見出し画像

◆虎に翼、学び行い取り入れる先入観

学び行い取り入れる先入観。そして選択。
ううん。重たそうで意味不明な書きだし。
今回はそういう内容だ。


幼い頃からボクらは見て、聞いていく。
成長に伴い行動の幅が広がり、交流の経験も増えていく。
そうした体験から、知識と経験も増えていくし、それらがどういうものなのかという実感も増していく。

けれど、それらは理解と直結しない。
おとなが言うことを真似たり、うまくいったから思考を放棄したりすることが実に多い。


知識と経験、そしてそれらに繋がる実感は結局のところ現状と今後に向けた予測であり、先入観である。また、予測と先入観に留まるものだ。

容易に行える者ほど、理解など必要としない。
抵抗や負荷を支配や操作、屈服でどうにかできる・できてきた者ほど、自分を改める必要性がない。
世の優位性に伴う深刻な性質の正体である。
そして世にある優位性は多種多様であり、多くの人の内面に一般化されたものである。


ただ多種多様な優位性は、多くの劣位を同時に生み出す。
そのため多くの人は劣位に巡り会い、内省の機会を得る。
ここで先に述べた「抵抗や負荷を支配や操作、屈服でどうにかできる・できてきた者」はつまずく。
むしろ深刻な性質をより強固なものにするべく、現状を否認して、自分の問題ではないよう切り離し、支配や操作、屈服させることで切り抜けようとする。
こうした加害性の虜になっていく。

それに己の劣位に巡り会ったとき、内省の機会を活用できるかといえば疑問が残る。
自分が優位に立てるものを活用して、その場を切り抜けようとする者もいることだろう。


今日の虎に翼では、男たちの性質の問題が露呈する。
平易に表現するなら「自分よりも強い者には「すん」として、自分よりも弱い者を叩く」。


穂高に依頼されて教鞭を執る大庭徹男。
彼の話に追従する花岡。
いずれも寅子たちを「優れた女性」であると褒めながらも、同時に「男よりも劣る女」として扱う。
「同じ学生」ではなく「女」。「授業は対等に議論をする場」ではなく「男と女」であり「強者と弱者」であるため「女が教師に、それも男に意見を言うなんて」という価値観を花岡は露呈する。


寅子の姿勢を褒めて好きだと言ってみせるが、内実は伴わない。
しかし花岡は容姿端麗、言動穏やか、身なりもよく成績も優秀。
そうした者をよく思う者ほど、彼の内実のずれに気づかない。
むしろ恋愛の好ましい一幕であるかのように捉えるだろう。


行えば結果が出る。
そうした者は、行いの意味を理解しない。多種多様な人のあらゆる受け取り方があることを理解しない。
自分にとって答えであり、解決になり、結果を出せることで思考を止める。
そして、自分にとっての答え・解決・結果を受けとるよう、周囲に求める。


花岡の危うい性質の先にいるのが大庭だ。
彼は授業で公然と妻の梅子を悪し様に言う。
笑う男たち。「さてどう出たものか」と、その場に合う答えや解決を模索する花岡。一方で「なにがおかしいんだ」「笑えないが」と言わんばかりの轟。三者三様である。


大庭は「女は男より下」「優れた女はそうでない女より上」そのうえで「梅子はだめな女」として扱う。
弁護士で民事訴訟に携わる男として、穂高に紹介された大庭がこのレベルなのである。


今週に入って四通目の恋文を無礼かつ悪し様に追い払う花岡は、近くで見ていた男たち(なぜいるんだ。なぜ見ているんだ?)と直ちに合流して、その場を去る。
その男たち、小橋らにモテることなどをもてはやされて自慢げになりながら、告白してきた女給を筆頭に「女は甘やかしたら、すぐにつけあがる」と見下してみせる。
花岡における「女とはなにか」という区分けと、その内実が明らかになる場面だ。


