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8:2の犠牲
私は自分自身が犠牲者になりたくないですし、私のせいで犠牲者を出すことも望みません。
けれども、短いのか長いのか分からない人生では、「犠牲」になったとか「犠牲者を出してしまった」という場合もあるかも知れません。
「放送研究と調査FEBURARY 2015」によれば、「犠牲者」は一般的に「亡くなった人」のことを指すものと解釈されています。と記載されています。
幸いなことに私は今現在、生きているので「犠牲者」ではありません。
ここでは自己犠牲的な行為=犠牲とします。(出典:道徳教育のける自己犠牲をめぐる-考察より筆者が定義を置き換え。)
では、犠牲とは何か?
上記の出典先ではこう記されています。
”自己犠牲的な行為は、それが「自分よりも相手のことを思って」行われる素晴らしい行為である。それゆえ、そのような勇気ある行為がなされたことを周りの人たちと共有したいという願いも、その素晴らしさを後世に語り継いでいこうとする思いも、とてもよく理解できる。”
自分よりも相手のことを思って
出典先では、自分よりも相手のことを思って行われる命を投げ出す行為が自己犠牲的な行為であり、素晴らしい行為故に勇気ある行為と読み取れます。
けれども、今回の私の考えは8:2の犠牲に他ならないと考えているからです。いささか、反抗的な内容になるかも知れませんが、あくまで私の人生の経験からですので、全ての人に当てはまるわけではありません。
それはサンプル数1でn=1のためです。
報道と教育の刷り込みの犠牲
私はこのnoteを通じて、「命」に関することを書いてきたような気がします。
そして、報道と教育が、8:2の犠牲の根源だと感じるようになりました。
では、8:2の犠牲とは何か。
8割のことは公にならず、2割の事象がさも100%であるかのような刷り込みです。
最近の例でお伝えすると、”出生数が70万人台となり、危機的状況である。””人口減少に歯止めがかからない。””深刻な人手不足”etc.
簡単に考えると、命が生まれなくなった、よって人で不足であるとも言えます。
宮崎の最近の例でお伝えすると、県内の公立小中学生と高校生の不登校数が3000人余と報道されました。
宮崎県の令和2年国勢調査の人口は1,069,576人です。
既述の公立小中学生と高校生を15歳未満と15~64歳の人口に入っていると仮定します。15歳未満人口:71,649人+15~64歳人口:284,874人=356,523人です。
その3000人余が不登校であるとすれば、約0.84%になります。
しかしながら、15歳未満と15~64歳の人口を分母としていますので、現実はもっと多いことはお分かりになると思います。
私の考えは、宮崎県では最低でも約1%の小中高生は、宮崎県の犠牲者もしくは被害者と考えます。また、この不登校数の中には自殺者が2人となっていましたので、これは2人の犠牲者が出ているという現実です。しかし、この点は大きくは報道されていません。
つまり、8割の公にならないこと=自殺者が2人。県の人口割合の最低1%。2割の事象=3000人余の不登校数です。
交通事故死者数と比較
令和5年の交通統計(宮崎県警察本部交通部)によれば、交通事故死者数は30人です。
国勢調査の人口の割合から見ると、0.0028%です。
不登校者数1%-交通事故死亡者数0.0028%=0.9972です。
不登校者数>交通事故死亡者であることが明白なのに、毎日のように交通事故は報道されます。
また、次のような比率とも言えます。
不登校自殺者2人:不登校者数1%=交通事故死亡者数30人:交通事故発生数0.33%(発生件数3,488件)
しかしながら、元になる分母が異なるので、どのように感じられるかは読者に委ねます。
しかし、不登校数の件は1回のみです。
これらからも分かるように、偏った報道と教育の結果が、この数値の差に現れているのではないかと考えます。
自殺者数との比較
令和5年自殺の現状等について(宮崎県)によれば、宮崎県の自殺者数は222人です。
国勢調査の人口の割合から見ると、0.02%です。
自殺者数0.02%>交通事故死亡者0.0028%であることも明白なのに、毎日のように交通事故は報道されます。
100点満点が大好きな日本人ですが、こと宮崎県において生きること、命の大切さは100点満点でないのが事実です。
この点に目を向けない各報道機関や自治体関係者はどう思われるかは、読者の判断に委ねますし、各報道機関がキラキラ輝く人物なる1人にスポットライトを当てても、3000人余の不登校者をキラキラ輝けるようにはできなと思います。
これが報道と教育の刷り込みによる犠牲の現実と私は考えています。
世の中で選べないもの
この世の中で選べないものがあるとすれば、命を授けてくれた親と学校の先生ではないでしょうか。
スピリチュアル的な方からすれば、子どもは親を選んで、この世に生まれてくれると言われます。
現実的にはそうではないような気がしますが。
また、親を選べない結果、学校の先生を選ぶこともできません。
なぜなら、親の仕事の状況や居住環境により、学校という場は子どもに選択権はなく、その学校に行くしかないのが現状ではないでしょうか。
言い方を換えれば、親によって子どもは学校に行かされてる感満載だと感じています。
「遅刻しないで!」
「宿題は!」
「テストは何点!」etc.
これは親と学校の先生の8:2の刷り込みによる犠牲と考えます。
そろそろ本題へ
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