第1話 エテルノ西新宿202号室
金木犀の切なげな香りが鼻孔をくすぐる秋の日、その事件は明るみになった。そして、刑事たちと、彼らはであう。まるで、この先も幾度となく再会し、力を合わせる約束を、過去に交わしていたかのように。
あたりは騒然としていた。アパートの廊下には、あちこちからそこを覗き込もうとする者もおり、道路にまで多くの野次馬が広がって、大きな声で噂話をしている始末だ。大家と知り合いらしい近隣の老人たちは、彼が哀れだと言いつつひしめきあい、向かいのアパート、さらに並びに佇む戸建てに住む若い人たちは、あの部屋の中にある死体を早く見たい、と期待しているように見えた。
「飛鷹さ~ん! お待たせしました。手続きに時間がかかってしまいまして」
すこしでも、この不快さから逃れようと、左腕で鼻と口を覆っていた飛鷹は、相棒の間延びした声に苛立ちを隠せない。
古びたベージュ色をカバーするために、その上からこげ茶色のペンキを塗ったのだろうが、それも経年劣化によってあちこち剥がれ、傷がついている。飛鷹がどんな気持ちで、このドアの前に三十分もいたのかと察する西島だが、こう見えて西島は、現場に踏み込むのが怖いのである。
「手続き? 何のだ」
「もちろん、マスターキーの貸し出しです。たとえ警察でも、書面で残さないといけないということで」
「大家さんは自宅に戻ったのか」
「はい。何かあったら呼んでください、と」
「すでに何か起こっているだろう」
自分が経営・管理しているアパートに、明らかな異変が発生しているのに、それにあまり関心がないように見える大家に、飛鷹は不信感をおぼえているようだ。その真面目すぎる性格は、飛鷹の長所、あるいは短所とも言え、西島はいつものように飛鷹をなだめ、それを渡す。
飛鷹がすぐさま鍵穴に通すと、「202号室」と書かれたプレートだけがドアノブから垂れ下がり、左右に揺れた。一度も作り直していないのだろうか、鍵はあちこち錆び付いていて、本当に使えるのか気になったが、思いのほかあっさりと右に回り、ロックが外れる音がした。
築35年という古びたアパート『エテルノ西新宿』は、新宿御苑の外周にあたる、外苑西通りの裏手にあった。西新宿といえば、超高層ビル街というイメージが固まりつつあるが、駅から離れれば、およそ観光には適さないと思われる、寂れた集落のような場所も、確かに存在する。
エテルノ西新宿は、まさにその典型のような住宅地だ。数分歩いた先には、超人気のタワマン、高級ホテル、オフィス等が立ち並んでいるが、このあたりだけは、まるで時代に取り残されたように閑散としており、飛鷹の斜め後ろに位置する外階段は、いつ崩れてもおかしくないほど老朽化が進んでいた。
今から約一時間前、「何日か前から異臭が漂っている」との通報を受け、西新宿署の飛鷹と西島は、その現場であるエテルノ西新宿へ向かった。駐車場はなく、アパートの入口に車を止めた飛鷹に、一人の男が近づいて言う。
「さっき通報した者です。もう、自分の部屋を出るなり、強烈で異様なにおいが、もう何日も。これってアレですよね? 中に……」
「警視庁西新宿署から来ました。飛鷹です。お名前をお伺いいたします」
男は、本物の警察手帳を見るのが初めてのようで、飛鷹の提示したそれをまじまじと覗き込んでいる。一方的に警察を呼びつけ、自分の名前も言わずに電話を切ったというその若い男は、解決を望む反面、完全に事件に遭遇したことを楽しんでいた。
「203号室の臼井です。中からの応答はないんで、大家さんにマスターキーを借りることになりますよね。大家さんは管理室です。どうぞ」
飛鷹と西島は、臼井の案内で管理室へと進んだ。チャイムを鳴らすと、しばらくして現れたのは、七十代後半か、ちょうど八十歳くらいの老人だった。
「じいちゃん、刑事さんが来たよ。やっと異臭も収まりそうだし、俺はあっちから高みの見物してるわ」
「これ絢斗、待たんか……ったく。ああ、刑事ってのはあんたらかい」