そう振る舞える者は、そのまま振る舞い続ける。
大庭にせよ、花岡にせよ。
告白してきた女給を悪し様に言う花岡に、後からやってきた轟が食ってかかる。


「誠意がない態度はいただけない! 男として恥じぬ行動をすべきだ! いまの言葉を撤回しろ!」


そう迫るが、花岡はまともに取り合わない。
「落ち着け」「まあまあ」というだけで、轟の言葉を歯牙にもかけない。受けとらない。
現場を目撃した寅子は花岡の言いように憤慨するが梅子が止める。

「男が集まったら、みんなこんなものよ。怒ったところで、なにも変わらない」

事実、花岡は轟の怒りを微塵も気にしていない。
なにも変わらない。自分が変わる必要性などないのだ。
より卑猥で俗な話を花岡たちがして、轟が怒ったとして、結果は同じだろう。

そうなると見越して梅子は寅子を止めた。
徹男を相手に何度も経験してきたのだろう。
怒っても、相手は受けとることができない。
自分の答え、解決、結果しか見ていないし、見るつもりがないのだから。視野が自分の内面にしか向いていない。まず内面と一致する者とのみ、答えや解決、結果を共有することはあっても、彼らが真に内省することはなく、従って、思考することもない。


徹男の性質は男に広く見られるもの。
だとしても、にぎりめしを喜び、表向き柔和に接していた男たちの底の浅さを目の当たりにして梅子の心中はいかばかりか。


ただ、花岡の、そして恐らくは大庭の抱える性質は一般的なものだ。

周囲に合わせて「こうするのが正しい」「こうすれば受ける」「こうしておけば間違いはない」「こうしておけば好意を得られる」といった答え、解決、結果”のみ”に適応する”だけ”の人は多い。

その状態で立ち止まるとき、自分の答え、解決、結果に照らし合わせた答え合わせ、照合作業しかしなくなる。
実に楽な生き方だ。


本作は一週目から、この性質の問題を「はて?」と立ち止まり、思考してきた。違和感と向きあってきた。

寅子の母はるは、女の生き方、賢いやり方をしばしば寅子に繰り返し伝えていた。見合いを何度も設けて「結婚したほうがいい」「お見合いをするんです。絶対に!」と訴えていた。
けれど、はるに対して寅子はこう述べたはずだ。


「私には、お母さんが言う幸せも、地獄にしか思えない。やりたいことも、言いたいことも言えず、必死に家のことしても、家族の前以外ではすんっとして。だから、私は、お母さんみたいな生き方じゃなくて」


最後の一文があまりにも辛辣に刺さり「お母さんのこと、そんな風に見てたの?」と絞りだすようにして、はるは去った。
しかし、後日である。
寅子が桂場と言いあう話を聞いて、はるは踏みこんだ。


「女の可能性を潰してきたのは、どこのだれ!? 男たちでしょう!」
「そっか。ん!? 私に感情的に、なられても」
「自分にその責任はないと? それならそうやって無責任に、娘の口を塞ごうとしないでちょうだい!」


啖呵を切ってみせるのだ。
松山ケンイチ演じる桂場の圧倒された表情がいい。
それよりなにより、石田ゆり子演じるはるの研がれた刃のような言葉、感情の切れ味がいい。


お見合い、結婚。それが賢いやり方。
答えであり、解決であり、結果になる。現状でもっともよいものとなる。

はて。

本当にそうだろうか?
それらは一体、どういうものなのだろうか?
寅子は立ち止まり、疑問を呈して、考える。
よねや涼子、香淑に梅子、玉ら仲間たちと共に試行錯誤をする。


幼い頃からボクらは見て、聞いていく。
成長に伴い行動の幅が広がり、交流の経験も増えていく。
そうした体験から、知識と経験も増えていくし、それらがどういうものなのかという実感も増していく。
これはこういうものなのだ。そういう答えや解決、結果を増やしていく。

しかし、それらは一体、どういうことなのかな?
内向きに増やしていく手札、情報のやりとりで済ませてしまっていいのだろうか?

