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SDGsの「誰一人取り残さない」って誰までなんだろう。

Newspicksの「weekly OCHIAI」はホント面白い。私はこれを見るために課金していると言って過言ではありません。その中でも最近最も面白かったのは「世界史から読み解くアフターコロナ」の回。

<ゲスト>
出口治明(立命館アジア太平洋大学学長)
五箇公一(国立環境研究所)
青木裕司(河合塾 世界史講師)
細谷雄一(国際政治学者、慶應義塾大学法学部教授)
本郷和人(歴史学者、東京大学教授)

新型コロナウィルスで変わる国際政治、社会経済を議論する回で、最終的に収束していく論点が「利他」という人間が持つ能力をどう拡張・進化していくかというのがダイナミックで面白かったです。

SDGs「誰一人取り残さない」?

議論の最後に落合さんがフリップに書いた言葉がコレ。

「誰一人取り残さない ?」

2015年国連によって採択された、地球繁栄のための行動計画目標が「持続可能な開発目標(SDGs)」です。全部で17あるんですけど、その前文に「誰一人取り残さない」社会の実現が掲げられているんですよね。落合さんはその文章の最後に「?」をつけたのです。

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どこまでが「私たち」なのか?

これはホントに重い問題提起だなと思いました。

新型コロナウイルスに対しても国境封鎖し、国内での感染を抑止することはできるでしょう。しかし海外、アフリカ諸国や中南米で起こる事態に対して私達は何もできません。国境線を防衛することで「私たち=日本に住む人達」を感染から守ることがせいぜいです。

一方で国内においても。自粛要請の中で運営するお店や、移動する個人がウィルスに感染すれば大きな非難を浴びるようになりました。「誰一人取り残さない私たち」=「日本に住む人達の中で自粛要請に応える人たち」みたいな感じになってしまいました。もちろん、無為に感染リスクを拡げるような活動は慎むべきでしょう。しかし一連の報道は「私たち」の社会が持つ哲学、包摂力の弱さを露呈した様にも思えます。

「ヒメアノ~ル」の森田くんは「私たち」なのか?

稲中卓球部で有名な古谷実の漫画に「ヒメアノ~ル」があります。

この漫画は中学生の頃、自分の中にある「人を殺したい欲望」に気づいてしまった殺人鬼、森田くんの話です。森田くんは高校卒業後に自分をいじめていた同級生を殺し、その後も欲望を抑えきれず、人を殺していきます。

もちろん殺人の罪を犯してしまっている森田くんは罪をつぐなうべきです。人を殺すことは許されません。

一方で。「誰一人取り残さない」SDGsは、許されない欲望を抱えてしまった彼を、どう扱うべきでしょうか。そういうやつはやはり取り残してしかるべき、なのでしょうか。

許されない欲望とうまく折り合いをつけて、社会の中で誰かのために生きる為の哲学、教養を提供できる機会を早い段階で与えられないのでしょうか。そういうことに、私達の知識やテクノロジー、芸術、あるいは税金は使えないでしょうか。

ノルウェーの牢獄

都留文科大学の先生にオススメされて観た『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』という映画があります。

その中でノルウェーの刑務所の取材が行われます。

ノルウェーの刑務所、超キレイなんです。そして広い。鍵すらかけられないんです。服役中であっても、人間的な生活が出来るんです。刑務所は「社会復帰の為の場所」と定義付けられているからだそうで、ノルウェーの再犯率は20%程度で世界最小レベルだそうです。

当時17歳の子どもを殺人犯に殺されたノルウェー人の父親へのインタビューがあります。

「復讐は望まない。息子の仇だとしても、犯人と同じレベル下りてこう言えと?「おまえを殺す権利がある。」そんな権利ないさ。たとえ相手が最低のクズでも私に殺す権利はない。ノルウェーを大事にしよう。お互いを大事にしてきたように。」

社会を大事にしよう。お互いを大事にしてきたように。

戦争や差別、ホロコーストの歴史の果てに立つ僕たちは、新型コロナウイルスの騒動を前に、何を大切にすべきなんだろうかと考えます。

もちろん人命第一だけれどもさ。

だからといっておまえを殴る権利が私にあると?

そんな権利ないさ。たとえ相手が最低のクズでも私に殴る権利はない。社会を大事にしよう。お互いを大事にしてきたように。

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