子どものすることだから

私は小学1〜2年の頃いじめっ子の標的だった。服を引っ張られたり教科書や筆箱を隠されたり何をせずとも暴言を吐かれたり。しかし、これは悪意を持った「いじめ」ではなくて、発育の差による幼稚さゆえのことだ。

だから教師へ相談しても、注意をしたり席を離したりするくらいであまり意味がなかったし、そもそも一教師の指導で聞き分けが良くなるならば苦労しない。

私はこの日々が嫌いだった。

学級テーマで掲げられた「十人十色」という言葉。みんな違ってみんないい。「個性」とは聞こえのいいものだが、それぞれの個性に合った場所が与えられることは少ない。
その個性で人を傷つけて楽しむ者がいる一方で、不幸を被るのはいつも私たちだ。大人でもそうだろう、できない人間のために周りの人間が犠牲になって働く。正直者が馬鹿を見る。

私は子ども時代(〜15歳)に戻りたいと思ったことはない。特に小・中とそうした心の幼稚な人間に嫌な思いをさせられてきた身としては、二度とそんな面倒な轍を踏みたくはないのだ。


小学3年になってクラス替えがあった。それ以降卒業まで、いじめっ子の1人と同じクラスになることはなかった。これでいじめはなくなった。(後から聞いた話では、他の子に標的を変えたらしい。)

しかしいじめっ子はもう1人いた。先の子がジャイアンだとすれば、もう1人はスネ夫だった。私はスネ夫と同じクラスになったのだが、スネ夫はジャイアンとつるまなければいじめてくることはなかった。
スネ夫が私のすぐ後ろ席になった時、むしろ何事もなかったように親しげに話しかけてきて気持ち悪いほどだった。私はというと「いつまた声を荒げてくるのか、背後からいたずらされるのではないか」と気が気でなかった。

たぶんスネ夫は私にしたことなど忘れていたのだと思う。いじめていた時はそれが面白くてやっていたけれど、今はどうでもよくなって忘れてる。そんなところだろう。いつまでも覚えているのはやられた方だ。
その後スネ夫は誰から見ても「いい子」に思えた。もちろん私も。でも心のどこかに幼い記憶が残っていて、私はその子を見るたび心の中でそっと毒を吐く。もし謝ってくれていたら私もこんな歳まで覚えていなかったのだろうか。

きっぱり決別したジャイアンよりも、いい子になったスネ夫にもやもやとした感情を持ってしまうのは良くないことか?
それとも、子どものすることにいつまでも執着していることが悪なのか?
どうにもならないことを嘆いて、誰が悪いわけでもないことで心をすり減らすのは不毛な時間だろうか?
また同時に、私も忘れているだけで誰かにこんな思いをさせていたのかもしれない。それをこんな風に思い出しているのかもしれない、と考える。




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