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恋愛小説短編集

恋愛小説短編集


【1】登場人物

(1)鷲翔空晴(しゅうが すばる)

表日本東京都の元大手企業の商社マン。不動産屋を営む名家の三男にあたる。
社内トラブルを経て、裏日本新潟県に左遷される。少し胡散臭いお兄さん。

(2)伽藍堂百夜(がらんどう ももよ)

新潟県に暮らす謎のシスター。リリムと呼ばれる種族。掴みどころがなく不愛想である。
地味で控えめな性格。争いごとが嫌いでどんな人であっても捨て置けないお人好しな性格。

(3)鬼月桜杏(きづき もも)

日本出身のアルビノ。リリムという種族。隠れオタクで周囲にオタクとバレる事を過剰に恐れている。恋愛に疎く、ぼんやりしがちで頼りない。

(4)Michael・Ward(ミカエル・ウォード)

イギリス出身のゲルマン系の没落貴族。英国海軍に属しており階級は中佐。 桜杏に好意を寄せており、弟ロイとは喧嘩相手であり恋敵。

(5)Roy・Martin(ロイ・マーティン)

イギリス白人の父とアメリカ黒人の母を持つハーフ。米国陸軍に属しており階級は軍曹。 桜杏の事を異性として気に入っているが、兄のミカエルが目の上のたん瘤。

(6)その他

伽藍堂巴(がらんどう ともえ)
伽藍堂百夜(がらんどう びゃくや)
黒澤直樹(くろさわ なおき)
Lala・Green(ララ・グリーン)
辻教授(つじ)
月出正敏(ひたち まさとし)
三日月久美子(みかづき くみこ)
毒島きらら(ぶすじま きらら)
茶院秋人(ちゃいん あきと)

【2】短編小説

(1)愚神礼讃


 1999年、神の逆鱗に触れた我々人類は、血の歴史の代償として文明と共同体を奪われた。川は決壊し、街は押し流され、ビルは塩水に腐食され今では藻が張っている。
 いっそ気持ちがいいぐらいに崩壊し、破壊された街のガレキに足を掛け、生命の傷跡に目をしかめていると、ふと、後ろに人の気配がした。声に振り返ると、道路がある。6車線もの幅を抱える大通りは、嘗てうるさい程の車が連なり、地平線の向こうまで車体は犇めき、鼠色の路上を色という色でデコボコに埋まっていたのである。その道路は今、潰れた車とガレキ片の山を散りばめ灰色に沈黙するだけで、何もない道路が地平線まで続いていた。というよりも、そこは無限に平らだった。民家の面影をかろうじて残したガレキも、パラパラ…と土埃を吐きだし、瞬く瞬間、隣接ビルに潰され、土壁と木材をミシミシと崩して、やはりガレキの山となった。見回しても真っ青な空とアスファルトの大地で、見事に天と地が真っ二つになっている。この都会にはなかった地平線が、今くっきりと眼前に広がり、裸の大地を白く縁取った。人の住処は歴史と共に消えた。人と言うものはかくも賄小であったのか。未だ頭を疑うぐらいに、あっさりとした人類の終末であった。もはや天まで伸びたビルも、蜘蛛の糸の如く張り巡らされた電線も、電柱も全て決壊し、虚無を煌々と照らしつけるだけの白い太陽に腰を折り、頭垂れるだけとなっている。廃墟の何処にも影はない。ただ日に照らされガレキが白く光っていた。
 その青空の下、道路の真ん中、視野に小さく映っている、ブチ撒かれ山となったガレキの上に、よじよじ跨る一つの影があった。それは人である。
 それは、おーいと大声を上げて右手を振り、ガレキを器用によけながらこちらに向かって駆け寄ってくる。人影は子供に輪郭を変え、空の下に照らされ発光していた。
「よかった…!人がいた…生きてた!」
 柄にもなく歓喜の声を上げてパタパタと駆け寄ってくる。淡い色の髪、青のビックシルエットパーカー、白い瓦礫に映える赤い靴。空と大地の間に挟まれ豆粒の様な二人。熱を失った廃墟の真ん中で不動の自分を疑うこともなく、簡単に距離を詰めてすぐ側までタタタと駆け寄って見せた子供は、棒立ちの自分の横に足を止めて、はぁと肩を上下し呼吸を整えている。そして僕に笑った。
「貴方も生き残りを探してたんだよね…」
 乱れ息を整え、背筋を伸ばして自分を見上げ敬語で話しかけるその人は、まるで僕を知らないようだった。
 仕方なくその子供に向かって右手を伸ばし声を作って挨拶する。
「初めまして、私は鷲翔空晴と申します。以後お見知りおきを」
「僕は百夜です」
 社交辞令の握手をかわし、僕らは直ぐに関心を周囲に向け、周りを見まわした。どこまでも高い空と、冷たい大地が無限に広がるだけである。そこには何一つ生命の熱はなかった。すでに死んでいるのだ。風が傍らを通り、僕らの衣服と髪を静かに揺らす中で、ぽつり、その人は顔も変えずに口を開いた。
「僕ら以外、誰もいないんです」
「そのようですね」
「街に呼びかけても返事は来ません。ガレキを捲っても土を掘っても誰一人…蛆の這う死骸一つすら見つかりません。人の生きていた形跡すらないんです」
「そうですね」
「動物も…虫一匹すらいないんです」
「そうですね」
 そこまで吐き出すと、風に揺られて地平線の遥か向こうを眺めていた百夜を名乗る人は、再びこちらを真っすぐ見上げて、
「貴方が初めての人です…」
と言う。色はない。対して僕は少し照れ臭く思い首を揉みながら、
「実は…私もです」
と震えた声で返した。何を期待をしていたのだろうか、一瞬諦念の顔を見せた百夜はチクリと傷ついた表情を直ぐに引っ込めて、やはりと言った風に顔をうなだらせて、そうですよね…、と口の中で小さく呟き、瞼を伏せてそのまましゃがみこんでしまった。最後の日から実に数時間ぶり。空元気か、他人と会えた安堵からか、先程までのカラっとした笑顔が徐に消えていき、刺す程に眩く天より注ぐ鮮やかな日差しの中、虚ろな眼差しをしたまま力なく佇んで、仕舞には顔を曇らせている。
 どうやら僕と出会った瞬間に急に感傷を取り戻したらしい。落ち着かないように首を触っていた僕は、相手の喜ぶ顔を想像していただけに、その湿った態度に肩すかしすら感じる。先程まで忙しなく跳ねまわっていた胸の高鳴りはすっかり萎んで、少し期待はずれだな…と、消沈する百夜を残念そうに見下ろした。正直彼女との温度差にがっかりしたことは否めない。
 百夜は地平線まで伸びる道路の上に膝を抱えたまま小さくなった。生命が死滅して、音もなくそこにあるだけの瓦礫と枯れた大地、くすむ空に心折れたように、膝に顔を埋めて静かに風に吹かれている。それを見た僕は子供だから当然か、と納得したように息をついて、仕方なくその隣に腰を下ろした。
 膿の潮で腐り、錆びと藻で朽ちた瓦礫だらけの街で、二人並んでちっぽけになって、風前の塵のように余暇を過ごすというのも中々悪くはない。
 しかし問題は、これから。
 隣で静かに嗚咽する百夜君に、いつ、他の生命が死に絶え、生き残りは既に僕ら二人だけだ、と伝えるかだ。
「嘘です…こんなの。あんまりだよ」
 せっかくの二人きりの時間だと言うのに、先程から百夜君は僕に向けて呪詛を吐くのをやめなかった。
「空晴さん…僕達はこれからどうすれば…」
 口にするのは僕に対する理不尽な恨みごとばかりで、甘い言葉は何一つ囁いてはくれない。落ち込む僕。前々から思っていた事だが、このお人は何てつれない方なんだろう。
 こういう色恋沙汰に疎いのか。それともワザとこちらを焦らして楽しんでいるのか、それは恋愛素人の僕ではとても推し量れるものではないが、この年頃の子供というのは実に繊細なのである。僕はあれこれと想起して、相手の心情を連想しては、対応を思慮した後、15通りの選択肢を巡ったところで、あまり相手を刺激しないような言葉選びをしつつ、密やかに目を細め百夜に向けて真面目な声を作り話を続けた。
「百夜君」
 すると、百夜は数秒の沈黙の後、膝から虚ろな顔を覗かせて、艶やかに首を傾げ応える。
「はい」
 その素直さに思わず笑って優しい声音で続けた。
「まずはこれからを考えよう」
 柔らかな眼差しに交わる彼女の視線。丸く、赤く、硝子のように透き通る幼気で無垢な瞳。
「生きていればきっと何とかなる。僕達の頑張り次第で、いずれ街も人も昔みたいに賑やかに成るよ」
「そっか」
「そうだよ」
 空晴さんは前向きなんだね、と百夜は力なく笑った。僕は隙を見て、行く宛てもなくぼんやりと宙に浮かべていた百夜君の右手を掴み、そのまま軽く握り締める。最初こそ戸惑いの色を見せた百夜君だったが、暫らく悩んだ後、おずおずと控えめに手を握り返してくる。僕はそれを『肯定』に受け止っては更に強く握り返し、満足げな声色で嬉しいよ、とだけ答え、最後、僕は彼女の肩口を掴み抱き寄せて口を開いた。

「子供は何人がいいかな」

 1999年、恐怖の大魔王によって世界は一度滅び、再び創造された。この僕の手で創造された。創造神は男女をお創りになった。だから僕は、君を人類史上最後の…、最初の女として選んだ。君は鈍くてつれない子だから。いつまでも人の好意に気付かず、世界が滅びたとて一度たりとも僕に応えてはくれなかった。
 ただ君は僕に笑う。僕の気持ちを踏みにじり弄んでは、ただ知らぬ顔で遠くで綺麗に笑っている。貴女が僕にくれたのは、無防備な優しさ、ただそれだけだった。でも最早これで僕と君、二人の恋路を隔てる壁も、仲を引き裂く人間も、邪魔だてする世間もない。これでようやく僕らは二人きりになれたのだ。後はうめやふやせ。君は僕の永遠の伴侶で新人類の最初の母なのだから。
 浄化と贖罪の年であった1999年。混沌の闇は終わり、予言通りの夜明けを迎えた新世紀。
 
 2000年、人類再生と天地創造の始まりだ。
 
 「あまり僕を怒らせない方がいいよ。百夜君、当分はここで二人きりなのだから」


(2)泥冠

 伽藍堂百夜という人間を喩えるなら土である。
 彼女は俺に取っては光のような人であったが、決して太陽を背負い誰かを救うような人ではなかった。もし誰かが道に倒れ泥を被る失態を犯し、人に嗤われるような事があれば、普通の人は一緒になって遠慮がちに笑い、内心でかわいそうに思いつつ見て見ぬ振りをする、それが賢い生き方であるから。そして、そう言った集団の中で時たま正義漢の男や女が飛び出し、他のものを牽制しつつ腰を落とし、光を頭部に湛えながら目線の高い所から地を這うものへと「大丈夫か」と手を差し伸べる。これが俗に言う太陽を背負う者である。
 これでも充分お人好しであり正義漢として申し分ないのだが、恐らくはその集団で稀に一人いるかいないか、いやもしかすると、10万戸住宅を集めてもいるかどうかもわからぬ程希有で得体の知れぬ存在がある。それは自分が天や光から泥や土塊に手を伸ばすのではない。その人は、足を挫いて泥塗れになって周囲から嗤われる人を見つけた時、正義漢と同様、無謀にもそこに割って入っていくのだが、太陽を背負うかと思いきやそのまま泥に塗れた人と同じように、いやそれ以上に滑稽な仕草で泥に飛び込んで、泥遊びでもする様に泥だらけになって無様に醜態を晒しつつ、唖然とする一同をそっちのけにして、無表情に、いや薄く、控えめに笑っているのである。嗤っていたものたちは奇妙に目を丸くした後、何か薄気味悪いものでも見たような、後味の悪いような、負い目のあるようなよくわからない顔をして、無言のまま立ち去り、そこには土人形のように泥だらけの人間二人きりになる。そう、それは土から生まれたアダムとも言え、地を這う蛇にも似ている。彼女はイカロスのような翼を持ち、太陽に近づくことのできる立場でありながら、しかし、嗤われる俺と同じように泥に塗れて、一緒になって周囲の嘲笑の的になり、その冷笑すらも当たり前に受け入れ、力のない笑いを浮かべつつ、綺麗な目で道化を演じて、嗤う者どもを後ろめたくして、そのまま帰してしまう。人が好いのか、それともお人好しが過ぎて余計にたちが悪いのか、転んだ人と同じように転んで、わざわざ同じ傷を負って俺の心を慰めるような、酔狂で不思議なお女(ひと)だった。 そんな人生の中でただ一人出会えた人、見て見ぬ振りをするでもなく、太陽を背負い天から助くでもなく、わざわざ同じ土を喰い泥を被るような、俺と同じ痛みを浴びて同じ境遇になって、俺の心を知ろうとするただ一人の人。頭部に光を背負い手を伸べるでもなく、同じ闇の中を隣で手を結び、寄り添ってくれた唯一の女が伽藍堂百夜という人だった。
 彼女の後ろには太陽こそ昇っていないが、俺にとっては彼女そのものが光だった。光の輪はないが天使の羽がある。闇夜の中であってもまるで太陽の光を受けた月のように淡く輝き俺を導く。彼女は何もない、普段拭き掃除や土下座ばかりで、いつも顔に煤や土をつけているような、優しく弱く質素で素朴なだけの土塊の人間であったが、俺には確かに光が…後光が見えたのだ。太陽も昇らぬ混沌の闇の中を、たった一つの霊光が満たす。「光あれ」天地創造。まさに彼女は俺にとって神や仏にも等しいお人だった。しかし彼女は喩い世が光と闇に別れようと、空と海に別れようと、天と地に別れようと、何故かいつも俺の傍に添うてくる。俺のいる闇に、土に、そして海に。闇に飲まれ、土で汚れ、海に溺れようと、必ず一緒に伴って死のうとする。優しさだけでできているとは思わない。きっとそれこそ彼女の弱さか何かの病なのだろうが、そう言う損得のわからない、かわいそうな女だった。彼女が戴くのは光の輪でも光の冠でもない。喩えるならば茨の冠、いやそれは茨ですらなく泥かぶり、そう、宮城のそれと意味こそ違えど泥冠と言うべきものを頭に乗せている。アダムと同じく土より出しリリスの胎から生まれた、土塊の肉、地を這う蛇の血を引く泥人形の使いだった。天使は神の霊、神の息より生まれし霊体であるが、彼女は悪魔を身籠る土リリスより生まれでたので、天の使いならぬ、土の使い、泥使、ドロシィ(Dorothy:[希語]神からの贈り物)とも無理やりに連想してもやはり泥冠の方がしっくりくる。
 とかくに、彼女は泥を被る人がいたならば共に泥を被って道化をする、そう言う馬鹿な人だった。


(3)東京都を訪ねて

「昔ばなし?」
「君はそう言うのが好きだろう」
「…」
「昔な、東京に男がいた。男はまだ幼い子供だった。男には昔家族がいた。父親と母親。男の家は貧しかった。父親は土方で、いわゆる男は貧しい家…団地の子供だった。」
「…」
「東京には、田舎者がくるものさ」

「まだ1970年の後半、今通った三神重工の生産ラインには夥しい量の銃が流れていて、そのとき表日本では冷戦による軍需を受けて経済発展していた。男にはまるで学がなかった。」

「三神…ってあの財閥企業の?」
「あの三神にはあるトラウマがあるんだ」
「トラウマ…」
「敗戦だよ」

「財閥解体がなされる直前の…戦後まもなくのこと、
3代目三神社長は、日本の敗戦についてこういった…、『三神の技術不足であると』」

「三神は元々造船から始まったんだ」

「戦争末期に作られた兵器こんにゃく風船を見て、ある銀行家はこういうのである。『頼りないあの風船は、果たしてアメリカにどれ程の威力を発揮できるだろうか』」

 鷲翔の話す「ある男」の昔話は、幾つかの時代を行き来した。戦前の事、戦中の事、戦後の事。思い出したように話す昔話は、実態のない作り話のように見えて妙なリアリティーがある。しかし、実話というにはあまりにも継ぎ接ぎだらけで、鷲翔の想像が話の断片を辛うじて縫い付けているに過ぎなかった。

 鷲翔は国道20号線をレンタカーで走っている。黒のセダン。その日の東京は快晴で、雲一つ浮かんでいなかった。その東京の空に南に向かう飛行機が唸り声をたてながら、一筋の亀裂を作っている。フロントガラス越しに見上げる青空には幾つものビルが突き刺さっていた。東京の空は狭い。

 バックミラーに無数の車の群れが犇めいている。遠くで咽ぶクラクション。うるせえや、と心でごちて、喧騒が道路の熱気とともに此方へ押し寄せてくるようで、ハンドルに指をたてて、ミラーに目を寄せていた鷲翔は湿った溜め息をついてハンドルから手を離し、背広に手を入れて、ライターを手際よく取り出した。

「…吸うぞ」
 肩をガックリ落とし、やるせない声でほとんど独り言のように呟いた鷲翔は、助手席の伽藍堂の返事を聞く前に、ライターをカチカチ鳴らし始める。どうぞ、と伽藍堂が答える頃には、鷲翔は煙草を吸っている。組んだ腕を後頭部にあて、煙草を口で挟んで、拗ねたように目をつぶっている。

 一方の伽藍堂は、已然と窓から東京の町並みを見上げるばかりで、運転席の鷲翔の存在など無視して、不思議そうに外に目を向けていた。渇いた空気に、炎天下を歩く人々、熱を帯びた車道、町並み。何もかもが真新しく写る伽藍堂を余所に、鷲翔はこの光景に安堵を覚えていた。やはり鷲翔はこの東京が好きだ。

 鷲翔も又伽藍堂を無視して、煙を窓の外に吐き捨て、煙草を挟んだ右腕を窓の外に垂らす。鷲翔は口を利かない伽藍堂のことが好きではない。

「19世紀の終わり、裏日本という概念が形成されていったのも、三神重工が躍進したのも、その時代、造船が国家事業だったから」

「露西亜にシベリア鉄道が通うまで、…つまりウラジオストックが港として価値を持つまで、裏日本の港は価値がなかった」

「裏日本は時代が作ったのだ」

 愛嬌もなければ、相手に対する労いの言葉もない、人としての常識もない。鷲翔が捻ったどんなまじないも、無欲な伽藍堂の前には無力だった。もはやネタ切れだ。
 別に根暗は嫌いじゃない、だがまるで自分に靡く気配のない伽藍堂の存在自体が気にくわなかった。全くもって今の子供は可愛いげがない。

 一向に進む気配のない渋滞は、一層鷲翔の虫の居所を悪くする。窓枠に肘をついていた鷲翔は、再び車体から外に向けて灰色の息を吐いた。伸びていく煙は、風にのって澄み渡たる青に溶けていく、ビル間の向こうで無数の鳥が泳いでいる。
 空はこんなに晴れやかなのに。

 恨めしく見上げた先に、ヘリが飛んでいく。尾っぽの星。星条旗。そう、東京の空は狭いのだ。

 対する新潟の空は灰色に淀んで、赤い星が飛ぶ。

「…あの、鷲翔さん」
 進んでるみたいです。
 青に伸びあがる煙の向こうに、いつか見た曇天の空を見ていた鷲翔は、伽藍堂の声に我に返って、ハンドルを手に前方に意識を向けた。
 いつの前に、前にあった赤の車体は車一個分進んでいる。

 伽藍堂は、地味で根暗…というより、自我があるのかわからないのだ。一歩間違えればゾンビ人間に見える。普通の人からすれば、生気を感じられなくて気味が悪い。ただ話しかけるとうれしそうに笑う。でも話しかけないと、自我が伽藍堂に宿らない、笑顔がただの反応のではないか、と思うほどの不気味さがあった。

 夏、伽藍堂は家に帰るとまず靴下を脱ぐ。
 セーラー服の状態でお姉さん座りすると、畳に広がった薄いスカートのひだの上に腿の形が浮かび上がって、裾下から折り畳んだ生足が覗いて、それは股下から爪先まで白く、みずみずしく、淡く光っている。
 掌で触ると指が控えめにくいこんでその感触は柔らかい。

 膝の上に頭を横に乗せると、股の窪みにちょうど頭が挟まる。
 伽藍堂は膝上の重みをいとおしく感じながら、九の字に横たわっている男の頭を撫でる。黒の短髪を伽藍堂の細い指先が触れる。ごわついた髪の上を柔らかく優しい掌が滑る。男の顔の輪郭が感触となって手に残る。幼さを無くした男の顔。

 男の目は閉じている。短いまつげが擦り合わさっている。男の肌はざらざらで、何処か脂っぽい。切り揃えている小さな顎ひげが指先でチクチクする。膝上に散らばる男の短髪を掌で揃えながら、耳裏のごりごりしたリンパを小さい指で触りそのまま首筋に押し流す。

 伽藍堂の指の裏は冷たく小粒で柔らかくて優しい。

 ゆっくりした動作で伽藍堂は膝上の男の頭を撫でる。
 伽藍堂の指の間を男の黒い髪が挟まっている。膝につけた左頬に、薄いスカートの生地とその下に忍ぶ柔らかな腿の感触が包む。左耳が腿に潰されて、耳裏にドクドクと脈打つ血管の音がなる。

 ごつごつした掌に移る伽藍堂の体温はひたすらあたたかく、包みこむように優しい。

「きもちい?」

 灼熱の夏。不意に鳴いた風鈴が差し込む風と一緒にそよいでいる。冷たい窓ガラスの向こうには青が広がり、天から降り注ぐ真っ白な日光ですっかりゆで上がって、町が蜃気楼のように揺れている。

 青々と広がる空に黒い電線が伝っている。瓦屋根は日を反射して鈍く光って、足元に黒い影を下ろしている。庭の小さな家庭菜園。緑の上に浮かび上がる真っ赤なトマトに僅かな水滴がくっついているだけで、土はすっかり乾いてしまった。青と黒の瓦と土色のコントラスト、その町の光景の全てを熱気が幻にする。

 ムシムシとした空気の中、アブラ蝉の声が何処か遠くの松林から響いてくる。その松林は暗く、無数の光が差し込んで足元に木漏れ日を作っている。そこには海風が通っていて、草木で揺れるその影の中はきっと涼しい。
 電線の張る青空の向こうに浮かび上がる積乱雲。その根本には青い日本海が広がっている。

 畳張りの六畳の部屋、そこは昼になると部屋全体が暗い影となって涼しかった。
 円卓に残った皿の上の食べかけのスイカ、氷の溶けたガラスコップ、テーブルの上に流れ落ちる水滴。部屋の隅で首を振る扇風機と揺れる風。
 窓の向こうの夏。窓を一杯に開けば涼しい風が通って、風鈴の音とともに眠りに誘う。

 男は部屋の陰の中を裸足を投げ出して寝ていた。黒の短髪が時折くる扇風機の風に揺られている。畳の冷気が足先から伝わって気持ちいい。
 まどろみの中をさまよっていた男が、伽藍堂の名前を口にしたとき、男はようやく夏の夢から目覚めた。夢でそこにいたはずの伽藍堂の姿は、跡形もなく消えている。

 足蹴にしていた夏蒲団はめくれて、足の向こうで小さくなっていた。天井の木目とぶら下がる電球の紐。唐突な現実感に喪失にもにたものを感じて、顔の前に引き寄せた空っぽの掌をぐしゃりと握った。そこに伽藍堂の感触はもうない。

 それは男の悪夢となって現れ今も記憶として脳裏に刻まれている。
 ある夏の情景、あれは夢か、幻か、それとも別の何かだったのだろうか。それとも、あの幻が男の求めていた悪魔、リリムの姿だったのだろうか。それとも、あの白昼夢こそが、世界の終わりの光景、彼岸と呼ばれる場所だったのだろうか。

 もう死んでしまった男の意識は思考をさまようだけで、その理解を持たないのだ。

* * *

――確かに遥か前方まで伸びる車の列は、じわじわと進み始めている。
 前方との車間距離が少しでも開けば、車体を押し進めて、車の後ろにぴったりとくっついてはまた止まる。そうやって車の群れがテールランプの明滅を繰り返している。
 鷲翔は何かを考える前に、左手のチェンジレバーを切り替えた。

 靴底でアクセルを緩く踏んで、前車両との距離を詰めたところで、また止める、チェンジレバーを切り替える。これが後小一時間は続くだろう。鷲翔はやはり恨めしそうにバックミラーを覗いて、煙草をもみ消した後、座席に深く腰をつけて、両腕を組んだ。こんな奴と東京なんか来るんじゃなかった。

 横に目をやれば、やはり伽藍堂は、東京の景色に釘付けになったままで、鷲翔にはそっぽを向いていた。ミュディアムへアから覗く白いうなじ。そこに一筋の汗がじわりと流れて服下に消えていく。格安で借りた車は冷房が壊れていた。自分の首を触れば汗が付いた。服を引っ張って仰いでもそのシャツが蒸れている。

 耳をすませば、熱で道路の焼ける音がする。通る風もなんの慰めにもならない。
 進まぬ渋滞。車内は暑い。女はだんまり。最悪の真夏日だった。

 俺はもっと、楽しいドライブを想像していたんだ。

「鷲翔さん、あれ」
「…事故だ」

 伽藍堂が鷲翔に顔を寄せて、またフロントガラスの向こうを指さした。
 ビルとビルに挟まれた6車線もある道路の真ん中で、軽自動車が部品をまき散らして無残な姿で横転している。
 それを取り囲むようにして二台のパトカーが停車し、大型の牽引自動車が端に寄せられている。そして路上では東京都の警察官がせわしなく現場検証をしていた。
 路面にこびりついているブレーキ痕と、まだらにはねた血液は、事故の悲惨さを物語っている。
既に運転手は病院に運ばれた後なのだろうか。

 ここは東京都杉並区20号線、ようやく流れを取り戻した車の行列は、信号ではなく、事故現場で再び流れをせき止められていたのだ。

 そんな折、東京の街並みを見上げる伽藍堂の瞳にある企業名が写った。

「三神重工(ミツカミジュウコウ)」

 日の丸から三つ巴をくりぬいた赤いマーク。それは三神産業のシンボルマークだった。

 額に手をあてて大げさに溜息をついた鷲翔はゆるく首を振った。パチパチと瞬きしてこちらに目を向けて制止する伽藍堂を、やはり恨めしく思った。
 こいつには、変化球が通じないんだ。

 やつれた顔で眉間をもみほぐしていた鷲翔は、眩しいほどの純粋な視線を頬で感じながら、目線を下げて困ったように前髪を擦りあげた。鷲翔が一番苦手なタイプだった。この手の人間はちょっとの駆け引きも、小難しい権謀術数も通用しない。まるで小手先のことが効かないやっかいな相手だ。

 フロントガラスの向こうに横断歩道を歩く通行人が見えた。それぞれが各々の目的をもって歩いていく。停止線の前に止まっている自動車。赤信号を前に、口に手を当ててどうしようかと悩んでいた鷲翔は、「鷲翔……さん?」の声に、観念したようにふっと息をついて、ハンドルを手に伽藍堂に再び向き直った。

「鷲翔でいいよ」
俺、さん付けで呼ばれるの苦手なんだ。

 信号が青になった。靴底でアクセルを踏む。再び動き出した東京の景色。車の窓に切り取られた東京の日常。窓の外、流れていく景色を背後に、伽藍堂はキョトリとした顔をしていた。眉を下げて困ってみせた鷲翔の横顔を、目を丸くして見ている。

 伽藍堂が顔をこちらに向けたまま穴が開くほど見つめている。その奇異の視線を、むしろ心地よくさえ思った。伽藍堂が次の言葉を待っている。どんなに上等な口説き文句であろうと心を動かすことのなかった、あの伽藍堂が、やっと自分に関心を向けたのだ。思わず口が緩むが、これは決して侮辱の類ではない。

 ハンドルを大きく右に切る。東京の街並みが大きく左に流れる。東京の空を流れるビル並。新宿御苑を右手に、再び流れた沈黙は嫌じゃなかった。きっと、俺は純粋に嬉しいんだ。
 横目で盗み見れば、伽藍堂はもう前を向いていた。だがその顔つきは何処か柔らかい気がする。

 少し顔をうつむかせて、そうですか、と唇が動いた。伽藍堂は小さく笑っていた。

「俺、学生時代からあだ名とか、そういうの、なくてさ。嫌なんだ、苗字」
「私もです」

「さん付けで呼ばれるのが、俺、一番苦手なんだよ。他人行儀っていうかさ」
「でも、呼び捨てなんて、失礼じゃないですか?」
「苗字呼びより全然いいよ」
「…えっと」
「そうだなあ…じゃあ伽藍堂さんの好きに呼んでいいよ」
「…そうですか?じゃあ、鷲翔君…で、いいですか?」

「…いや、君付けはちょっと…。俺には、少し若すぎるかなぁ…」
「だめですか?」
「俺、もう、学生じゃないからさ…」
「はい」
「その、…人前だと、少し恥ずかしい」
「そうなんですか?」
「そうなんですよ…」

「なんなら部長でもいいよ、鷲翔部長」
「部長さん…?」
「この年になるとね、俺たちみたいなのはそう呼ばれるのが一番うれしいんだ」
「そうなんですか?」
「……」

「あの…」
「えっと……冗談、なんだよ。俺なりの」
「すみません」
「いや…、ごめん」

* * *

「昔話をしようか」
「はい?」
「君は、そう言うのが好きだろう」

 20号線、新宿御苑前。そう言って、鷲翔は覚束無い、たどたどしい口調で昔話を始める。
東京に雨が降っている。車体を流れる雨。フロントガラスをワイパーが動いて、通行人が色とりどりの傘を差して、水っぽい灰色の街並みを染めている

「俺、養子なんだよ」
「養子?」
「うん、俺の母は鷲翔家の後妻で、俺は養子と言う形で、鷲翔家の家系図に入った。一人っ子だった俺は三男になった。兄と姉は俺と違って優秀でね…」

 鷲翔は遠い目をしながら、ポツリ、ポツリと言葉を選ぶように、昔話をする。

「――その男は学がなかった」

「その男はさ、損益貸借表や損益対照表の見方もわからなかった」
「バランスシートのことですか?」
「うん」

「ちょっと色々書き方は違うんだけど、会計も家計も大体同じなんだよ。月収があるとね、お金のやりくりが全く変わってくるんだ」
「そうなんですか?」
「伽藍堂さんも、アルバイトとかすればわかるよ」
「はい…」
「月毎に収入があると、例えば、ローンなんかも組めるようになるんだ」

「よくドラマで、家のローンが…ってあるけど、あれは別にフィクションでもなんでもなくて、実際仕事をしている男はあんなことばかり考えるようになる」
「どうしてですか?」
「月収があるとね。高いものでも負債…借金と言う形で、月毎に返済できる…クレジットローンが組めるようになるんだ」

「借金…」
「うん…君が、僕の家に慰謝料を支払ったり、父親の連帯保証人になってるようにさ。借金は何十年という時間、何代という世代に渡って債権者に返済される。人は生まれもって国家のシステムに組み込まれてるんだ、…喩え本人が死んでしまったとしてもね」
「…はい」

「僕らの用語では借金は負債と言うんだ」
「負債…?」
「具体的に言えば、買掛金だとか借入金のこと」
「かいかけ…」
「難しくかんがえなくていいよ。買掛金は後払いで現物を買う、借入金は、ただの借金」
「はい…」
「クレジットカード決済なんかも同じなんだ」

「負債は、基本的には未払い金だとか借入金だとか…、債務の事をいって、普通は自分達の純資産よりも小さくなるように組むものなんだ」
「…お小遣いより小さく?」
「そう、会社の稼ぎより小さく、父親の稼ぎより小さく」

「僕は、セコいから、わざわざローン組んでまで車とかは買わないんだ」
「…負債だからですか?」
「そう、僕にとっては、そんなものはステータスでもなんでもないからね」
「そうなんですか…」
「…こんな若者が多いせいで、企業の方は困ってるんだけどね」
「はは…」
「僕だって困ってる」

「いくら稼ぎが少なくてもね、身の程にあった生活さえすれば、貧しくはならない」
「車や土地を買わない…と言うことですか?」
「うん、例えば食費や光熱費だとか、出費を押さえれば、食えないほど貧しくはならない」
「はい…」
「それを…俺の親父はさ…」

「俺の親父は…俺以上に馬鹿だった」

「農家では子供は労働資本になるけど、サラリーマンの家では子供は負債なんだ」
「そんな…、あんまりです」
「うん…、でも家計簿ではさ、子供の学費も通院費も全部出費」
「…はい」
「俺に子供ができたら、死んでも本人に言わないよ、そんなことは」

「親父はさ、不動産バブルにかまけて、無茶な不動産売買をしたんだよ。クレジットローンを組んで不動産を買っては、それを抵当に、更に金を借りて、また不動産を買う。当時不動産の価値は上がるばかりだったんで、金を借りては不動産を買っての繰り返し。俺は錬金術師だとか笑っていたけど、俺からすればただ借金を繰り返してただけで。そしてそれが、例のバブル崩壊で、一気にパァだ」

「要するに、俺の母親は親父を捨てて家を出てった」
「…」
「そして僕は晴れて、そこそこ良いとこ家の三男坊主になった」
「悲しくはなかったですか?」
「いや、僕は薄情だからね。洋菓子や本を好きなだけ楽しめる今の家にすぐ順応できた」
「本当?」
「…本当だよ」
「そう…」

