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新麻聡「銀行へ行くには早すぎる」

「……銀行へ行くには早すぎる」
 そんな声をわたしが聞いたのは、アイスティーのストローを口から離して、ほっとひと息ついたときだった。
 腕の時計に目をやる。そろそろ午後の三時になろうとするところだった。遅すぎる、の間違いじゃないの? わたしはそれとなく背後をうかがった。
 多くのテナントが入居する複合ビルの一階に、このカフェは店を構えている。建物が角地にあるため、大きなガラス張りのウィンドウを通して、店内は明るい自然光で満ちあふれていた。広いスペースにゆったりと配置されたテーブル席は、今三割ほどがお客さんで埋まっている。
 わたしのいるテーブルから、一つ置いて奥隣の四人掛けに、三人の男性が坐っていた。うち二人はスーツ姿で、揃ってこちらへ背中を見せている。声の主は、そのどちらかに思えた。たぶん向かって左側、壁際に坐る背が低いほうの人だ。もう一方のフロア側の男性は肩幅が広く、あの高い声のトーンにはイメージがそぐわない。後ろ姿で顔は見えないが、感じからして、テーブルを挟んで向かい合うもう一人の人物に掛けた言葉らしかった。
 相手はどう反応しているのだろう。返事は聞こえてこない。好奇心を抑えきれず、ちょっとわざとらしいかとも思ったが、わたしは傍らの書類ケースを手に取って対面の椅子へ移動した。冷房が直接当たる場所だったから、なんだか寒くなってきちゃって、と身振りで演技する。
 わたしと彼らを隔てるテーブル席は今無人なので、観察するに問題はない。ゴブレットを手前に引きよせ、ごく自然を装って目を上げた。
 ――大槻おおつき朋英ほうえいさんだ。
 すぐに逸らした視線を、もう一度ゆっくり、正面の人物へと向ける。うすい色のサングラスこそしているが、日焼けで赤みを帯びたスキンヘッドに太い眉、引き締まった口許と高い鷲鼻わしばな、がっしりとした体躯。間違いない。ホンモノだった。高級そうなサマージャケットを着ている。ほかに気づいている様子の人がいないのは、ポトスの鉢が並ぶパーティションが目隠しになって、そのテーブルが見えづらいせいか。
 大槻朋英といえば、時代の先を読む文化人として広く知られているが、本来は恋愛作家である。ここ数年は本業のほか、エッセイ、時事評論、映画や舞台の脚本、さらにはポップスの作詞まで、あらゆる分野に仕事の手を延ばしている。そのインパクトある容貌は、わたしも時たまテレビや雑誌などで目にしていた。
 そうすると、今背中を向けている二人は、出版社の編集スタッフか何かだろうか。だけど、一人の作家に複数の担当者がついたりするかしら。そうか。右側の体格がいいほうは、わたしと同じ新人編集者なのだ。先輩のあとにくっついて、諸先生方へご挨拶してまわっている。……なんか変だな。少なくとも、こっちはそんなことさせてもらってないゾ。
 わたしがこの店に入ってきたとき、すでに三人はその席にいた。それまで背後の声が聞こえてこなかったのは、周囲のさざめきや店内を流れるBGMのためというより、話し手の男性が前屈みになってしゃべっていたからだと思う。これは気配で判ったのだが、あの言葉を発したとき、男性は低くしていた上体を起こしたのだ。それで、そこだけがこちらの耳に届いた。
 だからそもそも、彼らが何を話題にしているのか、わたしはまったく知らなかった。それが判らない限り、あの科白せりふの意味も解りようがない。ああ、もう一度席を移ろうかな。そうすれば聞き耳も少しは立てやすい。だけど、いくらなんでもそれでは挙動が不自然だ。胡乱うろんな女になってしまう。
 前方に動きがあった。三人が席を立とうとしている。あら、もうお帰りですか。でも宙ぶらりんは困るナ。さっきの科白はなんだったんです? ねえってば。
 三人はこちらに背を向けて、横並びにレジへ向かった。大槻朋英は何やらうれえ顔だった。二人の男性がその両側から手を添え、支えるようにしている。どうしたのかしら。このところ気温の低い日がつづいていたが、昨日今日と晴れて、急に暑くなった。それで体調でも崩したのだろうか。大丈夫ですか? ホーエイさん。
 無人となったテーブルに目をやると、大槻がいた席の前には、たいして口もつけられていないアイスコーヒーが、ぽつんと置かれてあった。

 おもての篠突く雨の音に交じって、ごう、と空が鳴った。
 相手は身動きしなくなっていた。腕の中で、すっかり脱力している。首を横に倒し、あごの肉をたるませて、だらしなく地面に腰を落としている。その姿は文字どおり泥酔者だ。俺は地面に片膝をついて、その華奢きゃしゃな躰を背後からかかえ、腹に刺し込んだ登山ナイフの柄を固く握りしめていた。
 どれだけの時間、そうしていただろう。俺は肩の力を抜くと、手のひらを柄からがし、ゆっくりと男をコンクリートの地面へ横たえた。体勢の流れで左肩を下に寝かせたが、手を離したら自然とうつぶせ気味になった。胎児のように両手を揃えている。
 肩を把んで浮かせ、男の前身頃に手を延ばした。慎重にナイフを引き抜く。途端に傷口からぬめぬめと赤い液体があふれ出したが周章あわてはしない。背後から抜き取ったのは、これを考慮してのことだった。元より俺は丈の長いビニール製のレインパーカを着け、両手も合成ゴムの作業用グローブで覆っていた。返り血や血液の付着は最小限に抑えられたはずだ。刺す際もナイフを逆手に持って、後ろから襲った。
