見出し画像

聖書の山シリーズ10 惑わしと滅亡の地 ソドム山

タイトル画像:By Wilson44691 - Own work, CC BY-SA 3.0,

2022年9月25日 礼拝

聖書箇所 創世記19章


創世記
19:22 急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。
19:23 太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。
19:24 そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、
19:25 これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。
19:26 ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。
19:27 翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。
19:28 彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。
19:29 こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。

ソドム山について


ロトの妻と言われている岩

ソドム山(ヘブライ語: ハル セドム) は、イスラエルのユダヤ砂漠自然保護区内にある死海の南西部に沿った丘です。その名の由来は、神によって滅ぼされた町ソドムからきています。地学的には、ソドム山は、数十万年前に隆起を始め、年間 3.5 mm の速度で隆起し続けているそうです。

大地溝帯の動きと、土と岩のゆっくりとした堆積によって生じた圧力が、塩の層を押し下げ、ソドム山を作り出したと考えられています。ソドム山は、約80%が塩でできており、高さが220mあり、谷底から押し上げられた石灰岩、粘土、礫岩の層で覆われているそうです。

ソドム山の距離は、南北方向に約 8 キロメートル 、東西方向に幅 5 キロメートル の丘陵地です。死海の水面から226 メートル あり、死海から見た場合、立派な山に見えますが、死海の位置が、海面400メートルほどにありますので、ソドム山自体は、標高マイナス 170 メートル ということになります。そう考えますと、死海がいかに低い場所に存在するかということになります。
地形は、風化により、地層が剥がれています。風化作用から残された岩や岩の柱となっているそうですが、これらの柱の 1 つは、聖書の記事から取られて「ロトの妻」として知られています。


ソドム


ソドムとゴモラとは、旧約聖書の「創世記」に出てくる町の名前です。神に対して多くの罪を犯したとされるこの二つの町は、キリスト教では退廃の代名詞としてよく知られます。

ソドムは、カナン人の町でした(創10:19)。創世記の記事によれば、カナン人の領土は、現在のレバノンから死海に至る地域を支配していたようです。

ソドムは、創世記14章2節によれば、

とあります。これらの王たちは、「シディムの谷」の王たちです。シディムの谷は、創世記 14:3で紹介されておりますが、

シディムは死海の南端に位置すると考えられており、聖書の記述によれば、ヨルダン平原の都市が神の火と硫黄によって破壊された結果、シディムが死海になったと示唆しています。その滅亡は神のさばきを象徴するものとして聖書に数多く示されています。
(創19章,申29:23,イザ1:9,エレ49:18,ルカ17:29,Ⅱペテ2:6)

ところが、創14:2に記されている、5つの町(ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイム、ベラすなわちツォアル)の遺跡は未発見で、その位置については知られていません。その理由は、死海南部にあるエル・リサン半島の南方湖底に水没しているそうです。湖と厚く堆積した塩の層によって、発掘が困難であるのが理由ということです。

死海南端近くの西岸に沿って「ジェベル・ウスドゥム」(ソドムの山)と呼ばれる岩塩の山があり、それがソドムの位置を示していると伝えられています。エル・リサン半島の南東、死海から約8キロの所にある「バブ・エド・ドラ」という遺跡が発掘されましたが、ここをソドムとする説があります。一方、「ヨルダンの低地」(創13:10)を死海北部にとする説もあり、東方の諸王の進軍の状況(創14:7)などから、ソドムおよび他のシディムの谷を死海南部とするのは困難であるとの見解もあります。

不道徳のソドムとゴモラ


創世記19章によれば、ソドムとゴモラは、神の怒りに触れて滅ぼされました。しかし、ソドムに住んでいたアブラハムの甥ロトと二人の娘だけは、事前に神からこの二つの街を滅ぼすことを告げられ救われます。

預言者アブラハムの甥のロトは、信仰の父とも呼ばれているアブラハムとともに、カルデヤ人のウル(現在のイラク)を出て、神の約束した土地カナンの地を目指す旅をしました。アブラハムとロトの一族は、神の示すままに旅をし、ヨルダン川流域にたどり着きました。
ところが、到着した土地は狭く、牧畜をしていたアブラハムの牧童とロトの牧童との間で牧草を巡る争いが起きたので、アブラハムはロトに分かれて住むことを提案します。ロトは水が豊富かつ、牧草がよく生い茂るヨルダン川流域の低地に(創13:10)、一方、アブラハムは岩と荒野が目立つカナンの地にに別れて暮らすことにしました(創13:12)。ロトはその後、低地を離れてソドムに移住しました(創13:12)。

ソドムとゴモラは、ロトが移住する以前から、神が喜ばない不道徳がはびこる町でした。

その不道徳とは、いかなるものであったのかは、詳しく聖書には記されてはいないのですが、NKJV訳を見ますと、exceedingly wicked and sinfulと記されています。直訳すれば、『極めて不道徳で、罪深い』と訳せますが、

wickedを『不道徳』と訳す他に、『意地が悪い、耐えられない、不快な、吐きそうな』という意味がありますから、意訳すれば、『極めて見るに堪えない、おぞましい罪深さ』がソドムとゴモラには存在していたということになります。それを裏付けるかのように、創世記19章5節を読みますと次のように記されています。

