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『嵐が丘』全映画比較

 昨年末の記事で、過去に映画化されたルイーザ・メイ・オルコット の『若草物語』を、そこで描かれる窓に注目して比較考察しました。今回は、同じ要領でエミリー・ブロンテ『嵐が丘』の映画化作品(以下7作品)を採り上げてみようと思います。

1939年 ウィリアム・ワイラー版
1953年 ルイス・ブニュエル版
1970年 ロバート・フュースト版
1986年 ジャック・リヴェット版
1988年 吉田喜重版
1992年 ピーター・コズミンスキー版
2011年 アンドレア・アーノルド版

 とはいえ、ただ、これらの作品を漫然と比較するのでは、何も際立たないでしょう。まず、これらの作品を比較するフレームを設定しなければなりません。

比較フレーム

 ヒースクリフがそこに居るとは知らないキャサリンは、エドガーに求婚されたことを家政婦のネリーに相談します。それを聞いてしまったヒースクリフは姿を消します。裕福になったヒースクリフが復讐の為に嵐が丘に舞い戻る、その後との結節点を為すこのシーンを、各映画がどのように描いているかを比較してみましょう。
 まずは、1939年のウィリアム・ワイラー版です。
(以下、noteの仕様だと思うのですが、スタンダードサイズの埋め込み動画の下部がトリミングされてしまうので、それぞれタイトル箇所をクリックし、YouTubeサイトに移動して視聴されることをお勧めします)

 原作は、語り手であるロックウッドが、家政婦ネリーからアーンショー家とリントン家にまつわる話を聞くという二重の語りになっています。これに最も忠実なのが、この1939年のウィリアム・ワイラー版です。ワイラー版でも、ロックウッドに語られるネリーの回想として物語が進みます。
 原作のネリーは、このシーンで、ヒースクリフが去る気配がして初めて、そこにいたのだと気づいたと語っていますが、ワイラー版のネリーは(もちろん観客も)、最初から彼がそこに居ることを知っています。このちょっとした改変が巧い。
 この巧さは、原作と同じように会話の後半でネリーに気づかせる他のバージョンと比較すると明らかになるでしょう。

 1970年のロバート・フュースト版では、台所で仕事をしながら話すネリーが、ふと振り返ったその視線の先にヒースクリフがいるのを見つけます。

 1986年のジャック・リヴェット版では、ヒースクリフが立ち去る音で、ネリーだけが、もしやと気づきます。
 1992年のピーター・コズミンスキー版は、ネリーがふとヒースクリフの方を一瞥して気づくという、ちょいと御都合主義の演出が施されています。

I AM God

 1986年のジャック・リヴェット版と1992年のピーター・コズミンスキー版が、1970年のロバート・フュースト版と異なるのは、ネリーはまだ気づいていませんが、ヒースクリフがそこに居ることを、観客にはあらかじめ知らせている点です。

1986年のジャック・リヴェット版

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1992年のピーター・コズミンスキー版

嵐が丘(1992)-0001

 いま、わたしたちがこうやって話しあっているテーブルの下に時限爆弾が仕掛けられていたとしよう。しかし、観客もわたしたちもそのことを知らない。わたしたちはなんでもない会話をかわしている。と、突然、ドカーンと爆弾が爆発する。観客は不意をつかれてびっくりする。これがサプライズ(不意打ち=びっくり仕掛け)だ。サプライズのまえには、なんのおもしろみもない平凡なシーンが描かれるだけだ。では、サスペンスが生まれるシチュエーションはどんなものか。観客はまずテーブルの下に爆弾がアナーキストかだれかに仕掛けられたことを知っている。〔……〕これだけの設定でまえと同じようにつまらないふたりの会話がたちまち生きてくる。なぜなら、観客が完全にこのシーンに参加してしまうからだ。スクリーンのなかの人物たちに向かって、「そんなばかな話をのんびりしているときじゃないぞ!テーブルの下には爆弾が仕掛けられているんだぞ!もうすぐ爆発するぞ!」と言ってやりたくなるからだ。最初の場合は、爆発とともにわずか十五秒間のサプライズを観客にあたえるだけだが、あとの場合は十五分間のサスペンスを観客にもたらすことになるわけだ。