 雑居ビルの半地下にあるこの駐車場は、深夜ということもあって人気ひとけはなかったが、それでもいつなんどき人がやってくるか判らない。車両出入口のスロープに目をやると、ちろちろと流れ込む雨水が、外の街灯の光を受けて陰鬱な艶を見せていた。
 立って男から離れ、抜いたナイフは一旦足下に置いて、傍らに投げ出されていたショルダーバッグを引きよせた。実用性だけを重視した無粋な作り。この男愛用の品だ。
 横臥した相手の背中を一瞥する。ピクリともしない。左腕の袖口から銀色に光る腕時計が覗いていた。ベルトが緩いのか、筐体きょうたいが手のひら側に回っている。もはや動くことのなくなった主人を弔うかのように、それは独り秒針を動かしつづけていた。
 駐車場内の照明は、コンクリートき出しの天井に蛍光灯が点々とあるきりだが、作業するのに支障はない。俺は男に背を向けて再び片膝をつくと、血に濡れたグローブを外して、用意した薄手のクッキング用手袋に替えた。その手でショルダーバッグのジッパーをそっと引き開け、指を中に忍ばせた。
 それはすぐに見つかった。きらびやかな刺繍が施された、洋封筒型の布袋だ。開口部は長辺側にあり、大きな折り返しがついている。ふっくらとした厚みが、特大の油揚げを連想させた。
 中身を確認する。ポリエチレン越しだから指紋の付着は心配ないが、それよりも肝腎なのは、布袋へ血痕を残さないようにすることだった。話のとおり、それは裸で封入されていた。俺は焦りを抑え、落ち着いて仕事を片づけた。
 次に、男へ向き直ると、ナイフを抜いたときの要領で相手の上体を浮かせ、背広の内ポケットを探った。取り出したのは札入れだ。
 この男にしては珍しく、ブランド物の長財布だった。そこからありったけの紙幣を抜き取ると、これは穿いてきたジャージーパンツのポケットにねじ込んだ。クレジットカードはどうしようかと一瞬考えたが、手はつけられず、そのまま札入れごと被害者のそばに捨て置かれたことにする。被害者の絶命という展開は「犯人」にとってアクシデントであり、だから犯行後は、慌ててその場を逃げ出していなければならない。目にした数枚の札を抜き取るだけが精一杯だった、とするほうがリアリティがある。
 ゆっくり立ち上がって周囲を見渡した。相変わらず人の気配はない。ショルダーバッグは元どおりジッパーを閉じられ、何事もなかったように、ただコンクリート上へ投げ出されている。ワイシャツのポケットにあった携帯電話は、地面に叩きつけて壊し、少し離れた位置にほうっておいた。暴漢と争ううちに落ちて破損してしまった、という図だ。地上には開いたままの傘が転がっているはずだが、あれも被害者の遺留品の一つとしてあのままにしておけばいい。
 俺はナイフを拾いあげると、外し置いたグローブで刃をおおい、これをタオルでくるんで、元どおりウエストポーチへ収めた。それからもう一度、男に目を落とした。
 とくん、と小さく心臓が跳ねた。様子が、何かさっきと違っているように見えたのだ。動いた? 自分が今、躰に触れたからか。いや、そういうことではない。別の違和感がある。顔を窺ってみると、男は薄く白眼を剥いていた。生気は感じられない。
 気のせいか――。念のため相手の右腕を持ち上げ、脈を探ってみた。やはり脈拍は完全に停止しているようだ。腹部に目をやると、なおも血が沁み出ているらしいのが見て取れた。赤黒い血だまりが、じわじわと地面を侵蝕してゆく。
 大丈夫だ。この男はもう死んでいる。通り魔に遭って、いくらでもない現金のために命を奪われたのだ。
 クッキング用手袋を脱ぎ、レインパーカのボタンを確かめ、フードを被り直す。深く息を吸って吐き、俺は大股にスロープへ向かった。

「……しかし物騒な世の中になったものですねえ」
 お店のドアを引くと、カウベルの音に混じって、そんな声がわたしを迎えた。
「や、おかえり沙英さえちゃん。今日はおそいね」
 振り向いた声の主は、ここ珈琲屋〈ねこした〉の常連客で、ミステリ作家の浮夜うきや千尋ちひろさんだった。今日もいつものカウンター席で背中を丸めている。壁の時計は八時になろうとしていた。家ではお夕飯もとっくに冷めている時間だが、それでも帰り道にあるから、どうしても寄ってしまうわたしである。
「アラいらっしゃいませ……って、先生こそ、こんな晩くにお茶なんてしてていいんですか?」
 いつもなら「お仕事」に入っている頃だ。わたしはカウンターへバッグを置き、チェアの背凭れに上着を掛けた。
「それが、今日は昼過ぎまで掛かっちゃってさ。ようやく上げて、それから寝たんで、ついさっき目を覚ましたところなんだよ」
「はー、締切だったんだ」
「そ。おかげさまで、下界へ降りてきたらウラシマ状態」
「なーにが下界ですか。地面に這い上がったら、の間違いでしょ?」
 二、三日、世間の様子を知らずに過ごすのだって、このお方にはよくあることだ。
「雑誌の仕事も大変だろう。定時に帰れる日なんて、滅多にないっていうもんね」
「まあ、そうなんですけど……」憧れの出版社、東都幻窓社とうとげんそうしゃに就職して二年目。わたしは文芸編集部に配属され、今は推理小説専門誌〈幻窓ミステリ〉の編集にたずさわっている。「今日は外回りでちょっとサボっちゃったんで、その分、押せ押せに」
