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自分のこと3 19歳~24歳

これの続き

大学時代は特筆することあんまないですが。
小学生から高校生までいじめにあってましたから、母には2週間ほど友人の心配をさせたかなと思います。
まあ「頑張って!」で私からの信頼を失ってるので非常にどうでもよく。おひとりさまもこの頃は普通だったし。
何より「クラス」というものがないため(一番多い学科だったから入り切る講義室は数えられる)、グループになる意義はあまり感じませんでした。

ただ、ここで今も交流のある友人Aが突然声掛けてきたんですよ。本人忘れてるけど。
大体講義室は一番乗りで、講師の真ん前じゃないけど黒板…違うなホワイトボードか。が見えやすい所にはいました。近眼……いや私は弱視だったかな?なので。
誰もいない講義室!さみしい!あっ人が居る!みたいな感じで「隣いい!?」って来ました。思ったことしか言わないタイプだなぁと思いながら「はぁ。どうぞ」って返しました。後々に友人Bが来ます。ギリギリがいい派なので来るのが結構遅いですね。

その後も、一緒になったり散らばったりしてましたが、体育を境にグループになりました。
友人Dも居るので4人と言えなくはないけど、Dは単独行動もよくするタイプだったので、私らを見つけて気が向いたら寄ってくるくらいでした。

一年生は高校が福祉だったのもあり、おさらいしてるだけだな感がありましたが
高校の下地がない人にはやっぱり苦しいらしく。90分だもんな。友人ABはよく頭がショートしてました。「お前なんで涼しい顔しとるん…」と言われましたが、高校で習ったから…としか答えようがない。

高校が同じだった先輩が同じ大学におり、同級生も数人進学しました。こちらは三十路までは友人関係のまんまでした。後述。(いつかな…)
まあ当時はべらぼうに仲がいいですから、「〇〇って講義はしんどいから、覚悟した方がいいよ!」とか色々聞きました。ほー。

わたし的には教材代を渋る母の方がしんどかったかな。
福祉って医療書の分類だから1冊1冊が高いし、冊数も多いんですよね。
教材買うから4万くれみたいな話になったりするわけですが、「教材にそんなにかかるの?サバ読んでない?」
お前は娘に金をネコババする教育したのか。

まあそんなでちょっとした苦労はしたし、人間関係を良好に紡いできたようで拗らせてる私には、「講義がつらい」という先輩のアドバイスより、「グループワークするのがつらい」が勝ちました。
取材班なので取材行くんですけど、私の自転車パンクしてたのか、単にもう慢性疲労症候群で体力が無理だったのか、すごく迷惑かけたし。
グループワークのために他人の家に泊まり込みって言われて湧き上がる恐怖もさながら、「手伝います」って言っても、取材班だからなのかな「いいよ、休んでて。」……。帰りたい(血の気が引く)

深夜上がりも増えて、「深夜に電車で帰るのはダメ!迎えに行くから!!電話して!!」と断固として譲らない父でしたので、迎えの電話入れてると、「箱入り娘かw」って言われたり。
うんまあ否定はしないね。
高校で1年だけ無理をして、精勤賞?皆勤賞の次のやつ。手に入れて狂喜乱舞してましたけど、他はどう頑張っても月に2週間ほどは休んでいる。
無理に無理を重ねて手に入れた精勤賞です。
箱入り(家から出ない)娘ですね。違いねえ。

ただ、この時にあったことといえば
この講義、本当に皆からしたらつらかったらしく、講師から容赦なくダメ出しをされ、挙句前日に「最初からやり直せ」と言われました。
さすがにあんまりだとリーダーは嘆願しましたが、講師は正論を言っている。暴力的ではない、教育的だけど、だからこそデカイダメージがあったらしく、私の班は私以外が全員泣いてしまいました。

私以外が()

講師と補佐の人も、前日白紙は心痛むものがあるでしょうが、発表していいレベルではないのは理解出来る。
なんであなただけ泣かないの?と聞かれましたが、講師が言っていることは合っています。とか単調に返して、精神が鋼だとか言われました。
鋼鉄メンタルだったか。

まあこのままにしててもお通夜ですし、発表まで24時間もありません。正直な話10時間あるかなくらいです
各班の集めた資料、取材、纏め方をざっと見直して、まずリーダーを慰めました。
泣いてないの私だけだったし。
1に、情報は既に揃っていること。
2に、講師が何を求めてダメだと言ったのかを質問すること。これは私も手伝ったかな。
3に、10時間あれば、下地自体があるのだから、間に合うこと。
要は、希望がまだある(徹夜すれば)と説きます。
リーダーはハイポジティブの陽キャです。
みんなを引っ張る力はある。今ひざをついてるだけ。
私は引っ張る役割には向かないけど、サポートには向いている。サブリーダー気質なんですよね昔から。
高校の時に学級委員長しましたが、副委員長と仕事が逆でした。副委員長は大層な肩書きは欲しくないが雑務は嫌いなリーダー気質で、私は肩書きどうでもいいが目立つのは嫌いなサポート気質だったので。利害の一致ですね。

