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自分のこと12 母の話

これの続き

母の話を書くと長そうだなぁ。寝そう。
今の企業を辞めるにあたっては、自死する前に書かないといけないなではあるのですけどね。

さて書いていきましょう。
母は父と比べれば貧乏ぐらしをしていたそうです。
父は食べ物とか人脈に困ったことは無いと聞いていますが、母はちょっと入り組んでいて
物心がつく前に祖父(実父)と祖母(実母)が離婚しており、シングルマザーだったようです。
女手ひとつで育てたと言うと美談に聞こえますが、最終的にはきな臭くなるのでご注意。

兎にも角にも、朝起きたら既に母は働きに出ていて、夜従姉のところで寝た自分を迎えに来るのも深夜だったそうで、実の母と接した機会があまり無い幼少期だったと聞いています。
なので、家族の在り方みたいなものがイマイチぴんとこないと。まあそりゃそうだね。

聞けば応えるし、あの時代はこうだったよみたいな話はしますから、「売れ残った魚の始末は、母さん(祖母)と兄さん(伯父)と私(母)でやっていて、山盛り3皿の魚をノルマにされたりして大変だった」とか、「家に帰っても誰も居ないのが寂しいから、だいたい毎日従姉の家に居させてもらって、それが分かってる母(祖母)が寝てる私を背負って帰っていたとは聞いてる」そうです。
この時の「家に帰っても誰も居ない」が、後々の「帰ったら誰かの居る家にしたかった」という母の想いに起因するそうです。

で、母には兄が居ます。
交流はあまり盛んではなかったですが、私も伯父家族とはそこそこ面識があるので、奥さん冷たいなくらいで、従姉二人(似てる)ともよく話をしました。
この頃から双子の見分けが出来てたのかもしれませんね、双子キャラの「見分けて欲しい」で躓いたことあまりない。

話を戻して
兄(伯父)はたいそう頭脳明晰だったそうです。
対して母はズボラだし成績もよくないし虐められてもいた。従姉(伯母)がいたからあまり気にしていないそうで、話を聞いたことはあまりないし、こどものイタズラレベル(スカート捲りとか)だったので、今の陰湿ないじめではなかったのよと。
けどもまあ兄妹に差があり過ぎたためか、家が貧乏だからか、実母(祖母)に一度「あんたのことは愛してない」とか、期待されていない態度をされてきたから、確執は根深かったようです。
親が言っちゃいけないよなそんな言葉。

従姉宅(伯母家庭)が事実上の実家のようで、従姉の両親や祖母からはよくしてもらったので、そちらで何とかはなっていたそうですが、確執が消える訳では無いまま大きくなり、中学くらいで実父(祖父)が再婚したそうです。

母いわく「全く意味がわからなかった。」そうです。

物心つく前に離婚しておいて、のうのうと再び自分の父として籍を入れた。同じ女と結婚したわけですね。
父などいない環境で育ち、まだ片親であることを馬鹿にされる時代で(私の同級生にも片親の子が居たので、そこは気をつけるようにじっくり話をされています)、寂しい思いもしたし、なんなら母に否定されまでしたのに、今更帰ってくる父。
「父親だと思うことが出来なかった」と聞いています。

そんなですから、結婚に対して「悪くはなかった」というのは、その家から離縁する口実として良かっただけというのもあったそうです。
苗字を捨てたかった。
家から出て行きたかった。
だから結婚した。
そんな感じらしいですね。

さて最初の頃は普通に働いていたそうです。
とは言っても、1人目(長男)が片目を失ってしまったことを酷く思い詰め、2人で死のうとしたとも聞きましたが、当時の看護婦(まだ看護婦の時代です)が、産後の肥立ちも悪く、精神的に不安定な母親に理解があったようで、「それはその子のためではないよ。つらいと思うけど」と話を聞いたり、説得したり、根気強く付き合ってくれたから、止めたと聞いています。詳細は聞いてないけど。

