椎名林檎『無罪モラトリアム』
椎名林檎が1999年にリリースした1stアルバム。
間違いなく邦楽史に残る傑作だが、いつ聴いても「なんとなく異様なアルバムだな」と思う。
妙なユーモアが漂っているジャケットも、何度見ても慣れない。リアルタイムで今作のリリースを見ているけれど、未だに慣れない(勿論これは良い意味で、という言葉を付けさせていただきたい)。
このアルバムについて書くうえで留意すべき最大の点は、今作の収録曲の殆どが椎名が10代に書き溜めた膨大なストックの中から選曲されていることだ。
にわかには信じ難い話だが、ネット上には当時ライブハウスや関係者向けに配布していたというデモテープの音源が流通しており、その中には今作収録曲のデモ音源が大量に含まれているため、その信じ難い話が事実であることを受け入れなければならない。
今作が登場した時の世の中の空気を、私は何となくでしか記憶していない。でも、世の中が「なんかえらいことになったぞ」、という雰囲気で満ちていたことはとてもよく覚えている。
ただ当時は子供だったし、それに何より当時はミリオンヒットや数十万のスマッシュヒットが当たり前の時代だったので、いまいちそのインパクトについて理解しきれていなかった。
大人になった今、このアルバムを聴くと、ああ、これって本当に「えらいこと」だったんだな、と思う。
1. 正しい街
この歴史的作品の1曲目が、椎名の地元である福岡について歌ったあまりにも私的で閉鎖的な曲であることは、実は非常に象徴的なことなのかもしれない。本人の思い入れは相当なもので、今作の1曲目はこの曲だったと決めていたらしいけれども、その意図を通したディレクターもかなり偉大だと思う。
たぶん当時からJ-POPの中には「等身大」信仰みたいなものはあったと思うけれど、この曲は等身大どころの騒ぎではない。ところどころのフレーズを目にすると、人の日記を勝手に盗み見てしまったような罪悪感すら覚える。特に以下のフレーズ。
それにしても、いったい「正しい街」とは何なのだろう。歌詞を読んでも、何が「正しい」のかは結局よくわからない。都会、そして「私」そのものが「正しくない」ことだけが、(あくまで「君」に対する無念や後悔にそっと添えられる形で)静かに示されている。丁寧に地名まで挙げて。
都会はともかく、自分の存在すら「正しくない」と思わせるほどの何が福岡という都市にあったのだろう。
…もちろん、上京と共に別れを告げる恋人に対しての曲だから、状況はそこまで単純ではない、とわかっている。
しかし私は「地元」という場所にあまりにも思い入れがない。勿論懐かしさやノスタルジーはあれど戻りたいとも思わないし、正直あまり良い土地とは言い難い場所だったので愛着も薄い。数年前に諸事情で家族ごと引っ越したため実家もない。
もしかしたら、この曲は今でも地元に愛情や未練を残した人には全く違う形で響くのかもしれない。だとすると私にはこの曲に込められた何か、もしかしたら本質に近い部分を理解する感覚を失った状態なのかもしれない。それはそれで寂しい気もするけど仕方ない。
私はこの曲を聴くと「ミュージックステーション」での名演を、そして演奏前に流された映像でこの曲を演奏すると告げられたタワーレコードの店員が思わず流した涙を、必ず思い出す。
2. 歌舞伎町の女王
2ndシングル。
はっきりと「歌謡曲」をやり切ったトラック。おどろおどろしいカットインを交えつつ、昭和の匂いが濃厚な街角で椎名がギターを弾きながら歌うPV。そして水商売の世界を描くいかがわしい歌詞。
椎名のこの後の活動に付随する蠱惑的なイメージを作り上げたのは、実はこの曲と『百色眼鏡』の存在が大きいのではないかと私は思っている。
そこまで大局的な話に接続しなくても、本人が半ば自嘲気味に名乗り続けることになる「新宿系」という名乗りはこの曲が起点となっているし、椎名林檎のパブリックイメージの一角を作り上げたトラックとしてこの曲の存在は大きいだろう。
歌詞は完全に小説の世界、というよりかは完全に小説として書かれている。
あそこまで地元に対する悲痛さを生々しく描いた「正しい街」が終わるといきなり耳に入るのがこのフレーズ。百道浜じゃないのかよ!「正しい街」の次が徹頭徹尾フィクションを作り上げたこの曲、という落差はもしかして秘かにギャグだったりするのか?
