一曲一記事/スピッツ「胸に咲いた黄色い花」

 スピッツの2ndアルバム、『名前をつけてやる』に収録されている曲。

 いきなりだが前回の「テレビ」と違って、今回の記事ではこの曲について客観的な分析の類をするつもりはない。
 そういうことをやりたくなったら他の記事ではそういうことを普通に書いていく(実際、これから書く予定の記事はそういうものが多いし)けれど、そうじゃない、ものすごく主観的で私感的な文章も書くよ、という話である。

 何故そんなエクスキューズをいきなり書いたのかと言えば、この記事は「この曲に対して何か客観的な事を書きたくない(ということを書きたい)」という記事だからだ。

 そもそも私が人生で一番最初に好きになったバンドはスピッツである…と思う。家族の証言を照らし合わせると多少のズレはあるのだけれど、少なくとも私の主観としてはそういうことになっている。物心ついた時からスピッツの音楽が身近な環境で生きてきて、その結果として幼い私はスピッツの音楽を好きなものとして無抵抗に受け入れたのだった。
 もしあの時、身近にあった音楽がスピッツではなく他のバンドのものだったら、私の人生は恐らくもっと風合いを異にしていたことだろう。別に他のバンドが悪いわけではないけれど、その事実については「かなり運が良かった」というような感想を抱く。

 そんなスピッツの曲群の中でも、何故かこの曲には特に激しいノスタルジーを感じてしまう。
 私の音楽人生の始点であり、言うなれば”実家”のようなものであるスピッツの音楽全般に対してノスタルジーを抱くのは当然のことだけれども、その中でもこの曲に抱く「望郷の念」のようなものはちょっと異様なものがある。
 だがその理由が分からない。そもそもリアルタイムで発表に立ち会った曲でもない。思い返してみれば家族がフェイバリットに上げていたような気もするし、それは勘違いだったかもしれないとも思う。それぐらいこの曲に抱く感情の源流はぼんやりとしている。少なくとも、「人生に疲れていた時期に、不意に電車の中でこの曲を聴いて涙が出てきた」みたいな、youtubeのコメント欄で高評価数を稼げるようなドラマの類は一切ない。

 にもかかわらず、幼いころからこの曲は私の中でちょっと「特別」だった。

 例えば、かなり昔に家族で行ったスピッツのコンサートについて、セットリストは殆ど記憶になく、ライブのパフォーマンスのこともかなり断片的にしか覚えていないのに、「この曲が演奏された」という記憶だけがある。
 それがどんな演奏だったのかすら覚えていないのに、この曲が演奏された事実だけはよく覚えている。よほど嬉しかったんだと思う。

 そんな「特別」な曲だったため、私はてっきり有名な人気のある曲なんだろうと思い込みながら幼少時代を過ごしたのだが、年齢を重ねてからどうも実態はそうでもなく、どちらかと言えば”隠れた名曲”的な扱いが成されていることにやっと気付いた、という思い出もある。
 そもそもこれシングル曲ですらない一介のアルバム曲でしかないし、「猫になりたい」みたいなトピック性もないし、そりゃそうなんだけど。

 …その後、年齢を重ね、その中で様々な音楽を聴いて、稚拙ながらも音楽知識も少しだけ身に着けた。その中で改めてスピッツを聴いて”うわ~改めて聴くとスピッツってすげ~「テレビ」って改めて聴くとヤベえ~”みたいな一種ありがちなモードに陥ったとき、不意にこの曲を再聴した。その瞬間、そうした観点が一気に吹っ飛んでしまったことに驚いた。
 具体性のある思い出は一切思い浮かばない。にもかかわらず、この曲は”私の子供の頃”そのものだ、と思った。

 だからこの曲に対して客観的なものは何も書けない。というか、書きたくない。
 アレンジ上におけるXTCからの影響について最近知ったけど、そうした知識を頭に入れても客観的なものが像を結ばない。メロディが他の曲と比べてどうとか、アレンジが同時期の楽曲の中ではどうとか、そうした観点が全く持てない。
 私はこのエスニックなメロディから溢れる乾いた切なさが、子供の頃からずっと好きだったという事実、そしてこの曲を聴くと頭の中に必ず思い浮ぶ砂漠の風景、そうしたものばかりが頭の中に浮かんでしまう。この曲を最後のサビまで聴く度にいつも同じ感情になるのだけれど、その感情も言葉にすることが出来ない。
 だから「スピッツの曲の中でも特に好き」みたいなものの中からも、この曲は自然に除外してしまっている。
 この曲は私にとって「好き」とか「嫌い」とかの俎上に乗らない、乗せられないもののようになっているように思う。

 だから歌詞についても、世に流通している解釈のようなものに違和感を抱くようになってしまっている。
 この曲は「砂漠の一人遊び」を繰り返していた”僕”が心を変える何かに触れた瞬間の感動について素直に綴り、そして「時の淀み」の「行く手を知り」、「明日になればこの幻も終わる」事を知りながらも、いや、だからこそいま自分の身近にある人に、そして胸の中にあるものに強く祈り、願う曲なのだと、そう信じている。

このまま僕のそばにいてずっと
もう消えないでね
乾いて枯れかかった僕の胸に

(スピッツ「胸に咲いた黄色い花」 作詞:草野正宗)

 実際のところ、先の「テレビ」の記事でも書いたように実際には作詞者が歌詞に込めた真意があるわけで、その事実に対して「信じている」もクソもない。しかし、そこにどんな真意があろうが、どんな解釈が流通していようが、私は”私の子供の頃”を邪推するわけにはいかないのだ。
 だからしつこく書いただろう、「この曲に対して客観的になれない」と。