果たして彼女は実在したか? ーーあとがきにかえてーー

――あとがきにかえて――

 あらあら。話が終わってしまった。ぼくに閃いた極上のイマジネーションはどうなるの?
 でも、そんなもんは単なる“きっかけ”に過ぎなかったのかもしれないな。
 雄弁は銀、沈黙は金。
 ぼくは言葉を使い、Gさんは黙々と働く。ただ、それだけのこと。上も下も、ない。
 それは確かですが、言葉を使うものの使命として、ぼくはやっぱりぼくに舞い降りた極上のイマジネーションを是非ともあなたにお伝えしたいと思うのです。Gさんが少ない言葉で語り尽くした後では蛇足といえば蛇足です。あとがきにかえて――おまけぐらいの位置づけがちょうどいいのかもしれませんね。


  ***

 それはある月の24日の夕刻のことでした。
 ひとりの少女が、この店に香水を買いに来ました。
 年は18歳。
 この春、田んぼと畑ばっかりの小さな村からこの島一番の大都会に引っ越して来ました。ひとり暮らしの大学1年生です。
 実家は決して裕福ではなく、学費は奨学金、家賃とケータイ電話代だけは親に出して貰っているものの仕送りはありません。学校が休みの週末はデパートの地下のお惣菜屋さんで働いています。
 彼女にはつい最近、念願の彼氏が出来ました。同じ大学のボランティアサークルの先輩です。
 明日がはじめてのデートなんです。実は先々週に誘われていたのですが、都合が悪いと断わっています。なんのことはない、お金がなかったのです。
 今日は24日金曜日。バイトの給料日です。ずっと節約してお金を貯めました。香水を買うためです。
 それは高校時代からのささやかな夢でした。
(彼氏が出来たら、最初のデートの時は絶対にこの香水をつけるんだ)
 田んぼに響く蛙の声と一面の星明かりばかりが際立つ世界でひとり雑誌を開けば、そこには夢のような華やかな世界が広がっています。
 憧れの、大好きなモデルさんが
「あたしがはじめてのデートの時につけた香水」
と紹介する香水を、あたしもつけるんだ!
 それはもう、夢みる少女の中では、厳然たる決まり事でした。

 香水――生まれてはじめての買い物です。半月も前から何件ものお店を回って値段を調べました。
 高級百貨店の化粧品売り場で、黒いスーツに身を包み、粟色のロングヘアーを綺麗にカールさせた売り場の女性に
「いらっしゃいませ。香水をお探し?」
とニッコリ微笑みかけられた時は、ジーンズにデイパック姿の自分がなんだか田舎者扱いされているような気がして
「いえ、いいんです。ご、ごめんなさい」
後ずさりして、逃げるように立ち去りました。
(あたし、なんでごめんなさいなんて言っちゃったんだろ?)
 気後れした自分に腹が立ちました。
(でもやっぱり値段も高かったなぁ)

 ある時、家電製品を中心としたこの店にも化粧品コーナーがあると知り、学校の帰りにチェックしてみました。なんといままで調べた値段より700円も安いのです。700円といえば、ちょうどバイトの時給ぶんです。
「やったね! ラッキー! お給料入ったらここで買おう!」
 でも、ショーケースを覗き込むため、弾む気持ちでしゃがみ込んだ途端、気分はいきなり思いっきりブルーになりました。
――足下の床に誰のものとも知れぬ陰毛が2本、ワックスで塗り込められていたのです。
(…………)
 なんだかとても悲しくなりました。
 700円高い高級百貨店を迷わず選択出来ない自分が惨めにさえなりました。
(お金さえあれば、お金さえあればこんな惨めな想いはしなくてすむのに……)

 その日の帰り道、駅の構内で無料の求人情報誌に無意識のまま手が伸びていました。電車の中でそれを読みます。
「カウンターレディ時給2000円以上」
「派遣コンパニオン。1日2万円以上の高収入! みんなやってるからはじめてでも大丈夫!」
 無意識にそんなページを開いている自分に気づき、さらに落ち込みました。