立ち直り、一児の母になりました。
しかし長男ときたら奇っ怪な話ばかりが多く、やれ一瞬目を離した隙に配達ドライバーさんの席に乗ってしまっていたり、やれ夕方になっても帰ってこないから探し回ったら近所のじい様ばあ様のお宅で飯食ってたとか、やれ勝手に倉庫に入って勝手に太鼓を叩いて近所が「またかー。」ってなったりしていたそうで。
一番手がかかったと聞いてますね。
1人目が女の子がいい理由わかる気がするとか言ってましたね。

さて次男くんを産みます。
特筆して問題は無いのですが、「物分りのいい時と、やけに静かな時は、絶対に何かを企んでいる」だったそうで、兄弟揃ってやんちゃだったようですね。まあ子どもは元気なくらいがいいと、説教とかはしたけど体罰は……。尻叩きくらいだったそうですね。
私が「なんでお尻しか叩かないのか?」と聞いたら、「お尻は脂肪で厚く守られていて、かつ、大事な臓器とかが少ないから」「頭は脳もあるし、傷付けたらいけない場所。聞いた話だけど、頭を叩くと馬鹿になる(※たぶん脳細胞が死滅して減るが証明されてないけど人類気付いてた)」とか、「そもそも頭を殴るのは親としておかしい」とか聞いたかな。

次男くんに関しては、ケバケバしい女性教師のせいでクラスの3分の2が不登校になった時の話とか、無口だけど頭がいいので、世話が好きな長男をパシリにしてたとかは聞いたことがありますが、まあそのくらいですか。
1番やらかしたのは煙草を食べてしまって、救急搬送した時に肝が冷えた時だそうです。
子どもはなんでも口にするね。恐ろしい話だ。

さて最後に私を産みます。
医師に「死にます」宣告を受けた時ですね。
あまり悩まなかったそうで、母体(自分)が死んでも産みますと言ったようですが
味方は従姉(伯母)と夫(父)だけだったそうです。
みんなからそれはもうブーイングを受けたそうです。

しかしまあ悪運がある方らしいので生き残りました。ただし障害者にはなりました。
障害の病気自体は、移植をしたら治る可能性が無くはないらしかったのですが、成功率が極めて低いため、手術も高いし、何より『親から貰った体を刻みたくはない』という理由で、障害者として生きていくことにしたそうです。

並べてみると不可思議ですよね。
自分を愛さないと断言した母。
なんのつもりか復縁した父。
義理立てる理由のない両親です。
それでも、母にとっては、『親から貰った体』なのです。
障害の都合、不治の病なので、人より死に近い場所にいる母は、「ドナー登録しない。家族の許可も一切許さない。五体満足のまま死なせて欲しい」と言っていました。

さてそんな母、PTA免除でキィキィうるさい親御さんの不満を聞き流しながら、長男くんのことはよく気を揉んで居ました。
受験はしてもいいが入学は拒否する(要するに金の無駄)という学校の主張があり、直談判で怒りに行ったりしたそうです。そりゃそうだ。
長男くんは大層頭が良いです。自慢の兄です。(←)
しかし、「障害者だから」という理由だけで却下される時代。兄本人も落ち込んでいたように見えたそうなので、母は固く「長男に相応しい学校を見付ける」と誓っていました。
まあ最優先されるのは兄本人の意向ですが、兄が通いたいなら、親として全力を尽くすのだと。

当時はまだモンスターペアレントなんて言葉がなかったので、「お母さん過保護じゃないですか?」と心無いことも言われたそうですが、「我が子のことで尽力しない親がどこにいる?」と突っぱねたそうです。

さて話が私軸に戻ります。
幼少期は母が朝ごはんを作る時にたてる、まな板の音で目を覚ましていました。私の部屋の真隣がキッチンだったので。
小さい頃は兄にいじめられて泣きついたり、喧嘩してない時は兄と一緒にコロッケ作るの手伝ったり、そこそこの触れ合いはありました。

小学校の時などはお弁当を作るのが大変だったそうで(50個つくったおにぎりを長男が全部平らげたとかで)、あれでしたが
母も知らず知らず、私の、虐待家庭の友人(お弁当なんかない)を誘って食べるなどしていました。
まともなご飯が感動だったのか、卵焼き上手いんだね、おにぎり美味しいねと、一生懸命食べていましたね。2回目ですが、お弁当なんかない子なので。

