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◆自分を放棄したい男たちの死に至る病

『家に帰ったら人がいる』
『病気になったら面倒を見てくれる』
『うちのことをなんでもやってくれる』
『自分のこどもを生んでくれる』
『夜の相手をしてくれる』
『結婚の目的が、このような「自分のしてもらいたいことをやってくれる」都合のいいものなら? その都合を言い換えるなら「相手にやらせたいことがある」支配欲や要求の現れからくるものなら、やめたほうがいい』
『女は男の希望を叶える道具ではない』

という言説は近年、ますます増えている。
けれど昔からはもちろん、いまでも、こんな意識で結婚を、あるいは結婚生活を利用したい人はいる。

昭和の遺物ではない。
現代でもいる。だからだろうか?
「いやいや」「待て待て」と声をあげる人が増えている。
婚活で、このような目的を抱えた男性陣の撃沈が後を絶たない。

「共働きが普通になってきている」から。
「日本がどんどん貧するばかりで、手取りが減る一方」だから。
「女性が強くなっている」から。
このような捉え方で目を背けようとする人もいるのだろう。

しかし、実際にはどうか。
多くの男たちがなにを維持してきたのか。

ケアと家事を透明化してきた。
当たり前に女性たちにケア労働の一切を押しつけてきた。
それらは無給で当然だった。
女性はやれて当然。男はやらなくていいのが当然。
やらなきゃいけないこととして求める。
自分たちは一切やらない。一切したくない。
おまけに漏れなく全部が下等なこと。
そんな捉え方をしている。

虎に翼では、男たちのこの加害性が嫌味なく描かれている。

女性に求める”しか能がない”男たちは、セルフケア能力が著しく低い。
家事にまつわる意欲も、修練も、一切ない。
がんばらない。うまくやろうともしない。よりよくもしない。
家事にまつわる投資も渋る。
程度が低くても「なんで自分がこんなことを」という意識が拭えず、悲惨なものになる。
外部に委託して済むなら、それでよい。けれど、特段ケチでなくても下等なものにお金なぞ払いたくないという意識の男は多い。
家事手伝いを見下す。自分はろくにできもしないくせにだ。

これらは男の病と言っていい。

単身男性、離別や死別した単身男性の心身の問題は、そうでない男性に比べて高い。
その背後にはセルフケア能力があまりにも低すぎること、転じて他者へのケア能力の欠如が見受けられる。

赤子のまま、自分の世話をだれかに見てもらうことで心身の健康の維持を果たそうとするので、母親に該当する相手がいないと悪化する。

単身でいる際にある程度、決して能力が高くなくても維持していたなどと自負する男性にかぎって、実はお粗末なこともあるし、うまくやっているように思えても相手ができた途端に「はい、それじゃあいまからボクは赤子になるから、キミは母親としてボクの世話をすべてみるように」とすべて丸投げする男性もいる。
滅多にないのではなく、とてもありふれたことなのだから、恐ろしい。

こうした男性は社会の中でも、学校や企業の中でも、この問題をあらゆる言動で発露する。
ケア能力の欠如は仕事においても遺憾なく発揮される。

男社会は女性をとりわけ低くみる。
学校や企業のなかで、こうした男たちが女性をどう扱うか。
推して知るべしだ。

女性に向けた男たちの問題が明らかになりつづけている。
これではいけないという声が高まり変化している箇所はある。
だが、本丸である男の病についてまでは、まだまだ及ばない。

とりわけ、すべてを女性に押しつけてきた男たちの層は分厚い。
この層を維持する、できてしまえる社会構造もまだまだある。

すべてが問題というわけではない。
また、すべての男性がそれを歓迎しているわけでもない。
家事と育児をふたりで担おう、産後の女性は重症患者のようなものだから五対五では到底たりない時期があまりにも長くあるぞ、育休は長いほどいいぞ、として活動する男性も増えてきている。

ただ男性優位社会の企業は多く、こうした動きを手放しに歓迎しないこともあるし、対応を拒んだり、出世はおろか、そもそも今後の勤務に際して解雇を促す企業さえあるという。

離婚した際、こどもの養育費の支払いは絶対だと思う人ほど、日本の支払いに向けた強制力の薄さ、支払い実態の低さに愕然とするのではないか。
こうしたところにも、女性にすべてを押しつける男の病の一端が垣間見える。

交際相手がいない、結婚をしていない男性も無縁ではない。
無関係ではいられない。
過去に交際経験がある、結婚していた、こどもができたことがある男性は言うに及ばずだ。

稼げば求める権利が得られる、などという話はない。
なにかをすればチケットが手に入るものでもない。
恋愛も結婚も、そういうものではない。
なにかしら象徴的な行為(性行為、婚姻)などが相手に求めていい理由にはならない。
こどもができても同じだ。

家事は年齢・性別に限らず行える。
ケアも同じだ。
生活で心身を整えたり、安定させたり、緩和させたりすることは年齢・性別に限らず行える。

行為である以上は学び、行い、鍛錬がいる。
ネットを使えるのなら?
家事のやり方は多種多様な方法や道具の紹介がなされている。
メディアでも最新家電の紹介など、しばしば取り扱っている。

ケアは玉石混合。
ケアという単語について捉え方も多種多様だ。
セルフケアの観点で、日常に紐づくものを並べてみる。

・食事をきちんと取る
・栄養のあるものを食べる
・しっかり睡眠を取る
・一日一度は入浴する
・入浴時にきちんと洗髪、洗体する
・気温に適した服装をする
・ちゃんと新しい服、新しい下着に着替える