 その日の夜、実家から電話がありました。
 酒を飲んで上機嫌らしい父親の、
「おい、ちゃんと真面目にやってるか?」
の一言にわけもなくキレました。
「やってるよ! あたしが何をしたってゆーのさ、この甲斐性なしのくそオヤジ!」
 ケータイ電話を放り投げ、夜中まで泣き続けました。
(結局、あたしはあの陰毛の店で買うことになるんだ。700円惜しさに陰毛を選ぶんだ。はじめてのデートなのに……)


  ***

 デート前日。金曜日の夕方。
 半ばわくわく半ばゆーうつな複雑な感情を引きずるようにして、あたしは駅前のその店に入りました。
 気のせいか化粧品売り場だけが輝いているように見えました。近づいてみると、気のせいではありません。化粧品売り場の床だけが、まるで魔法の絨毯の上に乗っているかのように、ピカピカに輝いているではありませんか! もちろん、先日の陰毛など影も形もありません。
 なんだかかみさまがあたしの初デートを祝福してくれているみたいに感じました。
(テヘッ。あたしってば運がいいかもぉ)

 銀行でおろしたての真っさらな1万円札を出して会計を済ませると、すぐに試してみたくなって、あたしはさっそく化粧室へと向かいました。化粧室も掃除が行き届いていると見えて、ピカピカに輝いていました。
 高校時代からずっと憧れだった香水を、耳の裏側にそっと吹き掛けてみます。柔らかい香りがあたり一面に漂いました。
 ふと見れば、鏡の向こうで、例の求人情報がバックパックの中から顔を覗かせていました。取り上げて、そのままごみ箱に放り込みます。その時、なぜかふと、
「お父さん、ごめんね」
そんな思いがこころをよぎりました。
 少女から大人へ――あたしは確かに成長している。鏡を見つめていると、なんだか照れ臭いような気持ちが湧いてきて、周囲に誰もいないことを確認して、声に出して言いました。

「あたしってば~、美人じゃん!」


  ***

は、は、はっくしょーん。
 Gさんが聞いてくれないから独り言ぶっこいてたら、ついつい長くなっちまっただよ。
 ありえない妄想です。
 一介の掃除夫のこんな妄想に関係なく世の中は動いていきます。
 でも、人間には想像力という能力があり、だからこそ未だ来ずと書く未来のことを想像することができるんだ、とぼくは思うんです。
 戦いと称して人を蹴散らして自分だけ成り上がる夢も見られれば、ささやかな日常の中にささやかな笑顔を想像することも出来ます。
(彼女は幸せになっただろうか? 彼氏とはうまくいっただろうか?)
 ぼくはそんなことを考えます。
 でも、すべてはぼくの妄想なわけで、いや……

『果たして彼女は実在したか?』

 この問いに対し、ぼくは真っすぐに前を見て、「はい」と答えようと思います。現実に、髪の毛1本落ちていないピカピカの床があります。そしてぼくは、言い知れぬほど元気になりました。
「ライブリーアップユアセルフ♪」
 鼻歌まじりに元気いっぱい、ぼくは今日もお掃除の仕事をしています。タオルのほっかぶりをしたGさんはその傍らで……あはは。相変わらずです!


  ***

 最後になりましたが、ここまで読んでくれたあなたのために、ここでぼくとGさんの正体を明かそうと思います。
 この世の中は普通人と呼ばれるわたくしたちで成り立っています。やれアーティストだの表現者だの、そんなスカタンみたいな話はどうでもいいのです。
 こころからの笑顔をとは思いつつ、時に客にむかついたりする時給700円のコンビニの女の子、また失敗して上司に怒られ、よし明日は頑張るぞ! と言いつつカラオケで憂さを晴らしてるサラリーマン、人一倍働く癖に大酒飲んで女房に怒られてる土方のオヤジ、あたしだってこれでも頑張ってんだよ! とこころの内に叫んでいる引きこもり少女……それが普通人と呼ばれるわたくしたち自身の姿です。

 たった1度の人生をちゃんと生きようと、悩んだり苦しんだり泣いたりしながら、それでもなお、と、このありきたりの日常を生きているわたくしたち……。
 ぼくやGさん――そう、それは、ここまで読んでくれた“あなた自身”のことなのです。


                                   (終わり)