 お店のマスターである叔父に断って、厨房へ入った。
 クラッシュアイスを入れたタンブラーにミルクを注ぎ、チョコレートシロップを加えてステアする。ホイップクリームを乗せ、その上からまたシロップを垂らせば、アイスココアの、ハイ出来上がり。――と、そこで思い出した。
「そうそう。わたし今日ね、大槻朋英、見たの」つい数時間前の新鮮な記憶だ。まだ情景が目にありありと浮かぶ。
「へえ……。誰それ」
 この先生は――
「ご存じないんですか? もう。……ちょっと待って」
 入口脇のマガジンラックから、情報雑誌を一冊抜いてきた。〈トレンド&カルチャー〉。通称「トレカル」。たしか、これに出ていた。後ろのほうをパラパラと繰り、目当てのページを開いてカウンターに載せる。
「大人のホビー」をテーマにした大槻朋英のエッセイが、この月刊誌には連載されている。その回数が切りのいい数字であるためか、この号では筆者のインタビュー記事も併載されていた。グラビアの彼は、精悍な笑顔を聞き手に向けている。その視線は鋭く、トレードマークの坊主頭と相俟あいまって精気に満ち満ちていた。写真の右端には、姓名の四文字が大きく白抜きされている。
「ああ、なんとなく、知ってるような……。まあ、オレとは畑違いだから」
 どこか軽んじたようなもの言いは、羨望の裏返しか、関心なきゆえか。
「どこで見たの」
「その、サボって入ったカフェで。サングラスしてたけど、判りました。もー、その写真のまんま。――でね、そのとき、変な言葉を聞いたんですよ」
 飲み物を手にカウンターチェアへ落ち着き、昼間の一件を手短に語った。
「何やら諭すような口調で……。どういう意味だと思います? もう銀行は閉まるのに、『早すぎる』ですよ?」
「ATMならまだやってる時間だけど、その科白とは噛み合わないしなあ。聞き間違えじゃないの? 『銀行』じゃなくて、『近郊』だったとか」先生はマンガのフクロウみたいな顔をして、「あ、中国の四川省には、『岷江みんこう』なんて河もあるよ」
「聞き間違えじゃないですよ。確かに、ギンコウって言ってました」
「じゃあ、『銀鉱』はどうだ? 銀の鉱山。うん、このセンは有力だ。おそらくこの男は銀でひと山当てようと――」
「ぽおちゃんは、どう思う?」
 独り語りを始めた先生は放っておいて、わたしは叔父に向き直った。〝ぽおちゃん〟は、わたしだけが使う叔父の愛称である。叔父はサイフォン台の前で、こちらの問いに表情を変えるでもなく、何やら胸へ手を当てた。「……んん」
 アメリカ映画に登場する東洋人、と書いた名札を、その胸にペタンと貼ってあげたくなる。目蓋が重たそうに見えるのは眠いからではない。そういう造作なのだ。
「それとも、ソウではなく、ソクだった。――違うか」
 横合いからの声に、首を傾げた。
「ソク?」
「早すぎたんじゃなくて、速すぎた。クイック、ファストのソクだよ」
「よけい意味不明ですよ、それじゃあ」
「だよな。――まてよ、それが今日の話だとは限らないんじゃないか? たとえば明々後日しあさって、月曜あたりの、早朝の予定を決めていたとすれば……」
「ああ。それはあるかも」やっとまともな意見が出た。「スケジュールの都合で早朝しか体が空いてないけど、その時間では銀行もまた開いてない、と。ふーん」
 わたしはストローを咥えた。案外、そういう単純な「真相」なのかもしれない。
「――ところでさっきは、ぽおちゃんと二人で、何話してたんです?」
「えーと……アレ、なんだっけ。最近すぐこれだもんなー」
「たしか、物騒とかなんとか、聞こえましたけど」
「そうそう」千尋先生はパンと手を打った。「磯辺町いそべちょうの事件だ」
 馴染みのある町名が耳に飛び込んできた。磯辺町というのは、ここからそう遠くない、古くからの住宅地である。いわば〈お隣さん〉だ。
「何かあったんですか?」
「うん、オレもついさっき聞かされたんだけど、昨日、殺人事件があったんだよ。通り魔の犯行らしいんだけど――」
 先生は意味ありげに声をひそめた。
「殺された被害者、雑誌の編集者なんだってさ」

 玄関のドアを開けると、黒い手帳を見せて男が立っていた。
 捜査の手が早々と自分に延びてきたことを少々意外には感じたが、いずれそのときが来るだろうことは予測していたので、冷静に対応できた。ただ、肉体的な疲労と睡眠不足が気分を滅入らせていた。明日はもっと疲労感が増していることだろう。ここ何年かで、疲れのピークを迎えるのが、翌日から二日後に延びるようになった。
 昨夜は磯辺町から自宅――ウォーターフロントエリアにほど近い一戸建て――まで、長い道のりを徒歩で帰ってきた。タクシーを使わなかったのは、足がつくのを警戒してのことだ。レインパーカの袖や身頃が、刺したときに浴びた血で汚れていたが、これは歩くうちに沛雨はいうがあらかた洗い流してくれた。やんでしまったらどこかへ処分するしかないか、と危ぶんでいたが、思わぬ〝恵みの雨〟となった。
 途中で何度か休憩を取り、ようやく我が家に辿り着いたのは、予期したとおり朝方だった。雨は上がり、空はすっかり明るくなっていた。部屋へ上がって、何はともあれ手に入れたものを金庫に収めた。濡れたレインパーカや作業用グローブなどはあとで始末することにして、ゴミ出し用のビニール袋にまとめて抛り込み、三階のベランダの隅に隠しておいた。それからシャワーを浴び、何も考えず半裸でベッドに倒れ込んだ。