やっと涙を拭いたリーダーが、「巻き返すぞ!!」と言ったので、うちの班は立ち直りました。
講師と補佐の人も安心したようでした。
心が折れたままになる班も、多く見てきたそうです。あとから聞いた。
鋼のメンタル混じってて良かったと言われました。まあなんか役に立ったなら幸いですが。

そして10時間ギリギリ使い、マジで完成させました。やべー。
同班内もABCで分かれていましたが、垣根など要らないとにかくつくる。
心が折れずに講師に確認とったのが私だったので、指針だけは私の指示になりましたが、あとはみんなの独力です。ただ、徹夜組はフラフラだったので、仮眠は取れてた私がちょいちょい出張りました。
休んでていいよってまた言われたので…() お荷物かな。

発表がきちんと終わりました。
ちなみに内容は高次脳機能障害(当時名)について。
発音の仕方まできちんと直しましたよ。
やあやっと終わりましたねとエンドロール流れてる時に、なんかみんながブッて笑うので、何があった?と思ってスクリーン見たら
「自転車で頑張ってくれた〇〇さん(私)」

チョイスそこなのかな?!?!


あとはまあ普通に大学生活してたかなと思います。
ゼミ長が私の思考パターンぶち壊したのもここ。
サークルの宣伝絵にA1くらいの特大サイズの紙渡されて、徹夜で着色したのもこの頃。
A1に対して色鉛筆ですよ面積考えて()
しかし後輩が「永久保存します!!」とかいって細工したのもこのへん。
生命倫理学で「重症心身障害者が生きることについて記しなさい」もこのへん。
精神福祉学で狂気に見舞われたのも、発達心理学で錯乱しかけたのもこの時期です。

そういえば、発達心理学だったかは忘れましたが
「足の指が1本だけ動かせる重症心身障害がいるとします。その人は食べたいものがあります。どうやって知りますか?」という講義がありました。
みんな真剣には考えますが、「野菜?」『いいえ』「海鮮?」『はい』「海鮮か。貝?」『いいえ』「魚?」『はい』「魚めっちゃいるんだけど」で難航している中、ふと

わたし、高校の時に、授業の一環で「1リットルの涙」を見ていたので
講師が時間的に無理かなと切り上げそうになった直前に「すみません。最後にひとつ試しても?」といい、「あなたの食べたいものは、1文字目がアの段ですか」『はい』「アですか?」『はい』「では2文字目、アの段ですか?」『いいえ』「サの段ですか?」『はい』
ここまでで打ち切りになりました。時間も時間だったし、もう答えが見えてるからです。

講師いわく、「工夫すれば意思疎通は出来ます」。
そのためのコマだったそうです。
もちろんそれはひとつの解として正しいですが、32歳の私と70の父には、「工夫しても意思疎通は出来ません」も現実問題横たわりました。
健常者の方が話聞かないもんなぁ。

初代車椅子(もうアンティーク)とかも見たし
実習落ちたし(前書いた)
一年留年して
社会福祉士国家試験はあと6点足りなかった()
前年が問題点だらけで合格者が多かったそうなので、実習落ちてなければ私も資格保有者だったかもしれません。知らんけど。
やっぱりノー勉教では無理ですね。
友達と参考書捲ってればかなりの得点出たでしょうね。ゼミ担にはすまないことをした…。

ただまあ、ヘルパーの資格は保有していたので、特には困りませんでした。
ヘルパー実習の時には、職員にめっちゃ気にいられたりしてました。どんな些末な出来事でも、経験は礎、私としては当然でしたが…??
その企業様とは今もたまにやり取りします。会話程度に。

留年してた1年は、基本的にノートテイクと心理学講義の全取りをしてました()
ノートテイクがまだ有名ではない頃で、学生ボランティアだったんですが、難聴の学生より学年が上の同学科は私しか居なかったんですね。
同じ学年の同学科はシフト合わせが難しいし、他学科が聞いたら意味のわからない法律をガンガン言われてオーバーヒートしてて可哀想でした。
講師もそれを気にしてゆっくり喋ってましたが、私がいると見るや「ヨシ!」みたいな顔してめっちゃ喋るんですよね。
いや構わないけどね相方が言語聴覚学科だからそこは…ああうん頑張ります習ってるもんね私はね。

