6/10/2021 東京

 岸政彦、柴崎友香著「大阪」を読んだ。大学に通うために大阪に移り住んだ人、大阪で生まれ育った人の視点から、この街について抑制のきいた愛情深い文章が詰まっている。柴崎友香は年齢が近く、音楽が好きな10代、20代が過ごした大阪がリアルに描かれていて面白かった。自分も大阪にいたら似たようなことをしていたのかもしれない。

 年内には岸先生監修によるプロジェクト『東京の生活史』が刊行される予定。

『東京の生活史』いよいよ正式にスタートします。これは、私自身が監修し、一般から公募した「聞き手」によって集められた「東京出身のひと」「東京在住のひと」「東京にやってきたひと」などの膨大な生活史を、ただ並べるだけの本です。解説も、説明もありません。ただそこには、人びとの人生の語りがあるだけの本になります。目標は80人から100人、二段組でおよそ800から1000ページ(!)を予定しています。

 ポール・オースターが監修したTrue Tales of American Life(おそらく全文が「ポール・オースターが朗読するナショナル・ストーリー・プロジェクト」で翻訳されているはず)を思い出す。ラジオ番組のプロジェクトとして、アメリカにまつわるストーリー(実話に限る)を公募して番組内で発表し、のちに刊行された。好きな章はStrangerで、やっぱりアメリカって何が起こるか分からない、魔宮みたいな国だなぁ、と感心してしまう。日本でやってもこんなに面白くならないだろうなぁ、なんて思っていたけど、東京も昔はワイルドな体験談がたくさんあるはずなので、どんな話が読めるのか、楽しみ。

 私にとって東京は、いくつもの街をまとめた呼称、というイメージだ。それぞれ成り立ちの違う、ある程度の規模の街がたくさんあるので、それをひっくるめて「東京」と言われても、あんまりぴんとこない。大きくわけて、西東京、東東京と言われれば、ちょっとはイメージできるかな、という感覚。私は西東京側で、知り合う人もこちら側が多いので(三鷹なの?で距離が縮まる)、東東京出身の人は、隣県くらいの違いを感じることもある。まあこれは「大阪」でも同じなのだろう。

 自分は西東京側、なんて書いたものの、私は小学6年から東京に住み始めたので、東京出身とは言えず、かといって大阪に生まれてから、3歳~11歳まで過ごした滋賀県出身かというと、それもしっくりこないので、どちらでもない、というのが実感だ。生まれ育った土地ではない東京のことを何か書くとしたら、やっぱり「東京に転勤になった」話になる。もう小学5年だったので、それを両親から聞いたときのことははっきり覚えている。

 小学5年生の頃は、とにかく熱い友情を育んでいた時期だった。何人もの友人と交換日記をして、滋賀県民が必ず参加していたフローティングスクール(1泊2日で琵琶湖を船で一周する行事)では消灯後の部屋で語り合い、手をつないで寝た。学校生活をエンジョイしていたので、転勤の話を聞いたときはショックで、自分(と妹)の部屋でおいおい泣いた。しかしやはり子供なので、ひとしきり泣いた後の夕食の席では、大好きなトップテンをやってる渋谷公会堂のある街に住めるんだ!とすっかり回復していた。その頃の友人とはもう連絡が途絶えているが、しばらくは手紙で近況報告が続いた。東京で楽しく暮らしている私が主人公の漫画は、今でも手元にある(途中で私は死んでいたけど)。

 初めての東京で記憶に残っている景色は、中央線の車内から見た、御茶ノ水駅あたりの神田川だ(ずっと外堀だと思っていた)。緑色の水と、脇に生えたうっそうとした木々。川じゃなさそうだけど、何これ? 高架から見下ろす水と、沿線に立ち並ぶビルを眺めては、なんかすごいところに来た、と思った。初日は吉祥寺駅で下車して、東急ホテルに宿泊。翌日に新しい住まいとなる三鷹駅から歩いて30分以上かかるアパートへ向かった。部屋ごとにいろいろな企業が借り上げている見た目そっくりの社宅3棟のうちの1つだ。

 登校初日。ずっと気がかりだったのは、「標準語」で話せるかどうかだった。関西の子供あるあるかもしれないが、国語の教科書を読むときに関西弁で読むか、標準語調で読むか、迷ってへんなミックスになったりする。へんな標準語で読んでる!くくく。子供心に、日頃同級生が「~やんけ!」と話してるのを聞いて、ダサいと思っていた。それまで「標準語」で話す機会もなく、テレビで聞いたことしかない。でもそんな心配は杞憂だった。むしろ、関西弁がでてこない。同じクラスの子から、訛ってないねーと言われた記憶があるので、そうだったのだろう。今でも、話す相手に合わせたアクセントで話してしまうし、グラスゴーでも訛っていた(知ってる日本人の中で、あの強烈な訛りが移らない人はほぼいなかったが)。でも、相手が関西弁でも、もう100%関西弁で話すことはできなくなっている。

 下校するとき、同じクラスの長谷川さんと米田さんが一緒に帰ってくれた。私はとことこと3棟のうちの1つに入っていくと、そっちじゃないよ~と2人が叫んでいる。母が降りてきて待っていたのを2人が気づいたのだ。くすくす笑いながら手を振って去っていくのをはっきり覚えている。その後1年間、同じクラスだけでなくほかのクラスの子とも何冊も交換日記をせっせと書き、図書館でこっくりさんに興じ、学年で一番目立つ男子たちと豊島園に行く、目立つ転校生になっていた。今でも不思議だが、あの1年が学生時代のハイライトだった。東京での生活を明るいスタートにしてくれたあの朗らかな同級生たちに感謝している。今でも、2,3年に1度くらいは住んでいた社宅や小中学校周辺を見に行っては、楽しかった思い出を反芻している。

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