 眠気はなかなか訪れてこなかった。やはり気持ちが昂ぶっていたのか、疲れているはずなのに脳はいつまでも覚醒していた。それがいつしか空白の時間を迎え――
 辰巳書房たつみしょぼうからの電話で起こされたのが、午前十時を過ぎた頃。二度寝は諦め、起き上がってはみたものの、何もする気になれなかった。証拠品を始末しなくてはと思ったが、思うばかりで躰が動こうとしない。そして、浮かんでくるのはあの男の顔ばかり。
 北見きたみの、必死で命乞いするあの歪んだ形相。
 雑居ビルに差しかかったところで、背後から傘を弾き飛ばし、肩を把んで振り向かせた。目深に被ったキャップとマスクでこちらの顔は視認できない。ほかに逃げ道を与えないよう攻めの位置を図り、ナイフをかざして無言の威圧を掛けると、計算どおりやつは地下駐車場へ逃げ込んだ。
 元より小柄な男で、俺との筋力の差は歴然だったが、酔いでもつれるやつの足運びがかえって厄介で、奥の壁際まで引き摺ってゆくのには思った以上の時間を要した。
 やつは俺と気づいただろうか。突然の奇禍におののくその心の片隅で、相手の正体をさとったかもしれない。あるいはその理由までも――
 安心しろ。あいつはもういない﹅﹅﹅。あのとき、あの場で起きたことを知る者など、俺以外誰一人いないのだ。そう自分に言い聞かせながら、ぽっかりと空いた時間を、ただ無為に過ごしていた。そこへきての、警察の不意な来訪であった。
「出版社のほうからのお電話で、すでにお聞き及びでしょうが、先生の担当をなさっていた北見栄一えいいちさんが、昨夜晩くに亡くなられまして」
 一階の応接室に通してやり、こちらが対面のソファに腰を下ろすや、刑事は口を切った。
「ええ、そう聞きました」
「通り魔による犯行と一往いちおう見られておりまして、お気の毒に、腹部を刺されての失血死でした。――おつき合いは、長かったんですか?」
「『トレカル』を通じてだから、三、四年経ちます。……いや、いまだに信じられません」
 あらためて相手を観察する。
 俺より若いか、行っても同年代だろう。どことなく育ちのよさを感じさせるあたり、警察官などという職種には見えない。渡された名刺には「警視庁捜査一課 警部補」とあるが、どこぞの若旦那然としている。いかにも苦労を知らなそうな容貌だ。横に控えている下駄みたいな顔の若いほうが、よほど骨太な印象で刑事デカらしい。
「で、私に何か……?」
 出してやったコーヒーを旨そうに啜っていた〝若旦那〟は、すると呆れたことに、「あ、そうでした」と返した。
「ええとですね、先生の昨晩の行動を、とりあえずお伺いできれば、と」
「ん? 私の行動? それはどういうことでしょう。たしか北見君は、通り魔に遭ったと……今、そう聞いたように思うが」
 芝居掛かったもの言いになってしまったが、その「お伺い」は予想できていた。通り魔事件として捜査されているものでも、犯人が特定できていない限り、関係者にそういった尋問が為されるのは通例だろう。刑事は、これまた予想どおりの言葉を返してくる。
「や、まあこれは形式上の質問ですので、どうかお気を悪くなさらないでください」
 保険外交員のような笑顔を見せている。つられて、こちらの緊張も緩みかけたが、そこを狙ったかのように、相手はこうつけ足した。
「それに、通り魔の犯行と断定するには、若干疑問点もありまして」
 ――来た。
 これも想定していた展開ではあったが、実際に食らうと、やはり心臓に悪い。瞬時で平静を装った。
「ほう。というと何か、おかしなことでも?」
「んー。や、別にたいしたことではないんですが、まあ我々としては、何事にも大事を取らないといけませんもので、はい」
 相変わらずの笑顔。その疑問点とやらを明かす気はないようだ。気になるところだが、深追いするわけにもいかない。どこか不手際があったろうか――。
「で、失礼ですが昨晩はどのような……」
「ああ、うん、ええと」
 さり気なく天井を見上げ、ゆっくりと腕を組んだ。頭の中で何度も反芻した「当夜の行動」を再構成させる。
 昨日――六月十六日は水曜日で、夕刻から水道橋すいどうばしにある辰巳書房を訪れていた。普段の連載の仕事だけなら、連絡は電話やファックス送信で事足りる。わざわざ出版社に出向いたりすることはないのだが、この日は連載エッセイを単行本にまとめる話があって、打ち合わせのため足を運んだのだ。
「編集長や北見君のほかにデザイナーの子も交えてだったんで、装丁やらレイアウトやら、何かと長引いてしまってね。散会したのが、あれはもう八時を回っていたかな。そのあと北見君と雑談していて、話の流れで、二人でちょっとみに行こうということになりまして。私はあまり気が進まなかったんですが、少しならという気持ちでつき合うことにしました」
「ほう。どちらのほうへ?」
「最初はいつもの外堀通そとぼりどおりの店へ。それから、浅草あさくさに流れました」
「では、実際は少しなら、とはいかなかった――」
「そうですね。彼はもう一軒ハシゴするつもりのようでしたが、私はそう強いほうでもないし、二軒目で帰ることにしました。地下鉄の階段口で別れて、独りタクシーに乗り込んだのが、十一時を過ぎた頃でしたか」