ロトを危機から救い出そうと計画した神は、ソドムの町に二人の天使を遣わします。遣わされた天使たちを見たソドムの男たちは、ロトの家を訪問した二人の天使を家から出せとロトに要求します。その時の会話が、5節に記されています。日本語ですと、『彼らをよく知りたいのだ。』と書かれていますが、NKJV訳ですと we may know carnally.と記されています。直訳しますと『彼らを肉体的な方法で知りたい。』という意味になりますから、ソドムの男たちは、二人の天使と性的に寝たいという申し出でした。

町民の申し出に対してロトは、天使を差し出すことを拒み、交換条件として男を知らない二人の娘を提案します。

こうした、ソドムの人の姿を見ますと、性的に不埒であったようです。神から遣わされた天使を前に、伏し拝むどころか、性的に弄ぼうとしていたということです。ロトの家に駆けつけ、天使を性的な暴行を加えようとしていた群衆に対して、天使は閃光を浴びせ、目つぶしを喰らわせます。

天使たちはロト一家を救うため、ロトと妻、二人の娘の手をつかみ、ソドムの町から家族を連れ出します。そこから近くのツォアルの町までロトが逃げてから、神は天から硫黄の火を降らして、ソドムとゴモラを滅ぼしました。

ところが、ソドムから逃げ出したロト一家でしたが、神が「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。」と告げたにもかかわらず、ロトの妻は後ろを振り返ったため塩の柱になってしまったといいます。

神を捨てた末


こうして、ロトと娘たちは、ソドムとゴモラの滅亡から守られましたが、ソドムの悪い文化の影響もあったことで、ソドムの町が滅ぼされたことを悲観した娘たちは、子孫が残せないことを恐れ、父であるロトを酒で酔わせて交わることにします。娘たちの計画は成功し、男の子を一人ずつ授かりました。結果的にロトの家族は、近親相姦を行うということになってしまいました。近親相姦や同性愛がなかば普通であったように考えられる、堕落したソドムとゴモラの悪い影響を受けたことによるものだと考えられますが、ロトの家族は不幸な結果を招きました。長女の息子は「モアブ」、次女の息子は「ベン・アミ」と名付けられ、それぞれモアブ人の祖、アンモン人の祖先となります。この後、アブラハムの子孫であるユダヤ人と激しく敵対するという関係になっていきます。

こうして、ソドム山について見ていきましたが、もともとは、緑あふれる豊かな土地であったことを聖書は示しています。アブラハムとロトは、神の約束の地を目指してここまで旅をしてきましたが、ひょっとすると、アブラハムもロトも今の死海付近を眺めた際、ソドムとゴモラの地を受け継ぐべき土地として考えていたかも知れません。まさに、ソドムとゴモラは乳と蜜の流れる地にふさわしく豊かな土地でした。ロトは、状況を見た時に、まさに受け継ぐべき土地はここであると直感したに違いありません。

誰が、その後のソドムとゴモラを想像し得たでしょうか。アブラハムですら、こうした天変地異はわからなかったようです。
天使がロトの前に現れて、ソドムとゴモラの滅亡を伝え、身内の者に逃げるように、ロトに告げましたが、

14節に見られるように、『彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。』とありました。こうした思いは、当のロトもそうであって、ロト自身もソドム脱出をためらっていました。

安楽に向かう私たち

どんなに危機が及んでいると知らされていても、人間はすぐに行動を変えようとしないものです。人間は教えられても、それを納得し、準備をし、実行するまでに相当な時間がかかるものです。私たちからすれば、じれったく思う、ロトとその家族の様子を見ますと、彼らが不信仰やソドムの退廃した文化的背景にあると考えてしまうものですが、そうではありません。私たち自身が、次の行動に移るためには、相当なエネルギーが必要とされるのです。
不信仰や退廃がどこに見られるのかといえば、それは、恵まれたところにこそ現れやすいと言えるかも知れません。
ふだんから苦労を知らずに、楽な生き方を志向すると、私たちは自分で事をなそうとは考えません。手っ取り早くやれる方法、楽に効果を上げる方法といった、賢く見える生き方を見出そうとするものです。
ソドムやゴモラに見られた人々の生き方は、退廃や性的堕落を初めから持っていたというよりは、その恵まれた環境が人を堕落させ、醸成させたというところにその問題の核心があります。

最初は、ロトも遊牧を生業とし、旅の中で家畜を増やし、牧童を雇うまでに収益を上げることに成功した人物でした。ところが、緑豊かで牧草がたくさん手に入れることができると踏んだロトは、

豊かな低地の町々に天幕を張り、牧草を手に入れたようです。その後、ソドムの町に向かって後、ロトは、今まで生業としていた牧畜を捨て、ソドムの都会暮らしへと同化してしまったようです。
天候によって左右される、牧草を求めて方々へ遊牧しなければならないといったきわめて不安定な生活から、おそらくは、穀物の収穫を基礎とした定住文化のソドムの暮らしは安定をもたらしたに違いありません。
決まった季節に決まった収量をもたらす穀物栽培は今までの生活をガラリと変えるものであったでしょう。