それにしても、完璧に小説として作り上げた歌詞を楽曲に乗せて歌う手法は歌謡曲そのものだ。なんでも椎名の家族が聴いていたザ・ピーナッツからの影響を基に組み立てたトラックらしいが、そうした歌謡曲に対する椎名のリスペクトが既に10代の時点で発露していたこと、そしてその出力が歌詞の面でもトラックの面でも完璧な事に改めて驚かされる。
椎名のトリビュート盤『アダムとイヴの林檎』ではこの曲は楽曲ではなく誉田哲也による二次創作小説という形でトリビュートが成されていたけれど、それはこの曲に対するトリビュートの姿勢として非常に正しかったと思う。
そんなストーリーテーリングを中心にした詞の中にあって、末恐ろしいフレーズを曲の終わり際にぽつりと落とす辺りが椎名っぽい。
というかこんな怖いフレーズを18歳で書いてるこの人どうなってんの。
ちなみにこの曲の秘かな聴き所は椎名林檎本人によるドラム。
…というか、椎名林檎のドラム演奏を聴ける曲って他にあったっけ?もしかしてこれが唯一?
3. 丸の内サディスティック
アマチュア時代から「A New Way To Fly」のタイトルで歌い継がれ、東京事変でもレパートリーの一つとして演奏され続ける椎名の代表曲の一つであり、ヘタしたら「ここでキスして。」並みに知名度が高いかもしれない曲。
この曲に関しては全く隙がなくてとにかく異様。
所謂Just the Two of Us進行を見事に使いこなしているメロディ、ピアニカの気の抜けた音が印象的なスッカスカのアレンジ、とても20歳かそこらとは思えない椎名の歌いこなし、全てが神懸かり的。椎名のスキャットが続きながらフェイドアウトするアウトロなんかは完全に「名曲の風格ここにあり」といった感じ。
…でもシングルカット一切なしのアルバム曲なんだよなぁ…マジで…?信じられない…。
(追記:よく考えたら「歌舞伎町の女王」のB面で疑似路上ライブ的な音源として、「歌舞伎町の女王」とのメドレーという形で楽曲の一部が先行収録されていたので「一切なし」は誤りでした…)
一方で歌詞は激しく散文詩的でとてつもなく難解。
上京後の生活を伺わせるやけに生々しいフレーズと訳の分からない比喩表現とブランキー・ジェット・シティへの敬愛が極めて乱雑にミックスされており、改めて冷静に読むと激しく混乱する。性的な雰囲気が暗喩や当て字などを駆使して全編に散りばめられているが、これほどそれをストレートに受け取って良いかわからない歌詞もない。
この異様に所帯染みたフレーズが印象的なAメロの歌い出し、二番ではこんなフレーズが当て嵌められる。
…なんかみんな軽く流してる気がするけど、そもそも「警官ごっこ」って何?唐突に出てくる「国境」もさりげなく謎。
全編がこんな感じで、何を伝えたいのか、何を書いているのか、少なくとも一読しただけではさっぱりわからない。上京後の生活というテーマといい、自らを曝け出す行為とは対極の表現手法といい、何となく「正しい街」と対になっているような気もするのだけど、この歌詞の論考をそこまで真面目にぶち上げて良いかすらわからない。
そしてこの曲を象徴するフレーズが二番のサビ頭のこれだと思う。