寅子たちが弱音を吐き合う場になって、花江が本音を吐露したとき、おとぼけ兄ちゃんの直道は言った。

「俺は、花江ちゃんの味方。花江ちゃんが一番。だから、この家出ようかな!」
ちがう。これじゃなかった。いや、このセリフもいいんだけど! はると花江のふたりが嫌い合わないようにしたいと告げたときもよかったんだけど。これじゃない。


「思っていることは口に出していかないとね。うん。そのほうが、いい!」


ナレーションのツッコミが入るが、さておき。
弱音にせよ本音にせよ、答えや解決、結果で思考停止して外に出さない思っていることは、口に出したり内省したりしないことには、もやもや留まる。
答えや解決、結果が得られないもやもやになる。ストレスになる。そのまま放っておいたら、嫌悪感や敵意、先入観の強化にしか繋がらない。


そういう意味で今日の回で轟はよかった。
彼は思っていることをどんどん口に出していく。
それは行為に留まるので内容が問題になるし、轟は攻撃的だったり差別的だったりする先入観をそのまま口に出している場面も多々ある。
多々あるのだが、それだけではない。


第一週では見合いを進めたいはる、いやがる寅子。
題二週では裁判の原告、寅子とよね。
第三週では女子部のみんな。はると花江。
そして第四週に入って、まず轟が「問題だ」と声をあげた。


これでいい。これが答え。解決法。もっともいい結果。
だから、みんなそれに従え。
強い者、どうにもならぬ者、どうしようもないときには「すんっ」だ。


それでいいのか?
いいや、よくない!
そう声をあげる立場に轟が立った。
大庭が梅子を罵倒して笑いを取る場面でも轟は笑わなかった。

授業で問題を出されたとき、よねが答えた内容に轟は迷わず「それだ! 俺もそう思ってた」と乗っかった。

大庭のあまりにもひどい態度のあと、彼が去ってから梅子は寅子たちをお茶に誘った。ハイキングの打ち合わせにいいからと男子たちも誘ってみせた。そしておごりを提案したとき、轟は無邪気に喜んだ。

自分の内面化した答えや解決、結果よりも、外にあるものをありのまま受けることができるところを随所で見せたのだ。


対比される男たち、大庭はもちろんだが、とりわけ花岡、花岡を持ちあげる小橋たちはちがう。
梅子の息子の帝大生、徹太たちを前に「すんっ」。
だけど明大生の男まみれになった途端「女は弁えさせないと」。
自分に都合のいいものは利用するし、ものとして扱うし、いいようにする。
けれど勝てない、抗えないものには途端に「すんっ」。
それが彼らの学んできた答えであり、解決であり、結果である。


優しくしてみせても、中身がない。
温厚に振る舞ってみせてもそうだ。
体裁だけ取り繕うように謝罪の弁を述べても変わらない。
自分の答え、解決、結果しか見ていない。
なにより皮肉なことに、それらは自分自身でさえない。
自分の本音や弱音、感情をただただ置き去りにするだけだ。
そのうえで振る舞うのだから、加害を繰り返す。無自覚に。

そうやって適応した彼らは、それらがどういうことなのか無批判なまま、ただただ内面化している。
思考しない。問わない。そういうもの、はい終了だ。


本当にそれでいいのだろうか?


株を上げた轟でも帝大生にはすんとした。
先入観に留まるものも、多く抱えているだろう。
しかし声をあげた彼の変容、これまでの人生に俄然、興味が湧いた。

一方で花岡は大庭たちをはじめとする答え、解決、結果ありきに適応するばかりの人々の象徴的な立場にいるように感じる。
彼がどう描かれていくのか、気になって仕方ない。


はるがぴしゃりと言ってのけた桂場。
彼は現状の答え、解決、結果にうんざりしているように思える。
穂高は桂場のさらに先をいき、女子部の設立や寅子たちの今後の発展に向けて、あれこれと画策しているように見受けられる。
穂高の真意は。桂場は穂高、大庭、あるいはそれ以外のほうへとどう揺れていくのだろうか。


気になるぅ!
また明日!

この記事が参加している募集

テレビドラマ感想文

よい一日を!