            ヒッチコック/トリュフォー『定本 映画術』
 観客の方に知らせてあれば、つまり登場人物の知らないすべての秘密を明かしておけば、彼らは監督にとってすこぶる役に立つ存在となる。というのも彼らは憐れな役者たちにどんな宿命が待ち受けているのかということを知ってしまっているからだ。これが「神のように振舞わせる(Playing God)」と呼ばれるやり方である。そしてこれがサスペンスなのである。
        アルフレッド・ヒッチコック『ヒッチコック映画自身』

 当該シーンで言うなら、そこで話を聞いているヒースクリフが、テーブルの下の時限爆弾ということになるでしょう。1970年のロバート・フュースト版のように、ヒースクリフがそこにいることを、ネリーも観客も知らなければ、ヒースクリフの登場はサプライズとなります。サプライズのまえには、なんのおもしろみもない平凡なシーン、つまりキャサリンの放言を聞かされるだけのシーンが描かれるだけです。
 ヒッチコックがいうように、ヒースクリフがそこに居ること(テーブルの下の時限爆弾)を先に観客に知らせておけば、キャサリンの放言全てがサスペンスフルなものに変化します。
「そんなのろけ話をのんびりしているときじゃないぞ!すぐそこでヒースクリフが聞いているんだぞ!もうすぐ彼は爆発するぞ!」
 観客を「神のように振舞わせる」。観客をして「わたしが神(I AM God)」だと言わしめるわけです。

 しかしながら、それに即しているはずの1986年のジャック・リヴェット版と1992年のピーター・コズミンスキー版は、さほどサスペンスフルにはなっていません。なぜでしょうか。

 1986年のジャック・リヴェット版が特にそうなのですが、シーンがはじまり、そこで聞いているヒースクリフが示された後、ネリーがそれに気づくまで、わたしたち、神であるはずの観客が、ほとんどヒースクリフの顔を見ることができないからです。つまり、ヒースクリフという時限爆弾がそこにあることは、観客に示されるのですが、その時限爆弾が爆発するまでのカウントダウン(ヒースクリフの顔)は奪われているというわけです。
 ジル・ドゥルーズは『シネマ1*運動イメージ』で、時計の文字盤を顔の輪郭、時計の針を顔の輪郭に逆らう描線に重ね合わせていますが、ここでのヒースクリフの顔は、まさに時限爆弾の時計のクロースアップに相当するでしょう。その顔を見ることができないのです。

 サスペンスフルなカウントダウンを演出するよりも、キャサリンに寄り添っていたい。放言でしかなかったがゆえに、彼女自身も気づけなかったことに知らず漸近していく、その様こそ観客に見せたい。そのような監督の意図が、ヒースクリフという時限爆弾のインサートをためらわせたのではないでしょうか。よくわかります。
 では、キャサリンからキャメラが離れることなく、且つ、サスペンスフルに見せることはできないのでしょうか。それを可能にしたのが、ワイラー版の改変というわけです。

I AM Nelly

 1970年のロバート・フュースト版は、ネリーのナレーションで進行します。
 1992年のピーター・コズミンスキー版は、原作者のエミリ・ブロンテを登場させ、彼女のナレーションで進行します。
 これらの語り手は、1988年の吉田喜重版が、老婆(現在のネリー)と琵琶法師(ロックウッド)をただ物語の導入にだけ登場させているように、それぞれ効率的な語り(語りの経済性)のために利用されているだけで、語り手の視点を積極的に物語に組み込むことはなされていません。
 しかし、ワイラー版は違います。要所々々で、観客を、語り手ネリーの視点(I AM Nelly)に立たせるのです。当該シーンもそう。
 観客は、そこにヒースクリフがいることを知っています。時限爆弾がそこにあることを知らされている神の視点です。ただしワイラー版では、ネリーも知っています(観客=神=ネリーの三位一体)。そして、時限爆弾はヒースクリフですが、時限爆弾の時計はネリーの顔になります。なので殊更、ヒースクリフの顔を見せる必要がない。ネリーの顔を見れば、時限爆弾の時計の針が進んでいることは十分わかります。ヒースクリフが立ち去るのも、ネリーの目の前の蝋燭の火が風に揺れることで表現し、それ自体を見せません。キャメラは、キャサリンとネリーのやりとりを中心に捉えたまま、且つ、サスペンスフルに進行します。 