このフレーズ、前後を読んでも一切脈絡がないし、はっきり言って歌詞の中では全く意味がない。正直なところ、なんとなくの語感の良さだけで組み立てられているとしか思えない。いや、もしかしたら何かしらの意味があるのかもしれないけれど、少なくともそれを聴き手が読み取れるようにはできていない。
でも、実際にこの曲の完璧なサビに「将来僧に成って結婚して欲しい」という言葉が乗せられると、このフレーズに異様な輝きが生じるのだ。
意味の分からない言葉でも歌というラインの上に乗せられると、意味が分かる言葉と同様の重力が生じる。この歌詞の意味をちゃんとわかっている人は少数だと思うのだけれども(そして私は多数の方だ)、それでもこの曲を好きな人はたくさんいる。
音楽という表現手法のみが成し得るマジックを、極限のレベルにまで押し上げた一曲。
4. 幸福論(悦楽編)
記念すべきメジャーデビュー曲であり、それなりに重要な曲のはずなのだけれど、ここでは「悦楽編」という名のもとに、アレンジをめちゃくちゃに破壊された形で収められている。
歌詞に着目すると、「君」という存在から「幸福」という大局的なものに対する回答を見出した一人の女性の視点で描かれた楽曲で、ラブソングの形を取ってはいるのだけれど、目の前の現実的な要素からより大きな”人生”のものごとへと接続していく椎名の節がこの時点で既に全開になっている。とりわけサビのこのフレーズには凄味がある。
…しかし、その楽曲がこのアルバムでは完全に破壊されているのが難解だ。
テンポは爆速になっているし、ボーカルにはディストーションかかってるし、最早トラックだけ聴いていると殆ど原型を留めていない。特に原曲のイントロやアウトロで聞ける、印象的なストリングスのリフはこのアレンジには一切登場しない。更にボーカルパフォーマンスも悲鳴を上げたり終盤で謎の掛け声を連呼しはじめたりと完全なるぶっ飛び仕様になっており、歌詞との乖離が凄まじい。
原曲のメジャーデビュー曲としての役目を担うべくして施されたであろう、極限までポップに徹したアレンジは確かにこのアルバムの流れにはそぐわないだろう。だとしてもなんでここまで完璧に破壊する必要があったのだろうか…。
サブタイトルの「悦楽編」は原曲よりもプリミティブな恋愛の「悦楽」を表現したという意味か、もしかしたら演奏する側の快楽指数を指しているのか…この頃の椎名の「意味深な事を言うけど実はあんまり意味がない」的なテンションから察するに何となく後者な気がするが。
とにかくこの着地のさせ方は賛否両論ありそうだけれども、個人的には結構好き。原曲にはなかったギターのリフがとてもよい。
5. 茜さす 帰路照らされど…
前曲で破壊したアルバムの雰囲気を、元の方向に軌道修正するR&B調のナンバー。
それにしてもこの曲のメロディは美しすぎる。
そして暗く怪しいAメロから、Bメロなしでいきなり解放感溢れるサビに一足で至る曲構成が凄まじい。若干ぎこちないまでの極端な緩急の付け方が、サビで展開するメロディの美しさを何倍にも増幅している。
サビのメロディをドラマティックに展開させた後にイントロ(メロ)のフレーズに戻ってクールダウンするアウトロまで含めて完璧。
ちなみに椎名はこれを16歳で書いたらしい…嘘でしょ…?