警察に良い印象を持っていないのだろう。大家の男性・田淵は、飛鷹と西島を品定めするようにじっとりと眺め回し、顔をしかめる。落ちくぼんだ目の周囲には深いシワが刻まれ、全体的にたるんだ頬を中心に、シミが広がっている。
先輩はこういう人とは相性が悪いだろうと、西島は飛鷹に、現場で待っていてくれるように言い、自分だけが残った。だが、田淵は警察手帳を見せても、通報があったことを説明しても、マスターキーを出し渋った。三十分近くもかけて西島が説得し、「貸出書」という書類にサインをさせられ、そしてやっといま、そこが開かれる。
202号室のドアの向こうに、一体何があるのか。経験則から禍々しい雰囲気を感じ取り、これは事件だと、飛鷹は確信している。根拠は、幾度となく嗅いだことのある、この不快なにおいだ。もしも室内に「あれ」がないなら、ドアの隙間から異臭が漏れたりはしない。
野次馬をどうにかしようと後ろを振り返ると、さきほど田淵に「絢斗」と呼ばれていた若い男が、いわゆるギャル風の女と一緒にいるのが見えた。不安げな顔で一歩後ろに控える西島から離れ、飛鷹は片手を挙げつつ声を張る。
「下がってください! 写真や動画は控えて! 今から我々が確認します!」
「……ぎっ、ぎゃああぁぁぁ!」
飛鷹がゆっくりとドアを引くと、ノブに括りつけられていたロープがピンと伸び、室内で異臭を放つそれが床に転げ落ちた。それが何なのか、すぐにはわからなかった西島だが、絶叫したことで思い至ったように、その場に尻もちをつき、飛鷹の脚を引き寄せてしがみつく。
異臭はその時点で悪臭に変わり、さすがの飛鷹も吐き気をもよおしたが、それをどうにかやりすごして、部屋の奥へと視線を送った。第一発見者を歓迎するがごとく、遺体は玄関ドアと向き合い、ゆったりと座っている。衣服の乱れもなく、一見すると事件性はないようにも思われた。だが、床にぐしゃりと沈んだ頭部が、もう何も映さない濁った眼が、何かを物語る。真実を解き明かせるかと、飛鷹たちに問う。
「西島、署に連絡だ」
「はひ、ひ、ひだかさん、お願いします」
西島が死体を見るのは、これで六度目だ。飛鷹をはじめ、先輩刑事にならうとすれば、とにかく場数を踏み、慣れることに尽きる。だが西島は、五人目にしてやっと嘔吐せずにいられるようになったばかりで、両親や二人の姉に甘やかされて育ってきたという生い立ちを踏まえると、それにはかなりの時間がかかりそうだった。
まだ飛鷹の脚に腕を絡めたまま、しゃがみ込んで口元を押さえ、西島は目に大粒の涙を浮かべている。飛鷹は、いっそうざわめき始め、みるみる人で溢れ返っていくアパートの廊下をぐるりと見渡しながら、スマホを取り出し、発信履歴にある西新宿署の番号をタップした。
「飛鷹です。通報のあったエテルノ西新宿202号室に、死後数日経ったと思われる死体を発見。応援を要請します」
『了解。今から現場に急行する。野次馬を追っ払う前に、写真を撮っておけ』
「了解しました」
電話を取ったのは、刑事ドラマに登場しそうな、この道三十年というベテランの警部補・守屋だった。守屋は、デスクを挟んで向かいにいるパートナーを大きな声で呼び、自分は鑑識を手配してくると、彼女を先に車に向かわせた。
短い通話を終えた飛鷹は、守屋の言葉にならって、ゾンビのようにあとからあとから沸いてくる野次馬を撮影していた。平日の昼間ということもあり、若い人よりも中高年、そして子供までいる始末だ。
母親と思われる女性は、事の重大さに気づいたのか、子供を室内に入れようとするが、好奇心旺盛な年齢の男児は、その手をうまくすり抜け、鼻をつまんで二階を覗き込もうとしている。飛鷹は、その男児と目が合った。
「もうじき守屋さんたちが来る。野次馬を撒くぞ」
「はい……」
膝に手を置き、やっとのことで立ち上がった西島が、両手を振って野次馬に呼びかける。だが、完全に西島をナメている彼らは、全く言うことを聞かず、西島は多数のスマホの餌食になった。
「えっ、ここに死体あるんですか?」