こうした、動機は決して悪いものではありませんが、そうした安楽な生活を求める心は、心に弛みをもたらし、別に神を求めなくとも生活を営めるじゃないかという慢心をもたらしたことでしょう。

健全な精神をもたらすもの

僻地を選び、荒涼としたカナンの地を選んだアブラハムは、その後神が現れ、こう告げます。

荒涼とした牧畜しか適わない土地を選んだアブラハムは、損得勘定で計算するなら、損な道を選んだと思います。しかし、神は、そうした彼にあらためて現れ、約束を確かなものとしてアブラハムに授けます。
この約束をあずかったアブラハムは、マムレの樫の木のそばに主のための祭壇を築いたと創世記の13章18節にあります。

 時として、困難な場に私たちは立たなければならないことがあります。困難な場にあって、私たちは恵みを失ったと思いがちです。しかし、主は、そういうあなたを忘れてはいません。むしろ、目を向けていてくださるというのが、13章からの御言葉です。私たちはこのことを忘れてはいけません。困難であるがゆえに、私たちは神からの慈しみを受け、約束を確かなものとして受け取っていると考えなければなりません。

 一方のロトはといえば、神は信じてはいました。ところが、目に見える豊かさを信じて、ソドムの地を目指しました。その結果、生活の安楽さとは引き換えに、主に対する信仰を薄める結果になりました。主なる神に対する礼拝がおざなりになり、主に頼ること以上に、ソドムで生きるために、コミュティに同化するための努力と退廃と堕落を是認する生き方を強いられていきました。そうした、神を信じる者としての無力さをソドムで味わっていた姿が、1節に現れています。

『 そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。』とありますが、財産をソドムに奪われたのかも知れませんし、不道徳な町の様子から健全さが失われたことによって虚しさを覚えていたのかもしれません。途方に暮れている姿が、浮かび上がります。たった数行のことばからロトの胸中は図りかねますが、いずれにしても、祝福された歩みでなかったことは伺えます。

聖徒の堅忍(Perseverance of the saints)

結果として、ソドムにとてつもない天変地異が起こり、ロトは私財のすべて失っていきます。財産と安定した生活を求めて、彼らは、ヨルダンの低地を目指したのですが、その行き着いた先は、滅びでした。

聖徒の堅忍(Perseverance of the saints)という教理がありますが、それは、神に選ばれ、召された選民の救いが永遠に失われずに、一時的に信仰が後退し、弱められても、回復の恵みを与えられるという教理です。
ロトの家族がソドム壊滅から救われたことは、そうした滅びの中にあっても、たとえ、世に毒されたとしても、主に名を覚えられている者には、救いがあることを示しています。
どんなに、罪深い者であっても、主を信じる者であれば、ソドムのような悪と汚れに満ちた地にあろうとも神に選ばれ、召された選民の救いが永遠に失われずに、一時的に信仰が後退し、弱められても、回復の恵みを与えられるということが事実であると教えています。

だからといって、私たちは、神を試みるような自堕落な生活を送って良いものではありません。神に召された者としての矜持を保ち、救われたものとして恥ずかしくない生活を心がけるということが必要です。なぜかといえば、私たちのためにイエス・キリストが苦しまれ、十字架にかかったからです。

ロトの失敗

ロトの救いの様子については、創世記の19章を見ますとその経緯について書かれております。その中で、アブラハムと大きな違いが一つあります。

ロトは、硫黄の火が天の主のところから降り、破局的な滅亡から救い出されたのにもかかわらず、主に対する感謝と礼拝がありませんでした。主を信じてはいましても、主に対する感謝と礼拝がなければ、破局を迎えるということになります。結局のところ、ロトの心の中心にあるものは何であったのかといいますと、主なる神様ではなく、『見えるもの』にありました。富と安定を重視し、主を第一にすることを忘れた生き方は、破局をもたらしうるということに私たちは覚えなければなりません。また、どんなに破局や死が間近に迫ろうとも、神を見つめていかなければなりません。

ロトの妻は、残してきた財産、家、宝、町といったことに気がかりで、振り返ってしまいました。そうしたものは、私たちを救うことはできません。しかし、私たちは、つい振り返ってしまう。そうした弱さは誰にもあるものです。しかし、こうした弱さを抱えながらも、私たちは、主の方を見つめ続ける。富や安定には私たちを救うことはできない。神は、それらを価値のない塩や岩に置き換えた。かつて、価値のあるものとして受け取ってきたものが、実は、まったくの価値の無いものであると教えてくれたのが、ソドム山であります。神の前に無価値のものを追い求め、結局は、破綻や破局に至る象徴がソドム山の真実です。私たちがいかにまやかしにあい、そのまやかしを追い求めることが無益であることをこの、ソドム山は教えてくれていると思うのです。


参考文献


  • 新聖書辞典 いのちのことば社

  • 新キリスト教 いのちのことば社

  • フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)