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痛がる私が見つからない

恋愛で相手がいる状態で近づくのは最低。
それはそう。心の底から同意する。


仮に相手が近づいてくる者になびくようなら、結局のところ、長くは続かなかったのだろう。
もしも相手との付き合いにおいて自分に問題がある部分に思い当たるなにかがあるのなら?
省みて改善するほかにない。
しかし、それは相手との関係を改善するためではないし、改善できるものでもなければ、長期的な安心を得られるものでもない。
すべて分けて、区切っていくほかに先はない。


もしも苦悩を引きずるとき、これが実に厄介だ。
相手が苦しむべきだ。割って入った者はひどい目に遭うべきだ。
そうした怒りが湧くのも自然なら、犯罪にまで発展するほどの行動に発展するのもまた自然。
実際、刃傷沙汰の理由に多いのだ。
それくらいの怒りと怨みが芽生えるものである。


ただ、だれもかれもが犯罪を、復讐を選ばないのはなぜか。
「割りに合わない」のが理由のひとつだろう。


「そいつ今頃パフェとか食ってるよ」という本が出ている。
どんなに傷つけられても、許せないことをされても、怒りでどうにかなりそうなことをされたとしても、相手は自分を気に掛けてなどいないし、相手の行為がどういうことかを考えることもない。


なんなら割って入った者や、その者に心変わりした相手が幸せになっていくとして、自分を歯牙にもかけないとして、それを許せないとますます怒る人もいれば、それがやっぱり犯罪に及ぶほどの衝動性に発展することもある。
あるが、彼らが変わるか。
変わらない。
自分を気に掛けるか。
掛けない。
裁判沙汰や刃傷沙汰に発展したとて、それがなんだ。
経緯などすべて棚上げして、怨みつらみをぶつけてくるだけだ。
自分のことしか考えないものだ。


自分本意の相手に人生の多くを捧げて、なんになるのか。
時間を割いても変わらない。
感情を摩耗させて心が削られても変わらない。
絶対に思いどおりにならないのだ。
そんな相手を前に激情に駆られたところで、もったいない。
割りに合わないのだ。


自分本意に物語る相手にわざわざ理解させよう、痛い目にあわせようと行為するほど、具体的な行動の内容が過剰になるばかりで、それこそ犯罪のラインにまでなる頃には失うものが膨らみすぎている。


だから、とっとと自分の領域から切り離す。
ろくでもないものに割く時間を捨て去る。
不誠実な根っこが相手にあると看破できたなら?
その性質は相手の人生を、相手自身によって破壊するだろう。
仮に相手がうまく人生を過ごしていたとして、腹立たしいだけだ。
相手の人生がどうなろうと、自分の溜飲が下がることはない。
それなら余計に時間だけでない、感情を割くことさえ無駄だ。
あなたの貴重な時間がもったいないだけだ。


仮にこれを理屈とするなら?
心にすとんと納得できるか。
どうやらむずかしいようだ。


ニッポン放送のテレフォン人生相談に寄せられる相談で、しばしば聞く。
相談者は中年期どころかシニア層にまで及ぶ。
にも関わらず恋愛や人間関係の悩みが尽きない。
自分の激情をだれかにぶつけたいという欲に絡んだ相談もある。


さて。刺激的な内容を意図的に用いた。
犯罪や刃傷沙汰、いわゆる加害に発展するという話だ。
そこまで至るのはなぜか。
なぜ止まれないのか。留まれないのか。


他者を傷つけるのはなぜか?
自分を殺すほど過剰になるのはなぜなのだろうか?


母の自死をはじめ、ボクには気になって仕方ない体験をしてきた。
そのために心理について学びはじめたところもある。


現状で理解しているかぎりでは、どうか。
傷ついた自己、そして自己の世界観、価値観と現実には乖離が存在する。
この乖離をなんとかして埋めようとする。


自己の受容、世界の変化、他者の変容など、情報ひとつひとつをそのまま受け入れるのではなく、まず防衛しようと無意識に働く。
そこで多種多様な防衛機制が仕事をする。
受容に向けて働けたらいいが、残念ながらそうはいかない。


周囲や世界に強く否定された者は周囲や世界を強く否定する。
周囲や世界に迎合するべく、自分を強く傷つけようとする。
それこそ否定されたのに等しい価値になるまで。
養育者や頻繁に顔を合わせる者による罵倒のとおりになるように振る舞うこともある。
それに内面化した罵倒を他者にも適応して、条件が合致した者に容赦なく罵倒することもある。
強く存在を否定された(と本人が感じた)者が自分と世界の均衡を保とうとすると、自死さえ選択肢に入る。


反発に働いた場合には、浴びせられた敵意や害意、否定に対して、蓄積していくであろう感情に合わせて周囲や世界を変化させようと働きかける。
他者に、集団に、行為していく。
敵意や害意、否定に添って。


そうして価値観に、捉え方や考え方、行動に影響を及ぼしていく。
自己と世界の均衡を保とうとする。
その方向性は様々だ。具体的な行動も同様に、多様だろう。


叱るのはいけない。
叱られないように行為して、叱られそうにないときには手を抜き、だれかを叱るようになっていく。


ひどく単純化すると、こうした認識が広まっている。
合わせて、次のような話も広まってきている。


褒めればいい。
褒めれば褒められたくて行為するはずだ。
それに褒められてうれしかった体験をして、だれかを褒めるようになる。


果たして本当にそうだろうか?
叱るにせよ、褒めるにせよ、行為する者が「こうなってほしい」という意図をもって、相手に働きかける振る舞いだ。
どちらにおいても「自分の思うとおりになってほしい」と欲求する心理がある。
支配し、制御しようとする企てがある。
その点で叱るにせよ褒めるにせよ、危うい側面があるのでは?