一方で歌詞には若々しい恋愛、それが故の不安定さからくる葛藤が描かれており、そうした恋愛の不確かさの上での感情の揺らぎをテーマにする辺りには、確かにティーンの女子の心情の存在を感じる(最後のサビで英詞に変わり、その中で歌詞全編の内容を全て要約する手法を取り入れているのも何気に珍しい)。
しかしその中に美しい比喩をさらりと織り込んでいて、やはりその感性は常人離れしている。
例えばこれが「今日が海に沈む」だけだと他にもある比喩表現になるかもしれない(これ単体でも結構センスが良いとは思うけど)が、そこに恋愛の不安定さを表現する「約束もなく」という言葉を添えることで、「海に沈む」という表現の深みが段違いになっている。そしてただの「海」ではなく「海の彼方」という言葉が選ばれることによって、”約束の無さ”の無常さがさらに強調されている。
椎名と後発のSSWをある種残酷なまでに差別化しているのは、こうした椎名の比喩のセンスとそれを繰り出すタイミングの非凡さ…かもしれない。
ちなみにアルバムリリース時、前曲とこの曲にはサントリーのチューハイのタイアップが付いていた(同じ商品で別パターンのCMが二つ作られた。同じキャラクターが「幸福論(悦楽編)」のパターンでは曲に合わせてシェイカー片手に踊り狂い、この曲のパターンでは柑橘類を絞りながらアンニュイに涙を流す、というアニメが流れる内容だったはず)。
このアルバムの中から「幸福論(悦楽編)」とこれを選んだ選曲担当の人、センスありすぎ。
6. シドと白昼夢
プログラミング中心のアレンジによってチルアウトな感じで組み立てられたAメロ~Bメロから、激しいバンドサウンドのシャッフル調のサビへと至る若干変わった構成の曲。
メロのプログラミングのアレンジには90年代後半~00年代前半の亀田誠治のセンスが強く表出しており(今作の2年後に発表されたDo As Infinity「Wings 510」辺りで似たアレンジ手法が聴ける)、このアルバムにおける亀田の貢献をひときわ強く感じる一曲でもある。
改めて聴き返してみて思ったけど、この曲のプログラミングメインの静かなメロからバンドサウンドが炸裂するサビへ、というアレンジの手法って何気に「ギブス」の原型かも。
メロディは意外とキャッチーで、特にサビメロは一回聴くと頭に妙に残る。またこの曲でもアウトロでスキャットが炸裂しており、「丸の内サディスティック」のそれと同じく楽曲の中で一つの聴きどころとなっている。
歌詞は今作で一番「夢見がちな少女」感が強いというか、なんか、ともかくそういう感じがある。歌い出しからしてこれだし。
そこで描かれているのは、恐らく恋人への恋慕の強さみたいなものだと思うのだけれど、とにかく表現が過剰なまでにメルヘンチックで甘ったるい。ラストのサビなんかかなり強烈。
タイトルに出てくる「シド」は恐らくシド・ヴィシャスの事だろうが、曲中には登場しない。
しかし「ギブス」でも恋人を「カートとコートニー」に例えていたし、あなたには殺されても云々という表現が出てくるあたり、この曲でも自らと相手の関係性をシドとナンシーに例えているのかもしれない。
ただ、タイトルではっきりと「白昼夢」と言い切っている辺り、恐らく椎名は自分の中にある要素をわざと誇張し、こうした過剰に夢見がちな少女像を描き出しているのだと思う。1番のメロで歌われるこのフレーズから、その姿勢が伺える。
よく読めば分かるけど、このフレーズは矛盾している。「白昼夢と現実の区別が付かない」と言っているけれど、当然ながらそれは本当に幻想と現実の区別が付かなくなっている人が言う言葉ではない。
実際この曲は19歳になる直前に書かれたものらしい。それを考えると「夢見がちな十代からの脱却」は恐らく意識されていて、つまりは、これは自らの耽溺を自覚している状態について書かれた、ある種メタ的な視線を持った曲だ。なのでこの曲も一種のストーリーテーリングものと言えるかもしれない。