透析とかいうフルマラソンみたいなものを終えて、帰宅が夜になる時は、私と父で迎えに行きました。
バレバレですが驚かそうとしたりしてました。
子どもがやることはお見通しですよね、すぐわかる。

最初の頃は、日曜参観なども、最後の五分くらいだけ来るとかしていました。
障害者の都合、45分も見るのはつらいそうで、まあそれは仕方ないかなと思っていました。
ただ、段々と来なくなる。理由はいつも障害。
もちろんそれは分かるのですが、悪びれもせず「しんどいんだから仕方ないじゃない」みたいになっていきました。
そのうち、入学式も卒業式も来なくなりました。しんどいからです。
確かにどのくらいしんどいかは分からないけど、一つ覚えのように、反論の余地のない言葉で「行かない」と言われて、悲しくなかったわけではなかった。
なので、高校の文化祭1回と、大学の卒業式だけは、我儘を押し通して来てもらいました。

大学の卒業式というと、もうこの先に入学式も卒業式もありません。本当に最後です。
それくらいは、見て欲しかった。

時系列がちょっとぐちゃぐちゃしますが
母が障害者であることと、私が25歳になるまでには死ぬという話は、就学前に聞いていました。まあまだ生きてるので悪運は本物ですよね。(←34歳)
幼心に怖いと思わなかったといえば全くの嘘になりますが、その時に私が思ったのは、「わたしを産んだことが間違ってなかったんだと証明しよう」という感情です。
そこから始まったかもしれないアダルトチルドレン。

母にかけられる負の感情をすげ替えたり。
母ときたら私に向かって「早く死にたい」とか言いやがりましたので、メンタルケアも小学校時代から学びました。早すぎるわね。
負担が少なくなるように、食事の準備を手伝うなどしたのですが、それが却って不満になってしまい、「手伝おうか?」と聞くと「いいよ、ありがとう」と言うくせ、ではやることがないので部屋に戻りますとなると「気が利かない」「役に立たない」など、矛盾した言動を繰り返しました。
なんなら「私より健康なんだからやりなさいよ!!」みたいな、障害者労れ言動が増えました。
労るのは構わないのですが、比べないで欲しい。
私とてもしかしたら既に慢性疲労症候群だったかもしれない体で、色々暗躍している都合、余裕はなかった。そこに「あんたより私の方が大変なんだから」という正論の暴力。
私がいくら疲れていようが、体調が悪かろうが、「私よりは軽いでしょ」。もう反論する元気もありません。

23歳になって漸く「薬害でストレス溜まってたかもしれない」と判明しましたが、小さい頃の私にそんなものがわかるわけもなく、単純に傷付きました。
だって親から「役立たず」ですよ。傷つかないほど鋼のメンタルしてなかったよ。

ただただ、「私がまだ子どもだから分からないんだ」「大きくなったら分かることなんだ」と、自分が無知だから母の八つ当たりを理解できないのだと、ある種の正当化をしていました。

そりゃまあ確かに、私が「家から出ていってやる!」って無謀なことを言った時に関与していたのはいつも母だったので、何かしらやらかしてしまう母ではありました。
けれど、母親としての愛情を貰わなかったわけではない。


彼女はただ、『母親』という役が、理解出来ていなかった。



親に否定されながらも、親を一心に愛し、死にたいなと思う度に飛び降りそうになる私の足には、見えない枷がありました。
『私が死んだら親が泣くのは間違いないんだよな』
それを呪いだと言うなら、私はもう生きていないでしょう。親という足枷が無いなら、死んでいたので。みんなよくよく誤解してくれますけどね。


この足枷が、私を繋ぎとめたのです。
メルスト民には、意味がわかるかもしれませんね。


小学校の時にいじめにあっていた時分、間違った言葉を言ってしまったのも母でしたね。
精一杯の味方する発言のつもりだったのでしょうが、私自身が弄れてしまっていたため、人間なんて信じてもな……の第1歩になってしまったのはあります。全部ではない。
小学校高学年には「いい加減、親の部屋に行くとかちょっと迷惑というか親が心配に絶えないことから自立しよう」と決めて自室で寝るようになりましたが、すごいですよね悪夢しか見ないの。
起きても悪夢、寝ても悪夢、いつしか私の枕は涙を吸いきってズタズタでした。誰も知らないけどね。
幻視で死ぬのも決まって母。

