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復活を認めなかったトマス

2022年4月24日 礼拝メッセージ

八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。ヨハネによる福音書20:26

| 聖書箇所 ヨハネ 20章24-29節

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。
20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」


| はじめに

今回取り上げるテーマは、主イエス・キリストが復活した一週間後について見ていきたいと思います。受難の時と比較して圧倒的に復活後の弟子たちを取り巻く動静の情報が少ないため、伝える側としては困難を覚えるところではあります。その中でも、ヨハネによる福音書のみ、復活の一週間後について詳細に記しています。今回、ヨハネによる福音書の20章から、主イエスの復活後、最初の日曜日にあった記事を通して使徒トマスに関する記述は詳細にヨハネの福音書に記されていることから、今回は、トマスを中心に復活後の様子を見ていきましょう。

| 復活後の動静

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

ヨハネによる福音書20章19-20節
新改訳改訂第3版 いのちのことば社

主イエス・キリストは、週の初めの明け方に墓から出てきて、女たちにその姿を現したのですが、その後消え、二人の弟子がエマオへの道中で復活のイエスと会話したこと(ルカ24:13-35)がありました。夕刻には、エルサレムの一軒の家に使徒たちが集まって、ユダヤ人からの迫害を恐れて潜伏していたところへ、主イエスが現れ真ん中に立ち、彼らに向かって「あなたがたに平安があるように」と言ったとあります(ヨハネ20:19-25)。こうした復活のイエスにお会いした使徒たちでしたが、

ヨハ20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

トマスだけは、その現場に立ち会うことができず、復活したイエスを信じるわけにはいかないと言い張りました。

| トマスという使徒

下位のメンバーのトマス

ところで、トマスという人物を紹介しましょう。トマスは、4つの福音書では、マタイ10:2‐4、マルコ3:16‐19、ルカ6:14‐16に登場してきます。十二使徒のメンバーの中では下位の位置にあることがわかります。ペテロやヨハネといった主要な使徒から比較すれば、福音書の中で取り上げられることもほとんどなく、あまり特筆されるような使徒ではなかったようです。

マタイ10:3  
ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

マル3:18
次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

ルカ6:15
マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン、

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

ヨハネによる福音書に見るトマス

ところが、ヨハネの福音書においては、使徒のうち下から数えたほうが早い下位にあるトマスが、重要な役割をしていることが紹介しています。

ヨハ11:16
そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

主イエスがユダヤ地方に戻る際の危険を見抜き、トマスは忠実さと勇気をもって、主イエスと共に死ぬ覚悟で、仲間の弟子たちに呼びかけます。

ヨハ14:5
トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

御子イエス・キリストを信じなければ、父なる神に対する信仰を持つことができないという知識を、当然弟子たちが知っているだろうという状況にあって、トマスは、イエス・キリストに対する信仰への無知を率直に認めました。その無知を主イエスに訴え、それが一つのきっかけとなって、主イエスは明確に真理を明らかにしました。

ヨハ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

ヨハ20:24
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

さらに、復活のキリストが自分の前に現れて、復活のイエスと他の弟子が証言した人が、本当に十字架で死んだ方と同一であることを明瞭に示す証拠を求めます。こうした姿を見ると、トマスは疑い深いと形容されることもありますが、決してそうではなく、正直な人間の素直な感情の発露でありました。

復活日の8日後

八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。ヨハネによる福音書20:26

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主イエスの復活の八日後、再び弟子たちは中にいました。つまり、イースター後の最初の日曜日のことです。この日に、イエスが現れ、「平安があなたがたにあるように」と言われました。

ヨハ20:27
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

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そのことばに続いて、主は、トマスに言われたとあります。イースターの日に、トマスが他の使徒たちに言ったことばを主は聞いておられ、トマスに語ったのです。それを聞いたトマスは驚きます。そこで、即座にイエスにこう答えます。

ヨハ20:28
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」

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復活の主の存在を認めなかったトマスでしたが、トマスの前に現れた主イエスを前に、彼は即座に「私の主。私の神」(ヨハ20:28)と心からの礼拝をもって応答しています。しかも、「私の神」とした、イエス・キリストに対する告白は、新約聖書を探してもここにしか現れないものです。