それを考えると、歌詞の甘ったるさを強調するような間奏のスキャットとアレンジはおそらくわざとやっているんだろう。
というわけで、このアレンジのバージョンも勿論とても良いのだけれども、「真夜中は純潔」のカップリングとして製作された、東京スカパラダイスオーケストラを起用したビッグバンドふうの別アレンジ版の方がこのバージョンより「演じ」に徹していて、この曲のコンセプトをより適切に表現している気もする。
7. 積木遊び
突然ぶち込まれるお遊び曲。
イントロの謎の変拍子といい、各所で入るどう聴いてもふざけているようにしか聴こえないブラス系のシンセの音色といい、サビなんだかCメロなんだかよく分からないパートで何故か突然和風テクノになる展開といい、とにかく遊びまくってるだけ。
歌詞も意味深なようでたぶん本当に積み木について歌ってるだけの1番Aメロ、さっきまでの比喩の美しさはどこに行ったと言いたくなる「あたしを上手く丸める全くの積木くろうと」という謎フレーズが飛び出す2番Aメロ、それっぽいフレーズが並べ立てられてるだけの和風パート、挙句の果てに「某ジャクソン夫人」などとのたまい出す始末で、多分これは真面目に考えようとしても答えが出て来ない類のものだと思う。
PVも作られているのだけれど、なぜか花魁の衣装で煙管を吹かしていたり、忍者がチャンバラをしたり、琴を弾きながら(※そもそもこの曲の琴っぽい音はシンセなので本物の琴がPVに出てくる時点でおかしい)いきなりFサインを出したり、謎のダンスを踊りはじめたりとこちらもふざけ倒している。
確か本人の筆によるPVに登場するダンスの振付解説イラストも存在しているはず。ライブで踊ったり観客に踊らせたりしているんですかね。
そういうわけで、真面目に何かを書くような曲ではない。ただユーモアとノリの良さを楽しむための曲。そしてアルバムの上では、ここから続く重要な2曲へ橋渡しする役割も果たしている。
8. ここでキスして。
椎名林檎の数ある代表曲の一つであり、出世作であり、そして邦楽史におけるマイルストーン的な存在。
改めて歌詞を眺めてみると、椎名林檎の歌詞としては異様なまでに捻りがなく、恋愛の上で生じた衝動を書き記すことだけに注力しており、この後の曲はともかく同時期の曲と比べても非常に異質。
当時のインタビューを読むと、どうやらこの直情的な曲をストーリーテーリングものである「歌舞伎町の女王」のあとにリリースしたのは意図的な戦略だったようだ。
特に2番のメロにおける、まるで十代の女子のブログのような詞表現は恐らく椎名の歌詞の中でもここでしか見られないもので貴重。
ここで思い出すのは、1999年当時、インターネットは流行り始めたばかりで、SNSなど影も形もなく、ブログ文化もまだ一部のテキストサイトが疑似的にそういうことをやっていたぐらい、という現実だ。
果たしてこのあまりにも直情でリアルな”気持ち”の羅列に、共感や簡単を覚えた同世代の人々がどれだけいただろうか。そしてそれはSNSのない世界で、どのような感動を巻き起こしたのだろうか。今となっては想像を絶する。
この曲は実際に椎名が学生だった17歳の頃に書かれたものだ。
恐らくこれはその頃の恋愛に対する自らの気持ちをただひたすらに書き留めた日記のような曲で、それ故にもう本人も書くことが出来ない類の詞だろう。
そんな詞に、これほどまでに素晴らしい曲が付いていることは一種の奇跡だ。
なお、この詞中で恋人のことを「現代のシド・ヴィシャス」に例えており、アルバムの構成としては「シドと白昼夢」の種明かしがさりげなくここで成される格好になっている。
これは果たして意図的なのか否か。なんか偶然っぽいする気もするけど。
9. 同じ夜
アコースティックギターの弾き語りとバイオリン、そしてサビでささやかに添えられるエレキギターのみの、シンプルな編成で演奏されるバラード曲。
このアルバムの核の部分に最も近い存在ではないだろうか。