 ここまでのことは、他の証言もあるだろうことなので、おおむねそのままを答えていた。二人で杯を交わしたことなど、できれば言わずにおきたい事実だが、これはやむを得ない。相手を騙したければ、核心以外はすべて真実を語っておくことだ。
 核心とは、すなわち北見と交わした「雑談」の中身である。まあこっちが黙ってさえいれば、それが警察の耳に入ることはあるまい。あのとき俺たちは、きわめて小声で遣り取りしていた。近くにいた編集長たちにも、その内容は聞き取れなかったろう。聞こえていたら大騒ぎになっていたに違いない。それに北見はいかなる第三者にも、このことを秘密にしておこうと提案した。これは、その事実を知る者は我々以外にいないことを意味する。お上へご注進に及ぶ存在など、だから皆無のはずなのだ。
「浅草のあと、北見氏がどちらへ向かわれたのか……お聞きになってませんか?」
「いや、ちょっと、記憶にないな」
「ははぁ。では、先生のほうは、そのあとずっとお一人で」
「ええ。そんなふうに外出をしたようなときには、食事も外で済ませるのが常なんですが、晩かったし、それに雨だったでしょう、かえって億劫でね。真っ直ぐ帰って、うちで簡単に済ませて、すぐやすみました」
「再び外出などは、なさらなかった」
「もちろん」
「タクシーを降りてから、道で近隣の方と会われた、などということは?」
「なかったなあ……。それこそ、その運転手が最後でしょう。顔を合わせたのは」
 煙草を一本抜いて火を点けた。目で刑事たちにも勧めたが、相手は手で遠慮を示した。
「ご自宅に戻られてから、ずっとお一人だった。朝まで」
「だからそう言ってるでしょう」
「それを証明できる方は、すると、どなたもいらっしゃらないわけです?」
 いらっしゃらないわけです? ――妙な尋ね方をする。疑問形になってもいないのに、語尾を上げている。
 紫煙の流れから顔を背け、ここは黙って肩を竦めてみせた。独り身の俺に家族はいない。二十代の頃一度結婚したが、四年で別れていた。離縁した妻とのあいだに子供はなく、不惑を過ぎた現在も同居人は皆無である。アリバイを証明できる人間など、いなくて当然だ。
「――ああ、ただそういえば、帰ってから一度、電話したな。北見君に」
 このことは語っておくべきだろう。そう判断して口を開くと、警部補はばね仕掛けの人形よろしく飛び上がった。
「ほう。それは何時頃でしょう」
「時間まではちょっと……。たいした用事でもなかったんです。次号のテーマについて、まあ、確認をね」
「お仕事以外のことで、何か話されませんでしたかしら。今、どこどこの店にいるとか」
「それを聞いていたら、真っ先にご報告してますよ、刑事さん」
「あそうか。あそうだ。や、なるほど」
 何が「なるほど」だ。とぼけた表情かおをしているが、電話会社の履歴記録を当たって、とっくにその通話の事実は把んでいるのかもしれない。食えない男だ。
 そのあと刑事は、被害者を恨んでいるような人物に心当たりはないか、とつけ足すように訊いてきたが、見当もつかないとばかりに、これも無言でかぶりを振ってみせた。
 白い天井を仰ぐ。照明を灯すにはまだ早い。
 実際には、一旦自宅に戻ってから、俺は必要なものを揃えて手早く身支度を済ませ、再び家を空けていた。車は所有しているが、酒が入っているのでこれは使えない。北見の相手をしながら急遽練り上げた荒削りの計画で、あまり時間に余裕はなかったが、あえて遠回りになる裏道から駅へ向かった。むろん、なるべく他人と顔を合わせないようにするためだ。この一帯は立地こそいいが町並みは古く、街路に防犯カメラなどの設備はまだない。唯一設置されているのは表通りのコンビニくらいで、そこさえ避けて通れば、足跡を残すことはなかろうと考えた。
 帰路も同様のルートを採った。帰りが朝になることを考慮して、レインパーカの下は早朝のジョギングかウォーキングに見えるようなスポーツウェアへ着替えていたので、他人とすれ違っても不審に思われる懸念はなかった。雨中にウォーキングというのも粋狂だが、さほど不自然ではあるまい。
 地下鉄とJRを乗り継ぎ、一路磯辺町へ。運行本数の少ない時間帯だったせいもあり、着いたときはもう日付が変わっていた。しかし、店の灯りはまだ点いていた。近づくごとに、細い格子の填まった引き戸から洩れる北見の声が大きくなった。
 三軒目の店は、実のところ見当がついていた。浅草を出るとき、北見は俺をそこ﹅﹅へ誘ったのだ。やつのお決まりのコースだった。
 ――憶えてるでしょう? 〈づ〉。行きましょうよ。女将ママがね、また先生に会いたがってましたよ。
 確認のため、玄関を出る際――刑事たちに聞かせたとおり――北見の携帯へ適当な理由をつけて掛けてみると、やつは案の定その店にいた。まだ着いて間もないタイミングだったようで、もうしばらく呑んでいきます、という返事に、俺は思わずにんまりした。よしよし、そのままゆっくりくつろいでいるがいい。
〈志づ〉には、北見に連れられて二度ばかり行ったことがあった。それでその場所も知っていたし、まわりの町の様子もおおよそ頭に入っていた。だから、北見のアパートへ向かう途中の、夜になると人気のなくなる一角に、半地下の駐車場を持つ雑居ビルがあることも判っていた。民家の建ち並ぶ一帯からは離れた河川沿いにあり、決行の場としては打ってつけだった。