「やっぱり贅沢できるっていいなあ、と俺は心底思ったね」
「…」
「…本当は、鷲翔家に馴染めなくてさ」
「そう…なんですか」
「義兄も義姉も既に大学の学生、僕だけ中学」
「寂しかった?」
「と言うよりは恥ずかしい思いをした、かな…」
「そうなの?」
「常識が俺の家と全然違うんだ」

「僕の借家は狭くてさ、家族揃って居間で寝たんだけど…って、今もそうか」
「はい…」
「僕は狭い方が落ち着く」
「私もです」
「な、いいよな。皆で川の字で寝てさ」
「はい」
「もうとにかく鷲翔家は部屋が広くて」
「はい」
「一人部屋どころか書斎まであって、トイレいくにも縁側通って」

「とにかくもう夜が怖くてさ…、梟の声とか、烏の声とか…うるさいぐらい鳥や虫の声が部屋中に響いて、なのに部屋には俺一人だろ」
「はい」
「敷布団敷いても部屋の四隅に届かない」
「はい」
「もう…部屋中の角という角が暗くて怖くて…」 
「もしかして…呪縛霊?」
「そうかもしれない」

「思えば、呪縛霊と一度も会わなかったのは幸いだったなあ…」
「そうですね」
「昔は母親の布団に潜り込めばよかったけどさ、もう一人だろ…」
「はい」
「…ごめんな、さっきから」
「大丈夫です」
「…特に義父が怖い。親父と違ってなに考えてるかわからない厳格なおっさんで…」

「母親と俺、いつ追い出されるだろうって、怖くてさ…」
「はい」
「俺は少しも悪さが出来なかった」
「はい」
「…俺が落ち着いたのは、大学に出てからだったな。港区に安い部屋を借りたんだ」
「はい」
「義父は俺に何も言わなかった」
「はい」
「大学の友人と、夜ばか騒ぎしてさ…」

「大学行って、やっぱり俺と鷲翔家は相容れなかったんだなってわかったんだ」
「…」
「僕は、大して頭が良くなくてね」
「…」
「東京に…鷲翔の家で暮らし始めて、俺、急に自分が小さくなった気がしてさ」
「…」
「学業ばかりだ」
「…」
「母親は義父がいたからよかった、俺だけ除け者だった」

「今でもたまに思うよ。
俺は、あの時の俺は、鷲翔家にいた時の俺は…一体誰だったんだろう…ってさ」

* * *

「やはり名前を呼ぶ…と言うのは西洋魔術には大事なんだな」
「そうなんです、ヒトが名前を唱える事で、物事は本質を持つことができます。ヒトが名前を呼ぶとき、自己…自我…魂と呼ばれるものが、生命に宿るんです」
「テトラグラマトン…」
「鷲翔君にもできるようになりますよ」

「実存は本質に先立つ?」
「私には、わかりません。ですが、ヒトがそう言うのならば、そうなのではないでしょうか」
「僕は、本質の方が先だと思う」
「そうですか」
「偶然なんてあり得ない。こんな僕でも、この世の真理…時々、本当に大きなものに突き動かされる感覚を理解するときがある…」

「血脈の力だとか…、金の動きだとか…、自然現象だとか…あるいは…超常現象、人の歴史、人の歩み…人の意識…、集合無意識…、人の意志…」
「はい」
「それが、君の言う所の神かどうかは、僕にはまだわからない」
「はい」
「…なあ、それ、やめようぜ」
「…はい?」
「敬語」
「他人行儀?」

「無理強いは、しないけどさ…」
「そうですか…」
「…うん」

「せっかく契約したんだからさ」

* * *

「…私、鷲翔君に嫌われてる、と思ってました」

 明治神宮。お宮を前に手を合わせていた鷲翔は、眉を潜めて、隣の伽藍堂に向き直った。やはり強張った顔つきで見上げる伽藍堂と目があった。未だ鷲翔を見る時の伽藍堂の瞳には恐れだとか、緊張だとか、鷲翔に対する負の感情が見てとれた。

 腑に落ちない顔をした鷲翔が尋ねた。

「…僕が、いつそんな態度を取っただろう?」

 素朴な疑問だった。雨音が去った東京の景色はやはりじっとりとして、湿っぽさと静けさが残っている。空を覆うねずみ色の雲が風にのって、西に流れていく。流れる風が歩く鷲翔と伽藍堂の服をバサバサと扇いだ。

 背中を向けて先を歩いていた鷲翔が、振り返る。すると、今度は逆に伽藍堂が不思議そうな顔をして、首を傾げていた。お宮が伽藍堂の背後に鎮座している。神を前に嘘はつけない。何か言いたげに直立する伽藍堂に、つっけんどんに尋ねれば、おずおずした口調で言う。

「…いつも怖い顔をしてます」

「怖い顔?」

 鷲翔は訝しい目で伽藍堂を見た。すると伽藍堂は、あの…、と言って、先程から伽藍堂を目で睨む鷲翔の横について、見上げながら言った。

「…いつもそんな顔です」
「俺が…?」
「はい…」
「はぁ…」
「…はい」
「…」

 真顔で身構えて言う伽藍堂。伽藍堂は大真面目だった。別に鷲翔を貶めようとするような悪意の欠片もない、純粋な眼差しだった。伽藍堂は俺を嫌ってない。それがわかった途端、力が抜け落ちた鷲翔は何だか自分が情けなくなって、その場に腰を落として、はぁ…、と湿った息を吐いた。世界一しょうもない溜め息だった。

 突然踞って落ち込み始める鷲翔に、伽藍堂はスカートを気にしながら同じように隣にしゃがみこんで伺うように尋ねる。

「どうかしましたか」
「…あのさ」
「…はい」
「じゃあ伽藍堂さんは、どうしていつもそんな顔してたの?」
「そんな顔って…?」
「だからね…」

 そんな顔、と言って指差した先にはやはり怯えたように自分を見つめる眉の下がった伽藍堂の顔があった。

「俺は元々こういう顔」
「そうなんですか…」
「うん…」
「はい…」
「俺は、オギャアと生まれた瞬間から、こんな顔なの」
「そんな赤ちゃん…」
「いるんです…俺です」
「…」
「伽藍堂さんのは」
「私も元々こんななんです」
「…はぁ」
「生まれつきです…」
「はぁぁ……」

 20号線を進む黒のセダンは、新宿通に差し掛かり、皇居前を大きく右に曲がる。
 伽藍堂はやはり東京の光景に夢中だった。しかし今の伽藍堂の隣には俺がいる。運転する俺にも目線を寄越すようになった伽藍堂。空調が効かず、車内は相変わらずだったが、心なしか今朝よりずっと居心地がいいように思えた。

 俺は伽藍堂が尋ねる度に、学生時代のこと、昔食べ歩いた店やそこで会った人のこと、教授直伝の日本銀行成立の話や、昔いた三神企業のこと、自ら調べた故郷の歴史を得意気に話してやった。伽藍堂は嬉しそうに話を聞いて、俺も何だか饒舌だった。伽藍堂との会話が純粋に楽しかった。そこには何の含みもなかった。

 俺はやはり東京が好きだった。人の多さも道路の喧騒もビル並みも物価も土地も環状線も。人は東京を悪く思うかもしれない。でもここが…この経済の象徴とばかりに立ち並ぶビル並みの光景が、俺の故郷の実体なのだ。東京には人が集まる。イベントもある。奥多摩に向かえば雄大な自然もある。

 喩え日本が三つに別れたとしても、日本連邦の精鋭、日本の叡知がそこに全て集まっている、と思うのは、故郷が東京である俺の贔屓目からだろうか。一方で俺は東京も一地方都市にすぎないことも知った。この日本連邦には47都道府県の世界がそれぞれの利害を抱いて犇めいているのだ。

「伽藍堂さん、右を見て」

 フロントガラスの向こうに、国土交通省の建物が見える。先程から左にある皇居の御苑に釘付けの伽藍堂に呼び掛けて、ハンドルを左手に右の方を指差した。

 伽藍堂は、鷲翔の脇からひょっこりと顔を出して、運転席側の窓を眺めた。
 それは憲政記念館の影に隠れていて、車の移動に合わせていたゆっくりと姿を見せた。
 肩口の伽藍堂はやはり丸い目で、その建物を見ていた。

「国会議事堂だよ」

 伽藍堂さん、俺の国…表日本は彼処で作られるんだ。

 鷲翔にとって国会議事堂は重要な場所だった。

「俺は馬鹿だった。俺は、ここに来るまで、本当に世の中のことを知らなかったよ」

「僕の家には一応テレビがあったし、新聞も取ってたんだけどね、僕はニュースの見方も新聞の読み方もわからなかった。僕が…僕が今生きている時代が、どういう時代なのか…僕が一体何者なのか…、馬鹿な僕はそれすらもわからなかった

「僕は、あまりにも無学だった。自分のことも…世の中のことも…、あまりにも知らなかったんだよ。団地のあの狭いアパートでの僕は、果たして、僕として生きていたのかも未だわからない。だから僕には何が必要で何が必要でないか、それすらも昔はわからなかったんだ」

「俺は…中学の時、母親に連れられて、ここに…国会議事堂を見て、初めて理解したんだ。ここに僕が学問を学ぶ意義があったんだと…」

「ここに、選挙で選ばれた国会議員がいて、大臣が任命されて、委員会が設置されて、その回りに各省庁が取り囲むように鎮座して、その傘下に地方省庁がある。俺はここに立ってやっと理解したんだ。頭に電気が走った。教科書に書かれていたことが、ここにあったんだ…。」

 鷲翔の語りはいつの間に熱を帯びていた。車は国会前の信号機を抜けてそのまま霞ヶ関へ向かっていく。国会議事堂の姿は車の移動と一緒に傾いて、そのまま見えなくなる。

「…俺は頭が悪くてさ。10を知らないと、1がわからないんだ」

「他の人は、そんなことしなくても、もうわかってたことだったんだろうけどさ。俺はここにきて…鷲翔家に来れて本当によかったよ…」

「義父は、俺の親父と違ってね。いつもテレビは8ちゃんを見てるんだ。」
「NHK?」
「うん。ずっと国会生中継見てるんだ。予算審議とか…内閣総理の質疑応答とかさ。…僕んちは、いつもバラエティーばっかりで、僕もそっちの方が面白くて好きだった」

「義父は新聞の政治欄はしっかり切り抜いてスクラップにしててさ。国会便覧を初めて見たのも義父の家だった。議員が、どこの出身だとか意識するようになったのも、そっからだったかな」

「大げさに聞こえるかもしれないけど、僕は大学に行ってよかったよ。僕はそこで見聞が広がったんだ」
「はい…」
「金も、人生も、使いようだよ」
「…うん」
「だから伽藍堂さん。君も僕ももっと世の中を知らなきゃならない。僕らの命…人生の使い方が分かれば、きっともっと楽になる」

 運転席のドアを閉めて、車を降りた鷲翔は、東京タワーに向かって歩いていく伽藍堂の背中を見ていた。背中に後ろ手を組んで風に吹かれている。雨上がりの東京の空、雲間から日が覗き、青々しい柔らかな光が差し込んでいた。風に吹かれ東京の大地に立つ伽藍堂は、何処か神秘的で、何処か変な感じでもあった。

「…伽藍堂さん!」
 車から声を上げて呼びかける鷲翔に伽藍堂は遠くで振り返った。空に雲が流れていく。乾いた太陽と真っ赤な東京タワーを背後に連れて、伽藍堂は風景の中から鷲翔を見ていた。その返事を待っていた。
「伽藍堂さん、俺は…」
 風に扇がれる伽藍堂の髪。鷲翔の耳元で風の通る音がする。
 風に扇がれる鷲翔の短髪と服の襟。鷲翔が止めたセダンの前に立って、両手に拳を握っていた。目が何処か力んでいる。
「俺は、必ず、君との契約を守る」
 伽藍堂は静かな目で此方を見ている、続けて叫んだ。

「俺は、君の白魔術を解き明かす!」

「俺は、必ず、君の正体を、見つけ出す!」

「俺は必ず、お前から、魔術を奪って、現世に…東京に蘇ってみせるぞ!」
 そこまで言い切って、鷲翔は大股に歩いて、呆然とする伽藍堂の横を通りすぎていく。ムスっとした鷲翔の額に付いた紙冠は、いつまでも鷲翔の顔に馴染まない。

 伽藍堂は、目を見開いたまま立ち尽くし、東京タワーに向かって歩いていった鷲翔の背中をぼんやりと見送っている。

 暫く考え込んでいた伽藍堂は、地面に付けた足を、ふわりと宙に浮かせて、その不機嫌に歩く鷲翔の後を泳ぐように付いた。

「…鷲翔君」
「何だよ」
「大変だよ…白魔術」
「そうかい」

「死んでるからって自棄にならない方が…」
「ちゃんと目算あってのことだから」
「鷲翔君のエーテルなくなっちゃうよ?」
「うるさいな、悪魔は黙ってろよ」
「違うよ、私は、リリムと言って…魔女の」
「似たようなもんじゃないか」
「違うよ」

「私たちもヒトと同じように、アダムから生まれた人間だよ、鷲翔君」
 貴方に魔術は渡さないから。

 悪魔リリムは鷲翔の横に降りて、仏頂面でそのまま歩いていく。悪霊鷲翔はばつの悪い顔をして頭を掻いた。

 伽藍堂の背中を恨しく見た鷲翔は、まあいいや、強制成仏まで時間あるし、と考え直してその後をついた。


(4)未必の恋

 月出、茶院、毒島、三日月の4人組は同僚の人間関係を把握する社内の情報通だった。その中、会社で異質な存在である鷲翔と百夜は彼らの話題に上がりやすく、皆がその人物像をはかりかねている。
 例えば、鷲翔が部屋を出れば「どうしてあいつはいつもああ邪険なんだ」と、月出が彼のとっつきにくさをぼやき始めるのだ。
 すると決まって「鷲翔さんは本当はそんな人じゃ…」と躊躇いがちに声を出す人間がいる。百夜である。
「本当は、人の事をよく見ていて、皆の事を鷲翔さんなりに考えていて、でもそれを表にうまく出せないから、わかりにくいやり方でしか伝えられないだけで、本当は凄く優しい人なんだよ…」と庇いだてするので、「あんた、なんで…」と聞き返せば、「照れくさいんだと思う」と少し悩んだ風に返してくる。
 そんな百夜に、月出が「そうじゃなくてどうして伽藍堂さんがそれを知ってるんだ?」と突っ込んでみれば、百夜は虚を突かれたように目を丸くして、言葉を失った。

 まるで自分でも気がついてなかった様にポカンとした様子なので「なんで伽藍堂さんが驚くんだ」と、訳がわからないのはこっちだと月出は頭をかいた。それを他所に毒島は「というかそもそもどうしてあんたが鷲翔を庇うわけ?」と百夜を訝しむ。

 詰る様に顔を突き出す毒島に対し、百夜はええと…と困った顔をしてしどろもどろに口籠るだけだった。我関せずと言った風にその様子を見守るだけの男衆と悩んだ様子の三日月。
 うーん、と首を傾げた後で「…鷲翔君が優しいことなんてあったっけ?」と尋ねる三日月に、「身に覚えないわ…」と肩を竦めた毒島、「もしかして実はここの金魚に毎日餌をやってるとか、そう言う次元の奴では…?」と窓際の水槽を睨む様に見つめ顎を手に真面目な顔で考察する茶院に「俺たちは金魚以下か!」と再び頭を抱えだす月出。その…と口をまごつかせながら、取り付く島もないように、ただ話を聞き流すしかないのは百夜だ。

 毒島はそんな百夜の顔から目を外し「それにアイツもいい年齢よ?鷲翔の事情なんて知んないけど、普通そういう個人的な事はなるべく人前で出さない様にするし、無理そうだったら一言相談するのが大人なのよ。いつまで一人で思春期引きづってんのって話」と怠そうに続ける。
 それに乗っかる様に茶院が「世の中は助け合いが基本だからな!」と云々頷いた後「だから、一人ああいう態度を取られると、効率よく事が回らなくなって困るんだよ…」と少しやりづらそうな顔をして続けた。それに三日月が「もう。キララも茶院君も、鷲翔君相手になると容赦ないんだから!」と呆れた様に諌めれば『それもこれも全部鷲翔が悪い』と口を揃えるのは毒島、茶院、月出だ。鷲翔相手だから皆容赦がなかった。
 三日月は「百夜ちゃん、今度詳しく教えてくれる?」と、一人切り取られた様に事を見守っていた百夜に気がついたように覗き込んだ。

「別に私たち鷲翔君の事を本気で悪く言ってるわけじゃないの」

 「二人ともああ言ってるけど、本当はそれなりに鷲翔君の事を信頼しての事なのよ」と言う三日月に「そーそー。こう見えて私たち奴のことを心配してやってるわけ」と面倒そうに答えるのは毒島だ。
 少し真面目な口調で「あんたの言う鷲翔のそれと同じよ」と言った後「だからあんたの心配することじゃないから」 と手をひらひらさせて、やはり怠そうに事務机に突っ伏する。
 それを聞いた百夜は心配が杞憂だった事、改めて四人と鷲翔の間には自分の知らない信頼関係が成り立っている事を知り、余計な事を言ってしまったのだろうか、と少し後悔しながら、そうですね…、と安心した様にして、やはり無表情で部屋を去った。

 その場に残された四人は暫く間を取った後で「…ねぇ、どう思う?」と徐に口にするのである。最初に沈黙を破った毒島。「鷲翔君の事?」と尋ね返す三日月に、「…もしかして伽藍堂さんの事か?」と月出。そう…、と毒島は机から顔を起こした。
「だってあの捻くれを優しいって…、どうなのよ」の言葉に続けて「あれで優しいなら僕なんて超がつく優男では?」「世の中優しい人だらけだな」「平和だね」と流れる様に一同は畳み掛ける。
「そもそも鷲翔は誰かに庇われる様な人間じゃないよな」と解せない様に言う茶院。「正直伽藍堂さんも何考えてるのかわかんないからなあ…」と月出。

 すると入れ違いに鷲翔が帰ってくる。丁度月出が百夜についてぼやいたところである。
「なんだ、お前たちまだ帰ってなかったのか?」と後ろ手にドアを閉めて、脇に何やら書類を抱えて軽快に事務椅子に座る鷲翔。一方、緊張が走る一同。
 なんでこんなタイミングで帰ってくるのよ、と心中で溢した毒島はあからさまに面倒そうな顔をしているし、皆似たり寄ったりの表情をして顔を見合わせている。
 やはり言葉尻を捉えていた鷲翔は「…伽藍堂さんについて話してた?」と少し眉根を寄せて、強張った顔で聞いてくるのである。
 切り出しかねる三人を他所に、毒島がややぶっきらぼうな様子で「そうなのよ、あの子いつも一人でいるからどうしたんだろうなって皆で話してたの!」と開き直った言い方をする。
 それに「キララ」と少し諌める三日月。月出も茶院もどうしたものかと黙っている。

 鷲翔は世俗に関心がないのか、自分のノルマにしか興味がないのか、人がどうしたこうしたという話にはあまり食いつかない上に、無駄だとさえ言いかねないほどに人の話を聞かない。その為皆鷲翔の取り付きにくさに苦労しているが、それを本人の前で口にできないものだから、皆鷲翔のいない時にああでもない、こうでもないと鷲翔との接し方に頭を悩ませているのである。
 だから顔を蹙めた鷲翔を見て、どうせこの鷲翔の事だ、いつものように心外だと言った不機嫌な顔つきで、くだらないと一蹴するに違いない。と一同が身構えたのは自然な流れであった。
 しかし、先程から難しい顔をして顎に手を当てていた鷲翔は、ふと思いついた様に、そして真面目な顔つきでこう言うのである。

「伽藍堂さんはああ見えてよく笑う明るい人なんだよ」
 鷲翔の言葉に一同が凍りついた。そんな一同に介さず鷲翔はこう続けるのだ。

 伽藍堂さんを無愛想で分かりにくい人だと思うかもしれないけど、自分を表に出すことがうまくないだけで、別に何かを疎ましく思ってるわけじゃない。
 むしろいつも誰かの事を考えていて…なんと言うか、本当に心の澄んだ綺麗な人なんだよ。

 意に反して、饒舌に言葉を連ねる鷲翔のその口調は人に対する優しさどころかまるで百夜に対する慈しみすら感じられるものであったので、一同は何か得体の知れないものでも、良くないものでも見てしまったかのような顔つきで、ただあっけらかんと鷲翔の弁護する様を見続けるしかなかった。

 あの重箱の隅をつつくような皮肉を吐いて無駄に人の神経を逆だてるだけの鷲翔が、まるで敬意を払うかのような慎重な言葉選びで人を守る為だけに口を開いているのだ。

 なんだ、このデジャブは。

 月出はつい先程のやりとりを思い起こして、これは鷲翔が百夜を庇っているのだ、と行き着いた時に、心底度肝を抜かれて、今目の前にいる男が本当にあの鷲翔なのかどうか、と思わず横にいる三人に目線を送って、やはり皆同じような顔をしているので、月出はいよいよ口を開くしかなかった。
「…なあ、鷲翔。どうしてお前がそれを知ってるんだ?」

 すると鷲翔は、真面目な顔つきから急にギクリとした顔をして、ええと、それは別に…、と引きつった顔で目を泳がせたので、毒島はもう続けなかった。その気力がなかった。

「まあでも伽藍堂さんいつもああだから何考えてるのかわかんないし、地味だし、無愛想だし、実際暗そうだよな。でも僕らが気にする事じゃないんじゃないか。どうせそんな会う事もないだろ。…と言うか、会うなよ」
 じゃあ、俺はこれで…、と急に席を立ち荷物をまとめてそそくさとした態度で部屋を出て行った。

 暫くして百夜が「すみません、忘れ物があって」とおずおずと扉を開くと、なんだか疲れた顔をした面々がどんよりとして各々座っているので、「何かあったんですか」と尋ねれば「もういい、もういい…」と月出が重々しく首を振って「百夜ちゃん。悪いけど私たちの事はほっといてくれる?」と毒島が机に突っ伏しながらくぐもった声で言うので、百夜は「はい…」と気にしたような顔で覗き込みながら静かに扉を閉じて、コツコツコツ、と靴音を鳴らして去って行く。

「あ…、百夜ちゃん傘…」と三日月が事務机の横に立て掛けてある薄紅色の傘の事を口にする頃には、暫くの時間が過ぎていた。

 外は雨が降っており、窓には無数の水滴が滝のように流れて、その暗闇の向こうに白い街灯の光が淡く浮かび上がっている。その雨の打つ音が一同の沈黙を掻き消していた。
 そして、その三日月の呟きに答えるように喋り出したのが毒島である。

「…ねえ、どう思う」と机に顔を擦り付けてジトッとした目で尋ねる毒島は、自分のわかりやすいぐらいの鎌かけに、あの鷲翔が無警戒で引っかかり且つとんでもないものを落としてくるとは思わなかったので、半ばヤケクソになっていた。
「どうって…」と尋ね返す三日月に焦れたように「…だから、あの子、分かってんのかな。鷲翔がどんな奴か」
 鷲翔がどんな風にあの子を見てるのか、と続ける毒島。恐らくは彼女は何も分かっていないのである。鷲翔も、自身も、自分たちのことも。

「だって、やばいでしょ。あの子何歳だと思ってるの。鷲翔も幾つのつもりなのよ。あの子、自分がなんなのか分かってんの?…と、言うか鷲翔がそもそも立場分かってんの?」
「ていうかあの子がなんなのかもわかんないのに、鷲翔もよくこの会社に連れ込んだわね」
「アイツらなんなの?付き合ってるの?」
「そしたら私たち、二人にどんな顔して、なんて言えばいいわけ?」
「二人のためにおめでとうって言えばいいの?それとも二人のためにやめておけって言えばいいの?どっちなの」

 自分の問いに、訳もわからず動揺してほんのり赤くなった百夜の俯いた顔を思い出して、ああもう意味わかんない、と文句を垂れ流しながら、毒島は机に顔を埋めて頭を押さえ込んだ。
 これには流石に三日月も悩んだように俯いて、茶院も月出も思わしくない顔つきをして腕を組んで押し黙っていた。

 一向に止む気配のない雨。
 置き去りにされたままの傘が意味する所を考えれば考える程に空気が重たくなる。
 百夜が私服なのがせめての救いだったかも知れない。しかしやはりやり切れないように湿った溜息が漏れて、誰でもない誰かがポツリとこう言葉を降ろした。

『やっぱりリリムは厄介だな』


(5)ある少年の夏の日

「僕はね、アレイスター・クロウリーの成りそこないなんだよ」

「僕がまだ生徒だった頃だ。といってもまだ小学の時だぜ?僕の友人…いや、向こうに取っちゃただのクラスメイトか…。大学付属で、親が資産家のそこそこ頭のいい奴が通うんだよ。皆如何にも聡明で、小奇麗な身なりで目に光のある奴ばかりだった…そんなピリっとしたお堅い教室に一人ヘンな奴がいてさ」

「いつも校庭で土ばっか弄ってる奴がいたんだ。わかるか?周りは小学の癖に高そうなワイシャツやブランド物の高価な衣服に身を包んで、光沢のある靴を履いて登下校するような、イロモノ集団なんだよ。その中に一人、シャツに短パンという場違いに小汚い格好で机に足を乗っける土まみれな奴がいたんだ」

「膝小僧は切り傷擦り傷で皮ごと痛んでいて、腕はかさぶただらけだった。爪の中には黒い土が挟まっているし、一応手は洗っていたんだろうが、その渇いた手で平気で鼻下を擦るもんだから、「黴菌」とかいって周りの席の奴らは机をそいつから一歩引いててさ。正直僕も、ソイツが嫌いだった。初めは…」

「話すようになったきっかけは、実はよく覚えてないんだ。教室後ろ、掃除用具のロッカーの前に席のある窓際族の…かくいう僕も、あまりクラスに馴染めていなかった。典型的なネクラでさ。いつもキョロキョロと人目を伺って、そのクラスのボス猿の横については、面白くないのに口端を押し上げてるんだ」
「僕の家は、よくある普通の中間所得層の家庭だ。父親は銀行マン、母親はアイドルのおっかけ。長男はパソコンオタクで、高校上がるといつの間にか県で有数のコンピューター技術者検定の資格を持っていて、よく人に名前を貸していた。対して僕は、頭は全くよくなかった。でも狡賢さだけは一人前だった」

「こうもりみたいな人間だった。いつも人の後ろにくっついてたもんだから、あるとき、ちょっとしたことでボス猿同士が対立して、クラスに派閥ができ上がった。その時に、僕は、その変わり身が祟って、何処のグループにも所属することもできずに、クラスで浮くようになってしまったんだよな。」

「派閥争いを終える方法なんて簡単なものだった。最初こそクラス風景を険悪に追い込んだ皆が怖れ影で色々言われていた嫌われ者の二人だが、もとは長に相応しく実に合理的で利己的で話のわかる奴だ。傘下の進言ですぐに和解した。ただその矛先を変えればいい。その矛先は当然、気弱で卑怯者の僕の事だ」

「集団を統率するために一番手っとり早い方法が、共通の敵を設定する事だ。派閥はたちまち一体となって僕に攻撃を仕掛けた。顔を覗いては含み笑いで侮辱され、掃除に、当番に、酷くコキ使われたよ。クラスで無視されるようになってから、いつのまに僕はスクールカーストの最下位に付いたんだよな」

「あまり、その頃の話は思い出したくもないんだけど、わかるかな。普段人望があって上から信頼されている人間の圧力というのはとんでもない。裏がなさそうで、目が優しい真面目そうな優等生ばかりだったからさ、教師は生徒間のカーストに全く気が付かない。利口だから講義中だけ僕に優しく接する」

「やっぱり親が親だから変な期待あってさ…そういう真面目な奴らにも、普段から抑えつけられてるものがあって溜まっていたんだろうと思う。不思議な事に、最初は屈辱を感じても、数日間連続してその上下関係が続くと、人の自尊心は死んでしまってそのカーストを無為に受け入れてしまうもんなんだよ」

「虫の居所が悪くなるとじっと席に座る僕の肩を引っ張って校舎裏で殴られて、トイレではバケツで水を掛けられて濡れた衣服で授業を受ける。そんな奴隷みたいに好き勝手されてた時にな、僕は自然とソイツと話すようになったんだよ。ソイツは何故かスクールカーストの外側にいて、誰も相手にしなかった」

「彼…いつまでも彼じゃ分かりにくいな。仮に、九郎君と呼ぼう。あの土弄りの九郎君だ。見た目からして薄汚く田舎っぺの九郎君は、正に彼らの奴隷の対象に相応しい人物に思えた。やはりと言うべきか、一番最初のカーストの矛先は彼だったよ。男の癖に狡いんだよな。ボスはまずは上履きを隠した」

「何も知らず登校してきた九郎君は、生徒玄関を抜けて下駄箱を開いた。そしてすぐに上履きが無い事に気が付いた。それを傘立ての方から伺い見て、気分をよくするボス。薄笑いをする子分。気分を悪くしながら怖々と伺い見る卑怯者の僕の視線の先で、成す術なくじっと靴箱を見つめている九郎君」

「虚を突かれた様に棒立ちする九郎君を遠巻きで満足げに舐めるように見ていたボスが、これから面白くなるぞ、と低く呟き、僕はそれに恐れをなしながら、さて成果報告のために引き上げよう、といって、顔を寄せ合っていた一同が解散し傘立てを離れようとした時に、急に九郎君がこちらを向いた」

「気配でも察したのか、それとも、何となく勘づいていたのかそれは今でも分からない。こちら側はぎょっとしたように動きを止めて、目を開いたまま目配せをした、九郎君は真っすぐにこちらに歩いてきた。これまでの上下関係を超越する存在にやばくね?と逃げ足が床を踏んだ、その一瞬の事だった」

「九郎君は、その一瞬だけ後ろに浮いていたボスの足を、右足で素早く払ってみせて、ボスの視界を一回転させた。僕に見えたのは、宙に手足を投げて逆さまになったボスと、ドサリと僕らの目の前で床に背中を打ちつけたボス。その二つだけ。痛みに悶え何が起こったか理解できずに目を白黒させるボス」

「床に大の字に伸びて天井をパチパチと見つめるボスの前に、足を広げ無言でそり立つ九郎君。それで全てが決した。息をするのも忘れてただ茫然と見つめるだけの僕達は、九郎君の「靴、返して」の強い声に、云々と頷いて従うしかなかった。舎弟がおずおずと隠し持っていた靴を取り出して、渡した」

「滲んだ名前と土で汚れた上履きを摘まんで、恐る恐る伸ばし寄こしたそれをピシャっと鋭い早さで奪い取った九郎君が、「二度とこんなセコイまねしないで」と言い捨てて、そのまま廊下を歩いて教室に去って行った。結局は皆ヘタレで利口だからさ、勝てない喧嘩とわかるとそれだけで潮らしくなる。」

「小学の情報網は何と言っても人の口だ。たちまち噂は広がって、それ以来九郎君はカーストの外側にいた。クラスメイトは皆、一層厄介に思って近寄ろうともしないし、それが分かっているのか九郎君も授業以外で相手にしない。後ろめたさの無い彼の不遜の態度はカースト暴君を寄せ付けなかったんだ」

「僕は一人でいる九郎君を猿山から遠巻きに見つめて皆と一緒に冷笑していたんだけど、心の何処かで拠り所のように感じたのかもしれない。僕にとって一人や孤独は恐怖の対象だった。だからいつも強者にすり寄った。そんな僕と対照的に九郎君は孤独を意もせず、むしろ好んで独りでいるように見えた」

「最初こそ、協調性の内不衛生で嫌な奴だとおもって引いていたんだけど、そんな孤独に彼はすんなり適応して、悪意を溜める事もなく、毎日を平気で過ごしていた。卑怯者の僕にとって孤立を物怖じしない九郎君は、畏怖の対象で、カースト下で過ごすうちにそれがいつの間にか敬意に変わっていたんだよ」

「そんな孤独を受け入れている九郎君と孤独に耐えられないカースト5位の僕が話をするようになるのは時間の問題だったよ」

* * *

「そんな日々を過ごすうち、梅雨に入る頃には、僕の日常からは表情が失せていて、憩いの場である家庭でさえもそのカースト制度の面影が人の態度となって静かに忍びより、僕のありかは危ういものとなっていた。クラスの下僕だった僕は、家族に相談する事も出来ず家と学校を行き来するだけとなっていた」

「家族からさぞ愛想がないと、それでも僕は学校のいじめだけは家族に知られたくなかった。だから家に帰ると母に顔を合わせないうちにすぐに自室に籠もり、孤独に耐えるように漫画を貪り、夜明けを呪うようにしながら夜ゲームに明け暮れた。両親の呼びかけを拒む自室は自分にとっての最後の牙城だった」

「思えば、両親はだいだいの事情は察していたのかもしれない。しかし僕の父親は厳しかった。優秀な兄と違い僕は不出来だった。もしもこれを自力で脱せず、心折れたのなら、家を追い出されるとさえ思った。僕は父親が怖かった。だから僕は両親に泣きついて逃げのびる事も出来ず、ただ耐えるしかなった」

「そんなある時、僕は味のしない朝食を口内に押し込んで、重たい玄関を押し開いて、いつものように通学路を地面を見ながら歩いていた。すると、夏草の茂った河川敷に何か白いものが蠢いているのが見え思考に触れた。その時の僕は正直何かに関わる気力も無かったし、本当は無視もできたはずだった」

