ブックオフにて(公式ブログより再掲)

CDって、いっぱいあるんだよなあ。と。
これはまあ、当然のことだ。そしてたぶん、同じくらいミュージシャンてのもたくさん居て、もしかしたら世の中にはミュージシャンじゃない人間のほうが少ないんじゃないかと思ったりする。

すべての人間は作家である(たとえ著作がなかろうとも)、みたいな言説はあるような気がする。音楽家もまた、そうなのかもしれないけれど、これはそういう話ではない。

ブックオフに行ったのだ。
僕はブックオフが好きだ。ヘビーユーザーである。作家志望の人間がそれではあまりに業界も浮かばれまい、と思われるかもしれないが、かのタランティーノもレンタルビデオ店にて知識を蓄えたと聞いた。

僕はブックオフに行くと、高確率でCDのバーゲン棚だけを見て帰る。そもそもちゃんと値が付いているCDはどれも高い。僕のような、財布の中に千円札が3枚ぐらいしかない人間が近づいていい場所じゃない、わけじゃないけどまあ敷居が高いのは確かだ。その点、500円とか250円のコーナは人懐こく誘惑してくる。抗えない。

まあね、そりゃ500円のCDだって6枚買えば3000円なのだから、250円のCDだって20枚買えば5000円なのだから、おとなしく歴史的名盤といわれるCDを1500円ぐらい出して買えばいいんじゃないかと。まあそれもそうだ。『安物買いの銭失い』という言葉もある。そして20枚も買い込んだCDのケースはものすごく、かさばる。

それでも僕がバーゲン棚をハイエナみたいに嗅ぎ回るのは、何も掘り出し物が欲しいから、だけではない。

僕は先日、近所(雪道を歩いて30分程度)のブックオフでCDを6枚買った。内5枚は250円、1枚が500円。
竹内まりやのCDが250円か、とか、珍しく好きなボカロP(僕はあの文化がよくわからない人間なので、好きとか嫌いとか以前に曲を知らなすぎるのだ)のCDとかに混じって、よく知らない海外のロックバンドのCDを買った。

その中に、the mark insideというバンドの、『static/crash』というCDがあった。ジャケを見て、なんとなく90年代のシケシケしたインディ・ロックだろうな、と思っていたら2004年の作品で、しかも買って帰ってきてから気付いたのだけど、なんと日本盤だ。内ジャケに帯が仕舞われていた。

そうなるともちろんAmazon.jpにも登録があるわけだけど、誰もレビューしていない。ライナーノーツを読むと、ガレージロック・リヴァイヴァルの中から出てきてオールド・ロックへの深い愛情を感じさせる青臭くも良質なデビュー・アルバム、みたいなことが書いてあり、聴いてみて、うん、確かにこれはそんな感じだ。

ちょっといい感じのCDだったし、簡単に感想でも書いて残しておこうか。僕はtwishortという、Twitterで140字以上の文章が書きたくなった時に使う連携サービスを開き、ブラウザの他のタブでthe mark insideというバンドについての情報を集め始めた。

Velvet Revolverの前座で名を上げたんだ、とか、アルバムは他に出ていないのか(配信ならあるみたいだけど……)だとか、まあ、ギター/ヴォーカルのChris Levoirが2013年6月1日に、死んでいた、だとかさ。

当然、というのは流石にどうかと思わなくもないけれど、日本ではアマゾンにレビューも載っていないようなマイナ・バンドのフロントマンが死んだことなんて、誰も話題にしていなかった。引っかかったのは英語圏のサイトばかりで、僕の英語力なんて冗談抜きで小学生レヴェルだから、エキサイト翻訳をさらに翻訳する羽目になったのだけど。

僕は少しだけ悲しい気持ちになって、感想にさらっとだけ、そのことを書いた。泣きたくなるほどではなかった。

後日、僕の感想がthe mark insideの公式twitterアカウントにリツイートされた。彼らの紹介文には『The Mark Inside is dead. Long live The Mark Inside.』と書かれていた。やっぱり僕は泣かなかったけれど。

極東の地の、片田舎もいいところの、ブックオフの、それでも大量に置いてあるCDの、250円のそれを、僕は聴いた。別に僕は運命だ、とか、奇跡だ、とか、この出来事をことさらに強調したいわけじゃない(と、思いたいけれど、こんな文章を書いている時点で大概そうなのかもしれない)。そんなこと、ブックオフに通っていればよくあることなんだろう。実感から言わせてもらえば中古相場2000円ぐらいのCDがうっかり500円で投げ売りされているのとそう変わらない、ように思う。

CDって、いっぱいあるんだよなあ。と。
その大半は、忘れられてしまうためにあるんじゃないか、とすら思う。
でも。
やっぱりそれらは、誰かのためにあるもので。忘れられるのと同じくらい、誰かの心に強く残っているものだと、そうであってほしいと、そんなことを考えています。
たとえそれが、極東の果ての、安っぽい中古屋で投げ売りされるようなものであったとしても。

投げ銭してくれると小躍りしてコンビニにコーヒーを飲みに行きます。