『RRR』のRube Goldberg machine的な面白さ
御都合主義
御都合主義というのは、多くの場合、否定的な意味で言われます。
「そんなアホな。ふざけるな、いい加減にしろ」というわけです。
ですが、ときとしてそれが
「そんなアホな。いいぞ、もっとやれ」となることがあります。
『RRR』(S・S・ラージャマウリ)の御都合主義は、まさに後者に当たるわけですが、はたして一体なにが御都合主義を肯定的なものにするのでしょうか。
その秘密を「ルーブ・ゴールドバーグ・マシン」を手がかりにして考察していきたいと思います。
Rube Goldberg machine
「ルーブ・ゴールドバーグ・マシン」とはどのようなものか、まずは以下の引用を参照してください。
例えば、この動画のルーブ・ゴールドバーグ・マシン(以下RGM)は、『The Page Turner』と題されているように「ページをめくる」という「普通にすれば簡単にできることをあえて手の込んだからくり」を使って実行しています。この「手の込んだからくり」は、身近にある日用品で構成されていますが、それら本来の使用方法からは全くかけ離れた、連鎖に都合のいい使われ方(御都合主義)をしています。そこが面白い。
「そんなアホな。いいぞ、もっとやれ」
一方、
「そんなアホな。ふざけるな、いい加減にしろ」
と、否定的に語られる御都合主義にデウス・エクス・マキナがあります。
デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)とは、話の収拾がつかなくなり、強引な展開で解決してしまう手法です。
つまり「普通にすれば」解決できないので、デウス・エクス・マキナが要請されるというわけです。
ヒロイック・フレーム
例えばこのレスキューシーンですが、普通に考えれば、もっと簡単で説得力のある救出方法があるはずで、このような手の込んだからくりは必要ありません。
S・S・ラージャマウリ監督は、このシーンの発想を次のように語ります。
あくまで「ヒロイック・フレーム」から逆算して構成されたレスキューシーンであって、少年を救出するというストーリー上の要請は二の次になっているのがわかります。
これは『The Page Turner』のRGMが、もはや「ページをめくる」ことなどどうでもいいかのように展開するのと同じです。
『RRR』のレスキューシーンでの旗の使い方も、『The Page Turner』の日用品の使い方同様、本来の使用法からかけ離れていれば、かけ離れているほど面白いというわけです。
つまりここで肯定的にいわれる御都合主義とは、ブリコラージュなのだといっていいかもしれません。
エルンスト・ルビッチ
ここで思い出されるのは、トリュフォーが指摘するエルンスト・ルビッチの方法論です。
これはそのままRGMの定義と重なります。
そしてこの「ルビッチのやり方」というのは彼のスタイルであって作家性でもあるわけですが、それが「観客に理解させなければならないシチュエーション」にではなく、そのシチュエーションへの迂回路にこそ見出されることが重要です。
『RRR』では、少年を助けるというシチュエーションへの「どうやったらいちばん間接的な、いちばん手の込んだやり方でそれが出来る」かという迂回路に、「ヒロイック・フレーム」という経由地を与えます。
少年を救出するための御都合主義というよりも、むしろ「ヒロイック・フレーム」に到達するための御都合主義という方がしっくりくるのが、S・S・ラージャマウリのやり方というわけです。
『非常宣言』
もちろんアクション映画というジャンルが御都合主義を許容するのだという考え方もあります。
例えば『RRR』の少年を救出するシチュエーションも現実であれば決して簡単ではありません。しかし、アクション映画というジャンルではよくあるシチュエーションで簡単(クリシェ)です。そして、この程度の救出劇なら御都合主義が云々されることもないでしょう。
つまりジャンルが許容する御都合主義は、そもそもそれが云々されないということです。
にもかかわらず『RRR』の当該シーンにおいて御都合主義という言葉が肯定的に言われるとすれば、それは、このシンプルな救出劇(クリシェ)に、わざわざ「ヒロイック・フレーム」を経由する手の込んだ迂回路を加えているからです。
一方、このシンプルな救出劇そのもののクリシェを嫌って物語レベルで解決できそうにない手の込んだものにすると、例えば『非常宣言』(ハン・ジェリム)のようになります。
飛行機内でバイオテロが発生し、機長と副操縦士のどちらもが倒れるという普通に考えればとても解決できそうにない状況での救出劇です。
普通に考えれば解決できないから繰り出される御都合主義は「そんなアホな。ふざけるな、いい加減にしろ」となるはずだと前述しました。
あくまで個人的な見解ですが『非常宣言』の場合、そこまで言わないにしても、さすがに小首をかしげざるをえない展開が多々ありました。
御都合主義展開が、アクセルになった『RRR』とは異なり、ブレーキになってしまったという印象です。
このように物語レベルでハードルを上げてしまうと観客の御都合主義に対する目は厳しくなりますが、あえて(しなくてもいいのにする)御都合主義展開はむしろ肯定的に受け入れられます。
少年を救出するという物語レベルでは、小首をかしげざるをえない救出方法であっても「ヒロイック・フレーム」に至るブリコラージュが「これしかない」と観客に快哉を叫ばせるのです。
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