「でもその境川に転落しかけている白い物体が、白シャツを着た九郎君と気が付いた時、亡霊だった僕ははっきりと目が覚めて、意識が覚醒した。思わず『九郎君!』と声を上げ、急いで坂を駆け下りた後、手足に雑草の鋭い葉が擦り、河川敷の泥に片足を突っ込んだのも無視して、夢中で川に飛び込んだ」

『大丈夫か』
「ゲホと、両手を突いてその場に水を吐きだしながら酸素を求める僕は、九郎君を助けるはずが、何故か九郎君に助けられていた。情けない事に、あの時の僕が動転していて、泳げない事実をすっかり忘れてしまった。濡れた体を河川敷に引き上げられるままに横たわる僕は日光で干からびた」

 夏草を凌いで露出して渇いていた地面は水を含み黒い染みつくって環となって広がる。その真ん中で横たわったまま、身体を湿らせて大きく呼吸をする僕に、九郎君は、隣で顔を覗き込むようにしてしゃがみこむ。そして一言
『高学年にもなって泳げないって恥ずかしくない?』
と僕に毒づいた。

 確かに、僕達はクラスで一言二言交わしているはずだった。僕と九郎君はすでに初対面ではない。だが、仮にも人を助けようした自分にこのいい様はあんまりではないか。一言罵声でも浴びせてやろうと思って威勢よく口を開いた僕だったが、情けない事に何故か「恥ずかしい…」と意に反した言葉が漏れる。

 隣で声を立てて笑う九郎君に僕は心から「悔しい」と声を上げた。お前に笑われる筋合いはない、という意味で恨めしい声を上げたのだが、相手はそう受け取らなかったらしい。顔と上体を地面から起こして、細く睨んで見せた僕の殺意の視線を跳ねのけ、笑顔で肩に手をやる九郎君は「中学までに頑張れ」と簡単に言い放ってしまった。

 人の嫉妬をからっと流した彼に、僕の殺意の視線は忽ち失意に萎んだ。水を含んで額に吸いつく前髪をしおしおと垂らし頬に水を伝わせながら、脳が冷えた僕は、改めて自分の衣服と、泥に放ったランドセルから吐き出されていた教科書の無残な姿と、対象的に晴れやかな九郎君。

 それらを見比べて、力なく溜息をついた。

「そこで握手して、これは取り返しのつかない事をしてしまったぞ…と、気が付いた。いじめられっ子に黴菌、まるで残飯のような組み合わせだ。唯でさえ嫌われ者二人が一緒にいればクラスの連中に何て言われるか。卑怯な僕はそればかり考えて落ち付かなかった」

「それから衣服も勉強道具もグチャグチャな僕は、当然九郎君と学校を丸一日サボる流れになる。実は九郎君と親身になって話したのは、それっきりなんだ。元々僕は九郎君を虐めていた側だったし、九郎君は別に人が急に態度を変えたからと気にするような人間でもない。ただ沈黙で非難するだけだ」

「ただ、その九郎君の日常に触れた奇妙な一日は、僕にとっては人生の半分に相当する程の強大なものだった。彼の人生観は、僕にとってはパンドラの箱だ。もしかすると僕は彼のせいで生来定められていたはずの人生が狂ってしまったのかもしれない。僕はその日コペルニクス的転回を経験する事になる」

「そして、僕がアレイスター・クロウリー…つまりは魔術師に成りそこなった理由は、正に、九郎君にある。将来的にアレイスター・クロウリーになったのは僕ではなく、その九郎君だ。その長く短いある夏の一日を君に教えたいと思う」

* * *

 黙々と土をいじる九郎君が語った事は今でも覚えている。
「黒い土の中にはミミズがいるんだよ。褐色森林土といって、良い土なんだ。」
「何で僕があんな目に会わなきゃいけなかったんだろう」
「昔見た映画でこんな台詞があった。『生き物は、同じ種類の生き物に縄張りを渡そうとはしません。追い出すまで戦う、それが生き物です』。多分そういう事なんだと思う」

「あんな狭いコミュニティの中に大勢を押し込んで長時間居続けるから、ああいう派閥争いや弱い者いじめが起きる。大局が見えないんだ。特に思考が必要な人間集団に、目的と秩序が無ければ尚更そうなるよ…、…そう、いつか、誰かから聞いたんだ。僕の知ってる誰かから…」
「僕だって腹が立つ時もある」
「だから僕はそういうとき独りで虫取りをしたり、海に行く、自然の雄大さに触れる」

「なんとなくそういう時にわかる、ああ、自分はいかにちっぽけな存在で、大きなものに突き動かされ生かされているんだなって。自分の小ささを知ってれば、そんな事しないだろ。今直接土を弄って大根とか米とかつくったり、生きた動物を殺して喰わないだろ。だから偶に、忘れちゃうんだよな。そういうの」

「僕は、リリムと呼ばれる種族の人たちと交流しているんだ。僕はリリムと呼ばれる人々の遺伝子に、ある共通の遺伝子がある事が気が付いた。それを取り除き組み合わせると、全く別の、一つの生命体ができ上がる事に気が付いたんだ」
「全てのリリムの始祖と言われている…この世にある全ての悪魔・悪霊の母親、あらゆる研究者が憧れ、調査隊が探索に赴き、女神として祈り拝む…」
「そう、リリスだよ」


(6)天岩戸

 大学から帰宅してする事と言えば、まずは堅っ苦しい衣服を脱ぎ捨て、緊張を解きほぐし、“引きこもり態勢”になる事だ。何せ大学に行くにも、遊びに行くにも、着物姿の私だったので、その普段の気の張り様と言ったら、カジュアル衣装の比ではないのだ。着物を着るという事は、見た目だけではなく、それなりの所作を求められる。簡単に言えば礼儀作法だ。言葉遣いもそうであるし、食事の仕方や歩き方に至るまでの一挙一動に品性を求められる気がするのは、杞憂ではないはずだ。何せこの現代に着物姿で外を出歩くなんてお人は、育ちも家柄もいい人ばかりで、やはり人目を惹くようなゆったりとした上品さがある。そんな憧れから、キャラ作りの為に来ている和装は、想像よりも心に負担がくるものだった。何せ仰々しく走る事もままならない。電車一本遅れようものなら、汗水を吸った着物が肌に張り付いて、丹念に時間をかけた着付けが台無しになるのだ。何より、今までこつこちと築き上げてきた「大和撫子」なイメージが汚れる。だから外を出歩く時は、いついかなる時も隙を見せず、穏やかな顔を保ったまま、袖のほつれすら許さない気合いの入れようなのだ。
 そんな「外面」を良くする魔法は家に帰るまでしか効き目がない。家の門をくぐった途端、全身の力は抜けて、一瞬でオフのスタイルに様変わりしてしまうのが、大学終わりのお約束だった。今日も一日頑張って、一般人に「擬態」した。その覆い隠している本性のステルスぷりと言ったら、アカデミー賞ものと言っても過言ではないだろう。それ程までに普段自我を隠して日常を過ごしている。さもなければ、私の社会的地位などあっとういう間に崩壊して、後ろ指指されるような薄暗い人生が待っているのだ。そして来るべき明日をまた生き抜くには、「充電」が必要だ。
 桜杏はうーん、と肩から背伸びして、自室のドアを開き電灯をつけた。そして部屋に入るなり和服を脱ぎハンガーにかけつつ、パーカーとスウェット姿に早変わりして、どしりと机の前に座った。やはりこの瞬間が一番リラックスできる。ようやく私は歴とした「オタク」としての活動を再開することができるのだ。今日も辛く、長い一日だった。だからこそ報酬は必要だ。
 ノートパソコンを開き、慣れた操作でウィンドウを立ち上げれば画面いっぱいに映し出される推しの姿。この笑顔の迎えられて初めて私は私に立ち帰ることができる。さぁ、お楽しみはこれからだ。今日は課題もないので、贅沢に自分の趣味の時間に割いて、いつも楽しみにしている週一のアニメを見て今日を終えよう。そんな不純な目論見をした矢先の事だった。

 ピンポーン。

 ドアチャイムが鳴った。ドンドンドン。誰だろうと思う暇もなく、チャイムと同時に玄関から激しく戸口を叩く音がする。なんだか雲行きが怪しくなった。
 パソコンは未だ推しの顔を画面に映したまま静止している。今ならまだ間に合うか?淑女に扮して来訪に対応できるか?どうするか決めかねていた時、その声は響いてきた。
「モモ、俺だよ。ロイだよ。暇だから遊びにきたよ!一緒に遊ぼうぜ!」
 なんて突拍子もない理由の来客なんだ。桜杏は思わず頭を抱えた。今一番会いたくないタイプだった。普段控えめな日本女性な外面をぶら下げて会っているものだから、とんでもない誤解を与えているに違いない。そして彼は何より同じオタク仲間と言えども、そこまで深くは知らない上に、エネルギッシュとにかく明るいものだから、一緒にいると普段の倍近く気力を使うのだ。
 ロイの来訪に戸惑いつつ、それでも私は動画配信の続きが見たかった。なにより今日は推しキャラの登場するアニメの放送日、何がなんでも譲れない日なのだ。だから他の何かをするような気構えではできてはいない。こうなれば手段は一つ。居留守だ。
 桜杏は部屋の電気を消して、布団を頭から被って忍びつつ、パソコンを寝床に引き摺り込んでイヤホンをつけた。これであとは息を潜めて過ぎ去るのを待つだけだ。私は勝利を確信した。ただでさえ大学では存在感が薄いことが自慢なのだ。自身は極力背景に馴染んで、空気を逆撫でない。和を以て尊しとなす日本の精神は、こんなところでも活きるのだ。今私は、布団と一体となった。これに気がつく猛者はいないだろう。
 しかし、そんな期待を裏切るかのように、遠くでガラガラと戸口が開く音がした。息が止まった。
「あれ、なんか鍵が開いてるケド、一人暮らしなのに不用心だな。とりあえずお邪魔するよ」
 何事かと焦燥が頭を巡り、身の毛がよだった。確かに鍵を閉めたはずなのに、何故かロイは呆気なく家に侵入してきたのだ。
 彼は容赦なく廊下を歩いていき、まっすぐこの部屋に向かってドタドタやって来た挙句に、鍵をかけた私室の前に立ち、ドアノブをガチャガチャと弄り出したのだ。かろうじて錠が侵入を阻止している。ドアが前後に軋んだ時、悲鳴を上げる思いだった。
 「モモ、いないのかい」
 そんな桜杏の心もいざ知らず、ロイは壁一枚隔てた先で、ドンドンと音を鳴らしながら、無慈悲にもお声がけしてくる。そんな事態にも関わらず、私は依然として居留守を決め込んで、身を縮めて音を立てずにいた。鍵は閉まっているんだ、だからなんとかなる。相手が不法侵入紛いだなんて、この際どうでも良かった。どうかこのまま、立ち去ってください。私は神に祈る思いだった。平和な明日を迎える為には、オタ活が必要なのだ。だから何卒。布団の中、祈手にして固く目を瞑る。
 そんな時、ドアの向こうで、何かの安全装置を外して引き金を引くような音がした。瞬間、けたたましいマシンガンの銃声と、夥しい程の弾痕で、背中にあったドアが破壊された。あ、と声を漏らす頃には、ロイの一蹴りで、ドアだった物体は、木屑と共に床に倒れ伏せてしまった。どさ、と煙を吐き出したドアはひしゃげている。軽い金属の跳ね回る音と共に、大量の空薬莢が光を反射しながら床に散らばっていく。コツ、と軍靴を進めるのはロイ・マーティンその人。男の前に晒し上げになったオタクの部屋では、布団を被った私が目をぱちくりさせている。
「やっぱりいるじゃないかモモ、友人が来たのに無視なんて良くないぞ、だから君はいつまでもヒキコモリが治らないんだよ」
 よ。ロイは右手を挙げて景気良く言い放った。壁一面の規則的な弾痕、床に広がる空薬莢。机のフィギュアは半壊、推しのポスターは穴だらけになって、ある種の悲壮感を醸している。まるでこの一室だけ銃撃戦に遭ったかのようだった。実際これはテロリズム以外のなんでもないだろう。おずおずと私は布団を這い出た。あまりの事態に呆然とするしかないし、これから何をしていいのかもわからない。男を見上げれば、ロイの両手にはまだ熱帯びているメカメカしい銃火器が抱えられ、その銃口から薄く煙が薄く立ち昇っている。ついに私は声にならない声を上げた。
 その絶叫と同時に今度は天井から破裂音がした。何かと思って見上げれば、天井から板が砂と一緒に降って来たかと思えば、その黒い穴から片足が覗いて、部屋のど真ん中にトン、と何かが着地した。私は一層濃い悲鳴を上げた。ロイは即座に銃口をそこに向けている。天井から降りて来たのは男だった。
「戦の最前線にいるかと錯覚するような銃撃音がしたが、何があった、桜杏。そこの愚弟が君に何かしたかね。話してみなさい」
 天井の板を靴底で一枚ぶち抜いて、そこから何食わぬ顔で部屋に侵入して来たのはミカエルだった。毅然と剣を構えて登場し、自分が正義漢か何かのようにして、桜杏の前に庇い出た。屋根裏で、なにか巨大なコンピュータや諜報機材が動く音がする。そんな物を勝手に設置して極秘に潜入捜査とスパイ活動していたらしいこの男こそ、諜報員ミカエル・ウォードだ。見れば顔にはヘッドホンマイクが付けられている。片や銃火器、片や軍刀。両者ともまるで悪びれもなく。
 結局、玄関の鍵を突破したのは予め家に潜伏していたらしいミカエルさんだったのか、それとも今まさに侵攻中のロイ君のだったのか、そんなこと知る由もない。果たしてこの牙城を先に突破したのは兄と弟、一体どちらだったのか。そして、ミカエルさんはいつからそこにいたのかな。ロイ君はいつから家の間取りを把握してたのかな。そしていつまで兄弟はここにいるのかな。
 そんな桜杏を他所に、ロイとミカエル、両者対峙して睨み合ったまま微動だにしない。相手の出方を伺っているのか、付け入る隙もないのか、隙を見せればやられるのか、見ためではわからない兄弟同士の暗黙のやり取りか、はたまた軍人同士の高度な心理戦か、武人同士の読み合いが行われているのかはわからない。が、とにかく喧嘩するならお二人の故郷と実家でやって欲しいなと思いつつ、桜杏は一人祈った。
 神様、どうか今はこの二人の怒りを鎮めてください。どうか、天岩戸を返してください。私には明日を生きる為にアニメが必要なのです。そして、このお二人についても、出来れば私に許可なく家に不法侵入したり、内緒で屋根裏を極秘調査や諜報活動の根城にするのはやめてください。
 ロイ君、ミカエルさん。どうか、私の為に争うのはやめて。


(7)聖なる夜に

 それは年に一度の聖夜前日のこと、年甲斐もなく、部屋をクリスマス仕様にした。と言っても、アニメ消化中に作った紙製の輪で申し訳程度に部屋を飾りつけ、倉庫で眠っていた造花の小さなモミの木を引っ張り出し、そこにイルミネーションのライトを括り付け、ベルやプレゼント、色とりどりの球体のおもちゃを引っ掛け、仕上げに木の天辺に星つけただけのクリスマスツリーを部屋の隅に置いて、終わりに玄関の戸口にクリスマスリースを付けただけで、なんの面白味もない形だけのクリスマスだった。
 他のクリスマス要素といえば、本棚や机上に立ち並んだキャラクターフィギュアとぬいぐるみ、壁に貼られたアニメポスターがクリスマス仕様のものに変わって、壁掛けのカレンダーが年末仕様になっているぐらいだろうか。クリスマスだからといって桜杏の生活は何一つ変わらず、いつも通りアニメやゲームを消費して、大学の課題の残りをやりつつ、隙を見てはクリスマスを題材にしたネタをペンタブやキーボードで書き起こすだけの、味気ないオタク仕様の灰色のクリスマスだ。

 冷気の漂う窓枠の向こうでは、鼠色の黒ずんだ空が覗く。無数のボタ雪が音も無くしんしんと降り積もり、時折遠くで泣いている北風が窓ガラスを叩いて、うす氷の張った水面の如くにひんやりと凍えている。
 桜杏はこたつに足を放り布団を肩から被ってみかんの皮をべりと剥いては、実の繊維を丁寧に取りつつ、実を一粒だけ頬張り、パソコンモニターに瞬くアニメを暗い瞳に反射しながら、のんびりと冬を過ごしていた。熱った足先は、こたつの熱と布団でぬくぬくして一層気持ちがいい。いわゆる世間でいう所のボッチマスだがオタクにはそんなの関係ない。ダラダラとアニメを見ながらこたつで過ごすクリスマス・イヴは最高である。
 さて、とこたつ机のケーキ箱を開いた。丸いスポンジの上には濃厚なミルクを凝縮したホイップクリームが生地一面にたっぷりと塗られて、リースのように飾り付けられたクリームの小山に並べられた真っ赤で大粒の苺、そして粉パウダーが雪でも模した様にサラサラと苺を白銀に染めている。白いデコペンでMerry Christmasの書かれたチョコプレートのすぐ側に砂糖菓子でできたサンタのおじさんがにっこり笑って、小粒な赤い実を蓄えた柊の葉っぱが生地に刺さっている。これはなんと見事なクリスマスケーキだろうか。
 そのケーキの傍に推しのデフォルメフィギュアを立たせて写真を撮り、HPの日記に載せれば、それだけで充実したオタク的クリスマスを演出できる。そして、皿に切り分けたケーキをフォークでつついて食べて、なんとなくチャンネルを回しその日の特番さえ見ていれば、日本人にとっては充分すぎる程ハッピーでメリーなクリスマスの一夜を過ごせるのだ。むしろ、片手間で真面目に大学生をやりつつ、隠れオタクをしている桜杏にとって、クリスマスは貴重な祝日である。そんなありがたい日を大学の同期や善良な一般市民の友人たちと、パーティと称して飲み会を催し、近所やデパートで行われるクリスマス的イベントに参加するなどと言う精神的余裕と経済的ゆとりとは、インドアで陰気なオタクには既に残されていないのだ。何せクリスマスにお正月と言えばオタクにとって同人誌企画や推しジャンルのイベントを興すには絶好の期間。世間がクリスマス色に染まり、大型デパートからアパレル店、飲食店、ゲームやおもちゃを扱う玩具屋に至ってもクリスマス商戦に沸き上がり、父子揃って賑やかな親子連れから甘い時を過ごそうと目論むデーティング中のカップルにかけてまで、広くターゲット層を狙っているように、我々陰のオタクたちも、推したちの聖夜を応援するアンソロ企画に参加したり、推しを愛でるイベントを鑑賞できる絶好の期間である。冬コミなどに参加してアグレッシブに推し活を堪能するも良し、家でのんびりと積んでいるゲームを消化するも良し。兎角冬休みという時期は我々にとっては、オタク行事に始まりオタク行事に終わる、多忙かつ幸福なひとときなのだ。
 
 しかし、クリスマスと言えばやはり、太いリボンで封された豪華な箱、サンタさんからのプレゼントだ。桜杏はすでに成人済み。プレゼントをもらえるような年齢でも、家族構成でもないけども、毎年の恒例行事としてクリスマス用の靴下をベッドの脇にかけて就寝するのがお約束だった。喩え一生に一度も貰えなくとも、喩えサンタの正体が自分自身なんて味気ない結末だったとしても、桜杏にとって、靴下を飾ることは意味があった。そう我が家は所詮、上部をなぞっただけのハリボテのクリスマス。宗教家からはお叱りを受けるに違いない。それでも、願掛けと言わんばかりに壁に靴下をぶら下げてしまうのは、桜杏の中でサンタのプレゼントというのが最もクリスマスらしいと感じられる、端的に言って密かな憧れがあったからだ。
 朝目覚めた時、ゴムいっぱいに膨らんだ靴下を見たら、どんなに幸せな事だろう、聖夜の始まりがプレゼントの包み紙を開くことならどんなに素敵だろうと、この年になってもときめきを忘れる事ができない。だから、鬼月家のクリスマスは形だけでいいのだ。私はクリスマスらしいことしかできないけど、それでも幸せに浸れるのだから。眠りに落ちる瞬間だけは、聖夜の奇跡を信じる事ができるから。
 そうして、壁に掛けられた靴下をにんまりと眺めつつ、桜杏は眠りについた。

 その聖なる夜に、桜杏は不思議な夢を見た。ぐにゃりと空間がたなびく夢の中、窓が一人でに開いて、何者かが侵入してきた一方で、天井の板が勝手に外れてさらにもう一人侵入してくる。そんな気配を肌で感じる、妙にリアルな夢だった。妙と言えばその二人は部屋に入ったと思えば、さきから部屋をガサゴソ物色しているようなのである。まさか泥棒?ハッと意識を起こして、しかし身体は金縛りにあったように動かない。いや、動けないのだ。何かヒヤリ、と氷でも当てられたような悪寒がある。脳裏に警鐘が鳴り響いて、見てはいけないものを見てしまうような、その瞬間全てが終わってしまうような、そんな予感がして胸騒ぎが止まらなかった。夢うつつにも関わらず臨場感だけは身に迫るようはっきりしていて、手足にじんわりと汗が滲む。喩え夢で終わろうとも、部屋に無断で誰かが潜んでいるこの状況、まして相手は二人だ。このままではいけない。
 悴む手をそっと伸ばし、恐る恐るリモコンで電灯を点けた。すると、パッと明るく照らされた屋内に、巨体な影法師が二つ聳える。
 ピシャーン。
 点灯と同時に、外から鋭い風鳴りがする。そこには男二人が立っていた。

 突然の出来事に驚いたが、しかし桜杏はぎゃあ!と悲鳴をあげる事はできなかった。
 何故ならその男のうちの一人は首から下は軍服を着込んでいるのに、何故か片方の手には誕生日会でよく見るクラッカーを持ちつ、頭の上には白いボンボンのぶら下がった白で裾上げされた真っ赤な帽子、いわゆるサンタ帽を被っているのだが、その全身はまるで戦地から帰ってきたと言わんばかりのフル装備、腰にリボルバーを吊って、釣り上がった左肩を見るにその軍服の下に一丁何かを隠している様子で、その背中から覗く銃身は明らかに散弾銃を背負っている風体なのだが、ここは日本なのできっと気のせいだろう、そんな風にサンタというにはあまりに歪で殺伐とした空気を醸し出す色黒な顔に眼鏡をかけた謎の男。そしてもう一方は、ネクタイの巻かれた紳士服の上に膝丈まである黒いトレンチコートをカッチリ着込んでベルトで締めているまでは普通だが、腰には何故か長い刀身の剣が吊り下がっており、両手には黒手袋、頭には控えめな高さのシルクハット、そして右手には血でも吸ったかのように赤黒い薔薇が束のようになって紙袋で包まれており、片目に時代錯誤なモノクルをしてそのままステッキでも取り出してオリーブの首飾りの旋律と共にマジックショーでも始めてしまいそうな大道芸人のような体をして、張り詰めたプレッシャーと緊張感を放つ謎の金髪の男。そしてその両者の最も奇妙な点は、その男たちの片足には、スーツや制服のズボンの生地の上から毛糸の靴下を履いていると言う点だった。
 
 その毛糸の靴下には見覚えがあった。私が就寝前にベッドの傍に吊り下げていた筈の二足の靴下である。キリスト教徒でもないし、ミサに参加もしなければ、聖句も碌に知らないし、お祈りもしてないから、私の家にはサンタさんも来ないしクリスマスプレゼントなんて貰えるわけないけど、でも形だけでもクリスマスを楽しもうと毎年吊り下げていただけの大きめの空っぽの靴下。左右一組あるのは、冬用に買った厚手の毛糸の靴下が大人用で、子供の時分の私にはぶかぶかだったので、そのままクリスマス用靴下として毎年使いまわしているからである。
 クリスマスを迎えても毎年空っぽのまま終わる筈の形だけの靴下の中に、今年は何故か二人の男の片足が突き刺さっており、それを履いた男たちは、もう片方の足を無防備に曝け出したまま自分の眼前に忍び立っていた。
 これは一体。
 
 時計を見ればまだ深夜の13時ちょっと過ぎだった。先程意識が浮上した気がしたけど、もしかすると私はまだ夢の続きを見ているのかもしれない。クリスマス・イヴだと言うのに、世間がクリスマス一色に沸き立ち、やれ忘年会だ、やれクリスマスパーティだと盛り上がり、今頃ビールやジュースを注いだジョッキやコップを乾杯してケーキを取り分けて友人や家族や恋人と楽しい夜を過ごしているであろう同年代の若者に比べて、自分はこの体たらく。まして諸外国の一般的なキリスト教徒は1ヶ月も前からクリスマスムードで忙しなく当日に向けて準備をしつつ、真摯にクリスマスを祝いお祈りして、七面鳥を前に穏やかに家族団欒を過ごしているであろうこの時に、私と来たら呑気にベッドに身を放り出し漫画を読んで、気まぐれに線画を描いて、暇つぶしにゲームをしていたものだから、きっとバチが当たったに違いない。少しは真面目に聖夜を過ごせと、ついに神様がお怒りになったのだ。
 頭から電灯を受けて影かかった男二人のギョロりとした四つのめだまに見下ろされ、恐怖のあまり悲鳴一つ上げる事もできず、まるで氷漬けになったように全身が強張って動かない私。肌の表面は逆立って、毛穴から汗が噴き出し心臓が脈打ち、私の神経を蝕んでいた。私のベッドを取り囲み見さげてくる男たちの影は、呪縛霊が枕にたったかのような冷気を帯びていて、よく見れば肩口に雪が付いているように見えなくもない。そんな妖しい光景。
 
 そうだ、やっぱりこれは夢だ。さっき目覚めたのは気のせいで、まだ夢の世界にいるんだ。神さま、どうか私をお助けください。この悪夢のような光景を夢で終わらせる為に、目を閉じて再び眠りについてうつつに戻ろうとした。

「不恰好で申し訳ない。手違いで礼服が少し汚れてしまってね。替えの服も無かったのでコートを着込むしかなかった。君の為に白い薔薇を用意したのだが、どうも一緒に汚れてしまったらしいな。しかし、クリスマスプレゼントにわざわざ手編みの靴下を用意するとは、君は実に古風な人間だな。だがこの靴下、履くには少々サイズが小さいのではないのかね。それにもう片方が見当たらないようだが。前々から予定を空けていたというのに、肝心の君はメールの返信も遅ければ携帯の電源さえ切って全く連絡が取れないという様だ。聖なる夜を性夜と読み替えるような人種の国だからな、何かあったのではないかと思って来てみれば、何のことはない、やはり男がいたと言う訳だ、それもハイエナのような男がな」
「今日はクリスマスだし、靴下が吊り下がってるのに中身が空っぽだったから何かプレゼントしてあげたかったんだケド。生憎仕事帰りだったんで何も用意してなくてさ。君にフルカスタムした拳銃なんて渡しても困るだけだし、女の子が喜ぶプレゼントなんて思いつくわけもないし、君みたいな人種は可愛い小物や光もので喜ぶタイプでもないから、プレゼントに俺自身が今日一日中遊び相手になってやろうって素敵なサプライズを用意したわけさ。ついでに人ん家の天井を器物破損して不法侵入する不届な変態も退治して万々歳!今日は楽しいクリスマスと言うわけだよ、な、モモ。ただこの靴下、少し小さいんじゃないのかい。こんなんじゃプレゼントなんて一つも入らないよ」
 
 服が汚れる手違いって何だろう。全身武装する仕事の帰りってなんだろう。違う、こんなのミカエルさんやロイ君の解釈と合わない。皮肉屋で少し不器用だけど機知に富んで真面目で誠実な英国紳士を絵に描いたようなミカエルさんと、正義感が強くて少しぶっきらぼうだけど仕事に関しては一切妥協のない明るくて優しいどんな人とも打ち解けられるムードメーカーのロイ君。そんな素晴らしいお二人がこんな風に人間としての一線超えた犯罪スレスレの危ない病んだ攻め男みたいなムーブを絶対にするわけがない。天地ひっくり返っても、そんな事あり得ないのだ。だからこれは夢。クリスマスという聖なる夜がみせた悪夢。悪質な夢小説の類である。だから桜杏、一刻も早く目を醒ますのだ。何も見なかった、聞かなかったふりをしてこのまま何事もなく眠るのだ。全ては自分が寝惚けて夢現だったせいにして、2人はここにいなかった事にするのだ。むしろ何もなかった事にするのだ。
 神さま、これが夢というのならば、どうか私の眠りを終わらせてください。万が一これが現実だ仰るのであれば、どうか二度と私を眠りから起こさないでください。
 神様、仏様、マリア様、お釈迦様。大明神様サンタ様。
 聖なる夜に、奇跡を下さい。
 どうか、このまま夢で終わらせて。


(8)初陣コミケット

 ANINEやMANGAという日本の“上辺”のコンテンツだけではなく、『本場のDeepなオタカルチャー』を知りたいと息巻いて豪語するロイと、本心を伺わせないポーカーフェイスで「私も興味がある」と物を言わせぬプレッシャーを放つミカエル。それなら、と両手を合わせた桜杏の提案でロイとミカエルはコミケットへ一般参加することになった。

 桜杏が待ち合わせ場所で彼ら兄弟を待っていたところ、右手の方から何やら全身黒ずくめの騎兵連隊(ザ・ブルーズ・アンド・ロイヤルズ)の恰好をして外套を靡かせて優雅に歩く上品な男がこちらに歩いてくる。どう見てもミカエルと顔が瓜二つだが、アニメやゲームに現を抜かす陰気なオタクの祭典であるコミケット会場にそんな場違いな聖属性の騎士みたいな風格の男が来るはずがないので、桜杏は見なかった振りをして目を合わせない様に下を向いて棒立ちしていると、淡い期待を裏切ってその男は桜杏に紳士的な低い声で話をかけてくる。
 やはり、というべきかそのミカエルの顔をした気品のある英国軍人の男はミカエル本人だった。
 何故そんなロイヤルな高級軍人の恰好をしているのか、と尋ねれば、これはコミケ用のコスプレだという。なんでもコミケットでは男女揃って派手で奇抜なコスプレをするらしいという事だったので、自分の故郷にちなんで由緒ある英国軍人のコスプレをした、というミカエルだが、どう見ても本職の人間にしか見えない。違うそうじゃない、コスプレと言ってもメイドや執事とかの「一般人用のコスプレ」の類ではなく、強いて言えば英国をアピールするならば魔法学校のスネイプ先生のコスプレが正しいと思う桜杏。曰く、途中写真を一緒に撮りたがる婦人が何人か近寄ってくるので丁重に断りを入れつつ振り切るのが大変だった、と苦い顔で愚痴を零すミカエルだが、こんなところにそんな気位の高そうなエリート軍人がいたらそりゃそうなるよ…と桜杏は呆れ顔をする。

 すると、今度は左手の方からこれまたミリタリー服を身にまとったキャプテン・アメリカ姿の黒人の男が威風堂々とした威厳ある歩みでこちらに向かって歩いてくる。その男の顔はまるでロイの顔と瓜二つなのだが、BL好きの腐女子と美少女趣味の百合オタクが集う怪しいオタクの祭典であるコミケット会場に、そんな場違いな正義の味方のアメコミ軍人みたいな風格の男が来るはずがないので、それは見間違いということにして、顔を合わせないようにミカエルの影に隠れた桜杏だが、淡い期待を裏切って「待ち合わせには5分前に来るとスクールで習わなかったのか、ロイ」とミカエルがその男に向けて軽口を叩く。
 よもや、というべきかロイの顔をした恰幅の良い米国軍人の男はロイ本人だった。
 なぜそんなマーベル主人公みたいな軍人の恰好をしているのか、と尋ねれば、これはコミケ用のコスプレだという。なんでもコミケットでは男女揃ってウケ狙いで豪華なコスプレをするらしいという事だったので、自分の出身国にちなんで米国ヒーローのコスプレをした、というロイだが、どう見ても本職の人間にしか見えない。一応オタク用のコスプレという意味ではミカエルよりも趣旨に沿ってはいるが、ハリウッド並みのリアリティで衣装を作るところが日本人オタクと感覚がズレている。曰く、途中日本の警官や警備員とすれ違うたびに敬礼をされるので「日本の警察は観光客へのサービスやノリがいいね!」とHAHAHAと景気良く笑ったロイだが、こんなところでそんな勲章一杯つけた英雄的な軍人がいたらそりゃそうなるよ…と、桜杏は渋い顔をする。

 すると今度は軍人にしか見えない兄弟二人が口を揃えて桜杏に向かって尋ねる。
「君は一体何のコスプレをしているんだね(だい?)」
半ば引き気味の兄弟に対して桜杏は、よくぞ聞いてくれました、とばかりにキラキラとした瞳で答える。

「これは日本を象徴する文化的戦闘服、『自宅警備隊宅外派遣 N.E.E.T』のコスプレなのです!」

 まるで色気の欠片もない微塵の肌の露出も許さない軍隊風の鉄壁重装に、君はコスプレというものを全然わかってない!と言いたげな不満顔の兄弟だった。

「でもお二方とも良く私だとわかりましたね、結構な武装をしてて遠目ではわからないと思ったのですが…」
「いや、生憎と女性でそんな奇妙な格好をする奇人は君以外に思いつかないのでね。どこぞの名探偵じゃなくてもすぐわかる」
「右に同じ。そこでそういう格好をする変人は君一人で十分だよ。ホントに君って空気読めないよね。日本人の癖に」


(9)母子家庭

 一般的な母親の認識と言えば何であろうか。

 男にとっては母が初めての女、母にとっては息子は無条件に自分を慕う存在である。エディプスコンプレックスとある様に、神話上では息子にとって父は母を奪う存在ともなった。妻としての母は老けていき、夫婦は永遠に他人だ。一方親子には血の繋がりがある。しかし、手塩かけて育てた子供はいずれ一人の人間として自立して別の家庭を築き扶養から外れる。

