半分を過ぎた頃、なんとも不思議な感覚に気付きました。
「あれ?」と言ったきり、二の句が継げないような、そんな感覚です。もう一口ぱくり。やっぱり
「あれ?」。

その刹那、頭の中に、
(どう?パクチー美味しいでしょ?)
そんな声が響きわたったような気がしました。
顔をあげると、そこにはこれまでになく真剣な表情のおばちゃんがいました。

客観的にみてどうみても辛そうにしているぼくの様子から、自分の勘違いに気付いて心配してくれていただけなのかもしれませんが、修行の世界に入り込んでいたぼくにはそうは見えませんでした。

(ドウ?パクチーオイシイデショ?)

頭の中にそんな声がエコーのように響きわたっている感じがして、強い視線に後押しされるようにもう一口ぱくり。
その瞬間、ぼくの中で何かがポンと弾けました。

(香りだぁ、これはパクチーの香りなんだ。おばちゃん、俺わかったよ。香りだ、これがパクチーの香りなんだよね。うまいよ、これ。うまい、うまい)

ぼくはやたら興奮していました。一瞬にして、世界が激変していました。
ぼくが世界と思い込んできたものは、実は世界でもなんでもなく、ただ自分が勝手に作り上げていた幻想にすぎず、世界とは…つまり…パクチーとぼくの関係性そのものでした。

「おばちゃん。このバーミーナム美味しいよ」

ぼくは、おばちゃんの顔を真っ直ぐに見つめ、日本語で、そう言いました。
おばちゃんはいつもの『笑顔のおばちゃん』の顔で、
「美味しかろう!」
と、タイ語で答えました。



いきなりですが、急にここで筆を置きたくなりました。
え?結局、魔法ってなんだったの?って?
おばちゃんは魔法使いだったの?って?

あはは。あはは。あはは。

薫りに習うと書いて薫習(くんじゅう)
──バンコックの夜は、いつもとなんら変わることなく、むっとする熱帯の空気に包まれていました。
排泄物と排気ガスと、そしてどこからともなく流れてくるお香の匂い…。


街灯には大きな蛾が飛び交い、裸電球の光の中、屋台の中から笑い声が響き、車は相も変わらぬクラクションを鳴らし、そして、例のションベンたれのメス犬がひょこひょこと道の向こう側を歩いていきます。


深呼吸ひとつ。
ぼくは空を見上げて呟きました。


「人生は完璧だ」

(終わり)



【あとがきにかえて】


――最愛の友・米山茜に捧ぐ