「おれ102号室なんだけど」
「ていうか、あの臭いで死体が出ない方が怖いでしょ」
それぞれ勝手なことを言い、中にはすでにSNSに事件のことを書きこんでいる者もいるようだった。不確かな情報がネットで拡散されないうちに、警察からの正式発表を急がねば、と飛鷹は思う。
アパートの住人はすべて室内に戻らせ、道にひしめきあっていた野次馬を散らし、西島は飛鷹に言われるままに、大家の部屋へと向かう。インターホンを鳴らすと、やはり面倒臭そうな声が応対した。
「西新宿署の西島です。さきほどマスターキーをお借りした202号室ですが、中から死体が発見されました。異臭の原因で間違いないかと思われます」
『……ちょっと待っておくれよ』
西島にとっては、それこそ恐怖の館だった。ギギィ、と軋んだ音を立てて開いたドアの隙間から、田淵が自分を睨んでいる。
「で、どうなんだい。奥田さんなのかい?」
「現場を調べてみないとわかりません。我々だけでは検証が出来ませんので、係の者の到着を待っています」
それを聞き、田淵はサンダルをひっかけて廊下に出ると、西島と対面して、不気味な笑みを見せた。前歯のいくつかは抜けており、上と下に一つずつ、金歯が嵌め込まれている。
「仏さんが奥田さんなんだとしたら、ありゃあ、死後十日くらいだよ」
「なぜそう思われるんですか?」
「奥田さんは、アイドルが好きで、昼間にゃあ推しの曲をかけっぱなしにするもんで、よく騒音トラブルになってたのさ。十日前、九日の夕方だったね。それを最後に、奥田さんの部屋からは、なーんも聴こえて来ん。去年まではほとんど部屋から出なかった奥田さんが、長期外出するとも思えんだろう? ま、刑事さんの続報を待つとするよ」
シワだらけの手を肩の高さで後ろに振り、田淵はまだぶつぶつと何かを言いながら、西島に背を向ける。その時、ようやく証言をもらえたことに気づいた西島は、身体の横に腕を揃えると、勢いよく頭を下げる。
「貴重な情報を頂き、ありがとうございます! 現場検証が終わりましたら、またお訪ね致します!」
「あいよ。あんちゃんも大変だね」
ドアが閉まり、鍵がかけられた音を確認してから顔を上げ、西島は警察手帳をめくって白紙ページで手を止める。そして、いま田淵から得たばかりの情報を、声に出して書き記していった。
「騒音トラブル、九日の夕方より音楽が聴こえなくなる……、っと。飛鷹さんに報告報告」
西島が外階段を上がろうと、片足を踏み出した時だった。鳴り響くサイレンはどんどん近づき、エテルノ西新宿前で停車する。二人の顔を見て安堵した西島は、ついパトカーに走り寄り、守屋に小突かれたのだった。
現場の様子を撮影する数人の鑑識、そして自分を含めた四人の警察官で、室内はすれ違うことも困難なほど混み合っている。西島は、横目でちらちらと死体を確認しているが、落下した時にひしゃげた頭部には視線を合わせられないようで、胴体にたかるハエを払いながら、飛鷹たちの会話に耳を傾ける。
「ガイシャは202号室の住人、奥田繁晴(おくだしげはる)で間違いないようだな」
「ええ。十日前の十月九日朝、ゴミ捨て場で見かけたという104号室の主婦の証言と一致しています。おそらく死後十日程度、服装からして、ゴミ捨て以降、外出はしていないでしょう。守屋さん、これは他殺でしょうか」
「いかんせん発見が遅すぎたな。ドアを開けた拍子に首が取れちまったんじゃあ、鬱血痕も見えやしねえ。解剖の結果を待とう」
守屋がこれまでに踏み込んだ現場は数知れず、腐敗が進んだ死体をも一番冷静に見られるのも、守屋だと思われる。守屋は、頭部の切断面、首がなく、脚を伸ばして座ったままの胴体、あらゆる方向から死体を覗き込んでは、握った拳を口に当てて小さく唸る。
「そうですね。さきほど、大家さんからご家族の連絡先を聞きました。本日中に確認に来てもらえれば、司法解剖の手配に進めるのですが……」