あとは卒論かな。
小中の図書館の蔵書を殆ど読み尽くしている私ですが(高校は空いてる日が少なかった)、県立図書館の半分くらいの規模がある大学の図書を読み切るのはさすがにしんどい無理がある。
けど卒論だけでも200冊は目を通しました。

コケにされた実習と、配慮して頂いた実習。
ヘルパー実習。
小学生の院内学級訪問。
中学生の養護学校(当時名)への職場体験。
高校生のボランティア活動(障害分野)。

そして何より
私の最愛の兄(長男)。

私が大学生ですからね、兄貴もいい歳したおっさんです。でも「俺は障害者だから」と言って結婚したがらないんです。なんなら彼女すらつくりませんね。
仕事忙しいとかもちろんあるだろうけど、「障害者だから」が全てのように聞こえて、それがどうしても気になって仕方なかった。
当時のゼミ長にも「実現可能だと思いますか?」と聞かれるくらいです。荒唐無稽な夢だったかもしれません。それでも私は、それを書きたかった。

みんなは「文字数が足りない」と躍起になってましたが、私は文字数オーバーと戦ってました。
根拠や論説、仮定と未来、理想と過程。
足 り る か ァ www

下地の作成は余裕を持って終わりましたので、留年してなければ苦もなく卒業したでしょう。
ただ、「この論文、足りない。」という気持ち悪さは残ったかな。
気持ち悪さは、留年中になんとか見つけ出しました。

周りが変われば障害者が変われる、なんてわけはないんです。兄がそうじゃん。
うちに長男を迫害する人間はいませんし、職場にだっていません。それでも兄貴は「俺は障害者だから」と言うんです。
「障害者が『自分も変わりたいな』と思える」未来像が、そんな自由が当然のように存在する未来像が、卒論に欠けていた。


あとはそうね
母が薬害で八つ当たりしてたのを知ったのもこのくらいですし、医療の大学ですから資料館に嚢胞腎の資料がありました。写真で。
なかなかえぐかった。
腎臓の形が残ってない。ボコボコだ。

後輩に卒業式に配られるパンフあげたのもこのくらいの時期。
難聴の子の卒業式でマシンガン感謝されたのもこのくらい。

あぁ、あと
保健室組の子と過ごしてたのもこのくらいですね。

今までいじめが酷かったらしくて。
誰かに排除される訳じゃなくても、講義室に入れないと言いながら、入りたいと毎回頑張っていました。
無理をしてもよくないからと、保健室の先生には15分くらいで止められそうになりましたが
私が「あと10分。粘って無理なら連れて帰りますから」と言ったのもこの時だったかな。
結果的には、入れませんでしたが
「25分も挑戦できたんだ、私」と言ってるのを見て、少しずつ前に行くのを見てました。

たまに私と一緒に入るだったり。
入るだけなら私別に制限されてないですからね、講義は取得できないけど。
少しずつ前に行くその子を見て、こころのありかたについてはよく考えていました。

無理だから諦めるのかな。
確かに傷つかないけど。
自信もなくなっていくんだよな。


あとこの時期にあんトレ欲しかったな。
健体の子がやさぐれすぎてて無視されてたので資料見つからなかったけど、障害と運動には目をつけていました。
正しく言うなら脳科学と運動の相関でしょうか。


さて、とはいえ大学生ともおさらばです。
就職活動をし始め、漸く母校の肩書きが強いことを知りました。引く手数多。
それはもう好条件を出して、何がなんでも私を引き抜きたいみたいなとこは多かった。

けど、どこもダメだった。
受からないんじゃないんですよ。むしろ受かりはする。
利用者への接し方が、どこも気に入らないのです。

相手は人間です。
回転寿司ではありません。わかる?
ひとにはこころがあります。
こころに寄り添わないやり方、気に入らない。
こっちからお断りです。

あと、就活する前からちみっと考えていましたが、社会福祉士って一般企業でも通用するんです。資格じゃなくて、考え方が。

私がこのまま福祉畑を進むのは簡単だろう。
なんの支障もなく生活相談員になれるまでの年月を重ねれるだろう。
でも実習中に思ったことがある。

福祉一辺倒で来た人ほど、柔軟じゃない。

利用者さんの苦しみを理解できない若造が。
お綺麗なご高説垂れて。
利用者さんは納得できるか?

それくらいなら、我が身を投じて苦しんできた方が、より分かるのでは?

福祉の道と、福祉以外の道を両方見たい。
あと、リアルタイムな話、母がそろそろ要支援だったので、家族に時間を使いたい。
Wワークの時期に突っ込んでいきます。

就職先は選びに選んで、蹴り飛ばしまくって、卒業後2ヶ月かかりましたが見付けました。


疲れたので分割_(┐「ε:)_フー

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