メロでは「人間の世間」と「私」の距離感が歌われており、これも非常に興味深い(2番では「彷徨う夢の天神」を行き交う人々の視線を集めた充足から脱した瞬間の葛藤が歌われているが、これは当時の所感なのだろうか…)のだが、サビでは更に始点が高くなっていく。ここで描かれているものは、例えば人生観や死生観といったものに近いだろうか。
この「同じ」はどこにかかっているのだろうか。
実は私は長い間「同じ空」と言っているのだと思っていた(なのでこの曲のタイトルも「同じ空」なのだと勘違いしていた)。
しかし、改行のしかたを見ると、この「同じ」は「吹き荒れる風に涙すること」と「幸せな君を只願うこと」にかかっているように見える。
すると、この曲の中で「同じ」だと言われているのは「吹き荒れる風に涙すること」「幸せな君を只願うこと」「泣き喚く海に立ち止まること」「触れられない君を只想うこと」の四つだ。これはいったい何が「同じ」なのだろう。
これは、「私」の心の動きであることを指して「同じ」と言っているのではないのだろうか。
何故ならば、内面ではどんなに異なるものであっても、それは結局内面の話に過ぎず、結局「私」の外では無常に時が流れ続け、窓の外には「誤魔化しの無い夏」が訪れるし、「空は明日を始めてしまう」からだ。
そして二番のサビと最後のサビでは、「例え君が此処に居なくても」の部分にこのような言葉が当て嵌められる。
そして、タイトルの「同じ夜」という言葉は実は詞中のどこにも登場しない。
メロディは恐ろしく静謐で美しい。
そして何よりも強烈なのが、斎藤ネコの手によるバイオリンの演奏。斎藤は亀田と並んで椎名の作品に長きにわたり寄り添う名手だが、この曲での彼の演奏は名演としか言いようがない。
アウトロの軋むような弦の響きは、まるでもう一人のボーカルの歌声のように聴こえる。
10. 警告
前曲の静謐さとその余韻を吹き飛ばす、椎名林檎のパブリックイメージの一角を象徴するような激しいロックチューン。
アルバムを通して聴いていると、このタイミングでいきなりこんな曲が入ってくるのが地味に面白い。
というか、アルバムの流れで言うとこの曲を飛ばして「モルヒネ」に行ってアルバムが終わる方がスムーズだと思うんだけど、でも『無罪モラトリアム』という作品には、この曲がこのタイミングで入る違和感こそが必要不可欠な要素だとも思う。
アレンジ的にはとにかくどストレートなロックなのだけれど、ラスサビ前のメロだけ急にアレンジが幻想的になったり、椎名のボーカルだけが残った状態で曲が終わったりとトリッキーな要素も含まれていて面白い。
ギターのリフのカッコよさもさることながら、全編通してオルガンの演奏が最高にロックしているのが一番の聴きどころ。
歌詞も前曲の大局的な視線はどこへやら。なんでも元は過去に交際していた人物をテーマにして制作、その男性がヒット後にいきなり電話してきたことがきっかけとして今作への収録に至った曲らしく、一応ストーリーテーリングの形を取ってはいるものの、全編通してどう考えても個人的な恨み辛みとしか思えないものが満載されている。
そのため歌詞を曲順の通りに並べて順に読むと、前曲との落差でかなり笑える。
この曲はもう歌い出しからしておかしい。「この先の日本」て。こんなフレーズを出しておきながら全然社会的な方向に転ばず恨み辛みに終始するのが面白すぎる。
前述のエピソードを知ってこのフレーズを読むと相当不愉快な思いをしたんだなということが分かる(ということはこの個所はもしかして改稿してる?)。「夏に見たのは実在しない人だった」は自分を裏切った相手に対する怒りを表現した名フレーズ。そしてラストのサビでは曲中の「あなた」に対して断罪と決別を連ねて終わる。
…それにしてもヒットした後に電話した過去の男、迂闊すぎるだろ…。
11. モルヒネ
アルバムのラストを飾るのは、ひとことで言うと…変な曲。
