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能力主義の問題定義

2016年7月26日に起こった「相模原障害者施設殺傷事件」を覚えている人はどれくらいいるだろうか。知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」での大量殺人事件のことだ。

元職員だった植松聖死刑囚が「この人たちは生きている意味がない」として、意思疎通のできない入所者19人を殺害、26人に重軽傷を負わせた凄惨な事件だった。

当時、僕は特別養護老人ホームに介護士として勤めていたこともあり、植松死刑囚に対しどこか他人事と思えない気もしており、介護士を辞めた今でもこの事件についての記事を気にかけてチェックしている。

植松聖死刑囚が言う「この人たちは生きている意味がない」は、優生思想という弱者を篩にかけるような危険思想だ。だけど、決して特殊な考え方でなく誰の頭の中にも存在している。優生思想は突き詰めて考えていくと能力のあるものが富を得るという「能力主義」にもつながるからだ。

本日は「相模原障害者施設殺傷事件」ではなく、能力主義について考えていることについて意見を述べたい。

少し前にハーバード大学教授のマイケル・サンデルが「実力も運のうち 能力主義は正義か?」という本を出した。

現在の日本企業は従来の「年功序列」「終身雇用」を取りやめ「能力主義」の体制に変化をしようとしている。

マイケル・サンデルの「実力も運のうち 能力主義は正義か?」の内容は出てくる単語は難しい言葉が多く、わかりづらいが僕なりに解釈すると以下のようにな書き出しで始まっている。

「頑張って有名な大学を出て一流企業に入って高額の給料をもらう」というのは、果たして本当に本人の頑張った結果なのか?なんの不正もせずに真っ当に試験を受けて一流大学に入学した学生は、入学試験に受かるために義務教育や高校に行く以外に塾に行ったり、家庭教師を雇ったり、高い参考書を使って寝る間も惜しんで勉強している。寝る間も惜しんで勉強するのは個人の努力だけど、塾に行ったり、家庭教師を雇ったり、高い参考書を手にするのは本人の能力では不可能だ。塾や家庭教師、参考書にかかる代金は親に財力がない限り支払うことができない。子供が自分でその代金を納めようとアルバイトをすると今度は寝る間も惜しんで勉強する時間が削られる。

今問題になっているヤングケアラーと呼ばれている若者たちには少なくともその機会は与えられていない。

大人が子供によく言う「頑張っていい大学に行きなさい」とか「頑張ったらいい暮らしができる」と言う言葉はあまりにも無責任なのではないか。それにはまず親がどれだけ頑張っているのかと言う話になってしまうからだ。

「頑張っていい大学に行ける子供」は本人だけじゃなく、周りの環境に恵まれていないといけないのだ。そこに気づかぬまま、この考え方を広めていくと何が起きるか。「大学に行けなかった子は頑張らなかった子で、その子たちが苦しい生活をしているのはある意味自業自得なのだ」と言う考えを案に受け入れてしまうことになる。現実の弱者は個人の頑張りに関係なくその位置にいることに考えが及ばぬ富裕層が増えていくことになる。

無宗教者が多い日本だと、徳を積むために巨額を寄付すると言う考え方も根付いておらず、政府も福祉を言い訳に消費税をあげるが実際に揚げた分の税金が福祉に回ってきたことを実感する国民はどれだけいるか。

もちろん、本に書いてあるとおり能力のある人を仕事につけること自体は間違いではない。看護師の経験のない人を急に看護師にしても人の命は救えない。大学までの教育費を無料にしたところで、塾や家庭教師も無料にならない限りは富裕層の子だけが一流大学に合格しやすい状況は変わらない。ヤングケアラーの問題を含めるともっとややこしいことになる。

大事なのはゼロイチで物事を考えるのではなく、この格差をなんとなく減らしていくこと。全員に機械を均等に与えるのが無理でも「一流大学に行きたい」と言う子だけを平等に扱うことはできるかもしれない。大学に行けず、低賃金で働く人たちを自己責任と言わないこと。仕事というのは必要とされているから存在していて、どんな金持ちでもその恩恵は受けているのだと忘れないこと。

いい塩梅を探すことが大切だと思う。

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