◆虎に翼19話、轟と花岡
まず最初に言わなければならない。
花岡、ごめん!
ボクの先入観からくる偏見を、もう強火で書きまくってきた!
非常に申し訳ない!
SNSにて実況投稿をしたときに気持ちがだいぶ浄化された。
梅子さんの花岡への言葉、轟が花岡に贈ったもの、それらを消化しようと勇気を出す花岡。
一見すると尾野真千子さんのナレーションどおり「いい人しかいない」のだけど、どうだろうか?
寅子の回想に問題があると指摘がある。
猪爪家劇場のルッキズム役者変更、女装など。
この表現でいいのだろうか? というもの。
怒りのあまり花岡を衝動的に手で押したのもそうだ。
暴力はいけない。突き飛ばした程度でも法曹で働くなら致命的。
そうした指摘もけっこう見かけたし、実際に問題があるだろう。
梅子さんもまた蓄積してきた大庭での生活の苦しさつらさ、怨みや絶望が長男に直結しすぎているという危うさがある。
今回は花岡が開示できた弱音や本音によって、それに対する梅子さんの「どんな自分も自分だ」とする指摘によって、嫌悪したり流されたりした、いかなる自分をも抱えていくほかにないと提示された。
長男が抱える弱音や本音が開示されたら?
梅子さんへの願望が赤裸々に開示されたら?
それはある意味、息子として痛烈な一撃を梅子さんに与えることになりはしないだろうか。
ボロボロ泣いた回だった。
本当に素敵なシーンだと思いながらも、同時にすべてを解決しない含みと余地を丁寧に残して、懸念を置く巧みな内容に感じた。
戦争のターンもくるだろう。
表情豊かで感情豊かな轟は言葉も態度も正直だ。
一本気。彼には彼で「うん?」と思うところがある。
あるけれど、彼の生き様は現状において素直だ。
だからか、とても安心して見ていられる。
けれど、そんな彼がどうなってしまうのか、いまから不安で仕方ない。
花岡が成長するのだとして、同様に心配だ。
いろんな意見があるというが、ボクは本作は女性蔑視を明らかにする”だけ”では到底終わらないし、終わらせるつもりのない意欲にあふれた作品だと感じている。
男社会の、あるいは男たちが享受する社会の根底が崩れる戦争が、軍国という「すんっ」となるだけじゃ収まらないものが彼らを待ち受けている。
アメリカで岸田首相が大統領のスピーチライターの原稿を読みあげたそうだ。日本に一定の役割を期待する層がいて、極めて危険な情勢に傾きかねない動きが連続しているという。
それらに気を取られて目を逸らしてはいけないのが、日常だ。
日常で触れあう縁であり、その先に広がっていくであろう態度だ。
怒り、戦う。その必要性が日増しに強まっていると感じる。
ただし衝動的に手を出すことが、自分の怒りや戦いの正当性に酔うほど、偏るほどに危険な情勢へと日常を引きずっていく。
もちろん、だからといって怒りを潰そうとするのもちがう。
手を出したら怒りそのものさえ潰されるべきだとする態度も多い。
けれど、本当にそうだろうか?
なんだかとてもむずかしくて、ややこしそうで、言葉にすると長くなりそうだ。なのに的がどんどんずれてしまいそうだ。
いますぐ切れるゴールテープを求めるほど、手間にしかならないとさえ思える。
そのわりにあふれる言葉や思い、ひとつひとつに紐づくたくさんの自分は抱えきれそうにない。抱えたくない自分もたくさんいる。
梅子さんは「どのあなたもあなたよ」と指摘した。
あれは真理だ。
切り捨てたかったり、いやだったり、面倒だったり、目を背けたい自分を無視しても結局、罰が当たる。
よくあることだ。本当に。
回想に出てきたお兄ちゃんが思いのほかたっぷりと尺を使って気持ち良く言ってくれたのも真理のひとつではなかろうか。
「思っていることは口に出していかないとね。そのほうが、いいっ!」
それを具体的に行うのは、いつだってむずかしいけれどね。
よい一日を!