イントロはエフェクトの掛かった音でグランジっぽいロックが流れるけれども、本編に入った瞬間異様にキャッチーなギターポップが始まる。そしてBメロではイントロのグランジっぽさを思わせるコードに転調し、変なシンセの音も入ってきて怪しげな空気が漂い出す。
しかしサビでは一転してアルバムの中でも一番晴れやかな爽やかさを持つ、「ここでキスして。」と並ぶレベルでキャッチーなメロディが展開する。
そして口笛のソロとBメロ、サビを二回繰り返し、アウトロでやっと冒頭のグランジっぽいメロディに戻る。その上を漂う椎名のスキャットに異様なエフェクトがかかりながらフェイドアウト。そのまま曲とアルバムが静かに終わる。
一言でこういうジャンルだ、という風に説明できない。とにかく全体的に異様、それに尽きる。
上に書いた大きな流れ以外にも、アレンジ上では細かいところで違和感を抱くような要素が不意に投げ込まれる。それでいてメロディは最高にキャッチーで、じっくりと耳を傾けて聴いていると混乱する。
そして歌詞も「丸の内サディスティック」よりは意味が通っているように見えるが、散文詩的で異様に難解。歌い出しからしてこの調子である。
恐らくタイトルの「モルヒネ」はサビのこの歌詞が由来だと思うが、この歌詞の意図するところもよくわからない。
脳から排出される麻薬物質について言及しているのだけれど、脳内麻薬はふつう、エンドルフィンとか、ドーパミンとかではないか?でも表題に掲げられているのは「モルヒネ」。
(追記:後に東京事変で「ドーパミント!」という曲を発表しているが…たぶん無関係でしょう)
そして「だ液を吐き捨てる」「密やかな行為に専念して」いるのは一体何故なのか?このフレーズ自体本当に唐突に登場するので、最早解釈自体難しい。
最後のサビで登場する歌詞も難解だ。
前半の頬が赤く染まりゆく云々までを読んだところで、一瞬「これは恋愛に関連する歌詞だったのか?」と錯覚するのだけれど、その後の二行で急激に雲行きがおかしくなる。
結局「高らかな貴方の声」を聞いたのは夢だったのだろうか?それとも「高らかな貴方の声」を聞きながら目をつぶって夢を見ているのか?しかも見ているのは「昔の」夢のようだ。
この調子だと、「頬が赤く染まりゆく」というフレーズも私たちが思い浮かべるような一般的な意味合いではないのかもしれない。
そして全体の歌詞を読み終わると引っかかるのが、冒頭で引用した最初のAメロの歌詞だ。「家には一人で帰ります」「家には納豆が有ります」というフレーズの、異様な生活感が歌詞全体の世界観から激しく浮いている。
その直後に続く鳥が4羽ついてるグリコゲンがある云々との関連性も、何となく察せられるとはいえ、ちゃんと接続されているとはいまいち言い難い。なお、この歌詞は二回目のAメロでは「素敵な貴方をたたえます」に変わっており、ここまで日常的なフレーズではなくなっている。
そして意味深に登場する地下鉄のレール、赤色のボトムス、空色のカーテン。
椎名はセルフライナーノーツにて19歳のひねくれ加減がよく出ていると評しているが、ひねくれているどころの話ではない。詞も曲も異様過ぎる。
こうした難解な歌詞なので、例によってファンの手による考察が試みられているようだ。実際に私もこの歌詞の解釈を試みる文章を、ネット上で何個か読んだことがある。
しかし私はあまりこの歌詞を無理に解釈しようとは思わない。この曲の、何か変なものが脇にありながらも結局は日常が続く様子を、私はとても美しく思っているからだ。
キャッチーなメロディの中に様々な違和感を織り込んだトラックも、そうした様々な変な物事と直面しながらも続く私たちの日常のサウンドトラックとして響き得るものだと思っている。
そしてこの『無罪モラトリアム』という異質なアルバムが、「家にはひとりで帰ります」という日常へと帰還していく言葉で始まる曲で終わることに、私はとても大きな意味を感じている。
個人的にこのアルバムで「丸の内サディスティック」と並んで好きな曲。