 すると、本当の愛情とはなんであろう。きっとそれは単なる自己犠牲、献身そのものでない。きっと、その人がその人として、一人で自立できるように、独りで生きていけるように、自分の存在がその人の中で不要になっていく過程を言うのだろう。 その人から受ける愛情と敬意はその過程の副産物であって、結果として一人の人間としての自尊心を守りつつ、最低限必要な生きる知恵を授けるのが親子の本質であって、それが添い遂げなのではないだろうか。
 

* * *

 妻子もちの男との間にできた子供である伽藍堂百夜はいわゆる隠し子だった。
 妾の子だった百夜は、シングルマザーの元で育つも、当時借金を抱えていた母親が暴力団の取り立てから逃れるために、百夜を残して蒸発してしまった。
 聞けば、必ず戻ると言い残し、まだ赤子でしかない娘を施設に預けたまま、借金の時効過ぎても結局戻ってこずに失踪者扱いになったという。

 だから百夜には身寄りがいない。家族も金もなかった百夜であったが、18歳になった頃とある年上の男と付き合うようになった。
 しかし世間知らずの百夜は男の手を煩わせてばかりで、その上婚約まで話が進んでいたはずの男は、あろうことか妻子持ちであった。不倫が原因となり男は妻と離婚したというが、自分はただの浮気相手でしかなかったことに気が付いた百夜も、己を恥じて、男と別れることを決意した。

 妻に逃げられる形で破局してしまった男は、自分の子供を百夜に預けるしか手立てがなく、もともと男とその一家にに負い目のあった伽藍堂は、子供を預かることを承諾した。

 百夜は自分の子供でもない他人の子を18歳で育児することになった。
 自分よりも遥か下に子供の顔はある。立ち尽くす自分の目の前に、俯き棒立ちするしかない子供。幼い子供は8歳の小学生だった。やはり葛藤する百夜だったが、自分自身がそういう間女の娘と言う不純な存在だということを思い出した。

 自分は、施設で働く職員の人や、自分と同じようにいろいろな背景をもって施設に預けられた子供、そういった人たちと少しずつ、歩み寄りながら、共同生活を送りながら育っていった。百夜は非情になれなかった。

『きっとこの子は自分と同じなんだ』

 自分に手を引かれて歩く、自分と同じ境遇の子供。その子供は今こうして肉親でもない自分に手を引かれているその意味を知らない。ふと立ち止まって、百夜は子供の顔を覗き込む。そのどこまでも透き通る無垢な黒い瞳を、百夜は悲しく思った。

 親子に血の繋がりなど関係ない。男が残した養育費と少ない自分の貯蓄を宛に、パート労働のシフトを減らす傍らで、育児に専念することにした。

 借家で生活していた百夜は、子供の夜泣きや時折出る高熱、小学校への送迎など苦労は絶えなかったが、子供の成長が何よりの幸福だった。数年が過ぎて小学校の高学年に上がり息子の成長を喜ぶ一方、息子はみるみる男の顔に似てくる。

 何処かに男夫婦の影すら見たような気がして、何を考えているんだ、と一瞬でその考えを掻き消し、内気な息子を中学に送り出す頃には既に二十歳過ぎになっていた。この身なりで子持ちとは思われまいと買い物袋を片手に歩けば、横をすれ違う女子大生の身綺麗な姿を見て、そう言えば自分は年の割にみすぼらしいと気付ついた。

 年頃なのにこんな格好…。というよりも、こんなにも不自然に幼く未だ独り身の自分を息子はどう思うだろう。

 いつこの不自然な家族の在り方に気が付き、疑問をぶつけて来るだろうか。
 そう言えば息子は未だ友人を家に誘わない。学校では特に変わったことも無いようだが、友人関係は上手くいっているだろうか。

 自分にはあの年頃の男子の考えや話題、趣味など到底思い付かない。
 増して人一倍内気な我が息子なのだから、学校で何が流行っているのかも想像も付かない。学校で浮いて仲間外れにされてはいないだろうか。息子の衣装や見た目には気を使っているものの、大して良い物を買ってやってるわけでもない。

 やけに聞き分けのいい息子の姿を思い起こしながら、百夜は一人思う。

 もしや仕事や家事に疲れた自分に気を使って、欲しい物があっても何も言いだせないのではないだろうか。
 小学にはトラブルは付き物というが、 まるで利口な息子にはせめてその年頃ぐらいは存分に甘やかしてやりたいのが百夜の思う親心である。

 それとも…と言ったところで、百夜の耳に子供のはしゃぎ声が響く。振り返れば、夕暮れの差す近所の保育園で、迎えに来た母親に手を引かれ喜ぶ小さい子供の温かな家庭の姿がある。

 向こうの駐車場には車で待機する父親の姿もある。

 それを見て一瞬「自分が本当の親じゃないから?」と、頭にそんな考えがよぎる。

 もしや息子は既に自分が赤の他人である 、と気がついているのかもしれない。増して、自分は息子にとっては幸福な家庭をぶち壊した父親の浮気相手の間女でしかないのだから。実母実父に捨てられた。もしも息子がそれに気がついたら自分は恨まれるだろうか。

 息子をこんな惨めで貧窮な生活に追い込んだ世の中を憎むだろうか…、とあられもないことを想いながら、せめて息子のこれからは明るく救われる家庭であろうと、学校では窮屈な思いはさせまいと、借家に帰って、円卓に縮こまってもくもくとご飯を食べる息子を見て密かに思う。

 中高を経て様々な反抗期ドラマを親子二人三脚で乗り越えた後、二十歳で就職した息子の伽藍堂空晴が三十路を迎えた百夜の元へ背広姿で戻ってきた。

 未だ自分の正体も聞かない息子に「空晴くん、彼女とか作らないの。母さんそろそろ孫の顔が見たいな…なんて」と軽い気持ちで聞けば「母さんこそいい加減再婚すれば」と初めて自分の出生に触れられる。

 ひやりと背筋を緊張させる百夜に、澄まし顔のまま円卓に座る息子。

「…いつから気が付いてたの?」と聞けば「10歳の頃に父に聞かされて」と返し、やはりこの子は自分が実母でないと知っていた、と唖然とした所で「母さん僕そろそろ新しい家族が欲しいよ」と言い出した。

 思えばこの子がこんな我儘を言うのは初めてじゃないかと驚きつつ「でも母さんまだ相手がいないから」と冗談に返して「それより空晴くんにはいい人いないの?」と尋ねた。

 すると息子は「…一人いるかな」と言うので「誰?」と柔らかい声音で聞けば「…母さん」と意味深に呼び掛けるので「何?」と首を傾げる。

「僕たち血が繋がってないんだよね」

 左に腰かける息子は、母に向かって低い声を出した。

 瞬間空気が変わった。沈黙を肯定に受け取った空晴は手に手を這わせ始め、百夜はこんなこといけないと思いつつ真剣な顔つきで迫る空晴の事を最後まで拒絶できなかった。
 やがて、一夜明かして百夜は義理息子の子供を身籠った。
 
 二人、薬指に指輪をはめて一言、「これでやっと本当の家族になれたね、母さん」と男が言った。


(10)かぐや姫

 女は男に「好きだから付き合ってほしい」と言い寄られたときに、「どうして私なの…?」と答え、理由を求めた。「いや…だって、それこそどうしてだ?恋愛にそういうのは関係ないだろう」と正面に坐る女を訝しみ睨みつける。

 そこは何処かのカフェテラスだった。丸テーブルを挟んで先ほどから向かい合っている男女は、片や骨ばった指で取っ手を摘みやつれた顔にコップを運ぶサラリーマン風の男、片やまだ未熟な顔つきをして細い指を膝の上に重ねている学生服に身を包む女、という世間でいうところの後ろめたい組み合わせだった。
 ましてその女の眼は紅く淡い髪色をしていたので、その女を目にした誰もが渋い表情から言いようのないような顔をして、気まずそうに口を噤みながら目線を避けて歩き去っていく。
 
 彼女はつい最近まで憲法上人ですらない悪霊リリスとアダムの子孫、悪魔リリムだった。

「どうしても理由が知りたい」と、いうので、渋々「その…優しくて、芯があって、女の子らしいというか…」と、やや顔を俯き口をまごつかせ上擦った口調で言うのを見て、女は答える。

「わかったよ、貴方と付き合います。だから代わりに私がこれからいう4つのことを叶えてほしい」と条件を出してくる。

 そんなことに目もくれず女と付き合えると有頂天になった男は構わずに「わかった」と意気揚々と答える。

 女の言う願い事は一つクリアする毎に言い渡される。

 一つめに出された条件は『どうかしっかり定職に就いてほしい』と言うもの。
 男はフリーターである。まさかこの人に限って、と顔にだした男は「…低収入のままだと付き合えないと言うことか?」と思わず聞き返す。
 やはり金…と思いを巡らせた辺りで「いいえ、貴方さえいてくれれば、お金…他は何もいりません。貴方さえ幸せなら、それで…」と答える。「だからどうか定職に就いてほしい」と机に求人情報誌を起き、こちらの目をじっと見る。

 あまりにも真摯な顔つきで言うので、男は思わず「…わかった」と承諾してしまう。

 男にとっては女を自分の手元に置いておく事の方が問題だった。
 職業訓練でも資格取得でも何でもやってやる。虚しい万能感を抱き、男はやや遅い就職活動に奮闘した。

 男はこれまでの貯金を全部下ろして女を連れて都会にやってくる。
 
 職業訓練を受けることのできる施設は都市部の方が通いやすい。だから男は駅最寄りに小さな借宅を借りる。
「家賃、大丈夫?」という女の問いに、「通勤に時間が喰われるなら金を喰われる方がましだ」と相も変わらず強がりながら答える。

 男が職業訓練に出払っている昼の間、女はその借家で家計簿をつけたり家事をしているらしい。
 だが、男は一つ引っ掛かる。どうも、自分にまだ心を見せていないような、霞がかった感触に、破局の言葉が頭を離れなかった。果たして彼女のイエスの含蓄はいくらか、今更心細く思うのだった。

 女は自分と付き合う条件として男に4つの事を要求する。

一つは「職に就くこと」
二つは「友人を持つこと」
三つは「会社繋がりで同年代の女性と付き合いを持ち、敬愛すること」
四つは「その女性と結婚し子供を設けること」

 つまり女は最終的に男に自分と別れることを要求したのだった。

 4つめの要求を伝えられた男はとうとう確信する。「お前は元々自分と付き合うつもりはなかったんだ」と、別の女と子を作れとはつまりそういう事じゃないか、と。
 怒りを噛み殺した男の問いに、女は柔らかい澄んだ目をしながら「そうだよ、今更気が付いたの」と受け答える。傷ついた顔をした男は涙を堪え憤慨し、毒を吐き捨てる様に彼女を去った。

 やはり初め感じた自分の霞でも掴むような感覚は、女の恋人としての違和感は誠であった。

 翌年男は職場にいる同年代の女と婚約し子をもうけた。
 ワイドショーではリリムの人権問題について有識者によって語られていた。リリムについて悪く言う人間はまだ多く、彼らを悪魔といって嘲笑するものもいた。中には、リリムと一緒にいるだけで侮蔑する人間もいるらしい。

 子を抱く女の幸せそうな姿を見て、 自分にいつの間にか築かれていた家庭と財産を顧み、ただのフリーターが此処まで成りあがってと、思った所で、ふとある事が頭をよぎる。

 酷い罵声を浴びせそのままであるが故に、認めたくはないが、頭に落雷したその警鐘は、一生男の中で響き渡る事になる。

 その女の「お金は要らない、貴方さえいればいい」とは、「貴方さえ幸せならそれでいい」とは、つまりこう言うことだったのではないか、と。


(11)魯鈍の手紙

 鷲翔と百夜は小学生1年生に進学する頃までは同じ成績、同じ知能指数、同じような喋り方だった。しかし、次の学年に進級するにつれ、段々鷲翔は学校の授業や勉強についていけなくなり、言動も幼稚園当時と変わらぬ幼い頃のまま、嫌な事があるとすぐ泣き、気に入らぬ事があると声を出して怒り、感情の自制もできず喋り方も言葉足らずで舌足らず。小学生の高学年に進級した段階で、鷲翔の学力は小学生2年生前後で止まってしまっていた。
 

 鷲翔の成績の伸び悩み、言葉を覚えるのが遅いのを心配した母親が、学校の職員の勧めで鷲翔にウェクスラー式知能検査を受けさせたところ、IQは60~70で精神年齢は6歳前後、軽度ではあるが彼は知的障害だった。中学の普通学級に進級するのは難しいだろうと診断された。
 小学生6年生にもなると、いつまでも言動が幼稚園児と変わらない泣き虫で我儘でマイペースな鷲翔はクラスから浮いてしまい、露骨に避けられるようになってしまった。「アイツって気持ち悪いし変だよな」と鷲翔に聞こえる声でわざとらしく悪口を言い、同級生の男子は本人を前にして彼の言動を真似て揶揄い、馬鹿にされたと本人が怒るのを面白がる。
 幼馴染で同級生だった百夜は、そうやってクラスのいじめの的になっていた鷲翔の側について「そんなことをするのはやめようよ」と必ず助け守り、鷲翔が傷つけられぬようにいつも一緒にいた。悪口を言われる鷲翔の姿が悲しかった。
 喩えそれを面白がって「百夜、お前鷲翔の事好きなんだろ。お前も無口で喋らないし、殆ど"ちしょう"みたいなもんだもんな」と鷲翔と一緒になって揶揄われ酷いことを言われても、昼休みも放課後もいつも一緒にいた。
 百夜にとって鷲翔は幼稚園の頃からの幼馴染で、仲の良いご近所さんだった。鷲翔とは幼稚園の頃からずっと一緒に遊んできて、その頃からの鷲翔の記憶が百夜にとって彼の全て。百夜にとって鷲翔は幼馴染の鷲翔空晴でしかない。性格は温和で優しく、好きな事を楽しそうに話し、面白いことに素直に笑っている鷲翔の素面を知っていたので、喩え彼が未だにちょっとしたことで声を出して騒ぎたてたとしても、何も気にならなかったし、むしろそれを忌むようにして嫌がり、影で悪く言って、時に冷ややかに笑うようなクラスメイトの方を怖く思うぐらいだった。
 しかし確かに鷲翔の言動は明らかに11歳になる小学生高学年のそれではないことは百夜にも充分理解していた事だった。

 そして小学校を卒業し百夜と鷲翔が中学に上がった時、やはり鷲翔は普通クラスには進級することができず、特別支援学級に編入されることになった。鷲翔と百夜は家が近いのでクラスが違った今も登下校を一緒にしていた。しかし既に授業内容が百夜とのそれとは全く違っていた。

 特別支援学級は、鷲翔のような知的障害者の他に、足が不自由だったり耳が悪い身体障害者や、中度の知的障害を併発したダウン症の子供など、様々な障害を抱えた子供が編入されており、その個人の障害の程度によってその授業や指導内容が微妙に異なるという。鷲翔の場合は易しい言葉の読み書きをして、その発声の練習をしたり、時計の見方や数字の読み書き、お金の数え方といった中学生なら当たり前にできるような社会常識の分野や、友達と学校生活を過ごす上で必要な道徳教育やルールを学ぶ学習を中心に行われていた。

 普通学級と異なり、体育の授業であっても殆どごっこ遊びの延長のようなものに人には映るかもしれない。教室で行われる授業の他に、郊外学習では、先生に引率されながら電車での切符の買い方やお店での買い物の仕方を学び、絵本のような教材を使って小学生レベルの国語の勉強をして、音楽の時間は歌を歌ったり、時には椅子取りゲームなどの遊びをして学校の時間を過ごしていた。勿論宿題も課せられるが、本当に簡単な言葉の書き取りのドリルや絵日記の提出など、普通学級の宿題とは違っていた。

 意思疎通こそできる鷲翔であったが、喋り方には吃りや鷲翔独特のイントネーションがあり、話す内容も戦隊モノや特撮ヒーローのドラマを初め、比較的に幼児向けのテレビ番組や、女子が興味を持たないコアなアニメ番組、鷲翔の好きな動物や魚などの事ばかりで、二人が普通に会話するのもやっとになっていた。普通学級に進級した百夜はそこでの勉強や部活動、友達付き合いがあったので、どんどん鷲翔との距離もひらいていき、登校は一緒だったものの、放課後に一緒に帰ったり、休日などの空いた時間に二人で遊ぶことも少なくなっていった。

 そして百夜も又思春期だったので、鷲翔と一緒にいる時のクラスの目線が気になって重荷に思うようになってしまった。鷲翔の事は好きだったが、友人や同級生のいるところで鷲翔と一緒にいて話していると、皆必ず面白おかしく鷲翔の事を尋ねる。鷲翔を知遅れだと笑う者もいれば、本人を茶化し揶揄う者もいて、それ以上に恐ろしいのは、健常者からすれば歪でおかしな言動を取る鷲翔を、忌み嫌いまるで汚いものでもみるような侮辱の目で見て、邪険に扱う人もいたことだった。
「アイツが触った机は汚いから避けようぜ!」
まるで鷲翔が穢れやばい菌のようにして扱い鷲翔をいじめる邪悪な男子生徒もいる中で、ともすれば一緒にいるだけの百夜すら偽善者で気持ち悪いと、囃し立てたりする。

 その度に鷲翔は傷つきそれを見る百夜も又傷ついて、鷲翔は口にこそしないが、そんな百夜や周囲の態度の変化に気が付いていた。小学生の頃と変わらぬまま自分と一緒にいる百夜も、なんとなく心の距離があって、自分と一緒にいる時に何となく心あらずなよそよそしい態度をする。人前であっても笑って自分と接していた昔と違い、今は人目を避けて忍ぶようにして自分と会い、わざわざ人気のない道路を選んで通り、登校する学生の少ない朝早い時間に約束して一緒に登校している。
 鷲翔は中学にあがると次第に口数が少なくなっていったが、それには健常者で普通学級の生徒からのいじめや仲間外れが原因にあるのは明らかで、それでも鷲翔にとっては百夜は数少ない話し相手だった。しかし鷲翔が普通に歩いていたとしても、その挙動は健常者には滑稽で奇妙に映る。そして鷲翔はやがてある時を境に、登校時刻の待ち合わせの場所に現れなくなり、百夜と顔を合わせる事も避けて、会って口を利くことなくなり、ぷっつりと関係が絶たれてしまった。

 突然の事に戸惑い心配した百夜は、鷲翔の自宅を訪ねて何度も本人に会おうとして、鷲翔が自分を避ける理由を尋ねようとしたが、鷲翔本人に会う事は叶わず、鷲翔のご両親も「鷲翔は今はもう会えないんです」の一点張りで、家を尋ねてくる百夜に対応せず、その理由も話さない。そして鷲翔も又百夜と会おうとはしなかった。
 鷲翔との関係性を失い不安で押し潰され悲しみに暮れる百夜は、ふと「鷲翔君は、私が一緒にいる時の後ろめたい気持ちや負い目に気が付いて、そのことに傷ついて怒っているのかもしれない」と気が付き、鷲翔に対する強烈な罪悪感と、昔からいつも一緒だった筈の鷲翔のことを傷つけ嫌われたことに泣いてしまう。
 一方で、百夜は心の何処かでこれで鷲翔のことで自分が悪く言われたり、鷲翔のことを気にかけずに学校生活を楽しみ、勉強にも専念できるのかもしれない、と肩の荷をおりたように思う自分もいて、鷲翔に対して良き幼馴染であろうとしていても冷徹な気持ちをも抱いていたことに否応に気づかされ、そんな薄情で利己的な自分に対して嫌悪と憎悪にも似た感情を抱いて、一層塞ぎ込み落ち込んでしまった。
 
 その後も何度か鷲翔と接触しようとするが自宅を訪ねても一向に会えず、鷲翔のいる特別支援学級のクラスを尋ねても、鷲翔が友人や先生に自分を避けるようにお願いしているのか、喩え鷲翔の姿が教室にあったとしても「鷲翔には会えないよ」と百夜は門前払いで、会う事も話すこともできなくなり、やがて百夜は鷲翔と会う事を諦めて、普通に学校に通い、当たり前にクラスで勉強をして、そのまま鷲翔と会う事もなく、鷲翔への気持ちは薄れて年が過ぎていく。
 時折廊下で鷲翔の姿を見かけても、鷲翔が声を上げて鳥に大袈裟に反応したり、傍らに誰もいないにも関わらず、歩きながらぶつぶつと独り事を言って、その姿が滑稽であるだけで、女子はすれ違いざまにヒソヒソと内緒話をして、男子は本人の預かり知らぬところで侮辱して、その行動を真似ては嘲笑う。彼がそこで生きている事も許されないかのように嫌悪する生徒もいる。
「なんであの子この学校にいるの?」
 そんな姿を遠くで見る度に、百夜は何度も後悔し複雑な気持ちになっていた。
 
 そして学年は三年に上がり、受験シーズンにもなるとそこそこの成績だった百夜は市内の進学校に進路を決めて、進学の為に勉強に専念し、季節は巡り早3月、なんとか志望校の受験にこぎつけて合格し、卒業式を迎える事となった。
 漸く受験を終えて心の余裕もできたので、百夜はずっと気がかりだった鷲翔と会うことにした。今まで無意識に避けていた鷲翔のいる特別支援学級を訪ねる百夜。しかし支援学級の教室の中を廊下の窓から覗いても、そこには数人の生徒はいても鷲翔の姿はない。まだ教室に来てないのだろうか、それとも何処か別の場所で待機しているのだろうか。
 
 特別支援学級の卒業式の段取りのわからない百夜は、いっそ教務室を尋ねて鷲翔のことを聞こうとも思ったが、ずっと門前払いだったこと、鷲翔が怒っているのではという負い目から、式前に会う事は諦めて、そのまま卒業式を迎える事にした。卒業証書授与の際、壇上の校長先生が学年の生徒の名前を呼ぶので、その時にきっと鷲翔の姿は見つかるだろうと安易に思っていた。
 しかし卒業証書授与の時、自分の名前が呼ばれ壇上に上がり、その後支援学級の卒業生の名前が呼ばれても、そこに鷲翔の姿もなければ、それを見守る母親の姿も保護者席にない。遂に鷲翔の名前も呼ばれずに卒業式は終わってしまった。
 会場の何処にも鷲翔の姿がない。まさか鷲翔はもうこの学校に在籍していないのだろうか。別れを惜しみ卒業アルバムに寄せ書きを書き合う友人達をそっちのけで、校舎を探し回り、何処にも鷲翔の姿がないことに血の気が下がる程にショックを受けた。
 
 嫌な予感。胸騒ぎがして不安に駆られた。それは中学一年の冬の終わりの事、珍しく一緒に下校して、朝いつも待ち合わせをする電柱の根本で、雪が降るのも無視して二人で簡単に会話をして、無言で背を向けようとする鷲翔のずれたマフラーを巻き直し、何とも言えぬ顔でこちらを見て呆けた様に棒立ちしている鷲翔を残して「また明日」と手を振り別れたのを最後にずっと姿を見る事のなかった鷲翔の姿。もしもあの時、何か違った行動してれば今の結果は違っていたのだろうか。
 もしかすると自分はもう鷲翔とは永久に会えないのかもしれない。そんな恐怖と途方もない気持ちが百夜を支配して気が付けば教務室まで足を運んでいた。真実を知るのは少し怖いが、思い切って特別支援学級の担任の先生を尋ね、鷲翔のことを聞くことにした。
 
 教務室の扉に手をかけたものの、臆病風に吹かれる百夜。もしかすると鷲翔の口から自分の話を聞いて、担任は一緒になって私を怒っていたかも知れない。そんな不安で一向に扉を開けずにいたが、卒業式のハレ日に憂い顔で立ち呆ける自分を不審に思う教員が奇異の目を向けてくるので、意を決して百夜は扉を引き、鷲翔の担任の尋ねた。すると百夜の不安とは裏腹に、教員は何を気にした風でもなく、名札につけられた卒業リボンを見つけて「卒業おめでとう」と呆気なく自分と会ってくれた。
 
 卒業式だというのに書類累々の溜まった事務机。まだ何かの作業があるのか、事務椅子に腰かけたまま対応する担任の横に立った百夜。焦ったように鷲翔について尋ねれば、教員はやや引け腰になりながら「鷲翔はずっと前に転校したよ」とあっさりした口調で言う。
 転校。何となくそんな予感はしていたのか、百夜は驚きこそ少なかったものの、衝撃は胸にズシンと重くのしかかり、思い出の中の鷲翔の声に呼応するように目の前が熱く滲んで、口を堅く結んで押し黙っていた。
 そんな百夜の姿を静かな目で見ている教員。震える心を押し隠すように百夜が「いつ、何処に転校したんですか?」と尋ね聞けば「一年以上前かな…、ちょうど君の所の学年が2年の二学期ぐらいの時…。何処の学校かは個人情報だから言えないけど、市内の特別擁護学校にね」と何でもないように答えた。
 
 百夜が暫く押し黙っていると、教員は「君、ももよちゃんだろう?」と聞く。先生に自分の名前をいい当てられて驚く百夜。伽藍堂百夜。名札にある自分の名前を初見で応えられた者はいない。「私の事知っているんですか?」と思わず尋ね返せば、先生はそれには答えずに「鷲翔がね、もし自分がいなくなってから君が尋ねてくることがあれば、これを渡してくれって」と徐に事務机の引き出しを引いて、そこから一冊のノートを取り出して百夜に差し出す。
 学習ノート。それは表紙にキャラクターの印刷された児童向けの自由帳で、サインペンで表紙の所々を黒くしながら、おどるようなひらがなで鷲翔の名前が書かれている。おずおずとそれを受け取った百夜。
「これは…」
 教員は答える。
「僕らの授業の一環で、鷲翔は日記をつける課題があったんだ。鷲翔はね、いつも君の話をしていたよ。転校する直前まで、本当に毎日ね」
「鷲翔君が、私の事をですか…?」
 百夜が茫然とその言葉を吟味していると、担任はそんな百夜の態度をどう捉えたのか、机に目線を落とし、百夜の顔を見ないままに続ける。
「でも君が鷲翔について何を思おうとも、僕は何も言わない。でもこれだけは受け取ってやって欲しい」
 念押しするようにノートに触れて、担任は席を立ち、机の上に書類を放ったまま、ノートを手に立ち尽くす百夜を残して何処かに立ち去ってしまった。
 
 百夜は鷲翔が自分に黙って転校して、自分を残して遠くに行ってしまった事、そしてその鷲翔が今何処の学校にいるかもわからないことに、心臓を抉られ搾り取られるような思いをしながら、そのノートを胸に抱いて、遂に慣れ親しんだ友人と別れの挨拶をする事も無いままに、証書の筒と花を鞄に乱雑に突っ込んで足早に家に帰った。
 
 家に帰り、親と碌に話もしないまま自室に籠ってそのノートを開けば、その真っ白な紙面の殆どが鷲翔の文字と絵で埋められていて、どのページを開いてもクレヨンの鮮やかな色と黒い鉛筆の字で埋まっていた。
 その文字は自分と同い年の男の子とは思えないような幼い字面で、文字の大きさも揃っていない乱暴なひらがなと、かわいらしい絵で紙一面を埋めている。それは幼稚園の頃、鷲翔と二人並んで床に寝そべり、一緒に絵を描いて遊んだ時そのままの文字と絵で、百夜はそれに懐かしさや優しさ、そして少しの寂しさを覚えながら、あの頃と変わらない鷲翔の姿を思い出して、誘われるようにノートを読む。
 日記の文面には時折漢字が使われているものの、冠や偏といった部首が抜けていたり、線が一本抜けているなど漢字そのものが間違っている。それでも一生懸命にノートに向かう鷲翔の姿が見えた気がして、百夜はこみ上げてくる感情を飲み込んで始まりの頁を括った。

 そのノートの書き出しはきまって全部「ももよへ」になっている。まるで自分に向けた手紙のようにしてその日記の文面は始まり、その返事は来ることもなく全てが鷲翔の独白に終わっている。

「ももよへ
中がくこうに なりました ここには ずっとあるいたり 車いすのともだち がいます
きょうは ルールをべんきようしました
ぼくまだ 先せいの だめということわかってないので べんきょうしました
これをわかると みんなと中よくなれるので やっています
そしたら ももよとそのともだち ぼくも中まになれる 
はやくももよと おなじになりたいです そしたらまたいっしょにあそびたいです」

「ももよへ
さいきん ぼくは かん字やさんすうを しています
でも、 いつも 字まちがえます まるより ばつがおおいです
すうじ やりかたおぼえられません そろばん というものを はじいてあそびました かちゃかちゃなってたのしいです
中がくは しようがくより 大へんです
ももよはいま なにをしてるのかな はやくあってあそびいたいです」

「ももよへ
ぼくは ともだちできました えをかくと 手をたたき よろこんでくれます うれしいです
がくこうで えをかくときが 一ばんたのしいです
はやく ももよと おなじくらすになりたいです そしたらまた いっしょにあそんでほしいです
ともだちできたけど ももよいないのでつまらないです はやくあいたい おなじになりたい
ももよとしゃべれない日 がおおい べんきよう が 大へんなんだと ききました
中がくこう 大へん」

「ももよへ
ももよに ないしょで ももよのべんきょうみた  ぼくより ずっとすごいこと してた
かん字ばかり みんななにいてるか わからない
すう字ばかりある 本おおい みんな はなしはやくて きこえない
ぼくはももよとおなじにになりたい このままでだめだ いっしょになりたい」

百夜と口を利かなくなった日付
「ももよへ
せんせいにないしょで ももよとおなじ本 べんきょうします ぼくも 字やすう字かいて、はやくももよとおなじに なりたいです がんばりて おなじに
もしおなじくらすになったら またいっしょにあそんでね
ももよのことがすきです だからもし ぼくがももよとおなじになったら ぼく」

「ももよへ
先せいにおこられた ぼくがももよと おなじ本 もてるの みて とった どうして おこる?
ぼくは ももよおなじになりたい
ママも ぼくが ももよおなじ本もてると とって
クレヨンと かみ もってくる えをかくのいやだ
ももよとおなじがいいの に
そしたら
ママが ないた」

「ももよへ
かん字 うまく かけない すう字も計さんできない なんで ももよは できて のに ぼく
いつになれば ももよとおなじになる?」

(そこから数頁の動物や花、キャラクターや怪獣の絵が描かれている)

「ももよへ
ぼくはおなじに なれないのか、 べつのがっこういきます もしおなじになったら すきいいます」

「ももよさんへ
すばるの母です。
いつもすばると一緒に遊んでくれてありがとう。
ももよさんがこれを手にすることはないかもしれませんが、もしそうだとしても私の今の気持ちを文字に書き残しておきたかったんです。私的な事で先生には申し訳ないですが、どうか許してください。

このノートを見つけたのは本当に随分前の事だったのですが、私みたいな親が勝手に読んだり、ももよさんとの関係を口出しするのも億劫だったので、すばるがそれで救われるのならと放置していたんです。
でも、ある時すばるが本気でももよさんと恋人として付き合いたい、という趣旨のことを言い始めたので、本当に悩んだのですが、先生や夫とも相談して、ももよさんとすばるを会わせるのをやめる事にしました。
それでもももよさんはすばるのことを心配して、何度も家を訪ねてくれて事が本当に嬉しかったし、すばるも貴女に会いたがっていたけれど、私は心を鬼にして止めさせました。このままでは、きっとももよさんにとっても、すばるにとっても、いい事にはならないと思ったからです。理由はまだももよさんにはわからないかもしれないけど、どうかわかってくださいね。

もしかしたらすばるが突然ももよさんと顔を会わせなくなって、ももよさんは驚いたかもしれませんが、決してももよさんのことを怒ったり嫌ったわけではないのですよ。それどころか、すばるはいつもいつもももよさんのことを考えて、心配して、ずっと会いたがっていました。

ももよさんは覚えてはいないかもしれないけど、いつかすばるが小学校でいじめられたり浮いていた時、いつも一緒にいて助けてくれたこと、すばるはずっと覚えていて、すばるは勿論私としても本当にうれしくて、保護者懇談会ではいつもあなたのお母さんにお礼を言っていたんですよ。

でも私たちはすばるの今後の事を考えて、すばるを違うの学校に通わせることにしました。特別養護学校なんて、きっとももよさんは耳にしたことはないでしょうね。市内にはすばると同じような病気の子供が通う学校があるんですよ。やはり普通の学校にいるとすばるにとって嫌な事が多いし、それに…うまくいえないけれど、すばるにとって、普通の子が多い学校にいることは、かえって変な期待をさせてしまったり、いつか…すばるが「それ」に気が付いてしまうのではないかと思って、ずっと気がかりで心配でした。

このノートを隠れて読む度に、何度も、本当に何度も、何度も、涙がでて、良い子で一人遊びするすばるを見つけては隠れて泣いてしまうほどに。
どうして私はすばるを普通の子として産んであげられなかったんだろうと。もしすばるが普通の子として生まれていたら、きっとすばるはもっと多くの人にも愛されて、そしてももよさんともきっとずっと一緒にいられて、もしかしたらお付き合いもできたかもしれないのにって、本当に、本当に、悔しくて、悔しくて、無念でなりません。すばるは確かに言葉をあまり覚えられないし、計算もできないけれど、私たちの知らない動物や植物の名前もスッといえるような、そんな頭のいい子なのに、きっと学校で一番の優等生だったのに。