父の話のところで書きそびれましたが、母はペットを飼うのは割と反対派でした。父もそれを分かっていました。
けども、父方の猫が産んだこの中にイレギュラーが1匹混ざっていて、一目惚れした私が悩んでいたら、「電話せずに連れて帰ればいい」となかなか姑息な手を使いました。
母も反対自体はしましたが、父のお茶目だなとは分かったようで、いくらかの条件をつけて許可されたことがあります。
それが「命を持つものを飼う責任」です。

そうやって色々なことがありつつ、成人したので就職となるわけですが
就職の条件も、母の都合に合うようにパートを選びました。要支援くらいだったかな。
けどまあ母がそれに気付くかというと気付かないし、次男などはニートを見るような視線を向けてましたね。やかましい視線だなUVみたいにカットできんのか。

その間にも、生き甲斐があまりない母に、何か楽しみにできるものをと都度探し、提供して、結局は周りから浴びせられる不満を衝立になって避けさせながら生きてきました。
生け花の家ですから花が好きで、私が分からないと言えば応えるし、父の説教が意味不明な時の翻訳になったり、悩んだ時は話を聞いてくれました。まあ本当に「聞いた」だけですけど。頷くだけというのかな。
傷付けてる意識はさっぱり無いんですけど、「母さんはどんな時でも味方だから」は崩したことがありませんね。
彼女なりに母親をしようとはしていたのでしょう。

けれども難聴になり、父の不満も更に箍がはずれて多くなり、要支援は要介護になり、もういよいよターミナルケアじゃん感になってきました。
それに対してやることは変わらないけど、他人の裏切りを経験しすぎたもので、もう台所に立つとかは出来ず、日がな暇になる母に一日何回か会いに行くくらいしか出来なくなりました。
でもまあ、子の独立を見届けたいと願いながら、どこかで「あんたは私から離れていかないよね?」といった依存心は見え隠れしてました。

そんな日々、メンタルが崩れてる私に、母は否定の言葉を何度も言った。そこで私の心は粉々です。
そのくせ、自分が傷付きました感が強くて、傷付けられた側の私に配慮しろと言ってくる父にも辟易しました。どの揉め事もいつも加害者がパニクってこうなるんだよな。疲れるよなぁ……。

今は少しは落ち着いたのか、話はできますが
肝心な話だけはいつも出来ない。
帰りたいって言わせてくれない。

不誠実な態度をして、現実的に私の両親に迷惑をかけたらしい母方の両親を、彼女は毛嫌いしています。伯父もです。絶縁しています。死んだ時にしかもう会うことはありません。

けど、昔の話をしている時の迷うような顔も。
危篤の母(祖母)に手を伸ばした時も。
私が書いた小説の感想が「(親を)許せなかった私は、ダメなの?」だったことも。
彼女の中に燻ったまま残る、愛して欲しかったという念。愛したかったという悲しみ。

それを繰り返したくないから、私がメンタル粉々になった今でもどうにかしよう、どうにかしようとしているの、そろそろ気付いて欲しい。無理なんだろうけどね。
それでもやるよ。

あなたが私を産んだのは、間違ってなどいなかったのだから。
「悪くない人生だった」と思ってほしいの、就学前からずっと変わらない。

しちゃいけないことも、たくさんしてきただろう。
それを私が許す道理はないかもしれない。
でも、私はそれを丸ごと持っていく。
そうすれば、悲しみの連鎖はここで終わる。

終わりにしよう。
だからこそ、いい加減話をしよう。

あなたはもう実母とはやり直せないけど。
娘(私)とは、やり直せるんだから。
私が、折れてしまわない限りは。
私とやり直すことで、実母との悲しみも終わらせてしまおう。
不可能じゃないよ。私が生きている限りは。

こころの確執は、取り除いてから、旅立って欲しいんだよ。
それだけが、私が34年もあなたを愛し続けてきた理由なのだから。

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