死後十日ほども経過している奥田の解剖の結果が出るには、さらに数日という時間が要されるだろうが、検視では判断しかねるのだから仕方ない。守屋と飛鷹は、再び奥田の遺体に向かって手を合わせ、立ち上がってそれぞれメモを取っている。西島もそれにならいたいのだが、足に力が入らず、動けない。
奥田の死体の首にはロープが巻かれ、それは玄関のドアノブへと繋がっていた。発見が遅かったために腐敗が進み、飛鷹がドアを引いた瞬間に絞まったそこは、熟しすぎた果実にナイフを入れるように切断されたのだ。
室内に荒らされた形跡、たとえば犯人と揉み合いになったと推測される痕跡はなく、周辺はきれいに片付いている。奥田のすぐ後ろにある流しに至ってはピカピカに磨かれ、いくつかあるゴミ箱の中身は、シュレッダーにかけた紙くずとお菓子の個包装の袋だけだった。
守屋が冷蔵庫を開けると、賞味期限の切れたヨーグルトやゼリー、半分ほど減った牛乳が目に入る。守屋は続けて野菜室、冷凍室を覗き見たあと、何も収穫はないというふうに、挙げた両手を頭の後ろで組んで、そこに重みを載せる。
「米田、何か怪しいもんは見つかったか?」
これまで鑑識の誰も声をあげていない点からしても、全く期待はしていなかったが、守屋がとりあえずというふうに、一番付き合いの長い米田に訊く。床に散らばっている毛髪をピンセットでつまむ最中だった米田は、そこから視線を外すことなく言った。
「ないな。毛髪が数本落ちてるが、色と長さからいってガイシャのものだろう。あとは他人の指紋が出るかどうかだが、犯人がいるとすれば、相当頭が切れる奴だ。わざとでない限り、特定に繋がる情報を現場に残しておくとは考えにくい。おい武内、写真は多めに撮っとけよ」
「了解です!」
鑑識に入って二年目という武内に、ベテランの米田が指示する。狭い室内を縦横無尽に歩き回り、あらゆる方向から現場の写真を撮影する武内を見上げ、西島は、早く自分も捜査の役に立ちたいと、溜め息をついた。
現場の状況は事件に違いなかったが、自殺か他殺かの判断は、故意にしづらいように感じられた。仮に他殺だったとして、内側から鍵が掛けられているこの空間はいわゆる「密室」だ。事故という可能性はありえないことから、必ず奥田を「殺した」人物がいるわけだが、直ちに遺体を司法解剖へとまわせないのが歯がゆい。
現場に踏み込んで三十分、やっと足腰に力が入った西島が、飛鷹に支えられて遺体から離れた時だった。四人の警察官の中で唯一の警部・脇本は、手袋ごしに件のロープを目の高さまで上げると、それをじっと見つめて、低い声で言う。
「妙ね……」
「妙って、また女のカンってやつか、脇本」
どちらが長く刑事をやっているかで言えば、当然守屋なのだが、階級としては脇本の方が上だ。だが、年齢が父と娘ほど違うからか、守屋はいつも脇本の意見を素直に聞けない。
「勘に性別は関係ない。敢えて言うなら、刑事の勘よ。このロープの太さと長さ。ロープというより綱ね。ねぇみんな、この綱をどこかで見なかった?」
脇本に言われて、やっとロープを改めて見た西島は、それを使って遊んだ思い出を手繰り寄せる。それは十数年前、学校のグラウンド。紅白対抗で父兄も混じって歓声を上げた。
「綱引き……!」
「そう、きっと小学校で使うような、綱引きの綱だわ。つまり、太すぎるこの縄は、おそらく凶器にはなり得ないということ」
「つまり、こういうことだな。凶器は別にあるにも関わらず、犯人は敢えてこの『違和感』を現場に残した」
「ええ。その『犯人』は第三者かもしれないし、奥田さん本人かもしれない。後者の場合は、奥田さんのダイイングメッセージの可能性もある。もしかしたらこの事件、やっかいかもしれないわよ」
女性の手には余るほどの縄を床に置き、脇本は鑑識の職員にぶつからないよう、注意しながらゆっくりと室内を歩いた。そして、押収されかかっていた奥田のパソコンを、一旦寝室のデスクに戻させると、中身の確認を急ぐ。
「やっぱりパスワードか……」
「無駄かもしれませんが、まずは誕生日あたりから入力してみましょう」