もちろん、これ以外にもやまほどあるが、今回は省く。

これら具体的なケアを支える家事はやまほどある。
掃除に洗濯、衣類やものの整理整頓、収納。
さらに言えば家事道具の買い換えやメンテナンス、管理がいる。

食事と栄養となれば店舗に足を運ぶなりネットスーパーなりで買い物する必要が生じる。
適当に、食べられればいいやのレベルも、本当になにも考えない人とそうでない人の差は激しい。
それぞれの手間に対する抜け道、うまい手段なども、心得ている人とそうでない人の差がある。

これらにはお金がかかる。
貧するほど、働ける状態にないときほど、先立つものがなくてがんばれない。
お金はあっても、意欲や気力が湧かなければ? 必要性を感じなければ、家事とケアの底はどんどん抜けていく。

並べたものは「だれでもできる」と思うかもしれない。
しかし「靴下どこ?」と聞く男はいる。
「え。新しい家電、こんなにかかるの? じゃあ安いものでよくない?」と、自分が使わないのに渋る男もいる。
埃まみれの垢まみれの食器やトイレ、部屋に住みながら「掃除? ああ面倒だなあ」とのたまう者もいる。

そうではなく養育環境の影響や、どうにも億劫で「お風呂むり」だったり、とにかく家事をしたくないケースもあるだろう。
心身に不調をきたすと、それまでできていたこともできなくなるケースも多い。

なので、ケアには次の条項も入ってくる。

・自分の健康を管理する
・行えること、行えないことを把握する
・問題を認める
・問題改善のため、ダメージ低減のため、しかるべきところに助けを求める
・納得できないときには、別のところを訪ねてみる(病院のセカンドオピニオン、相談先の弁護士を変えてみるなど)

こうした条項も、結局のところ、自分の心身の調子に強い影響を受ける。環境や状況の影響もだ。
そして参っているときほど、環境や状況を切りかえるエネルギーに欠けていることが多かろう。
その際に助けを求めるのは、さながら十年単位で運動をしていない運動不足で、体育に苦手意識のある人が東京やホノルルのマラソンを完走するべく走るくらいのハードルの高さがある。
やろうと思えないし、やりきれるとは思えない。

それをどうにかするのが福祉や支援の領域であるが、こうした場所に助けを求めることができるのか。
やはり、ハードルは高い。
求めたところで、得られるのか。
生活保護を意図的に狙った群馬県桐生市のようなケースもある。
現代の日本では困難が増えつづけていると言わざるを得ない。
警察に被害を訴えたのに、心ない罵声を浴びせられるケースさえある。

当たり前のように並べてみせたケアの条項も、実は満足に達成しようとすると、終わりのないマラソンを無理なく続けられる体制が求められることが想像できるはずだ。
底が抜けるのは個人だけではない。
社会を構成する集団においても、同様なのである。

ひとりですべてを担うのは実のところ、かなり大変だ。
家電が充実しても足りない。
学校や仕事で疲れて、とても無理な場面も多かろう。
学校や企業がまともか?
残念ながら、こちらも問題が多い。
労働者の問題としながら、実は使用者の問題であることもやまほどある。

そんな世の中で、自分をどうケアするのか。
正直、難問だ。
すべてをまともにやれるなんて、不可能に思えるくらいだ。
しかも生活によっては、この難問に何日も何日も出くわす。
とてもやりきれるものではない。

高い水準で行えばいい? そうとはかぎらない。
安定軌道のラインこそ重要? そればかりでもいられない。
どん底でどうする? そうなると改善さえ生半可なことではない。
助けを求めた先がすべからくろくでもなかったら? 打つ手がない。

だれもが、そんな現実のランナーである。
マジョリティに向けてばかり最適化されていきやすい世界のランナーだ。
マイノリティの属性を抱えるほど、安定軌道さえ困難なことが増えていく。社会のバリアに阻まれることが増えていく。

であるならば?
最初に並べた男たちの期待がどれほど的外れで幼稚なものなのか、想像がつくのではないだろうか。

けれど問題があるのではと気づかなければ知ろうとは思わない。
知ったところで自分の生き方に合致していないかぎり、期待や意欲が持てないかぎり、どうでもいいかぎり、寝言と大差ないだろう。

かつてのボクはそうだった。
気づいてからといえど、果たして具体的になにをどこまで行えているのか自信はない。
ランナーとしてボクは未熟だ。

母は男の病に絶望を感じて自死したようにも思うのだ。
しかしボクは、母が絶望するものとしての自分を抱えている。
虎に翼で梅子さんが花岡に告げたように「どのあなたもあなた」。
幼稚で加害的、的外れなのに強く欲求した過去の自分たちもまた、ボクなのである。

梅子さんが語ったように、本当の自分というものがもしもイメージにあるのなら、そのイメージに向けて、大事にしながら、生きていくほかに浮かばない。
それはゴールテープのあるものじゃない。
日々の繰り返しだ。継続性が求められるものであり、維持するものである。
これをやったらオッケーではない。これさえやっとけばなんとかなる、なんていうものでもない。

生きて。家事をして。
生きて。ケアをして。
生きて。なりたい自分に向かっていく。

孤軍奮闘の母は変化する現実を前に、死を選んだ。
ボクはずっと、悩んでいる。

よい一日を!