 次第に雨脚の激しくなる中、物陰に隠れてやつが出てくるのを待つのは、思った以上に根気のいることだった。俺はひたすら耐えた。いい気分に酔っぱらって店を出たあの小男こおとこのあとをつけ、地下駐車場に連れ込んで、声を上げる隙も与えず事を為す。そんな場面を、何度も思い描きながら――。
 まだ長く伸びている煙草を、灰皿でもみ消す。やめたいと思ってはいるのだが、ずるずるとつづけている。
 北見が愛煙家だったことを思い出す。へヴィースモーカーだった。昨夜も盛んに吸殻の山を作っていた。そして、調子に乗って一人でボトルを空にしていた。酒豪の北見、蟒蛇うわばみの栄ちゃんと社内でも有名だったようだが、明日の仕事は大丈夫なのだろうかと、こちらが心配するほどだった。もっとも、〝明日〟などやってこない北見に、そんな心配はご無用だったのだが……。
 危うく、頬が緩みそうになった。

「……ただ、二人じゃなくて三人で、だったんだけどね」
「三人で、って?」
「今までその話をしてたのが、さ」
 言われて、わたしは後ろを振り返った。三番テーブルに、五十代と見られる男性が一人坐っている。先刻からいる人だ。ほかにお客さんの姿はない。
「この方はね、〈ABスポーツ〉東京支局の記者さんなんだ。それで、警察しか知らないようなこともご存じでね、いろいろ伺っていたわけ」
 先生は得々と説明する。
「ふーん。でも、そんな事件、ぜんぜん知らなかった」
「どこも、小さく扱ってましたからね」
 と、男性が口を開いた。
「私、社会面の記者をしておりまして、昨日の朝からその事件を追っていたんですが、なんとも運悪く、移動中、玉突き事故に遭っちゃいましてね。このとおり、軽く首を……」
 言われるまでもなく、そのお客さんが鞭打ち症らしいということは判っていた。首に痛々しくギプスを巻いていたのだ。体型が丸々としているせいか、見ているこっちまで息苦しくなってくる。
「大袈裟でしょう? 私は大丈夫だと言ったんですが、上司うえが大事を取ったほうがいいと言うんで、一日だけ入院したんです」
「一日だけ、って……もっとゆっくり静養されたほうがいいんじゃないですか?」
 驚いて尋ねると、ABスポーツさんは破顔して手をひらひらと振った。
「平気です。たいしたことはありませんから。それより、事件のことです。もう捜査もかなり進展していると思うんですが、私、さっき病院を出たばかりでして――」
 聞けば、入院していたのは、この近くにある総合病院だった。
「ほら、病院てところは携帯電話の使用が禁止でしょ。だから家内に預けちゃったんですが、これがいけなかった。せっかく外へ出ても、デスクに連絡がとれず、最新の情報が手に入らない。それで気になっていたんです。最近は携帯の普及で、公衆電話も見当たらなくなりましたからね。考えてみれば病院の入口にあったんですが、うっかり出てきてしまった。仕方なくタクシーを拾おうと駅へ向かってるところで、こちらのお店を見つけまして。喫茶店ならピンク電話がある、これ幸いとお邪魔した。そこへなんともタイミングよく、こちらの小説家の方とご主人が、当の事件の話をされはじめたんです」
「ここ二、三日の新聞を出してもらって、読んでたらさ」先生が引き継いだ。やはり、しばらく地下に潜っていたらしい。「『磯辺町で男性の刺殺体発見』、『通り魔の犯行か』なんて出てるだろ? おやおやと思って、マスターに話を振ったんだよ。そしたら、その応えが後ろから返ってきた。はは」
「じゃあ、もうご連絡は取られたわけですね」と記者さんに尋ねると、
「ええ、掛けてみたんですが、進展は今のところないようで。何か動きがあれば、明日の初刷には充分間に合うんですが」朝刊の入稿最終締切は、およそ二十五時なのだと言う。
「具体的に、どんな事件だったんですか?」
「そいつはオレから説明しよう」
 先生が気取った声を出した。妙に元気だ。
「こういうことは、本職のストーリーテラーに任せたまえ」
「締切前に原稿が上がったのが、ホントに嬉しいんですねっ」
「まあ、聞きなさい。――昨日までの梅雨冷えとは打って変わって、今日は蒸し暑くなりそうだ。薄日が差す朝の白い空を見上げて、刑事は顔をしかめた」
 わたしはタンブラーを手に持って、さっさと三番テーブルへ移動した。
 記者さんの話によると、事件の概要はおよそ次のようなものだった。
 事件が発覚したのは、平成十一年六月十七日木曜日の早朝。現場は最中区もなかく磯辺町、東京の東部を流れる河川沿いの住宅街にあった。表通りから外れた寂しい一角に建つ雑居ビル、その地下駐車場である。地下といっても正確には半地下で、三方を囲む壁で外界から閉ざされてはいるものの、その地盤は浅い。広さはざっと三十坪ほどで、記者さんが到着したときは時間帯のせいか車も二台しか駐められておらず、ガランとしていた。四角いコンクリートの柱が所々に立っており、照明の蛍光灯も疎らで、全体に薄暗い。死体は車両出入口のスロープを下りた右手奥、角柱の陰へ隠れるようにして倒れていたという。人目につかない場所である。
 被害者は三十代の男性。死因は右下腹部を刺されての失血によるものと見られた。第一発見者はそのビルのオーナーで、昨日の朝六時頃、建物奥の階段室から駐車場へ降りてきたところで変死体と出くわした。階段室に通じるスチール製のドアは、それまで内側から錠が下ろされていたという。