飛鷹に言われて脇本のサポートに来た西島が、横から顔を覗かせる。パソコンやネットに強い西島は、キーロックやサーバーの追跡なら自分の出番だと張り切っている。
「誕生日、生まれ年、いえ、わざわざパスワードを設定するような用心深い人間が、そんな単純な文字列にしませんよね。とすると、好きな……そうだ! 奥田さんはアイドルのファンだったと、大家さんが言っていました。脇本さん、どこかにそれは見当たりませんか? そのアイドルのCDや写真、いわゆる推し活グッズとか」
「部屋中にその子のポスターを飾るタイプではない、と。グッズの所有欲が皆無……?」
室内を一通り見渡したあと、脇本は手袋をはめ直してから、大きなコミック用の本棚を引き出す。青年漫画を中心にラノベ、ゲームの攻略本が並んでおり、中段付近にあっさりとCDが見つかった。
「西島くん、これ。アイドルって、この子のことじゃ……」
背表紙に『ねむい』と書かれたCDを三枚取り出し、西島にそれを手渡す。どうやら二人組のアイドルのようだが、ジャケットの写真を見ても知らない顔だった。
「ちょっと検索してみます」
スーツの内ポケットからスマホを取り出し、検索窓に「ねむい」と入力するが、それでは求めていない情報までたくさんヒットしてしまう。そこで西島は画像検索に切り替え、ジャケットを飾っている二人を探した。しばらくスクロールしていると、その片方の子、おそらく一般的に言ってかわいい方を中心に写真が見つかり始める。そして適当なツーショット写真をクリックした時、机の引き出しを調べていた脇本が、あっと声をあげた。
「西島くん」
脇本が探し当てたもの、それは机の隠しスペースに詰め込まれた大量のメモだった。後方の板は上に強く持ち上げると外れ、そこに奥田本人が手書きしたらしい情念の数々が見つかった。
同時に西島のスマホに表示されたのは、どこかの公式サイトだ。ロゴをクリックして中に入り、概要を一通り確認してから「Staff」のカテゴリへと進む。そして西島と脇本は、ついにその人物へと辿り着いた。大家の田淵が「アイドル」だと表したのは、こういう特殊な子たちのことだったのだ。
「ぴろちゃん、か……」
奥田の推しだったらしい「ぴろ」のプロフィールと、遺留品である免許証を交互に見つめ、西島は思いつく限りのパスワードを入力していく。一日に何度も起動させること、絶対に忘れない、その両方を満たす文字列は、それほど長いものではないはずだ。
『pirone61』
西島がエンターキーを弾くと、画面が一瞬白くなったのちに、デスクトップが表示された。嬉しそうに笑う西島の肩を力強く叩き、脇本は声を張り上げる。
「飛鷹くん、守屋さん、いま来られる? 西島くんがパソコンのロックを解除してくれたの。きっとここに手がかりがあるはずだわ」
脇本が呼ぶと、飛鷹と守屋は慌てて鑑識との会話を終え、寝室へと駆け込んできた。パソコンのブラウザで改めて店舗のホームページを表示するが、流行に疎い守屋には理解が追い付かず、しきりに首を傾げている。
「この『ぴろちゃん』て子が、奥田さんが入れ込んでいた推しのようですね」
なぜか得意気に言う西島の横をすり抜け、飛鷹が顔をしかめながらメモの写真を撮っている。その数およそ数百枚、大小あらゆるサイズの紙やカードすべてに、推しへの言葉が書き記されている。
「飛鷹くん、西島くん、現場は私たちに任せて」
「では私と西島は、『ぴろちゃん』が勤務するこの店に向かいますので、ここはお願いします」
飛鷹が先に玄関を出ていくと、焦った西島は、シューズカバーをつけたまま廊下へ出ようとし、脇本に注意された。
「すっ、すみません。じゃあ現場はよろしくお願いします!」
脇本と守屋、そして鑑識に頭を下げ、西島は飛鷹の後を追う。パソコンの画面に映し出された「ぴろちゃん」の笑顔に、脇本はどことなく陰を感じていた。
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