私達親はすばるを心から愛しているけれど、すばるに私達がしてあげられることは本当に少なくて、家にいるすばるの寂しそうな顔、それだけは私達にはどうしようもできなくて、その度に私たちは強い罪悪感と後悔で胸がいっぱいになるんです。なぜ私たちはすばるをここまで辛い境遇においてしまったのだろうと、すばるを見る度に涙が出て苦しいんです。一方でこんなことを思うのは障害をもって生まれたすばる自身の人生や人格をも否定する事になる。

ならば私たちはすばるをどうしてあげればいいのだろうと、いつも思いめぐらせ、答えを得られずにいます。
私たちの事ばかり書いてごめんなさいね。

ももよさんは進学先はもう決めた?ももよさんはとても優しくて頭の良い女の子だから将来はどうなるのかしらと、私は貴女のお母さんでもなんでもないけれど、自分の子のように楽しみです。
きっと良い大学に行って、たくさんのお友達を作って素敵な人と出会って、いずれその人と一緒になって素敵な毎日を送るのでしょうね。

ももよさん。
本当に今まですばると一緒にいてくれてありがとう。
もしあなたが大人になって、仕事をして、いい人がみつかって、それでもすばるのことを覚えていてくれたら、それ以上に嬉しいことはないけれど、ももよさんはどうか、私たちの事を忘れて、幸せに暮らしてもらえたら嬉しいと思います。
本当にすばるのこと…私たちの息子を友達として大事にしてくれてありがとう。
末永く健康でいて下さい。

私たちの事を愛してくれてありがとう。

鷲翔の母より」

(空白の頁が少し続いている)

最後の頁
「ももよへ
もしもぼくが ももとおなじだったら すきだった?」

 その文章でノートは終わっていて、自分宛ての鷲翔の長い手紙を読み終わった百夜は、静かにノートを閉じてボロボロと涙を流していた。
 鷲翔は自分と別れた後もずっと、自分の事を一日も忘れることなく、私を想い続けていた。
 それに比べて私は、彼のそんな思いも知らず、呑気に友人と遊び、自分の為と言って身勝手に学校生活を送っていた。鷲翔が自分を嫌ったと決めつけて、それを言い訳に会う事もやめて、彼の本当の気持ちを知ろうともしなかった。
 私は結局鷲翔のことを、自分と違う人生だからと捨て置いて、最後裏切ってしまったのだ。

 百夜はこれ以上ない程に打ちひしがれ、懺悔するように机に頭を伏せて嗚咽した。
 卒業。共に学び遊び進路を別った友人は、鷲翔にした私の仕打ちと同じ様に、きっと心離れていくのだろう。
 中学校での出来事が思い出になりつつあるように、鷲翔の想いもやがては過去になる。
 鷲翔から私の存在が消え去る事の意味を、私が鷲翔を忘れかけた意味を今はっきり理解して、それがどれ程残酷であったか、痛い程に百夜の心を蝕んでいく。

 鷲翔君に会いたい。早く会いたい。会ってそして伝えたい。
 鷲翔はアニメが好きで、動物が好きで、ゲームが好きで、そんなありふれた当たり前の男の子だ。たとえ上手く言葉を話せなくとも、計算ができなくても、鷲翔と私は何も変わらない。私たちは今も昔も変わらずおなじだったんだと。そう言って鷲翔の事を抱きしめてあげたかった。

 もしかしたらと藁にも縋る思いでその日に鷲翔の家を訪ねれば、鷲翔の姿も、その両親の姿もなく、車庫に車すらおいていない。そして玄関に無慈悲に掲げられた旗。
「売り屋」
 そこはもう空き家になっていた。
 鷲翔はもう何処にもいない。百夜は人目も忘れてその場に座り込み、地面に伏し、後悔の念に押し潰されるように身を小さくしてしずしずと泣いていた。

* * *

 高校の入学を控えた短い春休み、寝台で静かに横になっていた百夜は、いそいそと布団を抜け出て学習机に向かい、小さな電灯の光を頼りに、鷲翔の日記を開き、白紙になっていた頁に文字を書いた。これまで鷲翔に伝えきれずにいた鷲翔に向けた自分の想い、鷲翔の書いた手紙の返事を、ひらがなでかかれた鷲翔の言葉を補うようにして、百夜は一晩かけて書き綴り、白紙の頁を全て鷲翔への言葉で埋めた。
 そしてあくる日、百夜は市内の特別養護学校を調べた。
 
「鷲翔君!」
「あ…」
「待って逃げないで鷲翔君…!」
「もも、どうして」
「私も日記を…鷲翔君の手紙の返事を書いたの。このノートを…私の返事をどうしても直接鷲翔君に渡したかったの。私、鷲翔君がどんな障害持ってても大丈夫だよ…!私たちは初めからずっとおんなじだよ。私もアニメが好き、動物が好き、私も鷲翔君と一緒だよ。普通じゃなくていいよ、鷲翔君は鷲翔君のままでいいんだよ…、私は鷲翔君がどんなになっても…その苦しみを一緒に…私は鷲翔君の全てを受け入れるよ。だからもう黙っていなくなったら嫌だよ…!」
「…もも、よ」
「私も鷲翔君のこと好きだよ、ずっと私の事想ってくれたのに…なのに、ずっと一人にしてごめんね…」
「…」
「好きだよ…」
「もも、ぼく…うれしい…」

 鷲翔と百夜の馴れ初めは高校生にしては子供じみている。
 自宅デートと言って鷲翔の家に二人集まって、床に画用紙を広げて顔を寄せ合い「お絵かき」したり、これまで離れていた時間を埋め合わせるように中学小学の頃一緒に歩いた通学路を二人手を繋いで歩いて、枝葉の隙間から光の束が注いでいる森林の植えられた細い道路を談笑しながら練り歩き、子供たちのいない時を見計らっては公園のブランコをこいで遊んでいる。鷲翔は特別養護学校で訓練を積んで、黙っていれば百夜と変わらぬ程自然に歩くことができるようになっており、血の滲む鷲翔の努力を伺わせた。

 当たり前の恋人同士のように、劇場に足を運んで鷲翔の好きなアニメ映画を見に行き、百夜もそれを楽しんだ。療育手帳を提示すれば鷲翔だけでなく付き添い一人まで…つまり百夜も割引金額や無料で公共施設やサービスが利用できる、それが密かな鷲翔の喜びだった。いつも支えられてばかりの自分でも少しだけ彼氏らしいことができたのかなと思えた。これまで手帳を持っていることは自分にとっては普通ではない証のように思い、薄暗い気持ちでいたが、百夜と付き合うようになってからは、この療育手帳はデート先で使えてお金を安くすることの出来る魔法のパスポートになっていた。
「もしも私が自動車免許証を取って、車を運転できるようになれば、もっといろんな場所に遊びに行けるね」そうやって百夜は笑いかけ、鷲翔の人生をより彩のある幸せなものしてくれた。
 しかし、どんなにいろんな場所に遊びに行ったとしても、二人にとっては子供の頃のように鷲翔の家に集まって二人仲良くテレビゲームをして、昼寝をしながらのんびりお絵描きをする、子供の頃友人と一緒に遊ぶ時のような自宅デートが一番だった。鷲翔の母も時折二人に混じってテレビゲームに参加したり、時々伽藍堂家を招いて食事会もした。初めは付き合うことに否定的だった二人の両親も、二人を見守る過程で、子供のように遊びながらも、障害者支援や手帳制度について学び、自分たちの将来設計について真剣に話し合い、真面目に交際しようとする二人の純粋な恋路を見る内に黙認するようになっていた。

キスをするのも恥ずかしい二人だ。寄り添い抱き合って一緒の布団で眠るだけで幸せだった。
「鷲翔君背伸びたね、私身長こされちゃったね」
「ももちいさい」
「私小さいね」
「ぼくおおきい」
「本当に大きくなったね」
と言って笑い合っている。


(12)解離性同一性障害

 百夜(びゃくや)と巴の関係を一言で言えば弟と姉だ。しかしそんな二人が出会う手段はない。唯一の情報共有手段は思春期の頃から続いている姉との交換日記だ。
 百夜と巴は例えば実際に対峙して話し合うなんて事は出来ない。百夜と巴は知識は共有できるが、記憶と意識は共有できない。だから、手記を書くことで互いの身の上に何があったかを理解しているのだ。
 それでも、二人は確かに独立した別の人格として存在していたし、直に触れ合う事はできなくとも、こうして「筆談」できるのだから、お互いの姿が「個人」として一致している事について、二人は気にしたことなどなかった。

 そんなある日の事、百夜の意識が覚醒した時、黒髪ロングのカツラを被って知らない男と寝台で寝ていて思わず絶叫した。
 自分の身体が女である事が不幸を招いた。カツラと女のひらひらしたランジェリーを脱ぎ捨てて、男物のジャージを着て急いで部屋を発った。あの男は一体誰なんだろう。そんな事がずっと頭をぐるぐるしていたが、なにより男と床を共にしたという事実が、嫌で仕方がなかった。まるで汚れてしまったみたいだ。僕は男なのに男と寝るなんて真っ平と、何度も口の中をうがいして洗面所で吐いた。
 風呂に入って身を清め、念入りに身体を洗ったが、自分の唇や身体は男の身体と熱を覚えていて、まるで自分の身体が自分の身体でないみたいで気持ち悪かった。

 巴が最近熱心になってるらしい男がいるのは聞いていたが、身体まで許していいなんて一言も言っていない。同じ男だからわかる、なんとなく嫌な予感がするのだ。

 だから、百夜は手記で巴に警告した。
 
『きっと男は巴の身体目的に違いないから、もっと自分の身体を大切にして、男の素性をよく知ってから親しくなった方がいいよ。簡単に気を許しちゃダメだ…』

 果たしてミーハーな巴が僕の警告をまともに聞いてくれるだろうか…と不安になりながら、意識を手放した。
 
 また百夜が目覚めると、見知らぬ部屋にいる。アパートの一室だろうか。僕は服を着たまま部屋に横たわっている。最初感じた違和感は、その衣装だった。巴は赤い色が好きでボディライン強調するような派手な服を好むが、正直僕と趣味が真逆で、僕はもっとふわふわして控えめで清楚な服が好きだった。
 
 女性の好みで言えば、そういう可愛らしい服を着ている人が好きだったから、巴がそういった派手で男を誘惑するような煽情的な服を着ているのが男として嫌だったのだ。
 しかし今回に至っては何故か巴は落ち着いた渋い色味のシャツと膝丈まであるプリーツスカートという控えめな衣装を着ていた。
 指先を見れば、いつも爪は真っ赤なネイルで汚れていたのに今日に限っては綺麗に落とされている。まるで別人のように潮らしくなっている見なりにどうしたことだろうと思い、頭に手をやれば、触れたのは地毛の淡い茶色のショートカットでいつもの黒髪のカツラがない…、これは巴じゃない…。
 今まさに『僕』が…『百夜』が女装している。と気がついた時、部屋のドアが開いて、誰かが入ってきた。全身を警戒して、相手を見やれば、いつか見た…『巴』と寝ていたあの見知らぬ男だった。僕は尋ねた。
 
「貴方、誰…?僕とどういう…」

戸惑い緊張する僕と裏腹に男は笑っていた。

「君とは初めましてかな。ようやく会えたね、百夜君」

男は軽快な足取りで一歩一歩僕に近づいてくる。僕は窓際に後退して距離を取り、何処の誰とも分からない男の存在に恐怖しながら、尋ね聞いた。

「『僕』を知っているの…貴方は『巴』とどういう関係なの…」

すると男はおかしそうに目を細めて、心外そうな顔をした後で、不気味にほくそ笑んだ。

「君は何か勘違いしてるようだけど、僕が用があるのは『君』の方なんだよ、百夜君」

 自分にゆっくりと迫ってくる得体の知れない男に対して本能的に感じたのは、これは情事前の戯れだということ、百夜は弾けたように窓に飛びついて窓を開けて逃げようとしたが、その前に男の手が伸びて組み付かれ壁に身体ごと押さえつけられた。
 
「『君』は警戒心が強くて中々僕の前に現れないから苦労したよ…。姉の方を懐柔してなんとか『君の身体』にはありつけたけど、いつまでも君の人格が出てこないから…」
「姉の方はそんなこと知りもしないだろうけどね…」
「覚えてないか?僕は鷲翔だよ。高校の時君の家庭教師をしていたこともある。まさか君の『身体』が女だったとは思いもしなかったけどね。知ったときは天が我に味方をしたとすら思ったよ白日堂々僕らは付き合うことができるんだからね…」
「僕はね君の恋人だよ、百夜君」
「ようやく君にありつけた」

 真面目な顔をした男の口が百夜のそれに触れる寸前、百夜は再び意識を手放した。

 ある朝目覚めると、僕は鷲翔と一緒に食事をしていて、ある朝目覚めると、僕は鷲翔の隣で寝ていて、ある朝目覚めると、僕は鷲翔に抱かれていて、ある朝目覚めると「君が好きだ」とキスされていて、ある朝目覚めると、僕は純白のドレスを着ていて、ある朝目覚めると僕は甘い声で恋人を呼んでいる。
 
ある朝目覚めると、私…『僕』は完全に女になっていた。

 ママと呼ばれたのが僕自身の事だと気が付いたのは、乳房をしゃぶる赤ん坊と、足元でスカートの裾を触る幼児が自分の子供で、自分が鷲翔百夜だと思いだした時だった。僕はいつの間に鷲翔と家庭を築き、母親になっていたようだった。乳を出すために大きくなった乳房を吸う息子は鷲翔の面影がある。
 
 今更ながら、僕はどうしてこんなことになっているのだろうと思った。いつの間に僕には母性が沸いて、よしよしと息子をあやすのが上手になっているし、何も考えずとも料理ができるようになっている。仕事を終えた鷲翔を玄関で出迎えて鞄を預かり頬に口づけて夕食に誘っている。これは一体何の冗談なのだ。
 
 その夜、明日も仕事があるからと寝床に着いた鷲翔の隣に、当たり前に横になって寝ようとする自分に戸惑いながら、思い切って鷲翔に尋ねてみる事にした。

「鷲翔さん、起きてる?」
「どうした?」
「あの…どうして『僕』はこうなってるの?」
「『僕』…?」
「どうして鷲翔さんと結婚してるの…?」
「ああ…『君』は百夜君か…そうか…まだ残っていたんだね…」
「『君』って…」
「知っての通り、『君』は『鷲翔百夜』という人物の持つ一つの人格に過ぎない。そして君は今『主人格』ではなくなっているんだよ」
「え…」
「この身体の持ち主は元々『百夜(ももよ)』という一人の女の子のものに過ぎなかった」
君は『姉』の『巴』と同じように過剰なストレスから心を守る為に生み出された『百夜』の保護人格だ」
「僕が…保護人格…『百夜』の…」
「長期期間のカウンセリング治療によって『巴人格』は既に『百夜』と統合され消えている。君は長い間、百夜の『主人格』を支配していたから残っていたんだね」
「これまで沈黙していた本来の百夜の人格は強いストレスで抑圧されていて、無感情で何の反応も示さなくなっていたが、僕の心理療法で今は完全に感情を取り戻して生活するに至っている。人格は一つに統合してもう殆ど症状はなくなっていた」
「僕はもう必要ないの…?僕はここにいてはいけないの…?」
「いや…僕は君が好きだったよ。僕が好きだったのは紛れもなく君だった。君との日々はとても充実していた」
「僕は、やっぱり鷲翔さんの恋人だったの?」
「どうだろうね…君は俺をあまり好きじゃなかったみたいだから」
「…」

「俺はね『百夜』と言う人が好きなんだ。君の人格も、巴の人格も含めて」
「百夜『君』…最初は君が本当の『百夜』だと思っていた…けど違った。なんていえばいいのかな。君は…君たちは多分百夜本来の人格が抑圧され閉じこもっていたからこそ生まれた。確かに君は本来の百夜とは性別も違う別の人格だけど、やっぱり君は『百夜』から生まれた人格なんだよ。俺はそう思うんだ」
「『百夜』という個人が持つまた別のペルソナ…というのは短絡的かもしれないけど、君は百夜という人間の中にある分身の一つに過ぎない…だから『君』を含めて初めて『百夜』という一人の人間になるんだ」

「僕が『百夜』…?」
「君が欠けたら百夜は百夜じゃなくなる、君は百夜にとって必要なんだよ」
「それは勿論僕にとっても同じ…僕は『百夜』という人を愛している…だから君の事も僕は好きだよ」
「…」
「君はずっと『百夜』を精神ダメージから守ってきた…きっと俺と同じ男だからこそわかるものがあるんだろうと思う。巴に宛てた日記には笑ったよ。僕を『体目当て』とずばり言い当ててね…」
「『巴ちゃん』も中々気難しい子だったけど、『百夜君』はもっとガードの硬い厄介な奴だった…」
「鷲翔さん…」
「君を一度抱いたら女みたいに潮らしくなったときは笑ったけどね」
「…」
「また気が向いたら俺に会いに来るといい」
「…あの」
「ん?」
「今度また『僕』が目覚めたら…」

「今度また『僕』が目覚めて鷲翔さんに会えたら、鷲翔さんの知ってる『百夜ちゃん』の話を聞かせて欲しいな…」
「いいよ」
「ありがとう…」
「じゃあおやすみ百夜君」
「うん…」

 その日以降、"百夜"が現れる事はもうなかった。


(13)ガイア理論

 その日の空は冬間には珍しく晴れやかで、雪雨が去った後の雲間から注がれる淡い黄金の柱は暗がりの街と水気のあるビル谷を白く照らして、その窓は優しく街の情景を反射し一面が太陽でキラキラと光っていた。影の落ちたビル影の商店街はまだ湿りけを残して、雲間から覗く太陽を避けてビル間から無言で空を見上げている。その空はやはり何処までも青に住み渡り、ビルの天辺より遥か上空で狭い空を無数に流れていく分厚い雲は東に向かい、見え隠れする太陽の周りを円環のように囲んでいる。空は丁度天球のようであり、地上から見上げるそれはガラス球の内から外を眺めるようなもので、街の情景の全てが南中する黄金の光を中心に回っていたのである。その光の見下ろす先で、街は静かに佇んでいた。街から生えるビル谷は溢れる太陽の光を湛えたち忍び、その下で空に向かうように突き刺さった電信柱の植林と結ばれた電線網が街全体を構成する輪郭線のように張り巡り、隙間を縫う風に時折仰がれながら、バチバチと小さな火花を出しては俄かに揺れている。四車線の道路を挟む歩行者信号は規則的に赤と青の明滅を繰り返し、車道の真ん中にぶら下がる信号も又同様に三色の発光を順繰りさせるだけでそれ以外は無言であった。道路の川に架かった歩道橋も標識柱も無機質な標識を印字するだけで、まるで岩波に倒れた大木の如く無為に横たわっている。伸ばされた歩道線も、横断歩道も、中央線も、敷かれたアスファルトも流れのせき止められた河川のようにその活動を止めていた。その道路には嘗ての人間活動の気配を思わせるまま車が列をなして停止線を前に綺麗に並んでおり、人に踏まれる蟻の如く上から順番に押し潰され道路に沈んでいた。吐き出された部品と粉々に砕け散らばったガラス片は潰れた車体の周りを墓前の花の如く彩り、車の列は色とりどりに咲く花のように、やはり黄金の太陽に向かって花開き、散っているのである。

 そこは駅前広場だった。タクシーやバス停が、海に泊まる船舶のように道路の波に群れて、駅前の港に止まっている。そこはいわば波止場だった。嘗て道路を走った自動車の連なりはまるで、巨大魚を模した小魚の群れを思わせ、空に鳴く機械鳥はその上で獲物を狙ってその波間の孤島に轟音と共に着陸した。その駅から伸びる無数の線路は運河のように街の間を縫ってその上を方舟が止まっていた。踏切は柱を下 ろしたまま、赤の警告が上下に明滅を繰り返し、その方舟の到着を永久に待ち望み、鐘を鳴らしているのである。線路に敷かれた小石は既に息を失い砂を乗せた風波に打たれている。運河を渡るアスファルトに侵食する雑草は細かな花を飾り、土が溢れて傾いた住宅や事務所を、去りゆく風と共に笑っている。それは人の思い出であった。空に滲む太陽は街のなにもかもを照らした。鉛の雲は街の上を渡っていた。雲間から注ぐ光芒が街から伸びるビルの束を照らして、ビルの谷間に影を差した。街路樹は茂って風に鳴いていく。道路には車の列が沈んで、横転したバスが外れたタイヤと共に折れた大木の如く道路に流れる。電信柱は道路に突き刺さり天を仰いで傾いた。ビル窓はその街の情景を写した。割れたガラスの穴の向こうで深い闇も又その街を覗いた。ビルの足元でガラスの粒子が泳いでいた。コンクリートの欠片が潰れた事務所から溢れていた。剥き出しの鉄骨がコンクリートの肉からはみ出て無残に崩れたテナントビルをそれでも支えていた。事務所の看板はぶら下がり、無機質に主人の名前を訴えていた。道路にはそんな人の思い出が溢れていた。静止したバス停の椅子、ビル窓の向こうの事務椅子と事務机、ショーガラスの向こうの宝石、放映中のテレビは、ただひたすら変化のないスタジオを写す。動作する天井の監視カメラ。揺れる無数のモニター。崩壊した壁の欠片を載せる冷たい床の映像。光るだけの電灯。街の誰もが黙っていた。住宅に、ビルに、道路に、駅に、公園に、横断歩道に、階段に、地下通路に、トイレに、改札口に、待合室に、アスファルトに、土肌に、街に、日本に、大陸に、何もかもに。所諸活動を停止した人々は音もなく横たわり、太陽の光で浮かび上がっていた。中には手をつないだ親子もいた。恋人を庇うように抱きしめ合う恋人もいた。杖を持った老母もいた。それを支える子供もいた。男もいた。女もいた。肌の白いもの、肌の黒いもの。背中に羽の生えたもの。飼い猫、野良犬、鴉、蛇、鼠、蟻、羽虫、ミミズ、ミドリムシ、雑草、花、川、森、山、海。地球の何もかも、何もかもが、その地表に横たわり、息を止めて生命を失い死んでいた。

 1999年12月25日世界は再び滅んで、この世に地獄が生まれた。地球は人の悪意を孕んで10の胎動と共にそれが生まれた。瓦礫に寝転ぶヒトの亡骸と共に、倒れこむ死骸があった。それには羽があった。まるで白い鳥の羽をそのまま肩甲骨にくっつけたような体で、個体差によってその大きさを変えた。又その側で倒れこむ死骸があった。それはこの世のものとは思えぬ形相をしており、全身を硬い鱗で覆った、何処か魚介類を思わせる風貌であったがヒトに近い形をしていた。倒れる犬の隣に三つ首の犬が倒れていた。その犬は足の先が焦げて、炎が小さく揺れている。昆虫の死骸に、昆虫の羽の生えた小さい小人がいた。牛の側に牛の頭を持った人間が倒れていた。街は静かに佇んでいた。その中でただ一つ動く生命があった。盛り上がる地表はそこに生えたビル並を巻き込んで、まるで敷いた絨毯を丸め包むように地表に爛れたビルや草木をそのまま巻き込んで、地球に巨大な穴を作った。その破かれた地表には海があった、陸路があった。そこにはヒトの営みも自然の法則もあった、途方もない年月をかけて紡がれた生命の遺産は、ただの物質となった惑星には、塵のような存在にすぎなかった。星にある全ての生命がただ一つの生命の為に滅んだ。まるでそれは火星の如くただの岩肌となり暗黒の宇宙の中を漂う巨大な元素となった。それは慈悲あることでも無慈悲なことでも無かった。地球はヒトのゆりかごでは無かった。リリム、精霊、悪魔。動物、植物、鉱物、有機生命体、無機生命体、生命のゆりかごでは無かった。地球は生命の墓場であった。破かれた地表、太平洋に空いた地球の穴の内側から宇宙に伸びる巨大な手があった。それは唸るような雄叫びを持って宇宙にその産声を上げながらその殻を破り、その赤ん坊は地球を飛び出した。その瞬間、三度の鋭い衝撃波と共に地上は焦土と化し、海も、風も、火も、大地も溶け滅んで、陸に僅かに残っていたヒトの文明の跡も自然の進化の跡すらも消し去って、全てがただの無為な物質となった。嘗てそこを覆っていた生命の息吹は跡形もなく消え去った。地球という生命は滅びた。

 地球は、ある別の生命の、ガイアの卵にすぎなかったのだ。

 月に座った男は、ただ一人、その地獄の光景を眺めていた。男は既に発狂していた。既に息絶えたリリムを抱いて、理性のない目でただその地上を網膜に焼いていた。何もかもを失い何もかも手に入れた男は一人何を思うのか、その瞳の奥に狂気のみを残して、虚ろな目の上に、世界の終わりとその行く末、地上で燃え上がる神の火を浮かべている。その男の魂は死んで、肉と霊の内に死骸となって、永久に男の中に留まった。死んだ男の心だけが、この奈落の底に呪いとして沈んで、ヒトの悪意として神の天罰を乞うて、神の悪意として人の罪悪を願い、この物質界を永久に彷徨い、ただひたすら男の善意...掻き抱いた女の目覚めを待ち続けるのだ。

 そんな地獄絵図が脳裏に降りたのは1999年8月18日の朝の事であった。最近の夢見の悪さに何かの凶兆を感じていた伽藍堂百夜は、目覚めた瞬間唐突に、だが確信的に男のこれまでの動向と思惑とを理解した。そんな気にさせた。自分の思考に先程の悪夢が導くようにして男の思考をなぞらせ、自分の思考回路として意識に沈殿する。覚醒は後戻りを許さない。一度通った情報集積回路は元の単一の情報としての意味と価値を忘れ、ただ一つの思惑としての意味を受け取り、心の淵に漏れた毒としていつまでも百夜を蝕んでいく。

 激しく脈打つ全身と、驚愕の眼ざし、差し迫るような焦りと全身に流れる汗。朝の木漏れ日が落ちる室内。荒く呼吸していた百夜は、鼓動が萎えていくと共に、落ち着きを取り戻し、吐息と共に絹を滑らせながら、再び寝台に静かに横たわり目を閉じた。しかしその震えはなかなか収まることは無かった。この恐怖の実感は紛れもない現実だった。枕の上を広がる淡い栗色の髪。光る赤目。両手を緩く握り、布団で全身を包んで体を縮こめても、閉じた瞼はいつまでもあの地獄の光景を映し出す。冷たい男の顔。鷲翔空晴。

 いつからだろう、百夜がこんなにも鷲翔の事を気にするようになったのは。


(14)歩兵金なる

 所謂成金になってから世間から鷲翔への態度は随分と変わったが、心を開く相手はただ一人、百夜だけだった。
 しかし、困った事に百夜はそんな鷲翔に思う所があるらしい。落ちぶれた頃の自分に手を伸べ生きてと命じた百夜に対し、あれよこれよと財力を見せびらかすように豪華な施しをするのに、百夜は鷲翔の施しの全てを頑なに受け取らない。ただそうやって虚勢を張る鷲翔を哀しそうな目で見るだけだ。

 他の女は俺が全身に付けたブランドを目敏く見つけて、息を吐くだけで靡いてくるのに、百夜は何をやっても一向に振り向かない。そんな彼女のつれない態度とは裏腹に、鷲翔は、「どんな高価な品物にも満足しない俺に相応しい女だ!」と日に日に想いを強めていった。しかし、百夜はと言えば、暇さえあればただ教会で祈っているようだった。修道女もここまで来ると病気だな、と思ったものだ。

 百夜は基本的に何の望みも持たなかった。だから、鷲翔が自分の持てる権能の全てを発揮しても百夜は満足しない。そもそも彼女は生き甲斐を持っていないようだった。普通の人が持っている利害観念がまるで感じられない。彼女は、鷲翔が生涯かけて鍛え抜いたビジネスのテクニックも人生観も通じない相手なので、お手上げの状態であった。
 
 そんな時、ふと百夜が自分の下らない恋文を大切にしてる事を知り呆然とする。

 どうしてそんなものを大切にしてるんだと聞いても百夜は俯いて手紙の文面を覗いているだけ。そんなものに何の価値があるんだと笑っても百夜は首を振るだけ。いつも饒舌に語る売り文句すら出てこず、ついに押し黙った鷲翔は、お前は何が望みなんだと思わず聞いてしまった。
 
「何もいりません」

 百夜の答えには、何の躊躇も迷いもなかった。
 心底解せないような、肝を抜いたような、理解しがたい何かを見るような目で自分を見やる鷲翔を前に、何もいりません。ともう一度だけ呟いて、手紙を胸に抱いた。そして、鷲翔の方に寄りかかるようにしてその懐で俯く。鷲翔は重みを胸に戸惑った。覚束ない動作で百夜の肩に手を置き不器用に百夜を抱き締める。

 自分の胸元に埋まる百夜の頭と胸の感触、身体の温度を感じながら自分の顔を百夜の肩口に埋めた時、盗み見た百夜の横顔がやっと救われたように、安心したように綻んでいた。
 昔自分が見て惚れた百夜の姿を、自分がどんな事をしても見たかった百夜の笑顔が漸く見れたのだ。鷲翔は肩透かしを食らったように思う。
 
 ああ、こんな事で良かったのか…。

 自分の理屈が通じない女の存在にやはり戸惑い、その瞳に浮かび流れていく涙に言葉を無くした。冷たくしかし煌びやかに飾られた虚構に満りた一室の中で、鷲翔はただ世の中から切り取られたようにして、唯一の人の温度を抱きかかえた。
 百夜の手から溢れ、床に滑り落ちた「好き」と無邪気に文字を並べただけの手紙が、静止する二人を無機質に見上げている。

 鷲翔はその時まるで初めて部屋の内装に気がついたようにして狼狽し、百夜と出会ってからの人生の全てを、ここまで成り上がるまでの自分の経緯を振り返って、急に不安になり枯れて虚しくなる。
 
 果たして自分が欲しかったのはこんなガラクタの山だったのだろうか、と。

 本当に自分が欲しかったのは自分を包む温度…他者からの一途な尊敬だったのではないかと。

 自分が何処までも乾いて満たされなかったのは、ただそこにあるだけの、自分自身を認める誰かがいなかったからだったのかと。


(15)厭世

「男の人は女の人の身体を見ないと心が満たせないと聞いて、それで犯罪を犯してまで女の人の肉体を求めると聞いて、私はそんな男の人が可哀想に思った。それで女の人と話すだけでも救われる男の人がいると聞いて力になりたいと思った。それは純粋な善意だった」

「ある時男の人が私を訪ねてきた。意中の女の人に振り向いてもらえないと相談された。私は壁の向こうの誰かの為に祈った。男の人は心が軽くなったとお礼を言って去って行った。ある時女の人が私を訪ねてきた。女の人は意中の男の人に冷たくされると嘆いてきた。孤独だと私に訴えた」

「私は女の人を可哀想に思った。私も女であったので、男の人の目に適わないと邪険にされるのを知っていた。男の人は女の人を女として捉えても同じ人間として捉えることは稀だと聞いた。私は昔自分が女と知らなかった。だから男に混じって生きて通じ合っていると思い込んでいた時期があった」

「だから私は女の人の為に祈った。女の人は心救われたと言って去って行った。ある時、地方新聞である男女の末路を知った。男は意中の女を求め他者の邸宅に忍び、女は自分の夫が愛人を作っていたことを嘆き慰謝料を求める内容であった。その二人は私の相談者だった。」

「私はその時隣人愛の限界を知った。愛は互いの想い無しに成立しない。人は愛によっても対立する。自分が自分であり他者が他者であり、永遠に別った存在である限り、利害ある限りわかり合うことはないと知った。」

「ある時私に男の人が訪ねてきた。男の人は女のお前が憎らしいと言った。若ささえあれば幾らでも男に買われる女のお前はただの肉塊だ。しかし醜く腐ればお前はおしまいだと笑った。今こうして話すお前も顔の造形が悪ければ客なんて誰も来ないと笑った。私はその男が昔女に振られたことを聞いた」

「私はその男の人を哀れに思った。きっとその人には慰めとなる誰かがいないのだと思った。私はその人の明日を祈った。男は唾を吐くようにして去って行った。男は二度とくることはなかった。相談者の殆どは気が済めば二度とここに踏み入れることはない。私はただ目の前の人を祈るだけ」

「私は誰かの側に立つことは誰の手を振り払うことと知って、私は誰一人として相手の手を取ることはない。利害ある限り人は理解し合うことはない。だから私にとって目の前を過ぎていくものが全てだった。」

「ある時、男の人が訪ねてきた。話が合わず些細な事で喧嘩別れしてしまった男女の話を聞いた。私はその時人に言葉が無ければ良かったのにと思った。身体一つで生きることができれば良かったのにと思った。男女の愛が身を寄せ合うだけで成立するものだったら良かったのにと思った。」

「ある時、女の人が訪ねてきた。私と友達になりたいと訪ねてきた。私は喜んで受け答えた。私はその女の人の孤独が癒せるならと、訪ねてくるたびに応じた。ある時、恋愛の相談を受けた。その人は私を好きだと言った。私が嘗てそうであったようにその人は同性の私を好きだと言った。」

「まるで異性の男と話すかのように接する彼女の「憧れている」という言葉を彼女の為にならないからと断った。彼女は誰に縋って生きていけばいいのかと言った。友人が皆男と人生を共にする中で取り残された私はどうすればいいのかと嘆き悲しみ、祈る私の前から去って行った」

「その時私は何故自分が女で、リリムで、『自分自身であったのか』と嘆いた。もし私が違う誰かであったまら別の形になったかもしれない。もしも私がここにいなければ彼女は苦しまなかったかもしれない。私は自分を呪い、この世の悲喜劇に向けて祈った」