 身元は、遺体が所持していた社員証から判明した。北見栄一。三十八歳、独身。辰巳書房という出版社の編集者だった。それも例の〈トレンド&カルチャー〉で大槻朋英の担当だったという。住まいは現場から徒歩で五分ほどのところにある〈コーポ川沿かわぞい〉というアパートで、そこの2LDKの部屋に独り暮らしだった。
「懇意にしている捜査員の一人から聞き込んだ話では、凶器は刃渡り十五センチほどのナイフようの刃物と見られ、これは現場から持ち去られています。中身を抜き取られた財布が被害者のそばに落ちていたほか、傍らにはショルダーバッグも投げ出されていましたが、一見したところ、こちらは手をつけられた様子はなかった。派手な黄色い布製の札入れらしきものが入っていたそうですが、これも手つかずだったといいます。おそらく犯人は争った末に相手を死亡させてしまい、財布の中身だけ抜き取って慌てて遁走した。殺意の有無は不明ですが、痕跡からすると単独犯のようですし、警察では物盗り目的の通り魔による傷害致死、という見方を強くしていました。今、多いでしょう」
 それで、「物騒な世の中」というわけか。
「帰宅途中を襲われたんですね」
「でしょう。被害者はそこが袋小路と知ってか知らずか、駐車場へ逃げ込んで追い詰められた。念のため当人と建物との関係を洗ってみたんですが、とくに繋がりはないようでした。入居者は活け花教室とか設計事務所とか、出版とは縁の薄いテナントばかりでしてね。個人的に関わりがあるとしたら、二階の歯医者くらいでしょうか。駐車場のほうも入居者専用だそうで、そもそも、北見氏は運転免許証を取得していませんでした」
「新聞記者の方って、そんなことまで調べるんですか。すごい」
「まあ、いちいち警察も教えちゃくれませんからね」
 満更でもなさそうに鬢を掻いている。
「そういえばこれも聞いた話ですが、北見氏は若い頃に推理作家を目指したこともあったそうです。結局芽が出ず、少しでも本に関わる仕事へ就きたくて、出版社に就職したとか」
「ああ……。身につまされますねえ」
 現役作家は瞑目して腕を組む。
「ただ、ここで一つ、奇妙な事実が浮かんできまして……」
 先生が、ん? と記者さんを振り返った。まだ聞かされていない話なのか、なんだろうという顔をしている。記者さんは腰を浮かして坐り直し、先生とわたしを交互に見遣った。
「いや、その被害者のしていた時計がですね、逆様で止まっていたんです」

 刑事は、なかなか腰を上げようとしなかった。
「形式上の質問」としてアリバイを尋ねるだけでは物足りないのか、事件とは無関係に思える雑多な話題を次々に挙げては居据わりつづけた。
「ほう。では、お二人は馬が合うというほどでもなかったんですか」
「いや、気の置けない間柄ではありましたよ。ただ、人間として異なるタイプだったということです」
 話題は北見の人柄から、俺との趣味や考え方の相違にまで発展していた。無駄話につき合って時間を費やすのもばからしいと思いつつ、俺は興に乗じて相手をしてやった。
「そう。おっしゃるとおり、彼はマッチ棒パズルが大好きだった。『頭の体操』風のクイズとかね。これを自分で考案しては、出題してくるんですよ。これには閉口したものです」
「勤め先の編集部でも、同じことを言われる方が何人かいらっしゃいました」
「あとは、時計かな。腕時計。これがね、私と北見君は合わなかった」
「どういうことでしょう」
「私は、時間とは流れるもの、と認識しています。〈昨日〉があり〈今日〉があるのではない。〈さっき〉のが〈今〉なのではない。時間はそのような、列車の車輛のように分断され、連結しているのではない。分けられることなく、一本の帯のように、中空を飛ぶ白球のように、流動している。これが私の、時というものの捉え方なんです」
「はあ」
「〈今〉は〈さっき〉の延長線上にあるんです。〈さっき〉は一瞬前には〈今〉だったわけです。つづいているんです。そうでしょう?」
「ああ、はいはい」警部補は頷く。「でも……それが、どう『時計』と繋がるんでしょう」
 俺は左腕を挙げ、手首のサブマリーナを示した。
「私は、ごらんのようにアナログ時計をしています。アナログというのは、長針と短針、そして秒針によって時刻を指し示す。これらの針は、ほら、流動しているでしょう?」
「ああ、確かに」
「時間の流れを可視化してくれるのが、アナログ時計なんです。コマ送りみたいなデジタルでは、こうは行きません。私がアナログにこだわる理由はもう一つありましてね。これは自分だけに限ったことではないと思うんですが、たとえば子供の頃、漢字一つ覚えるにも、私はまずその〈形〉を頭に叩き込んだものでした。視覚から入るタイプなんですよ。時計も同じでね。長針と短針の〈形〉で時間を認識しているんです。今、針の方向と角度がこうだから、目的の時刻まであとこのくらい余裕があるな、とか、もうこんな時間になった、とかを感覚的に把握できる」
「なるほど」
「ところが、北見君はこれを理解してくれませんでした。彼がいつも好んで着けていたのは、液晶のデジタル時計だった――」
 ここで、ふと何かが脳裏をよぎった。
 胸が妙に波立っている。なんだ? 今、何が見えた?