自分の思うとおりという世界に、相手を合わせようとする欲求がある。それが危ういのである。
叱るにせよ、褒めるにせよ、自分と世界との均衡を保つ手段になっているのである。
日常のあらゆる交流に、この感覚が透明になって存在している。


刃傷沙汰に発展するケースでいえば、どうか。
自分の痛み、苦悩、怒り、怨みに世界を合わせようとすると?
際限なく肥大化する感情が行き着く先などない。
ただただ行為が過剰になっていくだけだ。


なぜか。
痛みも苦悩も、怒りも怨みも、ケアされずにほったらかしだ。
感情を抱いた時間は日に日に蓄積するばかりなのだ。
膨らむばかりの感情に世界を合わせようとしたら?
具体的な行動に歯止めが掛かるはずがない。
膨らみ続ける感情に合わせて、求めるダメージが比例して増していくだけだ。


刃傷沙汰に発展しないで耐えている人においても同様だ。
その害意が周囲に向かうとはかぎらない。
自分に向かう場合もある。
自傷行為にかぎらず、自分の世話を放棄するセルフネグレクトといった状態もある。


いずれにせよ自分と世界のバランスを保とうとすると、思いがけないことやつらい体験、生涯引きずるであろう過去や加害・被害を抱えることになったとき、どうにもならない困難に遭遇する。
だれもがこの不安定さに生涯を通して翻弄される。


先に「割りに合わない」という捉え方を提示した。
しかし、これが万能でも完璧でもなんでもないことは明らかだ。
なにせ増大する感情の対応にならない。
それではいけない。感情の対応が欠かせない。
それが怒りであれ、怨みであれ。
悲しみであれ、なんであれ。
他者でなく自分を責めるものかもしれない。
そうした感情をほったらかしにはできない。


かといって、感情だけを見るようではいけない。
生活の安定と身体の健康なくして、感情のケアは行えない。
継続できないのだ。


もちろん激化する感情の要因になるものの近くにいては生活の安定どころではないし、身体の健康どころではない。
(たとえば共同親権の話題で、問題が生じた関係性から離れることの必要性が説かれる要因のひとつでもあるだろう)


被害だけが存在する場合は言うまでもない。
加害に及んでいたとしたら、やはり回り回って生活どころではなくなる。だれにとっても危険な状態である。


ここまで並べても、対処する内容としては不十分だ。


感情を置き去りにして、自分か世界かをどうにかすることで均衡を保とうとするのなら?
そのとき、人は明らかに「自分のことしか考えていない」だろう。
なんとかしようとしても、感情が置き去りなままではいけない。
かといって感情をただ周囲にぶつければどうにかなるものでもない。


おまけに過去は消えない。
したこと、されたこと。
言ったこと、言われたこと。
これらは断じてなくなるものではない。


「赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア」は、そうしたなくならないものの対応ではなく、それらがいまに与える影響をこそ変えるのだとしていた。


地獄のような自分または世界、あるいは両方の均衡を取るべく自分か世界か、またはその両方をどうにかするよりもまず、心をどうするか。
「虎に翼」では折に触れて丁寧に、けれど巧みに描いている。


答えはない。
解決するわけでもない。
だが弱音や本音を安心して言い合える。
そんな関係性は心の安定に大きく寄与するのだろう。


弱音や本音に向けて、答えや解決を語るものではない。
結果を求めるのではない。ただ受け取りあうのだ。
このあたりの機微がわからないという状態の人も、悲しいかな、ありふれているほど多くいるのだろう。


感情を吐露する。
これを安心して行えることが、感情のケアに繋がるのだろう。


取れないバランスとの付き合い方はなにか。
それは答えや解決だけではない。決して。
長い視点で積み重ねていくほかにないこともある。
打ち崩されようと継続するほかにないことも。


そんなとき、割りに合う合わないだけではない、自らの感情との付き合い方の具体的な手段があるほど望ましい。
そしてどうやら、そいつがかなり、むずかしい。


思うまま、感じたままを吐露する。
弱音を吐く。本音が言える。
配慮と尊重のもとで。
感情を言葉にすることで自覚する。
そうした蓄積が人には欠かせないのではないか。


そうした体験をしないままでいると、言葉にできないどころか、自分がなににどう苦しんでいるのかさえわからないままである。
これはつらい。
とても苦しい。
寅子たちのような仲間に巡り会えたとして、あの弱音の告白会の場でなにも言えないままだろう。
涙を流せず、感情的に訴えることもできないままだろう。
そんな心が傷だらけの状態での自傷行為を続けてしまうだろう。


逆にいえば、思うまま、感じたままを吐露できる場が必要だ。
割りに合う合わないの前に、まず自分の感情をどうするのか。それを言葉にして、自覚して、吐き出すなりなんなりする選択ができるくらいに自分を育てることが欠かせない。


過激な行為を選ばない理由の中には割りに合う合わないだけではない、自分の言葉にならない、形にできない、掴めないし掴んだらとても痛そうな傷を前に、途方に暮れる心理があるのではないか。


寅子たちはお互いに力を与えあいながら進んでいる。
来週が怖い。けれど見続けていきたい。
それとは別に自分に問いかける。


ボクは思いを言葉にできるだろうか。
感情を吐露できるだろうか。
まともにできた試しもないが。

よい一日を!