「人が病に伏せた時、死に向けて心が変わっていくんだ。最初は自分の死を受け入れることができず、何故自分がそのような冷酷な運命を背負うのだと嘆き怒り悲しみにくれる。でもその内その人は運命に抗えないと知り自分の死を受け入れて残りの時間をどう過ごすのかを静かに考えるようになる。」

「心にあった怒りも悲しみも朽ちて唯静かに揺れる水面だけが心に澄み渡り浸透し意識が己の器の内側に沈み世界に向けて霊眼が開いていく。私は生涯を通じて自分の無力さを知った。いや自分という生命の無意味さと言っていい。私はこの大宇宙を前に心の芽生えの全てが地に伏していくのを感じた」

「私の心の内にあったこの世に対する情念の全てが塵と消え、残されたのは大宇宙に対する純粋な敬意と、神への知的観想だけ。魂は不浄の肉体を抜け霊の光のある方へ向かって行く。私は漸くここに辿り着いた…。」

「私も、貴方も、心なくした狂人だから」
「だから鷲翔さん、貴方もこっちにきて」
「一緒に狂って…」
「私を壊して…」

* * *

「人というのは変わっていくものなんだよ」と

 鷲翔が東京の夜景を一望できるガラス窓の前に立って背中を向けて言う。ここは東京新宿区の高層マンションの一室。ホテルのスイートルームを思わせる高価な作りで、鷲翔はその部屋を貸し切っていた。壁一面にはめ込まれたガラス窓に反射するのは鷲翔の全身だ。

 その鷲翔の遙か後方、壁ランプが柔らかに照らす寝台の上に、スカートの裾を広げ足を揃えて、ちょこんと座った百夜が静かな表情で眉を下げて座っている。両手は背中の後ろにあって、その両手はネクタイできつく縛られている。百夜は鷲翔の独白に応えず相手の言葉の続きを無言で待っていた。

「俺は大学時代にあるセミナーに参加したんだ。"簡単に金が手に入る"と友人に誘われて。僕は元々団地の生まれだったから、友人の言う金持ちの世界がどういったものか興味があった。東大生という肩書は便利なものでね。有名企業や各省庁のお偉いさんが研究室を出入りするなんてザラだった」

「だから僕らの小さい経済サークルに教授を通じて企業の人間を誘い、知恵を借りるなんて簡単な事だったさ。それは株取引や為替レートに関する生の情報だった。もうすぐ警察が何処何処の企業にガサ入れして不正が世間にリークされるから、この株は今のうちに手放した方がいいとかね。」

「僕も友人も、手元にある一万円の価値しかなかった外貨が、石油開発の成功で二倍以上の価値に跳ね上がった時は興奮した。パソコン画面に映されるリアルタイムで変動するレート模様、ついこの前までその辺の学生と変わらなかった筈の俺たちは少しお金持ちになってすっかり為替取引の虜になった」

「そのセミナーとは丁度その頃に出会った。参加料一万円支払えば、為替取引や資産運用の基本ノウハウからその応用までの講義を自由に受けられ、水面下に出回っている裏情報まで取引でき、有名個人ファンドや重役レベルの人間と知り合えると銘打ったね。当然僕と友人は一万円をもって参加した」

 鷲翔はそこまで喋ってから一度話を区切った。ガラス窓から百夜の方に振り返って歩き、テーブルの上にあったワインボトルを手に取って、慣れた手つきでボトルを傾けワイングラスを葡萄酒で満たす。グラスを持ったままの鷲翔は百夜の方に優雅に歩み寄ってその隣に座る。それを百夜は見つめるしかない。

 まるで拘束をしたのが自分でないかのように百夜を見下げ、彼女の不自由を無視してグラスを口に傾けた。半分ほど中身を残して、隣に座ったままの百夜に顔を向けて、口を開く。

「僕はね。そこで世の中の縮図を見たんだよ」

 縮図?と小声で聞き返す百夜の顔はやはり怯えたような、それでいて自分を哀しむような目をしていたので、それを自虐するように笑った鷲翔は、「友人はそこからおかしくなってね」と昔話の続きを始めた。

「そこは、まるで世界が違ったんだ。いや、というよりはむしろ、社会の上澄みの方だけ掬い取ったみたいな、本当に世の中を指先だけで動かすような連中ばかりがいたんだ」

「社長令嬢や社長子息はもちろん、数分の会話で相手に1000万の投資をしてしまうような個人投資家、億ションの一室を企業や個人に貸しだして後は不労所得だけで生活してきままに財テクに励む不動産屋、バブル崩壊がなんだっていうぐらい豪勢な奴らがそこにいてね」

「こんな次元の違う連中と同じ空間にいると有頂天になる友人の横で俺は身の毛がよだつのを感じた。急に恐ろしくなった。俺は団地のアパートで生まれ育った。そこでは赤ん坊の泣き声が響いて、貧しい夫婦の喧嘩が響いて、不良が軒先に居座って、地上げのやーさんが部屋の前に一晩中居座って」

「思えば地獄のような空間だったかもしれない。俺は一瞬たりとも安心したことなどなかった。君が生まれてこの方この世の地獄を生きたように、僕も又ヒトという生き物とは相いれない人間だったようでね。僕はその中で幼少と思春期を過ごした。本当に底辺と呼ばれる所で必死に勉強して本を読んだ」

「いつか日の目を見ることを夢見て、あの父と母と五畳半の空間で、蜘蛛の糸で汚れた窓の向こうに見える高層ビルの群れを眺めながら誓ったよ。いつか俺もあそこに行くんだと。中学の頃だった、本の詰まった段ボールを机に、毎日のように勉強した。都会の喧噪に煽られながら必死で。」

「借金しながら高校に通い、働きながら勉強して東京大学に受かって、僕は初めて自分が肯定されたような気がした。ようやく人生が報われた気がした。でもそのセミナーで出会った連中は、そんな僕の努力を嘲笑うように、僕の人生の全てを一蹴したんだ。」
 鷲翔は自嘲的に笑いながら百夜の隣に座る。

「そこにいたのは、生まれた瞬間から将来が約束されたような人間。生まれて直ぐ親の資産と権力に囲まれ、手を伸ばせばあらゆる教育と講義を受けられ、望めば医療、美容、理容、最先端技術に手が届く。ああ、そうか、俺は化かされたのか。世の中というのは、俺たちの生活に興味がない。」

「その時俺は知ったよ。汗水流して血みどろになって手に入る栄光なんて唯の寓話だ。下剋上の話が現実として世間にもてはやされるのは、世間が効率だけの生活を知らないからだ。世の中には、最適化された環境の中で何の障害もなく過ごし、競争の外側で安全にポストに就くことのできる奴らがいる」

「世の中はこいつらの為にあったんだってね」

 寝台に腰を落とし、ぼんやりと葡萄酒の水面を見つめていた鷲翔は細く笑った後手元のグラスを紙屑でも投げるような軽い手取りで前に投げ捨てた。鋭いガラスの割れる音。百夜は絨毯に広がる赤い染みとその上に散らばるガラス片を無表情にみている。

「世の中はモノポリーだ。資本主義の競争社会に強制的に参加させられるラットレースの本質に気づかないものは、少ない稼ぎを自分の負債に宛てるだけの人生になる。狡賢い奴だけそこから抜け出せる。世の中の金の流れに杭を打って自分の方に流れるようにすればいい。資産と特許という杭をね。」

「友人は気付かなかったようだが、結局あのセミナーは何も知らない俺たち素人から金を巻き上げる為の集会だ。ネズミ講に近いやり方でね。気前よく情報を渡してくれるのは2、3回まで。それからは双方が満足する有益な情報を齎せ、後は自分のコネと能力で何とかしろ。ここは自己責任の世界だ」

「結局残るのは常に情報と金が出入りする上流層だけ、後ろ盾のない俺たちは交友関係を保つ為に高い金を支払う。参加した資産家は俺たちを釣る為の餌だったって訳だ。自己責任と銘打って高い参加料を支払わせて、主催者に有益な情報と技術を齎さない人間はただ永遠に金を貢ぐだけの奴隷になる。」

「主催者のお眼鏡に適った人間だけvipリストに仲間入り。互いの手の内を監視し合い、裏切り者が出ようものなら、先手を打って潰し仲間に見せしめ、お眼鏡に適わない無産の人間は自分たち債権者のテリトリーに入れず、債務者として永遠に隷従させる。そう、これはビジネス。正に表日本の縮図だろ」

 鷲翔は大笑いして、百夜の肩に手を回した。喋り続ける男の目が青く光っている。「だから俺もそうしてやったんだ。この力で。俺はあらゆる企業の重役会議を覗いてやった。そして競合相手に情報を売った。ある企業にはその競合相手の情報を売った。二重スパイって奴だ。企業同士が潰し合う様は圧巻だった」

「何せ魔術なんて迷信の世界だからな。法の整備も政策も整ってない今、俺が何をしたところで俺のいう事なんて誰も信じないさ」

「俺はあいつらから教わった。世の中はパワーゲームだ。世の中が喰うか喰われるかの弱肉強食の世界なら、俺は喰われる前に相手を潰す。世の中が俺にそうしたように」

「俺はありとあらゆる全ての事から全ての利を貪り奪う。俺はこの世の悪意だ。俺の執念はこの世の毒として永遠に沈殿する。俺は俺に向けたすべての悪意を許さない」

 俺の人生を誰にも否定させない。
 そこまで喋ると鷲翔は百夜に顔を向けて、その寂しそうな表情を無視して、肩を抱いて寝台に組み敷いた。

 百夜は抵抗することなく組み敷かれる。薄い繊維の服に包まれた全身が、背中の縛られた手首ごと寝台の上に沈んで、力のない眼差しで鷲翔を見上げている。見つめ返す鷲翔は穏やかな表情で薄く笑いながら言う。

「なぁ百夜。お前もこっちにこい。あの時俺を助けたお前だけは守ってやる。だから俺と共にこい」

 そう言って、悪魔リリムの百夜の顎をもって口を貪り、口越しに自分の血の混じった葡萄酒を百夜に飲ませた。このまま悪魔契約する魂胆だった。
 しかし、百夜はただ悲しそうな目で「鷲翔さん」としか言わない。

「鷲翔さん、環境は自分によって作られていくものなんだよ。」
 口の端から顎へ流れる一滴の赤い雫。
「鷲翔さんの周りには人と腹を探り合って相手を出し抜こうとしたり自分の成功しか考えない人しかいなかったかもしれない。でもそれは鷲翔さんが自ら作り出した人間関係なんだよ」

「私も貴方の気持ちがわかる。私が見てきたのは醜い権利争いと富の奪い合い、騙し合い、探り合い、無関心、互いの足の引っ張り合って人は自益だけを追究していく…。思えば私の人生は裏切りばかりだった…。でも、それでも私には信じられるものがあった。人の光があった。鷲翔さん貴方も…。」

「人の争いが人の、罪で防ぎようのないものであっても、欲に身を委ねれば魂は永久に争い業火を彷徨い生きることになる」
「貴方がその拳を解けばそれも終わる、誰も貴方から何も奪わない。」
「だから貴方はそっちにいっては駄目」
 
 百夜は鷲翔の頬を指で触ったが、それを嫌うように鷲翔は百夜の左頬をひっぱたいた。

 頬を腫らして見上げる百夜に跨りその胸元を掴む。
「お前に東京の…この国の頂上を見せてやるよ」

 鷲翔は何処か強がるよう口づけた。
 
* * *

「百夜、君には証明の義務がある。僕らは不適格者だ。この弱肉強食の世界で生きる事も叶わない弱い生き物。しかしそれは世の理に背いた事なのか。僕は君の弱さを美しいと思う。優しさで肉食わずとも生きられる事を、かのダーウィンに教えてやろうじゃないか。僕らの生物学的誤謬は…、弱さとは人の美しさの事だ。生きろ百夜、君の生涯を悪魔として終えてはいけない」

「世の中が弱肉強食なら、弱い僕らが今こうして生きてる事、それ自体が革命だ。僕ら弱い人間がここまで生き残れたのは、決して肉的な強さだけじゃないはずだ。だから僕は人の弱さを美しいと思う。他を傷つけるのを厭う心、それこそが人間の証明なんだ」

「お前は誰でもないお前なのだ。お前がお前でしかないように、誰がお前という人間になり変わる事ができよう。お前の生涯はお前だけのものだ。お前がお前自身として生きる事が、お前ができる生涯最高の表現である。血肉が土に塵行くその日まで、霊が風に還るその日まで、お前はお前をやめてはいけない」

「お前にかけられた呪いは、それでも生涯を奪うことはできまい。君の命がここで消える道理はないのだ。君は原罪を持って生まれた。嘗て僕に唱えたであろう。耐え忍ぶものは幸いである。克服はやがて祝福に変わるであろう。呪いは試練の事だ。乗り越え給え、それはやがて血肉と御霊に変わるであろう」

* * *

「神は人を信じてないんだよ。だからモーセを通じて人間に十戒をお与えになった、…法律、憲法、秩序。さもなければ人間なんてすぐに堕ちてしまう。神様は人の営みに興味がない。百夜、人間は…人間が人間であるのは、そこに我を突き動かす欲望があるからさ。人間は法のようには動かない。」

「法は人の中から生まれたものではなく、神の理性から生まれたって」
「そう。人は元々間違うようにできてるんだよ。被造たる血肉にある生命を維持する為の機関は、欲望以外の言葉を知らない。」
「でも鷲翔さんも私も、声は聞こえる。召命は人の心に確かに届いている。霊は確かに人の心の内にある」

「僕は思う。果たして人の労りと心は、何処から来て何処から生まれたのか」

「何故動物が他の動物を殺すのか。それは胃を満たし、子の腹を満たし、群れの縄張りを守る為さ。そこに生命を営む以上の思想はない。動物には知覚以上の思考は持たないかもしれない。しかし人間は例えば矜持を満たす為に動物を狩る事ができる。死体を前に優越に浸り、或いは神に祈る事が出来る」

「動物は水と草と肉と一族の住処さえあれば生きることが出来る。しかし人は穀物を食べ、水を飲み、衣を被って住処に居る事を生きるとは呼ばない。人は言葉を話し、肉を味わい、音を奏で、ただそこに有るだけの草花を愛することが出来る。暴力で己を満たす事もある」
「…」

「君はいった。人間はこの世で唯一悪を成すことの出来る生き物だと」
「人はこの世の名付け親なんだって。人は善悪を知る果実を食べた。人は善悪の区別が出来る。傷の痛みに苦悩し、他者の苦しみを知り、悲しみ…時に愉しむことの出来る思考の生き物…」

「人はこの世で唯一悪を知り愉しむことのできる悪党だ」
「悪党…?」
「動物は胃を満たす以外の理由で、自らの種を保護する以外の理由で、強靭な遺伝子を子孫に託しより優れた個を生み出す以上の思考を持たない」
「…」
「…人間はただ快楽の為に他の動物を殺せる唯一の生き物だ」

「人間は生きるだけでは満足しない。人は常に思考を持て余してるんだ。…百夜ちゃん。君が信じると言った人間という生き物はね、生きる以外の理由で…、ただそこにあるのが気に食わないという理由だけで、誰かを傷つけることができる唯一の生き物なんだよ。」

「動物の言う営みは人間でいうところの生活…過ぎ去っていく日常の事。多くの人はその日常という秩序の中で自分の意義を見出すことができる。しかしある種の人間はそれを満足と呼ばず、我を満たす為により強い刺激を求める。」

「自らの内を満たす為だけに、人が生活の中で築いた習慣も、歴史の中培った秩序も、地上の何もかもを無視して、ただ自らの快楽の為に生きることの出来る人間…。この世の悪を自らの人格に具現した生命、それを君達の神学はこう呼んだ」
「悪魔…」
「そう、そして僕らの伝承ではこう呼ぶ。『名前のない怪物』」

「それが君と僕が見てきた人の行為の名前、…モンスターの名前だ」
「人は人を悪と呼び、悪魔にできる唯一の生き物だ。同時に人は人を悪と呼び、悪魔になれる唯一の生き物だ」

「悪は集団生活が前提にある。僕らは生きる為群れる。この世の悪とは、他者の営みを否定し人生を、歴史を、全てを自分の足元に組み敷く怪物が下した意思決定の名前だ」

「君は知らなくてはいけない。この世には悪があると言う事を」

* * *

「神様、私には既にこの身にまとうボロ衣しか残っておりません。今横たえる荒み野に頬を擦れば土肌の塵が私の肉体が迎え入れようとその粒子が全身を覆うのです。ならばもう手先を登る蟻に身を委ねてもよいのではないですか。私はあまりにも非力なのです。」

「神様、それでも私に立ち上がり戦えというのですか…」


(16)いい加減にしろ

 生徒会長は最近わたしにやたら冷たいと思う。
 確かにわたしは女の癖に男勝りで、いつも制服を着崩しているので生徒会のメンバーとしては不適当な人間かもしれない。しかし、そもそもわたしを生徒会に勧誘し採用したのはこの男、会長なのだ。自分でまいた種なのに、何故怒りの矛先がわたしに向けられなければならないのか。
「顔を上げてくれますか」
 いつまでも俯いているわたしに痺れを切らした会長がこちらを見ろと促す。要はちゃんと話を聞けということなのだろう。正直、腹が立った。どうせ顔を上げても憎たらしいほどの美形がそこに居るだけだ。今すぐにここの空間から出て行きたかったが、相手は生徒会最高権力者。さすがにわたしにも最低限の常識はある。
 今、生徒会室には机を挟んでわたしと会長しかいない。この教室は生徒会室と言っておきながらやたら狭く、大部分が細長い机で占められていて、残りはダンボールで埋められていた。おかげさまで会長がいつも以上に大きく感じる、去年から身長が縮み始めたわたしにとっては劣等心を刺激するものでしかない。なんて忌々しい。
「…なんですか、会長」
 声を低くして、なるべく冷たく聞こえるように言い放った。ついでに睨み付けてやりたいところだったが、椅子に座ってもこの体格差。見上げるような形になるのが嫌だからやらない。本来なら人を傷つけるようなことはしない主義なのだが、相手が人の皮被ったゲテモノなら話は別だ。別に不快に思おうが関係ない。が、ゲテモノは特に気にすることもなく「手が止まっていますよ」と机に積まれているプリント書類累々の山を指差した。量がとにかく尋常じゃない、一日の仕事量の域を超えている。これを放課後にすべて終わらせろと命令した会長は、やっぱりゲテモノだと思った。
「不服そうですね」
「当たり前だ」
 まず、お前が同じ部屋にいるのが気に食わない。言い返したいことはすでに頭の中で噴水のように溢れ出てくるが、会長が楽しそうに目を細めているので、ぎょっとして全部引っ込んでしまった。きっとわたしが小さい脳味噌で無理難題に取り組んでいることがおかしいのだろう。人を馬鹿にしやがって。
 でも他の生徒会のやつらも相当酷いやつらだ。スカートが短いとか、考査の成績がメンバー内で一番悪かったとか、自分と視線がぶつかっただとか、後半よくわからない理由を口実にいつもわたしだけを放課後残し、拷問のような作業をさせる会長に誰一人異議を唱えない。しかも何故か、その会長は先に帰らずに作業が終わるまで腕を組んでじっとわたしを睨んでいる。それで、どこか抜けている所があれば、先ほどのように嫌みったらしく指摘してわたしを小馬鹿にするのだ。
 この明らかな嫌がらせに、やつらは目を瞑っている。会長からわたしに指定が入ると、メンバーは急に席を立ち、書類の縦横を合わせて「俺は関係ないからな」とか「ごめんね」とか勝手なこと言ってそのまま生徒会室から出て行く。
 中には残って会長とわたしを眺めてけらけら笑っている奴がいるから信じられない。一番酷いときには会長に向かって「がんばれよ」と言う男もいて思わず机を蹴り飛ばしたこともあった。「わたしに言うならともかく、なんでこんな糞野郎に言うんだよバカ!」と叫んだとたん、わたしを除く他が爆笑した。腹を抱えて机をバンバン叩き、しゃがみ込んで必死に堪えている。自分のことを言われたはずの会長でさえ、座ったまま優雅に微笑んでいたので腹の立つことこの上ない。一人、わたしだけが顔を真っ赤に沸騰させて怒った。力いっぱい机を蹴った。足がじんじん痛んで半泣きになりながら暴れた。わたしの三大トラウマシーンの一つである。さぞお間抜けだったに違いない。
 生徒会の連中はわたしのことは実験に使われる可哀想なカエル程度にしか思っていないんだ。自分に火の粉が飛ばされないように、会長に言動を合わせて自分の足場を確保している。わたしはすっかりこの生徒会のぼろ雑巾にされてしまったんだ。
「もう帰りたいんですけど」
 作業を止める。もう我慢できない。なんでわたしだけがこんな目に合わなければならないんだ。
「それは困るな、まだ終わっていませんよ」
 もう少し頑張って下さい。身を乗り出してわたしの目をみる。視線が優しげに見えたのは、肉体疲労のための錯覚だ。
「せめて先に帰ってくれ」
 作業を終えてもこの男は、夜遅いことを理由に家まで付き添ってくる。だったらわたしを残さなければいいのに、この男はわたし以上の馬鹿ではないか。家に着くまでこいつの一方的な話を聞かなくちゃならなくて、実に面倒くさい。適当に返事を繰り返すだけなのに、こいつのテンションはどんどん上がる。そんな話、他のやつらにすればいいじゃないか。なんでそんなに嬉しそうな顔で話をするんだ。意味がわからない。
「…人の話、聞いていたか?」
 わかりました、と言って席を立つ気配は微塵も無い。わたしに無理やり煎れさせたお茶に口をつけ、また腕を組んでじっとわたしを見る。
「さ、どうぞ続きを」
 今、わかった。おまえは悪質なサディストだ。人がこんなにも苦しんでいることをわかっていながら、わざと冷たくしてその反応を楽しむ、ただの変態だったのだ。学校は変態によって治められていた、なんてこった。
「どうかしましたか」
 わなわなと手が震える。当人は人の気も知らず、ただ笑顔を浮べているだけ。父さん母さんごめんなさい、わたしはもう限界です。
「おまえ、いい加減にしろよ!」
 思い切り机を叩く。手がじんじん痛んだが、この際知ったことではない。自分がどれほど怒りを感じているかこいつにわからせてやる。
「たしかにわたしは頭も悪いしガラも悪いし生徒会としては最低の人材だよ、そんなのわたしが一番知っている!けど、わたしだって好きでこんなところにいるわけじゃない!使えないならさっさと切り捨てればいいのに、なんっで、こんな…」
 目の奥がじわじわと熱くなる。ここに入ってからすっかり涙脆くなってしまった。全部会長のせいだ。こいつが悪いんだ。
「会長は、わたしのことが嫌いなんだろ?」
「………はい?」
 会長が初めて驚いた。笑顔が引っ込んで、驚愕に顔が歪む。図星つかれたからってそんなに顔に出すことないじゃないか。
「わたしがとんでもない我侭女だってわかって、生徒会に汚名塗られたこと怒ってるんだろ。だからみんな揃って冷たくするんだ。わたしが苦しんでるのを見て楽しんでるんだ。知ってるんだぞ全部」
 スカートの裾を両手で掴んで手が震えるのを抑える。涙で顔がベタベタになる。これ以上わたしを馬鹿にするな。
「すみませんが、君は、何か誤解を」
「言い訳するな!」
 お前が今までした仕打ちを誤魔化すなんてことさせない。こいつがとんでもない鬼悪魔サディストであることを全校にばらしてやる。
「お前がわたしを嫌おうが構わない、だったらさっさと辞めさせればよかったんだ!嘘ばかりついて!あの時だってそうだ。髪は短いほうが似合うなんて、そんなこと!」
 鵜呑みして、思い切ってポニーテルを止めてボブまで短くして会長に会った。そうしたら反応はどうだ?5分ぐらい硬直して、しばらくわたしと目を合わせようとしなかったじゃないか。
「嘘を本気にされて、引いていたんだ。内心あざ笑っていたんだ」
「落ち着いてください、とにかく、話を」
 まだ言い訳するか。プリント書類累々を鷲づかみにする。
「わたしだっておまえが嫌いだバカ!」
 会長の顔に向かって投げつける。いつもみたいに涼しげな顔で避けるかと思ったが、そのまま顔にストライクしてびっくりした。少し心配だったが、その場にいるわけにもいかず夢中で生徒会室を抜け出た。
 もう嫌だ、あんなやつにこれ以上振り回されてたまるか。あんなところ、こっちが先に出て行ってやる!

* * *

 カサと紙が机の上をすべる。プリント書類累々は見事に顔に直撃し、机、床に散らばった。そして、腕を組んでいまだ固まったままの会長の姿はなかなか滑稽だった。小さく穴の開いたダンボールから、実は最初から隠れて様子を伺っていた生徒会面々が呆れてでてくる。
「お気の毒だったな、会長」
「ほんと、素直に言っていればよかったのに」
 じとり、と一同が視線を送る。会長の意気地の無さにほとほと困っていた。これが約2年間続いていたのだから、もう溜息も出ない。今まで耐えていたあの子が本当に可哀想だ。思わず合掌する。こんな会長を許してやってくれ。
 会長もさすがに焦っているらしく、さっきから視線が定まらない。追いかけようにも、少しの躊躇いがそれをさせない。
「……どうして彼女はあんな勘違いを」
 はあ、一同が溜息をつき口をあける。

「会長の愛はわかりにくいのよ、あの鈍ちゃんには」

 とりあえず後を追う様に命令され、会長は走る。どちらかと言うと教師から煙たがれているあの子は、教務室にいかない。両親から腫れ物扱いされるので、家にも帰らない。普段は仏頂面で理解されにくい彼女も、笑うと花が咲いたように可愛いのだ。生徒会に誘ったときに見せてくれたあの子の笑顔が、頭に焼きついて一日中離れなかった。生意気にみえる性格も本当は優しくて、具合が悪いときに「大丈夫か」と肩をかしてくれるところがある。ただ愛情だとか感謝だとかの受け取り方がわからないだけなのだ。それでも、会長はそれらをひっくるめて彼女を愛する自信があった。
ようやく、決心がついた。
 会長は迷わず階段を駆け上がった。あの子は人の居る場所を好まない。だとしたら場所はひとつ、彼女と初めて会った――。


(17)AVALONE

 ――If I were you, I could have loved her!

  一月程前の事。この小さな島国において世界的な革命が起きた。約一世紀に渡り国内に悪政を強いてきた帝国が崩壊したのだ。
 嘗て帝国は霧と蒸気の都と呼ばれた。帝国が抱える世界有数の物理学者と錬金術師たちの研究によって、蒸気の発する熱エネルギーを基礎においた動力機関を発明し、それらを工業技術に転用することによって帝国は世界の工場として飛躍的な経済成長と技術革命を遂げて、一時はその栄華を欲しいままにしたが、前代の国王が病に倒れ死亡した後、その跡取り息子が国を統治するようになってから国が変わった。帝国は国内外に対して独裁的な政治態度をとり、技術を一国で独占して、蒸気機関を軍事利用した新兵器と、海軍を中心とした圧倒的な軍事力により世界を制圧し続け、帝国は後に世界的な植民地大国となった。
 しかし、その栄光は長くは続かない。自由と独立を求める声が高まるにつれて、帝国は独裁で民を押さえつけることが難しくなっていく。
 
 そして、何十年にもわたる小競り合いの末、ついに反帝国派の自由軍が勝利したのだ。理由はシンプルなもので、帝国を治めていた国王が先代と同じく病を患い、国策をする最中で死んでしまったためだ。それも父親と全く同じ病で。子供に恵まれず、後継ぎに悩まされていた時に、突如悲劇は起きてしまった。主君を失った帝国は勢力が乱れ、結果国の内側から滅びることとなってしまったのだ。反帝国派に所属していた俺はその革命の立会人で且つ当事者であり、革命を指揮した主導者の一人として歴史に名を残す羽目になったのかもしれない。

 革命の終えた帝都の城門をくぐって歩くこと数十分、海に向かって伸びる人気の無い崖の頂は、波の押し寄せる音が静かに響き、朝の陽ざしが優しく包み込んでいた。その陽ざしの先に、直方体に切り取られた石を置いただけの墓が立っている。その場に不釣り合いな墓の下には、俺に関わりの深い女の人が眠っているのだ。
 悪夢から目を覚ました時、急に思い立って、息を弾ませ久しくこの場所を訪れた。すると、純白の馬を脇にして、墓石の前に片膝をつく若い男と対峙した。
「お前…!」
 思わず声を漏らした。お前、こんな時に、こんな所で、一体何をやっているんだ。声に反応して男は俺を一瞥したが、俺を確認するとすぐに意識を墓石へと向ける。しばらく間があってから「貴方でしたか」と溜息の混じった重々しい返事が返ってきた。その間、男は決して俺を見ることはしなかった。
 帝国直属軍の印である紋章を二の腕と背中にあしらい、膝まである軍服の上着を地面に擦りつけている。この場所で彼に会ってしまったことにも動揺を隠せないが、それよりもその格好に酷く驚いた。この男は、現在帝国軍残党狩りが行われているのを知っているのだろうか。

* * *

「肉親から虐待されている子どもが、どうして逃げず離れようとしないか、貴方は御存知ですか」
 淡々とした口調で、墓前の男が訪ねてきた。まるで独白ともとれるその言葉は、どう考えても俺に向けられているのだが、それを拾い上げてよいものかどうか悩まされた。おそらく、俺は質問に対して男が望むような答えを持ち合わせていないと思う。それに男自身が、俺の答えをそれほど望んでいるようにはみえない。ただ俺がこの場に立っていることが重要なわけだ。答えようが答えまいが、ただ男の横を通り過ぎて無かったことにされるだろう。つまり、男には関係ないことなのだ。だから俺は沈黙こそがこの場に相応しいものだと決め、押し黙っていた。男の次に発せられる言葉を待った。
「そこに愛情が存在すると、いつか分かり合えると、頑なに信じているからです」
 すると男は、たいして間を置くこともなく答えてきた。男の反応を見て、やはりと思った。やはり、この男は、俺の意見を聞くつもりは微塵もないのだ。男の静かな敵意のようなものに唇を噛みしめる。一体、俺が何をしたというのだ。
 高ぶる気持ちを抑え、男の答えに対してなるほど、と頷く。しかし男の真意が掴めない。何故このような話をするのか、またこれから展開される話の輪郭が全く見えず、些か心に不安が募った。しかし、ここで男との会話を終わらせてはならない。言葉を続けるには不自然な間ができてしまわないうちに、「そうか」と適当な相槌で会話を繋ぎとめておいた。
 主君に仕える騎士として、最高の理想が凝縮されたような男だった。そんな彼が生涯最も慕い、愛し、尽くしてきた主の眠る墓に、まだ朽ちることのない忠誠を示すかのように足をつき頭を垂れる様は、墓の下に死人が埋められているのを嘘のように感じさせた。俺はそんな彼の背中を、少し離れたところでぼんやりと見つめるしかない。こうして同じ地面の上に立っていても、彼と俺とでは、見える世界も、与えられた使命も違うのだと見せつけられたようだった。正直、自分が劣等な人間に思えてくるから泣けてくる。
「モモ様は、子宮に病気を患っていました」
 男はまた突然声を出した。しかも今度は墓の下に眠る彼の主の話だった。ひそかに眉に皺を寄せる。先ほどの話はどうしたのだ。問い詰めたくなったが、口を開いたところで聞いてはくれないだろう。仕方なく話の先を促す。なるべく彼と対等な人間であるかのように、声が弱弱しく聞こえないように、冷静な口調を意識して話した。
「それでお姫さんは帝国から捨てられたのか」
 男は静かに肯定した。
「陛下のご子息を産むことのできないモモ様は、帝国内で酷い扱いを受けていたのです」
「皇帝が不治の病に罹ったんだったな。しかも次期皇帝候補だった兄弟も次々と倒れて、後継ぎに困っていたと聞いたが」
「ええ、ですから陛下は皇位継承者を一刻も早く必要としました。しかし、モモ様はその役目を果たすことができなかった」
「皇族と代々から繋がりのあるオビツォート家から、お嫁さんが出ないのは一大事だな。モモはたった一人の嫡女だったし、古くから続いてきた関係が崩れてしまったわけだ。だから当時のオビツォート家は大変だったらしいじゃないか、一体何があったんだ」
「……母方が気を狂わせてモモ様に襲いかかったのです。私は、傍に控えておりながら、お守りすることができませんでした」
「モモの母親が…?」
「ええ」
 僅かに肩を震わせるところを見ると、まだ罪悪感の海にでも溺れているのか。俺が『お姫様』の名前をさり気なく呼び捨てにしたことを咎めることはしない。俺はその男を冷たく見下ろした。
「で、なんだ。俺にそんな昔話を聞かせて満足か?」
 昔の彼ならば、腰に吊るしている片刃刀を刹那に抜き、目に残像を認めないほどの速さで間合いに迫って来たというのに。この男も落ちぶれてしまったな、と内心で嘲笑った。軽蔑を向けて男を見やる。過去の自分が成せなかったことを悔やんでいるのか、それで俺に当たっているのか。だとしたら、それはただの八つ当たりだ。
「戦場で初めて貴方と刃を交えたとき、驚きを隠せずにいられませんでした。私の目の前で亡くなったはずのモモ様が、生きておられたのだから」
 俺のありったけの嫌味は無かったかのように綺麗に無視された。俺の事は本当にどうでもいいのか。頭に血が脈打つのを感じた。拳を作る手を押さえて、平気なふりをして続ける。
「しかも反帝国派の幹部である俺に、頭を下げていたからか」
「そうです」
 男は短く返事をすると、垂れていた頭をあげてゆっくりと立ち上がった。墓に背を向けて初めて俺と目線を合わせた。男の目を見たとき、頭に上った血がさっと引いた。
 そこには戦場で凛と輝いていた鋭い眼光は無く、全てに疲れたような精気の無さを浮かべているだけだった。以前の面影を忘れさせるような強烈な衝撃を受けた。拳の力が解かれる。恐ろしくなった。目の前にいる男は、行き所の無い後悔を、自分への恨みや憎悪を、通りすがりの俺に当たっていたわけじゃなかった。純粋な廃人となっていたのだ。
 そうか、もうこいつは残党狩りのことを知っているのか。その上でまだその軍服に袖を通しているのか。でも何故。
「モモ様は、どうでしたか」
 男はやつれた目をこちらに向けて、そんなことを言い出した。覇気も無くなっている。俺は顔に手を被せた。表情を読み取られないように目を覆った。
 掌の下、目を閉じて過去の情景に思いを馳せる。まだモモの生きていた時――。

