手軽に認められたい

私の言うこと一言一言に価値があり世界を動かしみんなが私のおかげで救われてほしい。

そうして誰かの役に立てた喜びで私自身も救われたい。

でも実際は何もわかっていない私の言葉に何も価値はなく

人々の間で言葉はただ表面を滑っていくだけ。

世界に存在する不幸について誰が悪くてどうすればいいのかただ論じたところで
ただのお遊びのお喋りに過ぎないし

世界はどうしたら救われるのかなんてさ

救えると思えるなんて奢りだ

そう思いませんか?

いや、そうやって、考えることから逃げることこそ、幸福探求の義務の放棄だ。

幸福探求は義務なのか?

自分以外のことを考えることができる人間は社会をいかに良くするか思考し続ける義務があるとしたら。

隣人を救えるものは隣人を救う義務を持つ。考える能力のあるものは考える義務を持つ。

私達の人生は決して自由などではなく

与えられた身体的環境的に可能な範囲で自分以外の人類社会に最大限貢献しなくてはならない、としたら。

自分の存在価値を社会や人間関係に対する貢献から得られないことこそが

その義務を果たさないことで受ける罰なのかも


私達は人類社会にどれだけ役立ったか、ということから自分の存在の意味を見出すことができる。


家族からの愛、友人からの信頼、知人からの親愛、社会からの名声

人々が構成するあらゆる規模の社会における役割によって

私達は自分の存在意義を見出す

反対に社会から必要とされていないと感じることこそ

人間である以上耐えきれない苦痛だ

義務を守らぬ者への罰だ

種の存続でどれだけ役立てるかが個として最大限の幸福の探求であるなら同時に幸福の探求は義務でもあるということになる



だとしたら、このままのうのうと生きればわたしは

死ぬ前に社会に必要とされない自分の存在価値を疑い、耐えきれない苦痛に嘆きながら死ぬのかもしれない

社会への貢献を果たさなかった罰として?



いや、しぬときにはこんな面倒くさい人間じゃなくなっているはず...


こんなこと考えるなんて暇に違いない。

暖かくして寝たほうがいいよ




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?