トマスは、自分の無知を率直に認め、一度真理が明らかにされて理解を深めると、全身全霊をもって応答していく人物として描かれています。

ところで、シリヤ語を話す教会の間では、トマスは主イエスのふたごの兄弟の一人であり、ユダ(マコ6:3)と同一視する説があったようです。
その後のトマスについては、ペルシヤに宣教したとか、インドで宣教し、そこで殉教したとかの伝承が伝えられています。現在も、インドのチェンナイという町にある聖トマス教会は、トマスの宣教によって設立された教会であると言われています。


| 双子のトマス

トマスは、別名デドモと紹介されています。デドモとは、双子という意味があり、トマス自身は双子であったであろうと言われています。先ほども言いましたが、トマスは、復活の主の存在を認めませんでした。
2,000年前ということで、科学的な思考に乏しいこともあって、イエス・キリストは復活したと言っているのに過ぎないと考える人は多いかもしれません。

ところが、このトマスを知る限り、科学文明でなかった時代においても、見ずに信じることの困難さがあり、死人が復活したなんて言うのはとうていありえないと当時の人の常識から考えてもありえないことだったのです。

先ほど、このトマスは「デドモ」「双子」と呼ばれていたと言いました。そして、その双子の兄弟が誰であるかは知られていません。
ところで、一卵性双生児という人々がおります。見た目もさることながら、性格もよく似ています。そのような意味で、トマスの双子の兄弟は、死んだ人が復活したなんて信じられないという、私たち、一人一人なのだと語った学者がいますが、トマスの双子の一人は私たちなのだということです。

トマスは、復活の主を疑いましたが、イエス・キリストはトマスの前に現れました。それは、トマスの双子の一人である私たちにも同様です。
疑い深い、信じてはいても、御心に心寄せるどころか、目の前の日々の生活に戸惑い、困惑し右往左往する信仰の足りない私たちに対して、常に主はそのお姿を現してくださるお方です。

復活の疑いが晴れるように、その証拠を求めたトマスのように、私たち自身も信仰への疑念が晴れるように、御心が具体的に目に見える形で現されるまでは不安と、信仰への絶望を抱いてしまう私たちに対して咎めることなく、

ヨハ20:27
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

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と優しく諭してくださるお方だということです。

| 手と脇腹の傷跡によって癒される

ところで、イエス・キリストが示した、手と脇腹の傷跡ですが、その傷跡とは、直接的には、信じようとしなかったユダヤ人律法学者、パリサイ人たち、ローマ総督ピラトがイエス・キリストにつけた傷跡です。
彼らは、それぞれの国を代表する人々でしたが、言い換えれば、全人類の代表者たちでもありました。

つまり、イエス・キリストの傷とは、全人類、すなわち私たちがイエス・キリストを神と認めない姿勢、信じようとしない心理が、最終的にイエス・キリストを十字架につけ、その御からだを傷つけたということになります。

イエスが、トマスの疑いの証拠として示したからだの傷は、トマスだけに示したものではなく、同時に、双子である私たち、全人類に向けて人間の罪の姿を直視することを象徴しています。
 
ですから単に、トマスに復活の証拠を示したのではなく、自分たちが犯したイエス・キリストへの不信の罪の重さというものをトマスに示しただけでなく、イエス様の傷跡はトマスの双子でもある私たちの不信の罪というものを示しています。

しかし、イエスは、その傷跡を私たちに示しはしましたが、咎めたり恨んだりすることはありません。『信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』と優しく語りかけてくださっているのです。
つまり、傷跡を見せて、私たちを招いてくださっているのです。

ヨハ
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

傷跡を示して、その傷跡を見た弟子たちは、悲しむどころか、『主を見て喜んだ。』と20節で示されています。弟子たちは、その傷跡を直視し、主は私のためにつらい目にあったと悲しんだのではありません。
傷のある主をご覧になって、喜びに包まれたのです。
私たちも弟子たちと同じです。その傷跡によって、癒やしの御業が働くのです。その打ち傷によって私たちは癒やされ、喜びに包まれていく存在にへと招かれていることを覚えましょう。

イザ 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

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