◆虎に翼21話、居場所
かつて色々とトラブルがあり、ボクが一方的にやられた相手から「あなたは我々のことを悪く見ている。だから我々の選択を悪く受けとるのである」と言われたことがあった。
はて?
もう十年近く昔のことなので、当時のボクに寅子の問いはなく。
ただただ「なんか自分に都合のいい場所で、自分に都合のいいこと言ってんなあ」としか思わなかったのだけど。
そのようなことをする者(あるいは者たち)の無茶な振る舞いに出くわすことが、どうにも現実にはしばしば起きるのだ。
母の自死にかぎらず社会人生活をしていて身に染みたことである。
群馬県桐生市の生活保護受給者に向けたあまりにも異様な対応の数々。佐野SAやジェットスター、Amazon配達員のストライキ。
関生支部への労働弾圧。出入国在留管理庁での事件。公文書改ざん。共同親権。
底はいくらでも抜ける。
意図をもって、一定の権力をもって行使すれば。
国民の権利を。
労働者の権利を。
人としての権利を。
そう訴える者に、とかく風当たりの強い国。
それこそが日本の実態である。
美しい国とは? はて。
この場合の美しさとは、いったいどこから見た、どんな景色なのだろうか?
さて、寅子の父である直言は贈収賄の容疑で逮捕された。
先週は「お父さん、どうなっちゃうの?」と不安になる終わり。
では今日はといえば?
ううん! ますます不安! だいじょうぶ!?
だいじょうぶではない。
長期拘留。自白の強要。
いわゆる人質司法に留まらず、直言は妙なことを言われる。
「きみの証言で、全員を釈放できるんだ」
はて?
そりゃ一体、どういう意味だ?
予審では密室でなにが行われるのだろうか。
怒鳴る。机を叩く。
このあたりはまあ、予想はしていた。
なんなら、朝に見るにはつらくてたまらない、もっとひどいシーンが入るのではと身構えていた。
アメリカの刑事もの、裁判ものだと見かけるシーンがある。
手で頭を机に押しつける。
頬をいたずらに叩く。
椅子の脚を蹴り飛ばして転倒させる。
顔を間近に寄せて大声で怒鳴りつける。
水を飲ませない。
長時間に渡り、人格を否定する。罵倒し続ける。
そして恫喝しつづける。
そりゃあ、どんな容疑者だろうと弁護士が飛んできて待ったをかけるわけである。
なにをするのか、わかったものじゃない。
そして警察内部や検察のお膝元で、容疑者は孤独である。
「なんか自分に都合のいい場所で、自分に都合のいいこと言ってんなあ」じゃあ済まないのだ。
殴られても蹴られても、何時間も同じことをずーっと聞かれて、相手の望まないことを言ったら暴行や恫喝が待っていたとしても、どうすることもできないのである。
そりゃあ、どんな容疑者だろうと、弁護士が飛んできて待ったをかけるわけである。
人質司法は問題だとなっていくわけである。
ではなぜ、自白を強要するようなことをするのか。
目的とはいったいなんなのか。
自白の強要とはなにも「自分がやりました」と言わせるだけではない。それだけでは終わらない。
強要するのは「これこれこういうことを、こういうときに、このようにして行いました」と言わせることだ。
取り調べの最中に行われた不適切な行為のすべてを今後、永遠に黙らせておくことだ。
その後も死ぬまで、ずっと言わせないことだ。
支配しつづけることだ。
抑圧しぬくことだ。
永遠に回復させないことだ。
何年も。何十年も。それを維持できるくらいにまで、徹底的にあらゆる暴力を用いて加害しぬくことだ。
もう二度と再起できないほどに。
お前に居場所はないと錯覚させることだ。
そのために、あらゆる暴力を駆使することだ。
自白の強要とは、そういうことだ。
なにせ当時の日本である。
上述した内容が行われていたとしても不思議はないかな。
密室でのことだ。いくらでもやれるだろう。
検察側が求める結果が高いハードルであるほど、損切りする尻尾として選ばれた直言に強く加害することだろう。
そう危惧するからこそ、猪爪家に帰ってきたお父さんの憔悴ぶりは、いろいろと想像するに余りあるものだった。
暴力を用いて徹底的に人格を否定されて、踏みにじられた直言に「きみを救うために、洗いざらい話しなさい」とでも言わんばかりの強要は、あまりにも無体だ。
傷ついた彼に強烈な潮風を浴びせるようなものである。
猪爪家にやってきて弁護を引きうけることを告げた穂高先生は、直言の様子を見て寅子たちにお願いをした。
自分ではいけない。
あなたたちに、彼になにがあったのかを聞いてほしい。
彼の居場所となって、支えて、休ませてあげてほしい。
そんな気遣いもあるだろうが、引きうけた裁判のために必要だという目論見もあるのだろう。
いずれにせよ、長いこと悲惨な扱いを受けた直言次第。
ただし、断じて忘れてはいけないことがある。
彼ひとりでは到底ひきうけられないことだ。
彼次第になる負担をいっしょに背負えるのは?
猪爪家だし、家族と言ってもらえてにこにこしていた優三くんだし、穂高先生だし、みんながそれぞれに頼れる縁である。
それぞれになにができるのか、それぞれにちがう。
いかにみんなで、ひとり次第のことに立ち向かっていくのか。
思えば、よねさんと寅子が接近するきっかけとなった裁判所でもそうだった。
大事な着物を返してほしい人。弁護する人。見守る寅子たち。
ただちに答えになるわけでもなく、解決できるわけでもないとしても、いまの縁、いまの距離感、いまの自分たちそれぞれにできることがある。
なぜ彼女が裁判後に寅子たちにお礼を言ったのか。
よく感じ、よく考え、よく学びたい。
唸るのは、直言が帰ってくる前。
穂高先生が弁護を引きうけてくれたシーンのセリフだ。
寅子が穂高先生に「できることはなんでもします。まずはなにをすれば?」と尋ねた。
先生はなんと答えたか。
「学生の本分はなにかね?」
これに優三さんと花岡がハモる。
「「 学業です! 」」
先生は力強く答えてみせたよ?
「そのとおり! 学校にきなさい。きみの居場所は、決して失われてはいないからね」
たとえば、あなたの居場所はちゃんとあるんだよと伝えることも、そう感じてもらえるなにかをすることも、大事な”できること”だ。
忘れてしまったり、弱気になってしまったり、苦しんでいるときには?
そういう居場所を見つけたり、帰ったり、ささやかでもいいから作ってしまったりするのが”大事”だ。
寅子にせよ優三にせよ、穂高先生に提案した花岡にせよ、法を学ぶ者である。
その知識と探究心は、それぞれにできる手段に育つ。
直言の居場所で、それぞれにできることが猪爪家のみんなにある。
そう繋がっていく内容なのだろう。
フリがきいてるぅ!
それでも心配!
お父さん、だいじょうぶ!?
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