I AM Hearthcliff

『嵐が丘』の映画化としては現時点で最も新しい2011年のアンドレア・アーノルド版はどうでしょうか。
 最新版が過去作と大きく異なるのは、ヒースクリフが黒人に設定されていることだと巷間指摘されていますし、そのとおりでもあるのですが、ここでは、それよりも何よりも、ヒースクリフ視点で描かれている唯一の作品だということを強調したいと思います。キャメラは常にヒースクリフに寄り添うので、当該シーンの描かれ方もすでに述べてきた過去作とは全く異なります。

嵐が丘

 キャメラはヒースクリフを離れず、キャサリンとネリーのやり取りは彼のPOV(隙間から覗き見られたキャサリン、壁に映る影)で示されるのみです。過去作ではインサートされるだけだったヒースクリフの顔を、十二分に見ることができます。
 もちろん顔を見ることができるからといって、ヒースクリフが何を思っているのかがわかるわけではありません。しかし、むしろそのわからなさ、彼の「何も表現しない中性のまなざし」こそが、観客をして「わたしがヒースクリフ(I AM Heathcliff)」なのだと言わしめます。これをクレショフ効果と言います。

 結局、どのような視点、即ち、フレームを投げかけることができるか、に尽きるのではないでしょうか。ワイラー版と、アンドレア・アーノルド版には、その点、確かなビジョンがあったと言っていいでしょう。特に、ヒースクリフのフレームを通して語られるアンドレア・アーノルド版は、映画全体を通して、そのヒースクリフのフレームを、窓枠というフレーム内フレームに変奏して描いているのが見事です。

ルイス・ブニュエル

 1953年のルイス・ブニュエル版には、当該シーンがありません。ヒースクリフが嵐が丘に舞い戻るところから映画が始まるからですが、このような切り取りが、すでにブニュエルのフレームだと言えるでしょう。
 エドゥアルド(エドガー)も、アレハンドロ(ヒースクリフ)も、それぞれ別様にカタリナ(キャサリン)を愛しますが、いずれにせよ彼女を死にいたらしめるのは同じです。それを、エドゥアルドに蝶を標本にする趣味を与え、蜘蛛が蝶を絡めとるショット(アレハンドロ)と対照させることで表現しています。この辺りが、まさにブニュエルらしいフレーミングと言えるでしょう。

嵐が丘-0001

ジャック・リヴェット

 1986年のジャック・リヴェット版は、とにかくレナート・ベルタによる流麗なキャメラワークが秀逸です。1939年のウィリアム・ワイラー版のグレッグ・トーランドによる撮影(アカデミー撮影賞白黒部門受賞)ももちろん見事ですが、キャメラワークに関しては、ジャック・リヴェット版が飛び抜けています。では、リヴェット版に特徴的なフレームはなんでしょうか。
 なんと言っても夢でしょう。夢ほど主観的なフレームはありません。しかし、冒頭、その夢見る主体は、二人の主役でもなく、ネリーでもなく、ギョーム(ヒンドリー)なのです。この出鱈目さが面白い。

吉田喜重

 1988年の吉田喜重版の当該シーンは、比較ができませんでした。なぜなら、絹(キャサリン)は、西の荘光彦(エドガー)との結婚を、鬼丸(ヒースクリフ)に直接告げるからです。では、吉田喜重版に特徴的なフレームはなんでしょうか。
 もちろん、鏡です。(原作ではヒースクリフのせいでなくされてしまった)父親のお土産を鏡に改変しているのが妙案ですし、鬼丸とのコミュニケーションを鏡で光を反射させるだけで成立させてしまうのは絶妙です。「鬼丸はわたし、わたしは鬼丸」という絹のセリフも鏡に向かっての独白です。

アンドレア・アーノルド

 2011年のアンドレア・アーノルド版では、大人になったヒースクリフが舞い戻るその時間経過が、霧の中からヒースクリフが徐々に現れるショットで簡潔に表現されています。実に見事なショットだと思うのですが、アンドレア・アーノルド自身は、自分の哲学に反するショットだったとインタビューで振り返り、いまだに居心地が悪いと言います。なぜなら、キャメラが被写体から離れ、ずっと先にあるからだと。つまり、このショットだけキャメラがヒースクリフに寄り添っていない客観的なショットになっている、というわけです。
 これは実に示唆的な話であって、アンドレア・アーノルドの哲学というフレームがあるからこそ、そのフレームの外にあるもの(ここでは時間経過のショット)が力を持つのだと言えるでしょう。そもそもフレームがなければ、フレームを裏切るものも存在しえないのですから。


(今回採り上げたシーンとほぼ同じ箇所の日本語訳を比較した動画)


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