* * *

「モモは、排水溝で息を細くしていた時に、俺達レジスタンスに拾われたんだ」
 帝国の地下を流れる排水施設から、帝国の内部に潜り込むところだった。薄暗く、鼻を突き刺すような臭いが籠り、膝までかかる汚水や汚物が俺達の進行を鈍らせた。生理的に限界が見え始めて、ようやく出口が見えてきたところに、小さな子供がいた。装飾を施されている貴族の服を紅く汚して、捨てられたようにそこに倒れていた。それがオビツォート家唯一の娘――モモだった。
「同情、だったんだろうな。俺達はその子供を助けてしまった。お前の話を聞いて分ったよ。母親に捨てられたことが、余程ショックだったんだ。そのときの姫さんは、表情を要らないものとして切り捨てて、何も話そうとしなかったんだぜ」
 男は悲しそうに顔を顰めた。手を額にあてて、目を苦悩に歪ませた。震える唇は姫様、と小さく呟く。
 俺は男の精神面を気にして、これ以上よそうか、と問いかけた。すると男は大丈夫です、と青くなった顔で答えた。大丈夫ですから先を、と全く大丈夫そうにない様子で答えた。俺はその男を一度哀れんで、そして続けた。
「何日かたって、やっと一言二言言葉を交わすようになった。食べ物も少しずつ口にするようになった。顔色も以前よりも大分よくなった。それでこれからどうしようか、という話が出た時に、姫さんは自分で銃を手に取り、力になりたいと言い出してきた」
「…それで貴方の右腕になったわけですか」
 俺は頷いた。
「最初、俺達も無理だと反対したさ。レジスタンスの中には女もいたから性別を拒んだわけじゃない。ただ、姫さんはまだ小さかった。体も細かったし、なにより帝国側の貴族の子供だ。どうせ戦場にたっても真っ先にやられると思ったね、俺は」
「しかし、姫様は私の手を煩わせるほどの実力をお持ちでしたが」
「そうだ、あいつは優秀だった。呑み込みが早くて何日もしないうちに銃の使い方を覚えた。最初は銃の反動に耐えきれずに、何度も後ろにぶっ倒れたが、何年か経って体力や筋肉がつくと、撃ち方も様になった。しかも、貴族だったくせに舌は肥えて無くて、飢えにも渇きにも辛抱強かった。何より、あいつは死ぬことを恐れなかった、自分の命をごみ同然のものとして考えていた。だから、俺達が酷とする任務まで姫さんは立派にこなした。俺達の重要な戦力となったんだ」
 ここまで息もつかずに一気に話したので、終わる頃にはすっかり息が上がっていた。額から汗が滲み、前髪をべっとりと濡らす。一か月で随分と体力も落ちたものだ。大きく上下する肩を無視して、呆ける男に向かって、まだ呼吸の荒い口を開いた。
「だから、敵のお前がモモ様といってモモに向かって頭を下げたとき、驚きを隠せなかった」
 男は、一瞬目を見開いた。しばらく俺を見据えた後、目を伏せて「そうですね」と答えた。やっとのことで絞り出したような声だった。
「お前は帝国を裏切った」
 俺は射抜くような鋭い目を男に向けた。どんな理由があろうとこいつは国を捨てた、国に向かって刃を向けた。それにも拘らずその身を包み続ける軍服はなんだ。帝国の残党として死のうとするお前は一体何がしたい。
 しかし男は俺の視線には動じず、ただ認めるだけだった。怒れる俺の視線を受け止めるだけで、他は何も言わなかった。きっと自分の忠義を掲げて「モモ様のため」と言うと思ったのに、決してそんなことは言わなかった。代わりに「これはエゴです」と告げた。そう言って、これ以上俺が踏み入ることを拒んだ。
「貴方は、モモ様をどう思いましたか」
 貴方の足下で足掻くように闘って、貴方を庇って殉死なさったモモ様をどう思いましたか。
そう尋ねてきたとき、男の瞳に影が落ちた。ざわりと胸の奥が騒ぐのを感じた。今まで空っぽになっていた男に感情が表れた。どろどろとしてねっとりとした憎悪のようなものが男に纏わりついていた。思わず息を呑む。これは殺意に変貌するものだ。
 俺が目線を彷徨わせて一番正しい返事は何かを考えていると、先に男が口を開いた。
「一度だけ、モモ様から貴方のことで相談を受けたことがあります」
 俺は驚いた。あの、モモが。しかも俺について。想像つかなかった。モモは俺と一緒にいる間、一度たりとも悩んでいる素振りはしなかったからだ。だからこの男に一体どんなことを話したのか見当もつかなかった。俺は男の言葉を聞くしかなかった。
「モモ様は貴方に仕えるという立場になりました。そうすることでご自身を助けた貴方に報いることができる、そう考えておりました。貴方の傍で働けることを誇りに、また嬉しくも思っていたのです。しかし、あるとき気が付いてしまった」
 そこまで言うと、男は一度息を吐いた。呼吸を整えるように咳をして、もう一度口を開く。
「これは、自己満足でしかない。自分の存在が肯定されるために、自分の心を慰めているだけなのではないか。貴方を利用することによって、誰かに必要とされる自分という理想を確立しているのではないか。――モモ様は母方から愛されたかった。だからどんな酷い仕打ちを受けていても、逃げず耐え忍んでいたのです。しかし、それは母方自身によって否定されてしまった。そのトラウマから、自分が二度と孤独にならないために、捨てられないために、一方的に自分の理想を押し付けてしまっているのではないか。純粋に貴方を想っての行動ではなく、利己的な行動ではないか。目に涙を浮かべて、そんなことをおっしゃったのです。」
 男が口を閉じた時、俺は視線を足元に落としていた。頭が真っ白になった。モモの抱えていた奈落はあまりにも巨大で、自分の手には負えるものでないと感じてしまった。それと同時に恨めしく思った。何故こんなことを今になって話すのか。どうしてこんなことを押し付けるのか。モモはもう墓の下だ。この世のどこにもいやしない。この禍々しい感情がモモに向けたものなのか、それとも男に向けたものなのか、よくわからなかった。
「私はモモ様の欲しい言葉をかけることはできませんでした。僕は――私には、モモ様を救うことはできないのです」
 耳を塞ぎたい衝動に駆られる。しかし一度宙に浮かした手は、急な吐き気により口を押さえつけた。胃が捻じれて、口の中で酸味が広がり、焼けたように痛む。その場に腰を落として地面に両手をつき、口の中で溜まった胃酸を吐き出す。食道がピリピリする。シェルショックと似たような感覚に、どうすることもできず苦しむしかなかった。暫時俺が咳きこむ音だけが響いた。顔を上げてみれば、俺を冷たく見据える男と目が合った。呼吸が乱れたまま睨みつける。この男は何が言いたいのだ。俺に何をしてほしいというのだ。
「そして、モモ様を救えるのは貴方だけだ」
 憎悪を向ける男は、けれどどこか悲しそうに呟いた。目を細めて確かに俺を睨んでいるはずなのに、その顔は泣き出しそうに見えた。
「モモ様の行動が貴方を利用した一方的な押しつけなどではなく、純粋な愛情であったのだと肯定できるのは、貴方しかいない」
 こいつは言の葉で人を傷つける能力でも持ち合わせているのだろう。俺の脳天を何かが貫いた。俺は声を荒げる男から視線を外し、向こうに見える墓を見た。はっと嘲笑が漏れる。面白くもないのに、口の端を上げて腹の底から笑い声を上げた。男は訝しげに俺を見下ろす。
「墓の下にある骨を愛せ、と言うのか」
 愛情?それは、骨が望んでいることなのか。今更俺には何もできない、そこまで言おうとしたら、横から強い衝撃を受けて顔が右を向いていた。続けて胸倉が強く引っ張られて、足が宙を浮いた。反動で頭が大きく揺れる。さきほどの衝撃は殴られたからと脳が理解して、頬がじんじん痛み出したその時に、男は大口を開けて鼓膜が破れるような大声で叫んだ。
「私は、彼女を愛していたんだッ!」
 私は幼い頃の彼女を知っている。どんなに彼女が苦しんでいたかも、どんなに母親に想い焦がれていたかも知っている。彼女だって私のことを忘れてはいなかった。貴様などに尽くしていても、私のことを忘れることはしなかった。狂った母親から守れなかったことを咎めやしなかった。一度彼女を殺してしまった私を許してくれた。私が生きていることを喜んでくれた。
 なのに、彼女は私が頭を下げることを断った。もうオビツォート公爵家の子女…姫ではないからと騎士をつけることを拒んだ。姫ではなくモモ自身に仕えるのだ、と言えば悲しそうに首を振った。もうこれ以上私に縛られないで、と言った。過去に囚われないでと訴えた。それでも私は彼女に最後までつきそった。それなのに、最後まで私に守らせてはくれなかった。お前なんかを庇って、自分だけ満足そうに死んでしまった。
「……なん、でお前なんだ。なんで、モモは……、わたしが、私が、私が…」
 愛していたのに!
 そう一通り叫んだあと、ミカエルは俺を突き放して墓の前に這いつくばった。俺はまだ頭ががんがんするのに、突然突き放されて、抵抗することもできず頭から地面にぶつかった。なおさら頭が痛くなった。
 まだ意識が朦朧とする頭を必死に働かせて、ついに嗚咽を上げて泣き出している男を見た。墓の下に眠る骨に忠誠を誓い、見返りに溺れる傲慢な男を見た。そして、男が積み上げた理想のてっぺんから、自ら落ちていく様を見た。
 墓の前に立つ男は、何が欲しいんだろう。墓に縋るように頭を垂れるこの男は、生きて何を求めているんだろう。モモへの忠義をただのエゴだったと言い放った男の顔には、どうも諦めだとか疲れの色しか伺えなかった。多分この男が墓の下にある姫様の骸に忠誠を誓うのも、軍服に袖を通し死のうとしているのも、全部悟ってしまったからだ。俺はモモの騎士になれなかった男を見下ろした。

そうか、こいつはモモに愛されたかったのだ。


(18)なりそこないの天使

 それは、デジャブというものだった。

 確か、一年前に放送されていたドラマの再放送かなんかだったか。毎週同じ時間だ。スクールから勇み足で帰ってきたかと思えば、一服する間もなく鞄をベッド上に投げ入れ、ジャケットを脇に脱ぎ捨て、ベッドのクッションを引っ張りだしてそれを腕に抱きかかえること早3秒。姉は、部屋に一つしかないテレビの前にどっしりと居座って、ドラマが始まるまで動かない。

 ドラマ特有のオープニングの前のあらすじが始まり、画面一杯にある男優が登場する。すると姉は決まって、アアアとかヒイイとか形容できない声を出して悶えだすのだ。あの頃、女子の間での流行だったらしい。

 特にあの黒い前髪を鼻先まで垂らした男優がいいんだとかで、姉はかなり贔屓にしていた。一方の僕はそう、と横にかわしてまともに取り合わなかった。芸能に対して特に関心を持ってなかった。思えば、あの男優の名前は何と言ったか、今でも全く覚えていないのだ。

 姉はそんな僕を見かねて、呆れたもんだ、とうんざりしたように言う。

――今時そんなことも知らないで、いい?このドラマのいいところは…

と短歌を切り始め、僕の腕を引いてテレビの前に投げやり、嫌がおうにも布教しようとしたことがある。曰く、女子の憧れマジイケメン告白されたいナンバー1。そうか、女子はあんな胡散臭い男がいいんだ。
 本当に女子ってわからない。そうぽつりと漏らしたら、一瞥されたあと、へっと悪態を突かれ、

「あんたに女心は一生わからない」

可哀想に、と僕を横目で睨んでくるのである。

 僕が見たい番組があるのを知っているくせに、テレビを譲る気のない姉は、画面を凝視したまま、自分のすぐ脇に置いた菓子袋から器用に菓子を抜き取り、はあ、とわざとらしい溜息をつきながら、うっとりしてみせるのだ。

 ああ、また始まった。

 そのまま口に出すとその抱えたクッションを投げられるのは、これまでの経験上わかっていたので、そのまま胃の中に飲み込んだ。

『――で、話って何?』

と、例の男優の声が耳に入ってきたのだった。耳障りな優しい声。よく通るあの低い声は女子にとっては魅力的らしく、以前姉がよく耳元で囁かれたい、とぼやいていた。

 そう、確かそのシーンだ。
 あの時、特に姉が食い入るように見ていたから、そこの場面だけは覚えている。桜が控えめに芽吹きだした校舎裏に、とある女子に呼び出された男優がおずおずと訪れるところだ。
 一体誰の目を意識しているのか、隠れるように早歩きした男が、フェンスを触る彼女を見つけた時、声こそ洩らさなかったが、足で小枝を踏みつけ音を立ててしまった。

 バレた、と思わず固まった男。整った顔は眉を歪ませてもきれいなままだった。
 すでに気が付いているくせに、知らない振りをするいじらしい彼女は、男に背中を見せたまま風に吹かれている。揺れるスカート、華奢な体躯に、ロングの茶髪。顔こそ見えなかったが、後ろ姿だけで美人とわかった
 そこには明らかに彼女の思惑があって、明らかに男の存在に気がついており、男を意識していた。しかし一向に振り向かない。切り取られたように一人、風景に溶け込んで、美しく男を無視している。
 はたして触れてよいものか、それともこのまま。男は眉を寄せて、苦渋の選択を迫られ、沈黙に観念したようについにおずおずと口を開くのだ。

『話って何?』

 ようやく男が零した声は臆病に揺れていたが、少女に届くには十分だった。
 フェンスに指を掛けていた少女がゆっくりと振り返る。なびく髪、風は花弁を運び、正面を向いた少女の顔の前を遮る。唇は弱く噛まれて、真摯な瞳が男の顔を映している。
 唇が動いた。
 
『好きです。』

 長いような短いような、二人が風に吹かれるシーンを挟んだ後、驚いた表情のまま固まる男を余所に、少女は早口に想いを告白していた。

――今の状況はまさにそのシーンを再現しようとしているのではないだろうか。

僕は独り、ララに呼び出されて、校庭の隅で手持無沙汰していた。

* * *

「ねぇねぇ、百夜(ビャクヤ)。今日ちょっといいかな」

 魔術の専門書は無駄に分厚かった。
 エーテル操作論だとか、魔術史だとかの本には、古い魔女の呪い具や生贄となった動物の死体まで描かれていて、控えめにいっても気味が悪かった。他にも黒魔術辞典改訂版だとか、白魔術基礎の本の束の四隅をドンドンと机で揃えて、鞄に押し込めようとしていたその時だった。

 ん?と生返事しながら、顔をあげると、やけに深刻な表情をしたララの顔があって、ぎょっとした。

 声のトーンは、普段のララそのものだったから、僕は勝手ににこやかなララがいると思い込んでいた。

 世間話に毛が生えた程度の事を持ちかけるとばかり思っていた僕は、意表を突かれつい押し黙ってしまったのだ。そのララは眉根を下げて弱弱しくみえるくせ、目は真剣なものだった。左右の指を絡ませ、まるで祈るように胸に押し当てている。痛ましい顔。思わず胸が締められる。とても見ていられないような、そんな追い詰められた姿のララが僕の前に立っていた。

「…いいけど、これから?」

 ララの真摯な眼差しに、誤魔化すように時計を見ると、そろそろ補講の予鈴が鳴る時刻だった。と、いっても僕は、これから補講を受けるララと違って、もう帰宅の時間だ。確か姉の巴と幼馴染の直樹も補講のはずだ。学業の成績も良い姉と友人は、僕と違って優秀な魔術師だった。第一種魔術師免許を取るため、今や必死になって教授や教授に叩かれている。

 ちらとララの横に視線をずらすと、教室の前出口あたりで姉が他の女子生徒と喋っている。おそらくララを待っているのだろう。時々ちらちらと視線を送ってくる。

「うん…、でも百夜、私の事待ってくれる?」
「僕は大丈夫、今日はバイトもないし」

 正直言って、一時間半も一人手持無沙汰しながら待っているのは嫌なことだった。
 いつもの僕なら適当に断っていたかもしれない。でも相手はララで、しかも何か深刻な事情を持ち合わせていた。いつも頬を淡く赤らめとろんと笑っているララを知っている僕としては、今何かに責められているような青い顔のララを見るのは、幼馴染として辛いものがあった。

 だから、僕は自分に嘘をついた。

「別にいいよ」

 人間、誰かに話を聞いてもらう、それだけで気持が楽になることがある。

 だから、ホントに?と首を傾げてくるララに、僕はなるべく気にしない風を装って、大丈夫待ってる、と笑って見せた。すると、ララはほっとしたのか、目を細めて、きつく結んだ唇を少し和らげた。よかった、とぽつりと息を漏らす。
 僕は、そんなとろけた顔のララに気がついて、やはり目を反らしてしまう。

「じゃあ、放課後だね!えっと、どこで待っててもいいから…。あ、でもあまり人が来ない場所がいいな…、どうしよう」

 ララが悩む仕草をする。目を少し後ろにやり、姉を気にしているようだった。教室にいる生徒が次々と席を立ち、移動時間が残り少なくなってきていることを示している。助け舟をだそうか、とこちらが口を開こうとしたその時に、

「あ、校庭!教務室前に花壇があるでしょ?もう今年度付けで野球部解散しちゃったから、今は誰も使ってないの!補講の時間終わったらそこにいて?」

と、ぽんと胸の前で両手を合わせ提案してきた。無邪気に開かれた紺色の瞳。僕の承諾で既に気分の何割かはすっきりしたのだろうか、もう曇りの色は無かった。

「わかった、放課後、校庭で」
「うん!」

 じゃあ、待っててね!

 ララは手を挙げてプリーツスカートをパタパタさせながら、早口に言い残して姉の元へ戻っていく。ごめんね、と言いながら談笑の輪に入ったララは、不思議と穏やかだった。先ほどの深刻な雰囲気はなくなって、元通りのにこやかなララがそこにいた。

 もう大丈夫そうだ。

 何となくやりきった気持ちになった僕は、安心して鞄に残りの教科書を詰め込み始めた。
 しかし、当の僕はこれから家に帰るわけにも行かず、かといって、魔術師を目指す直樹達と違い、就職の決まった僕は難しい勉強をしても意味がない。本当に残り壱時間半の間、何もすることなどなかった。

 久しぶりに辻教授の研究室にでも屯してようか、と考えながら鞄を引っ張り上げると、頭に嫌な視線を感じる。はっとして振り返ると、教室の戸に手を掛けた姉が首だけこちらに向けて僕のことを睨んでいたのである。
 ねえさん、驚きのあまりでそうになった声は、「バカ」と書かれた鋭い眼差しに押し戻された。

 姉は目に冷たい光を湛えながら、静かに教室を出ていく。その時にパチリと明かりを消された。途端に教室は深い影を帯びることとなる。教室に残されたのは鞄を床に落とし唖然として佇んでいる僕だけだ。窓から斜陽が差し込み床一面にポプラの影を落とす。その陰の中で、先ほどのやり取りを反芻しながら、僕は一人、言いようのない虚無感と、敗北感を感じていたのだ。

 いつからだろう、姉と僕はいつの間にか険悪な仲になっていた。

* * *

 まるで人のいない校庭は、校舎から漏れる蛍光灯の光を寂しく受け止め、運動部によって踏み荒らされた地面をおぼろげに浮かび上がらせる。風が冷たいこの季節では、植えられた木の枝もすでに丸裸で地面の所々にくたびれた芝生が残っているだけだ。ハア、と白い息を吐いて手先を温めるも、気休め程度にしかならない。仕方なしに学ランのポケットに両手を突っ込んでしまう。

 夏はこの時間帯でも野球部がうるさく練習していたのに、解散試合の後、ここもすっかり寂しくなってしまった。そんな寂しいだけの校庭は、特に思考を遮るものもないので、かえっていろいろなことを思い出させる。

 僕は、特に理由もなく姉と直樹とララ、4人揃っていた頃を思い出していた。

 思えば不思議な関係だった。家がご近所だとか、そういう些細なことで通じあえていたあの頃。何をするにもいつも一緒だった。あの鉄棒で、あのグラウンドで、あの砂場で。ごっこ遊びに、運動に、逆上がりに。

――そして。

 僕は、何か背中で動くのを感じたので、振り返ると、直ぐそこの花壇で、小さなエルフがボソボソと枯れ葉を弄っていたのだった。

 そう、召喚術。

 冬の雪はエルフには冷たすぎる。そう僕に教えてくれたのは、辻教授よりも前に、友人の直樹だった。
 
 思えば、何故あんなにも僕たちは、理由なくいつも一緒に遊べていたのだろう。首を捻っても釈然としなくて、仕方なしに花壇にしゃがみこむ。そして、すっかりカピカピになっている茎を齧るエルフに触れた。

 結局教授のところには行かなかった。とぼとぼ廊下を歩いてたときに、泣くのを堪えるのが上手くいかなかった園児みたいな顔が窓に映って、それが自分の顔だと気がついたからだ。

 酷くうろたえた。そんなに傷ついていたのか、とまるで他人事に思えて、自分を情けなく思う反面、本気で泣きそうになっていたので、一瞬自分がわからなくなったからだ。僕はこれまでも、自分の思った様に生きていたはずだ。そして、これからも。だから後悔なんてしていないはずなのに。なのに、この込み上げてくるものは何だろう。

 僕は時折、このよくわからない気持ちに気が付いて、押しつぶされそうになる。

 そんなわけだから、教授にあったらまず
 
『伽藍堂、一体どうしたんだ?』

その顔、と覗きこまれ、変に詮索されるに違いなかった。

 いえ、違うんです、と白を切る図太さも、ポーカーフェイスでいる自信も今の僕には到底無かった。だから、僕は研究室前のドアに影を落とした所で、そのまま背を向け逃げ出したのだ。

 こんな顔で教授に会えない。僕は半ば意地になってそのまま校庭周辺で一時間半暇を潰してみせた。一年ぶりに鉄棒もした、半月ぶりにグラウンドも走った、三日ぶりに転んだ。瘡蓋だった膝からまた血が出た。砂利も食べてやった。ざまあみろよ!

 虚しくなり、校庭に座り込んだ所で、エルフの視線に気が付いた。人の憂いも知らないで、にこにこと落ち葉を堪能しているエルフがすごく憎らしかった。控えめに睨みつけると、嫌そうにしたので、調子に乗って吠えたら木枯らしを吹かれた。攻撃すると思われたらしい。枯れ葉の乗ったつむじ風が口の中に入ってげえっ、と唾を吐いたところで、校舎からチャイムが鳴り響いた。補講の終わった音だった。

 放課後にはしゃいだ学生たちの声が、玄関から漏れ始める。放課後といっても空はすでに茜色から深い藍色へとかわり、蝙蝠の群れが飛び交う時間帯となっていた。

 そこで僕は花壇の暗がりを立ちあがって、玄関口から漏れる明かりの中を歩く学生たちを眺める。鞄を下げた学生たちが友人と談笑しながら下校の流れをつくっている。その黒だったり青だったりする人の群れの中から、セミロングの金髪とピンクのカバンの持ち主を探していた。そのついでに黒髪ロングの姉の姿も探した。ララは、多分姉さんたちと一緒に来るはずだったからだ。
 姉さん。そう頭でつぶやいた時、やはり浮かんでくるのは、責めてくるようなあの視線だった。

『バカ』

 また、罵声を言われるのだろうか。「姉」その言葉を思い出す度、僕は青虫を噛んだみたいな嫌な気分になった。

 そして、人の流れが薄くなってきた頃にララは姿を現した。いつものように教科書を出鱈目に入れて鞄を歪な形にしている。直樹が脇にいたら、どういう神経してるんだ?と、確実にぼやいただろう。直樹の眉間を思い出すと、つい苦笑いが零れる。その直樹は、きっと、まだ研究室にいるんだろうな。僕は笑いと一緒に渇いた溜息をついた。

 そんな気も知らずララは、んしょー!と掛け声をいいながらこちらに駆け寄ってくる。

「おまたせ!」

 意外にもララは一人でやってきた。姉さんは?と聞くと、

「先に行ってるって。私より前に他の子と一緒に帰っちゃったよ」

 ほら、私ってとろいからね、とララはのんびりと笑った。
 ララは相変わらずだなあと笑い返していると、ふとおかしいなと思った。さっきの人だかりの中に姉さんとその取り巻きの姿は無かった。玄関口に目をやる。今出てくるのは白衣を着た教授と助教授がぽつんといるぐらいで、もう生徒の姿はほとんど見えなかった。見落としたのかな、と首を捻っていると、百夜、と呼ばれと思考を遮られた。

 ん?とララを見て、僕はきゅと顔を引き締める。ララは例の深刻な眼差しを向けていた。

 僕はこのとき真剣に話を聞こうとララに向かい合いながら、ふと、何かデジャブの様なものを感じて、瞬間に何かが重なって、別の風景を思い出していたのだ。

 そうだ、例のドラマだ。

 僕は、真剣なララを余所に、と抵抗しながらも、一人静かに思考を沈めた。僕とララは幼馴染だ。母さん同士も仲が良い。お菓子作りの上手なララのお母さんは友人を招いては御茶会を開き、母さんだけでなく僕たち姉弟に対しても親切だった。バカでやんちゃな僕たちに対して、邪険な表情一つせずに「お菓子食べる?」と笑顔で僕たちを誘ってくれた。
 それで、母さん達がテーブルに向き合って世間話をしている横で、僕、直樹、ララ、姉さんでクッキーの皿を囲んでUNOやトランプ、カードゲームをやって騒いで、時には茶々やって、よく母さん達を困らせていたんだ。

 僕たちは園児でべそ泣いている頃からお互いを知っているし、進路が違ってしまった今だって、何となく一緒にいられるだろうという根拠のない自信があるぐらいだ。
 だから、もしかしたら、ということも考えないわけじゃなかった。だって僕にとっては母、姉以外の初めての女の子だ。あり得ないわけじゃないし、実のことを言うと僕は結構ララのことが好きだった。友人としても、女の子としても。姉と違って、おしとやかでのほほんとしているところも、ふと目をやった時に髪を耳に掛けていたり、食器を片づけるのを手伝ったりする、女の子らしいところや人に気配りをするところも好きで、その所作を見つけるたび胸を掴まれたように揺さぶられるのだ。
 結構どころじゃないかもしれない、すごく好きだ。

 だから、僕が市内の小さな下請会社の土工に就職することを決めた時、一番気になったのはララと離れてしまうことだった。ララたちはこのまま魔術師として東京に行く。辻教授の研究室の生徒として、附属大学の援助を受け取り、精霊たちと契約を交わし魔力を高めながら、教授の研究の手伝いをする。

 確か、教授は地方の呪術や神秘思想、宗教儀式などの民俗学を研究していて、教授としてはまだ若いので、論文発表や著書の発行などのちゃんとした実績が求められるのだそうだ。研究室にいた頃にその話を聞いて、教授になっても苦労するもんなんだなあ、と幼心に思ったものだ。論文の手を休め、事務椅子の背中に寄りかかって、ハァと太い息を出す教授は少し老けてみえた。僕はそんな大人の姿を見るのは苦手だ。
 いつも僕たちに元気をくれる教授だったから、無性に心配になった。いてもたってもいられないぐらい不安が膨らむ。そんな時は決まっていて教授の大好きなコーヒーを淹れて机の脇に置くのだ。そうすれば、教授は僕達に気づいて、「ありがとう」と笑いかけてくれる。だから、僕はコーヒーを淹れる。そうすれば、教授は元の教授に戻る。
そう信じ込んでいた時が合った。
 すると、ある時、椅子の背中を鳴らした教授が、額の上に力なく手を置いたまま、ぼそりと呟いて見せたのだ。

『俺は若造だからね、男の官僚社会にはついていけない』

 だから優秀なお前達を頼りにしているんだ。目は手に隠れて見えなかったが、カサカサの唇を自嘲気味に歪ませていたのがやけに印象に残っている。姉と二人、静かに目を合わせて、そんな覇気のない教授を怖がった嫌な思い出が一回だけある。
 それ以来、姉は研究室に来なくなった。

「百夜」

 ララの声がした。途端僕の意識は研究室から校庭に戻る。目の前に、僕を伺うララがいた。やはり眼差しは真剣なままだ。 ララ。何となく、僕の中に残っていたのはララだけだった。
 
「で、話って何?」

 中々、ララが話を切り出さないので、思わず口を開いた。よく考えたらあの男と同じ台詞を言ってしまって、小さく咳払いをする。顔が熱くなった。僕は、何か変なことを言ってしまっていないだろうか。
 動悸が早まったのを余所に、ララは心ここにあらずといった様子で校舎窓を見つめたまま、手をきつく握りしめていた。瞳が小刻みに揺れていた。

 もしかして、何から話そうかと迷ってたりするのだろうか。百夜の事好きだったのは、あの時から、とか。いつも頼りにしていた、とか。ずっと、見ていたとか。そういえば、最近よくララと目が合う。まさか、胸の内に溜めこんだ想いを、今ここで言ったりしないだろうか。きっと、何か大切なことを伝えたくて、今吐きだすか吐きださないかの瀬戸際まで来ているんだ。心拍数が跳ね上がるのを感じた。好きです、もしララの口からそう言われたら、僕は。

 その時、ララが急にこちらを向いた。一瞬ひやり、とした。でもそんなはずはない、と思い直し悠然とララに目を合わせる。辺りはすでに薄暗かった。それでもララの白い頬が真っ赤になっていることがわかった。潤んだ目は決意に満ちており、真っすぐにこちらを見つめていた。普段こんなに見つめられたことがなかったので、思わず目をそらしそうになったけど、それ以上に真剣なララの表情に動くことができなかった。ララが小さく息を飲んだ音が聞こえた。あのね…、小さな唇が言葉を紡ぐ。

 僕は静かに目を閉じて、声に耳を傾けた。

「直樹って、誰が好きなのかな?」

* * *

 直樹って、誰が好きなのかな?

 気がついたら口の中で小さく反芻していた。確かめるようにもう一度呟く。
 直樹ッテダレガスキナノカナ。直樹。え、いや待って。

 そこで心臓が跳ね上がって悲鳴する。

「………直樹?」

 自らの告白に火照るララを見つめ返す。僕の驚愕の眼差しに一瞬目を伏目にするララだったが、すぐに視線を戻した。決意の目、ララは先ほどまでの照れを一蹴するかのように眉を吊り上げ、一歩踏み出した。

「私、直樹のこと、好き…、ううん、大好きなんだ!」

 ラジオ番組を聴いて、外にはそんな世界もあるんだ。と空想するときのように、まるで現実感のない告白だった。
 直樹が好きなことに気がついたのは今年に入ってからだとか、いつも私のことを馬鹿にしてくるけど、実は直樹はああ見えてちゃんと私のこと見ててくれていて、私が困ってるときすぐに私の欲しいものをあててくれて、それで私に渡してくれるとか、気配りも上手でいつも歩いて帰る時は車道側を歩いてくれるとか、ちょっとした怪我をしても大袈裟に心配して絆創膏をくれるとか、指先がきれいで、偶々指が手に触れるとドキっとするとか、頭も良くて難しい問題もスラスラ解いちゃう。今日だって教授の質問に簡単に答えちゃうのにそれで本人は驕ったりしないんだ。自分はまだまだだからって気がつくと次の問題を解いちゃってる。すごい、かっこいい、すごく好き。大好き!
 ララは胸に両手を押し当て、まるで僕がこの場にいないかのように、この場にいない直樹についての熱い想いを饒舌に話した。話を聞いている間の僕は、視界も思考も真っ白だった。幸せそうに眼を細め、直樹のことを話すララが眩しくて。嬉しそうに笑うその横顔が悔しくて。そう言えば最近ララと目が合うなあと思うことがあったけど、あれは僕を見てたんじゃなくって、すぐ隣にいた直樹のことを見ていたんだ。直樹のその横顔に見惚れていたのだ。
 そう気がついた時、遂に視界がぐにゃりと歪んだ。

 ララだけは。僕はそう思っていたのに。

「だから私、好きなんだよ…、直樹のこと」

 僕はもう真っすぐにララの顔が見れなくて、話が終わる頃には足元を見つめていた。目から熱いものがこみあげていた。漏れそうになる嗚咽を必死に飲みこむ。

 この気持ちは、この味は。そうか、これが失恋なんだ。僕はたった今、好きだった女の子に振られたのだ。自覚して、とうとう一滴の涙が頬を伝った。
 女の子は好きな人のことを想う時、こんなにもきれいな顔をするんだ。だから僕は知らなかったんだ、こんなに美しく笑うララのことを。

「…そっか。ララは直樹が好きだったんだなあ…」

 いつかの放課後、直樹との会話を思い出した。いつも真面目でカタブツだった直樹が、勢いよく机に腰掛け見下ろしながら僕に言い放ったのだ。

『百夜、僕はこのまま教授のとこに残る。いつ東京に行くよ』

 そして、僕は魔術師になる。

 その場にいたのが僕だけだったからか、その声はやけに響いて耳に残った。涼しげな顔だったが、直樹の目は熱く、僕を映した瞳は、すでに僕を見てはいなかった。どこか遠くの地に想いを馳せていた。

 あの時だ。僕は直樹に対して、成績だけでなく、男としても敗北していたのだ。

「ねえ、百夜。直樹、私のこと好きかな…、嫌じゃないかな」

 急に不安になったのか、ララは先ほどまでの高ぶっていた気持ちをすっかり萎ませ、肩を落とし項垂れてしまった。指先が鞄の肩ひもに触れ、摘まんだり擦ったりを繰り返している。自信なさげに伏せられた睫毛を見て、ララの言いたかった話とはこれだったのだとようやく理解した。初めは上手く直樹の好きな人の有無だけを聞き出すつもりだったのだろう。しかし、駆け引きの下手なララのことだ。僕の切り返しに卑屈になり、思わず言わなくても良かったことを話してしまった。嘘のつけないララらしいな、と小さく笑った。酷く力のない笑いだった。

「私、いつかちゃんと好きだって言いたいんだ。フラれるかもしれない。でも後悔だけはしたくないんだよ」

 頭を垂れていたララは静かに横を向いた。唇を小さく動かしながら遠目になる。多分直樹を思い出しているのだ。小さく開いた目は、寂しげでもあったが、それでも綺麗だった。自分が殺されても相手を許す、そんな恋する女の子の目だった。
 綺麗な横顔を向けたまま、勝手な決意を話すララに、僕は一瞬でララに憎悪を沸かせてしまった。そのまま噛みつきそうになった。唇を噛んで堪えている嗚咽も、飲み込みきれずにいる汚いものも、一緒に全部吐き出してぶつけてしまいたかった。 ララはそれでいいかもしれない。だって、自分の言いたかったことも、自分の言えなかったこと、全部、僕に吐き出したんだから。でも、僕は、僕は。

 裾の中の拳が震えだした。じゃりと靴が砂を踏む。眉間に密かにしわが寄る。僕の気持ちに気がつかないララを睨む。美しい横顔を眼光で付き刺す。
 僕は。僕は、一生告白の機会を奪われたんだぞ。好きな人に好きとも言えなかったんだぞ。唇を噛みしめながらそんなどうしようもない憤りをララにぶつけてしまいそうになった。
 だって、今ここで、僕が困ってみろ。本当は、ララが好きなんて言ってみろ。ララは、優しいララは。喉の奥に汚いものがせり上がる。絶対直樹に告白するのをやめるじゃないか。意味もない罪悪感に苛まれ、ごめんなさい、と僕に気を使うじゃないか。言えるわけないじゃないか。ララに刃をつきたてるような勢いで言葉を突き刺しそうになった。いざ口を開く直前、顎を開き短く息を吸った瞬間、先ほどまで横を向いていたララはすっとこちらを向いた。
 息を飲んだ。目を見張った。わなわなと唇を震わせて、細切れになった息が舌の上を行き来する。先ほどまでの優しい表情は消えて、どうしたの?と小首をかしげていた。
 
 本当に純粋無垢で、何も知らない美しいララ。自分から溢れだし向けた憎悪にも気がつかず、自分をきょとりとするララ。ただ綺麗に恋をしているだけなのに、勝手に恨まれもみくちゃにされて。僕はララが可哀そうだった。その時ララの目に浮かぶ情けない男と目があった。男の顔は、無愛想に目を怒らせて押し黙っているはずなのに、そのくせ今にも泣き出しそうな顔になっていた。何も思い当たらないララは、心底不思議そうに僕を見る。
 そんなララを見て、そんな自分に気がついて、高ぶる怒りも萎えてしまった。

 そして、悟ってしまった。

 ララは憎悪に気がつかなかったのではない。人の憎悪を知らないのだ。

* * *

 いつかララの父親に聞かされたことがある。あの子は世間知らずだ、と。

 キッチンの奥で笑いながら母親の手伝いをするララ。父親はリビングのソファにどっしり腰かけ、情報誌をパラパラめくり、時折向かいのソファでふざけ合っている僕、直樹に話しかけ、学校の近況を尋ねてきたので、直樹とそういえばあんなこともあったよね、と確かめ合い、頷いて答えると細い目を一層細めにしてそうかあ、と返してくる。

 ソファから足を投げ出して、腕を組んだまま、うんうん頷く。多分微笑んでいるのだろうが、ララの父親は常に細目で、
口角も上がっている癒し顔なので、どんな表情を浮かべたところで、対して顔が変わっていない。笑窪ができてるのを見て辛うじてわかるぐらいだ。しかも、適当に頷いているだけなのか、ちゃんと聞いたうえで頷いているのかわからないので、僕らはいつもどう切り返すか困っていた。

 出たララ一家お得意の。

 やっぱり親子だと、指で頬をかいてる直樹と目配せして、うんうん、と頷き合っていると、狙ったように「で、君は成績だけあげてどうするの?」と鋭い質問を返してくるから侮れない。その時ばかりは直樹も身体が硬直して、気まずくに目を背けて、あー、それはですね、とか口をひくひくさせているので、僕は少し笑った。
 それに気がついた直樹はもちろん僕の頭を叩く。都合が悪くなると僕を叩くのは直樹の悪癖だ。多分それで僕はバカになったんだ。

 自分の感情をうまく出せない直樹のことだ。どうせ照れ隠しだとか、ただのとばっちりだとか、というのはまあわかる。だけど加減を知らないのか、これがまた結構痛くて、しかも不意を突かれた形になったので、叩かれた瞬間、おごと変な声が出て、頭含めて上体が大きく揺さぶられた。思わず頭を押さえる。痛い。
 直樹は万年思春期で、素直になれないむっつりな性格だから、それはいい。僕らの友情に免じて許そう。でも、どうして直樹の行きようのない感情の掃き溜めに僕がならなきゃいけないんだと思って、理不尽には理不尽だ、とばかりに三倍増しにして叩き返してやった。そしたら直樹のメガネが勢いよく床に吹っ飛んだ。それにはララの父親も吹き出して、「メガネは身体の一部なんだよ」と怒った直樹に二人して大笑いしていたのだ。

 そんな感じでぎゃいぎゃいと騒ぎながら、話を進めていると、不意にララの話になった。途中で声を張りながら「何やってるの~?」と話に割り込んでくるララに、父親は笑って、なんでもないよ、と声を張って答えながら、ふとこちらを向いて僕と直樹に言った。

 あいつは危ういんだ。
 
 今まで見たことのないような顔だった。

 お人好し、心配性、頼りない男と、近所のママさんにいじられ、よしてくれよ、と困ったように眉尻下げてふにゃふにゃ談笑するララの父親からは想像もできない、家族以外で初めて見せた最初で最後の男としての顔。直樹と僕は静止した。いつもは重たい瞼で覆われた瞳が静かに僕らを見ていた。ララと同じ色をした深い紺色の目をしていた。
 父親は玉ねぎに苦悶し母に泣きつくララに呆れたような、寂しいような、それでいて心から慈しむような、言いようのない視線を一度送って、僕と直樹に向きなおし、腕を組んだまま言う。

 あいつは自分に嘘もつけないような素直で純粋な自慢の娘だ。

 そこで、父親は一度唇を舐めて、少し声を上ずらせながら続ける。
 
 自分の口から言うのも恥ずかしいことだが、時に厳しく、時に優しく、あいつは本当に大事に育てた。初めてに精霊に触れた時だったかな。真新しいものには、すぐ触りたがるんで、あの子の方がよちよちとサラマンダーに近づいていくんだ。あ、もうハイハイはしていないぞ、危なっかしく歩くんだ。こう、よちよちと。

 父親は、両手を使って、僕たちにその様子を再現して見せた。
 僕と直樹は、大人がするとは思えない動作に、何かよくないものでも見るような目をして、何とも言えない顔で見守りながら、父親を見ていた。

 それで、手を伸ばして、その手を長い舌で舐められたんだ。最初は驚いたのか、しばらく放心してサラマンダーにされるがままだったんだが、だんだん慣れて、にょろにょろ動くしっぽを触って、そのまま小さな腕で抱きかかえたんだ。
 その時初めてあの子が笑った。

 父親は組んでいた腕をゆるゆると解いて、膝の上で両手を絡ませ指を組み上体を前にだして、肩で息をつく。 幸せの色をした溜息だった。伏せた目をしきりに瞬きして、首をゆるく振りながら、絞り出すように続ける。

 花が咲いたように笑うとはこのことだ。本当にそう思った。こちらに向けた天使のような笑顔は、今でも瞼に焼き付いて離れない。
 あの子が嬉しそう笑った時は、一緒に喜んだ。まるで自分が少年に戻ったようだった。ママにも、あなた少し若返ったんじゃない?と、茶化されたぐらいだ。

 ララの父親は手で首を揉みながらくすぐったそうに笑った。笑窪ができる。そしてすぐに、真面目な顔に戻した。今度は眼光に鋭い光が帯びていた。

 もちろん、嬉しいことばかりじゃなかった。時にはあの子に嫌な想いをさせたこともあったさ。
 ママの大事にしていたガラス瓶を割った時があってな。あの子は見つかる前にガラス片を片付けて自分の失敗を隠そうしとしたんだ。そして、自分が割ったのではないと嘘をついた。
 
 俺は心を鬼にして叱った。

 自分のために嘘をつくような子になって欲しくなかったからだ。失敗を嘘でごまかそうとする子になって欲しくなかったからだ。

 人のものを壊しておいて、責任逃れするような子になって欲しくなかったからだ。

 その後、泣きながらママに謝った。ママはララを抱きよせて、いいのよ、と頭を撫でてやったが、俺は一言も慰めてやらなかった。雷が落ちたようだと、後であの子に言われた。

 父親ってのは、子供にとっては社会人のお手本みたいなものだ。ママが、甘やかす分、パパが嫌われ役を引き受けなくちゃならない。
 泣いたり嘘をついて物事を解決することは、社会では通用しないからだ。

 娘は可愛い。だから、社会でちゃんと生きていけるように、一人でも生きていけるようになって欲しいんだ。たくさんの人に愛されてほしい。
 全ては娘のためだ。そう割り切って、しばらく口を利かなかった。

 俺の機嫌を伺って謝ったんじゃ意味がない。俺が許したから終わり、許されたから終わり、そういう問題じゃないとわかってもらいたかった。

 そう言い終わった後、父親はただ呆然と話を聞く僕達に、ニヤリと笑いながら、

 君たちも、一度や二度経験すると思うぞ。
 許し許される、そういうのを超越した、謝罪と、責任と、償いと、そう言う、取り返しのつかないこと、どうしようもないこと、どうしても解決できぬ問題に対峙することが。

 と脅しつけるように言った。僕は思わず聞いた。

「おじさんにも、そう言うことがあったの?」

 父親は答えた。

「もちろん、何度も何度も、今でもいくつか抱えている。
中にはどうしようもないものもある、もう取り返しのつかないことがある」

 そう自分の心臓を指さしながら、一度呼吸を置き、自嘲的に笑った。

「ずっと胸のここに溜まったまま自分の生を呪っているんだ。」

 そして、間を置かず応える。

「だからわかるのさ、この世で一番怖いもの、それは己の無知と後悔だってことが」

 あの子には、なるべくそういうものを背負って欲しくないんだよ。

「でも」

 父親が口の一端を上げ、しわがれた声で言うと、直樹がためらいがちに口をはさんだ。父親が顎に手を当てて何かな?と催促する。直樹はでも、ともう一度呟きながら、レンズの奥からララの父親を見つめた。直樹の目が力んでいる。

「それでわかることってあるんじゃないですか?やってみてわかること、というと、もしかしたらお父さんにとっては無責任と思われるのかもしれないのですが、後悔することでわかることがあると、僕は思うんです。誰かに対して罪悪感を持つことで人に優しくすることができるみたいに」

 直樹は少し俯いて、レンズを白く光らせた。
「少なくとも、僕はそうでした」

 言い終わりの直樹の声は弱弱しかった。自虐的なものになっていた。そうだね、と父親は頷いた。

「たしかに、必要な後悔はあるのかもしれない。優しさや思いやりに繋がる後悔も罪悪感も確かに存在すると思うよ、俺だってそうだったからね」

 顔を上げた直樹に笑いかける。しかし、直樹に全てを譲ることはしなかった。

「でも、必要のない後悔だって存在するんだよ。知らなくてもいいこともある。例えば、極端な話、殺人の後悔や不倫の味。そう言うのは必要がないだろう。俺はそういうのを背負わせたくないんだ」

 いきなり、殺人、不倫という言葉が飛び出したので、内心びくりとした。どうやら父親の話は、自分達が思っている以上に重要な話らしい。脳のてっぺんからつま先まで揺さぶられるような気持ちだった。
 直樹はでも、と一度口を開いて、そのまま口を閉じた。そして困ったように僕を見た。返す言葉が見つからない。けど、僕も困った顔をした。父親の言うことは正しい。そう感じてしまった。それは父親として、当然の気持ちだと思った。
 それでも、僕は直樹の代わりに喰い下がった。

「でも、ララちゃんに必要ないかどうかをおじさんが勝手に決めていいんですか」

 嫌味でもなく、皮肉でもなく、自然と心に沸いてきた疑問だった。まるで、ララの人生に父親の強力な意思が見え隠れしているように思えた。だからそのこと父親に尋ねたかった。
 瞬間、父親と僕達の間の空気が変わった。ぴり、と電気が走り、父親に黒いものが渦巻いた。一瞬意外そうにした父親の顔はみるみる眉をひそめ、薄い唇をかみしめて、押し黙った。僕を見る目に鋭い敵意が乗った。不意を突かれた、そんな表情に期待していたのに、それが裏目にでた結果となった。僕は気が気でなかった。本当にこれまでのララの父親からは想像もできない、普段の僕らの知らない、想像もできない般若の顔だった。
 僕の手のひらにジワリと汗が滲んだ。小さく身体が震える。すぐ横の直樹も、空気の変化を察して緊張してしまったのか、短く息を飲む。しかし、僕は直樹を見ることはなかった。父親の眼光が目をそらすことを許さなかった。
 
 僕たちの間で圧迫するような沈黙が立ち込めた。父親は黙って僕を見る。次の言葉を催促するかのように押し黙る。まるで脅迫されている気持ちだった。そして、僕は直感的に悟った。
 間違えれば、僕は潰される。
 僕は、震える喉を必死に自制しながら、父親の敵意に負けないように、言葉を選びながら続けた。

「ララちゃんの人生は、おじさんの人生じゃありません
確かに、おじさんの言うことは正しいですが、おじさんの思う正しさは、本当にララちゃんに必要なことなんですか。
ララちゃんのこれからをどうするかを、ララちゃん自身が選択することに意味があるんじゃないですか」

 僕は、必死で言葉を続けた。心の中ではしっかりと綴られ、僕の思い思いの言葉だったはずのに、声に出す頃には、全く覇気もなく力もなく、まるで叱られた父に対する園児の言い訳のような情けない言葉になった。蚊が鳴いたような声しか出なかった。ほとんど泣き出しそうになっていた。

 僕の必死で絞り出した言葉を、父親は一瞬で一蹴した。雷撃が落ちた。
 
「お前たちが私たちの何を知っているんだ。これは私たち親子の問題だ、お前たちに口出しできる問題じゃない」

 部外者が好き勝手に言うな。

 父親の怒声に僕の鼓膜は弾けて、思わず身体が仰け反った。身震いした。頭蓋骨で父親の声が反響する。あまりの恐怖に目尻が少し滲んだ。目を反らしたいのに、全くが開いたまま動かなかった。多分直樹も同じ気持ちだったと思う。視界の端で、直樹の拳が小刻みに揺れている。ララの言った事は嘘じゃなかった。本当に怖かった。やっぱり、自分の言った事は余計なことだった。そう思った。そう言って父親は僕を鋭く睨みつけ、それ以上立ち入ることを許さなかった。

 遠くで、ララの声が聞こえる。まだ玉ねぎで母親と騒いでるのか、こちらの様子に気がつかないようだ。やっぱりどこまで行ってもララ一家だ。縮みあがったはずの僕の精神は、どうでもいいことを感知する。おそらく、これを現実逃避というのだ。鬼の形相をした父親の前で、僕の心は悲鳴を上げ、誰でもない相手に助けを求めている。未だ父親は興奮して息を乱して僕を睨みつけていたが、ララの騒ぎ声に我に返ったようになって、しわしわと眉尻を下げた。
 重たそうな瞼の下、しばらく目をオロオロをとさせて、手のひらで静かに頬と口を覆った。そして僕からすっと目を反らし、短く「すまない」と言った。僕は反射的に、体をぴんと伸ばして、僕の方がすみませんと謝った。涙声だった。
 すると、父親は、もう片方の手で謝る僕を静止しながら「いいや違う、君は謝らなくていい」と短く吐き捨てた。

「すまない」

 父親はもう一度、今度は僕の目を見て謝った。もう父親のから鬼は居なくなっていた。むしろ父親の方が何かを恐れるかのように、眉尻を下げて、弱弱しく僕を見つめていた。何が違うのか、何を謝ったのか、僕にはその意図がよくわからなかった。

 これはエゴだ。そう言って僕らから口を閉ざした。だから、僕は返事もできずに、父親を見つめ返すしかできなかった。

 そして、僕たちの間に、再び沈黙が落ちる。

 息のできないような緊張感も張り詰めるような圧迫感もなくなったが、行き所のない気まずさだけが残った。しかし、これで僕たちは知ってしまった。痛感した。ララの父親は、本当に、本当に心からララを想っていることを。あの、とろけるような笑み、貫かれるような眼光、そして、先ほどのうねる怒り。ララにかける強い想いは、父親の感情に横たわり、父親の思考深くにまで根付いている。痛いほど伝わってきた、父親のララに対する執着を、己のララに対する想い、それらがどれ程のもであったか、あの怒声一瞬でわかってしまった。
 やはり、この父親はララに対して気まぐれでキツく当たっているのではなかった。きちんとした理由。父親の、父親なりの情熱が合ってのものだったのだ。そして、この父親の言うことは、ララに対する思いは、本当で、正しい。

 苦々しい顔をして眉を寄せる直樹と、息を吐きながらソファーの背もたれに体重を預け眉を下げる僕を父親は静かに見据えていた。両足を組んで、腕を無造作にソファーの背もたれにあてる。一仕事を終えたように長く息を吐いた。その溜息は、わずかに疲れが滲んでいた。
 だが、僕たちはまだ完全には諦めないでいた。何とかできないか、今すぐにこの状況を巻き返せる何かがないか、そんな焦燥感が胸の中で騒いでいた。

 僕たちはそれまでずっと父親を悪く思っていたのだ、ララの父親はララに対して過干渉で過保護であると。その過保護ぶりは、今、蚊帳の外になっているララとララの母親から聞かされている。僕達を怒鳴りつけたこの父親は、ララの東京行きを認めていなかったのだ。

 まだ、しかるべき時でない、それがララの父親の言い分だった。

「家族だからこそ、あらゆることを許すことができるだが、社会は違う、モラルをわきまえない奴は徹底的に潰される」

 ララの母親は、ウチの旦那はそこらへんが頑固なのよねえと、のんびりと言っていたが、ララは相当堪えていた。まだ、僕が姉さんとまともに会話していた頃だ。放課後、直樹の机を椅子で囲み、姉とふざけて、直樹とだべり、適当に時間を過ごしていた。その時に、静かに教室に入ってきたララが、緊張した面持ちで相談してきたことがあった。もしかしたら、皆と一緒に東京に行けないかもしれない。その時のララは真っ青だった。原因は父親の反対だった。
 
 ララの父親がどんな人間であれ、僕たちだけはララの味方だ。たとえ、どんなに父親が優れた人であっても、父親の方が正しくて世間は父親の味方でも、自分達は父親のことよりも、ララのことの方をよく知っていた。だからララの方が大事だった。幼馴染のララの方が大事だった。だからできるなら、ララのしたいようにさせてあげたいという立場だった。ララが東京行きについてどんなに悩み苦しんでいたのかは、おそらくこの父親よりも知っている。

 何度も何度も相談された。そしてララの気持も知っていた。ララは東京に行きたいと、精霊たちと関東を回りたい、そして――。
 そう言って、ちろりと直樹を見やる。あっけにとられて、何だ?と無愛想に返す直樹。ううん、と首を振るララだったが、今ならララのその真意もわかる。きっとララは直樹の側にいたかったのだ。
 しかし、僕たちは一つ見落としていた。僕たちはララの父親のことを全く知らなかった。近所ですれ違ったりはしたが、付き合いは挨拶程度で表向きのことしか知らなかった。そしてララは父親を知っていた。当然家庭での父親も知っていた。
 ララがあんなに苦しそうにしていたのは、と旅に出れないかもしれない、皆と旅に出れないかもしれない、直樹の側にいれないかもしれない、それだけではない。ララは誰よりも父親の気持ちを知っていたからだ。父親の正しさも、父親の想いも、本当の父親の気持ちをララは全部知っていた。だからだ、だからあんなにも苦しそうにしていたのだ。
 僕と直樹も、きっと姉さんも、真っ青になったララの顔はもう二度と見たくない。だから、できれば父親は根っからの悪人であって欲しかったのだ。

 僕と直樹は静かにうなだれた。やはり人生の経験値も、思考も、論方も何もかもが自分たちよりも上にあった。返す言葉がなくなった。やはり、これは当事者同士の問題なのだろうか。それは自分達にもよくわかっていた。ララが何とかしなければ、きっとこの頑固な父親はわかってはくれない。自分自身が何とかしなければ、父親は折れてはくれない。このことは、ララ自身がよく口にしていたことだ。そもそも人の家庭事情に自分達が口出しするべきではないのだ。父親が言うように、これはララとララの父親の問題で、自分達が何かをしたところで、それは解決には繋がらない。問題の助長か逃避か、問題解決の延長だけだ。
 それでも、自分達は無関係ではいれなかった。僕と直樹にとってララは同じ幼馴染で友人なのだ。たとえ父親に部外者と言われようと、ララが悩み続ける限り、自分達は当事者だ、そう強く思っていた。

 しかし、言葉が見つからない。何も、何一つも。
 自分達の小ささを痛感し、口の中が悔しさで一杯になっていた。僕達がそんな風にうなだれて、意気消沈しているのを余所に、父親は僕達の方を見つめながら、何かを考え込むように、顎を手で触っていた。僕達を見ていながら、僕達じゃない何かを見ているように、目が遠くになっている。一応気になって、恐る恐る背もたれの後ろを見てみたが、ベランダに通じる窓があるだけで誰もいなかった。太陽の光を受けた庭が、一杯に緑を輝かせ、網戸から風が入りレースカーテンを静かに揺らしている。瞬きして、顔を硬くしながら視線を戻すと、その途中で、直樹と視線がぶつかった。
 どうやら直樹も同じことをしていたらしい。直樹らしくない弱弱しい目をして、不安を露わにしていた。そして、ゆっくりと時間をかけて正面を向く。父親は、もう僕達を見ていなかった。目を伏せて、手で顎を擦っていた。僕は、直樹を見た。直樹は、膝の上に拳を作り、そんな父親を見つめていた。僕の視線に気付いた直樹も僕を見つめ返して、小さく頷いた。

 そして、僕達が同時に正面を向き、あの、と口を開こうとした瞬間、父親が大きく姿勢を動かした。びくりとして、また出かかった声を押し戻す。いま思えば、何て情けない様だろう。それでもあの時は父親を前に、何もできなかった。父親は足を組み換え、上体を軽く前に倒し、組んだ足の上に両手を置いて、僕たちに向きなおした。まだ目は伏せられており、瞼の下、翡翠の目がきょろきょろと動いていた。
 そして、長い沈黙を破って、またぼそりぼそりと喋り始めた。

 今ではそうでもないんだが、昔は娘も小さかったからな。
 俺が叱りつけた時は、俺のことを怖がって、決まってしばらく口をきいてくれなかった。

 父親は、そこで一度口を閉じた。数回瞬きした後、ようやく伏せた目をこちらに向けて、僕達を見つめたまま、しわを作って笑った。びくびくと対応する僕達に困ったように笑った。

 そう、今の君たちのようにな。

 そう言って、ハハハと声をたてて笑った。自嘲的な笑いだった。僕たちも、そんな自嘲的な父親を見ていくらか絆されてしまったのか、緊張の糸が緩んでしまったのか、先ほどの空気を忘れてしまったのかのように、声をたてて笑った。多分安心したんだと思う。僕は涙を流してくちゃくちゃの顔で笑っていた。直樹も泣きはしなかったものの、似たり寄ったりな顔をして笑っている。やっぱり僕たちはまだ子供だった。大人が怒ると怖い。大人が笑うと安心する。そんな単純な思考回路がまだ残っていた。
 一通り笑い終わった後、父親は小さく咳をして、目を伏せながらまた静かに続けた。

 やっぱり怒鳴られるのは誰だって嫌なんだ。
 俺だってそうだったし、娘だってそうだ。だから、怒ってばっかりの俺をすっかり怖がって、近づきさえしない。

 父親は短く息を吐いて、組んだ足を解いて、両手を組み直した。

 仕方がないとは言え、少しさびしかった。
 俺だって、怒りたくたくて怒ってるんじゃないんだからな。娘を叱るのも、時に娘に嫌われるのも、父親の仕事だ。
 俺はそう思っている。

 両手を開き、肩をすくめて僕と直樹を見た。自嘲的に僕たちに笑いかけた。まるで、何れ僕たちにもわかるときが来る、そういっているように見えた。

 人を傷つけてを泣いてしまったときは、静かに諭し、どうすればいいかを考えさせた。
 悲しむララを見るのは正直辛かったが、一方で娘の中でどんどん人を想う心が育ってくれて、嬉しかった。自分たちの出来る限りの愛情を注いで手塩をかけて育てた。あの子の幸せを心から願って、人の幸せを祈る様な子に育てた。

 そう言うと、父親は優しい表情をして口を閉じた。その目は娘との時間を思い出していた。娘のことを慈しむ目をしていた。確かに、ララは、人のために泣き、人のために怒る様な、利他的な女の子だった。あの人間嫌いな姉さんですらララのことは妹のように大事にしていた。ララは本当にいい子だった。天使みたいないい子だった。

 すると、父親は、また身体を前に出して、手を組み直し、真面目な顔をした。高い鼻の上で潜められた眉、鈍い光を帯びた双眼が、真っすぐに僕と直樹を射抜く。
 僕たちは一度顔を見合わせた後、黙ったまま姿勢を正して、父親の視線を正面から受け止めた。ほんの一瞬間をとって、父親は口を開く。

「だからあいつはまだ知らないんだ」

 そこで父親はまた一度、言葉を区切った。目が一層険しくなる。直樹と僕はまた顔を見合わせて、それからおずおずと尋ねる。

「何をですか?」

 父親は、吐き出すように答えた。

「世の中の悪意だ」

 世の中には、人を傷つけることで快楽を得る奴がいる。
 世の中には、自分の成功のみを考え、人を平気で蹴落とす独りよがりな連中がいる。

 人の傷みに共感できない奴がいる。
 時にこちらが手を上げなければ、手を汚さなければこちらを守ることができない、どうしようもなく嫌な連中が存在する
生きるということは、時に相手を傷つけなければならない。心を殺すこともあるかもしれない。

「百夜君、直樹君、そしてララのことを親友だと言ってくれる巴ちゃん。君たちがいつもあの子によくしてくれていというのは知っているよ。いつも、学校の話をすると、君たちの話が上がる。一番いい顔をするんだ、本当に言い尽くせない程感謝しているんだ」

 だから、俺がこんなこと言うと、君たちは不思議に思うかもしれない。
 でも、俺も薄々は分かっている。わかっているんだ。

「頼む、直樹君、百夜君」

 父親が、僕たちの名前を呼ぶ。助けを請うように、声を絞り出して呼ぶ。

 もうあいつはあいつの人生を歩み始めている。
 もう俺の手から離れようとしている。
 俺を必要としなくなっている。
 だから、直樹君、百夜君

 苦しそうに僕たちの名前を呼びながら、父親は、手を祈る形にして、頭を深く下げた。

 だから。
 だから、あいつを守ってやってくれ。

 僕は気がついた。父親が何故、あんなにもララを心配していたのか。

* * *

 僕は、僕の顔の目の前で、大丈夫?と手を上下させるララを見つめた。あの父親の声が頭の中に響く。
 本当に、ララは純粋なのだと痛感してしまった。

 思い出した。そうだ。
 僕は、この純粋で、裏表もなくて、汚れのないララが、本当に好きだったんだ。

 この10数年間生きて、成長した。僕も直樹も、そしてあの姉さんも。心も体も大きくなって、強くなった。昔よりも、利口になった。確実に考え方が現実的になっていった。生活の輝きも増した。
 しかしその分、僕たちの間で、目には見えない何かが立ちこめ、深い影が育ち始めていたのも事実だった。言いようのない敵意。
 いつか僕たちは友人同士からただのかけっこの競争相手になっていたのだ。

 共に時を過ごし遊んでいた僕たちは、いつの間にか自分のためだけに時間を使い始めている。利害一致の関係になり始めている。僕たちは幼馴染で、表向きは仲良くしていながら、心の何処かで、お互いの真意を探り始めていた。

『お前を出し抜いてやる』

 そんな声が聞こえてくる気がして、僕は悲鳴を上げた。もう誰かに比べられるのも、誰かを比べるのも、もううんざりだった。そんな友人も兄弟も見たくなかった。だから、僕は、逃げ出したんだ。もう変わってしまって取り戻せない全ての事から。
 僕たちは汚れてしまった。でも、その中でララは違った。ララだけは違った。

 僕達の、本音と建前の世界に、僕達の悪意に気がつくことなく、染まることなく、ずっと綺麗なまま生きている、
ずっと自分の中に人を住まわせている。この、優しくて、純粋な、ララのことがこの上なく好きだったのだ。
 そうわかった瞬間、静かに両目から涙がこぼれた。すう、とまるで空気のような涙だった。

 ララがぎょっと全身を跳ねさせ、目を驚いたように見開き、心配したようにどうしたの?!と両手で僕の肩に触る。
ああ、やっぱりララは優しいな、と思った。衝動的に、ララを抱きしめたいと強く思った。
 静かにララの両肩に手を置き、力を入れた。心配そうに僕を覗きこむララ。そして、僕はそのまま、ララを前に押し出し、僕から離れさせた。じゃりとララのかかとが土を踏む。

「百夜?」

 不思議そうに見上げるララに、にっと笑いかける。目尻から残りの涙がこぼれる。
 僕はこの両肩を抱きしめてはいけない。

 こういう正直なところが好きだった。嘘をつけないところも好きだった。
 そのために、時折ララは傷つける。無邪気に人を傷つける。ララはそれに一生気がつかない。相手の傷に気がつかず、無邪気に笑う。知らぬ顔で一緒に笑っている。それはララが唯一持つ悪魔の部分だ。

 きっとララは自分の知らないところで、もっと人を傷つけ、自分も傷ついている。それでも僕はララの全てを許せてしまった。たとえ直樹を好きだったとしても結局僕はララのことを好きなままなんだなと悟った。それらひっくるめて、全てのララが好きなのだ。

 その時姉の声がこだました。

『あんたに女心は一生わからない』

 思い出した。何故あのドラマが女子の中で話題になったのか。あのドラマは当時は珍しい失恋と悲恋を描いた話だった。恋に破れた女の子が、それでも恨んだりせず片思いの男に献身的に尽くす話。だが男は振り向かない、むしろいいように扱って、捨てる。女の子は決して報われることはない。しかし最後、女の子恋愛以上の感情をを自分の中で見つけて、放課後の教室で独り天を仰ぎ、手を祈るようにしながらそのまま喜びの表情で泣き崩れると言う、悲惨な終わり方だった。
 ドラマを見終えた姉は指でテレビの電源を押さえ、クッションの上で静かになった。しばらく感傷に浸った後、冗談か本気か、音もなく振り返って僕に一言呟いた。

『見返りのない愛情、あれが真の愛情よ』

 顔は真顔だった。

 僕は、静かに喉の奥のものを飲みこんだ。

 この世界に、ララが生きている。
 孤独な世界に、信じられる人が一人いる。このどうしようもなく混沌として、愛憎に渦巻いて、孤独で薄汚い世の中に、どうしようもなく綺麗で無邪気で美しいララが立っている。ララが何処かで笑っている。僕にはそれで十分だ。そんなララに僕が愛されようなんて、それは贅沢過ぎることなのだ。

「大丈夫。きっと直樹もララのこと、好きだよ」

 そう言うと、心配そうにのぞきこんでいたララは、みるみる表情を緩めて、うん、とはじけたように微笑んで見せた。花が咲いたようだ。父親の照れた顔を思い出した。
 父親は、ララの全てを守ってやれない、父親もいずれ死ぬからだ。そして、この世に残されたララの隣にいるのは、僕じゃない。僕であるべきじゃない。

 僕はせめて、ララを守ろう。ララが綺麗でいられるように、ララの隣に誰かが立つその日まで、僕はずっとララのために生きよう。
 そう心に決めて、僕は涙を汚れた手でふき取った。

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