 警部補が、きょとんとした表情をこちらに向けている。気を取り直し、俺は不自然になったを埋めた。
「北見君は、よくこう言っていた。時刻を知りたいなら、その示された〈数字〉を読めばいい。これ以上、直接的で単純明快なやり方はない。それに較べて〈針〉を読むという手段には無駄がある。針の示す目盛りを一旦数字に置き換えて、それを認識するという手順、これは間接的だ。デジタル表示には、この余分なワンクッションがない。だから自分はデジタル時計を選ぶのだ、と。こちらとしてみれば、それこそが間接的な手段なんです。あれを見ると、どうしてもそこにある数字を、一旦針の〈形〉に置き換えたくなる。その上で時刻を確認するんです。これこそ余分なワンクッション、無駄というものでしょう。しかもなぜか、彼は時刻を二十四時間表示にしていた。私はこれが苦手でね。『十七時何分にどこそこ』なんて言われても、ピンとこなくて針に置き換えられない。故人をそしるつもりはありませんが、変なところにこだわる男でした」
「なるほど。では、まさに正反対のお二人だったわけですね」
 少ししゃべりすぎたか――。饒舌になっている自分をおかしく思いながら、コーヒーでのどを潤していると、
「しかしそうすると、変ですね」
「何がです?」
「いえ、実はですね、被害者が装着していたのは、針のあるアナログ時計だったんです」
 唐突な答え合わせに出くわしたかのようだった。今しがたの、妙な胸騒ぎの正体だ。
 昨夜の光景が蘇る。手のひら側に回った、腕時計の白い文字盤。そうだ。どうして今まで気がつかなかった? 俺はそこに、周回する秒針﹅﹅を見ていたではないか。あれはどういうことだ。なぜやつは昨日に限って、アナログの時計など着けていたのだ。はなから目に留めてはいたのかもしれないが、記憶にはなかった。
 いや、そんなことより今だ。俺は無理やり頭を切り替えた。
「ああ……。うん、そういえばそうでした」
「ご記憶におありですか」
「ええ。うっかりしていました。そうそう、今日に限って珍しいこともあるものだと、ちょっと驚いた。あえて尋ねてみたりはしませんでしたがね。なんだろう。いつものは電池切れだったのかな」
「ああ、なるほど」
 相手はたいして頓着もせず、納得の色を見せた。
         ◇
 刑事たちを送り出したあと、俺はしばらく玄関の上がり口に佇んでいた。胸のうちにぽつんと一つ、黒い種があった。
 二人がようやっと席を立つ素振りを見せたときだ。警部補がほんのついでに、という調子で、あのことを話題に上らせてきた。
 北見の、もう一つの〈趣味〉――。
 できれば触れてほしくはなかった。現場に遺されたショルダーバッグの中のそれ自体﹅﹅﹅﹅に言及したわけではない。辰巳書房で聞きかじった話を、あの警部補はただ持ち出しただけだ。しかし、俺がそれについて回答したことで、やつらに一つの印象を残してしまったことは否めない。
 リビングへ戻り、テーブルのカップ類はそのままに、カウチへ身を預けた。脚を投げ出し、両手を頭の後ろに組んで目を閉じる。ネガティヴになっては駄目だ。疚しいところがないからこそ、真顔で受け答えもできたのだ。俺は平静に対応していたじゃないか。
 部屋の中は、いつの間にか夕闇が広がっていた。そろそろ照明をともしてもいい頃だ。しかし、俺はそのまま薄暗い水底にいつづけた。心の中の不安が少しずつ、ゆっくりと沈殿してゆくのを、じっと静かに待った。

「……逆様で、止まっていた」
 千尋先生が、相手のげんを棒読みするように繰り返した。
「なんですか? それ」
「ああ、つまりですね」記者さんは左腕を上げ、ジャケットの袖をまくった。「被害者の左手首に、男物の腕時計が填まっていたんです。ステンレス製のベルト部分が少し緩かったようで、手首にフィットしていない感じでしたが、ちょっと凝った代物でした。丸い文字盤の上部、針の軸と十二時のあいだに扇状の窓が開いていて、そこから目鼻や口のある太陽が顔を覗かせてるんです。――で、まあ、その針がですね、止まっていたわけです」
 そこまでは解る。
「いや、正確には止められて﹅﹅﹅﹅﹅いた。というのがね、あとでよく見たら、竜頭りゅうずが異常に飛び出していたんです」
 一般に腕時計は、脇のつまみを外側に引くことで、針の動きを止めることができる。その状態になっていた、ということか。
「示された時刻は、一時四分。文字盤の右隅にある四角い窓には、『17』という数字が見えていました」
 十七日。昨日の日付だ。
「そして、そいつが逆様になっていた」
「そこがどうも解らない」先生は小首を傾げて、「何が、どう逆様なんです?」
「ですから時計の本体そのものがですよ。扇状の窓は文字盤の下側にあって、竜頭が肘のほうへ向いて突き出ていた。時計は手首へ、逆さに装着されていたんです」
「……あなたが、直接ご覧になったんですか?」
「係官がホトケさんを担架で搬出するとき、たまたま左手の甲が露出してましてね。私ら、そのすぐ脇にいたものですから、あ? 時計が逆様だ、これは押さえておいたほうがいい、と直感で判断して、連れのカメラマンに撮らせておいたんです。で、現像してみると」
「竜頭が、飛び出していた」
「はい。警察も、当然そのことには気づいているでしょうが、おそらく公表は控えているでしょう。犯人しか知り得ない事実、という可能性もあるわけですからね」
 確かに、見せてもらった新聞記事には、時計に関する事柄など載っていなかった。
「でも、じゃあ、わたしたちにそんな情報を洩らしちゃって、よかったんですか?」
 わたしが心配になって訊いてみると、
「まあ、確かに厳密にはまずいことかもしれませんね。ただ、べつに警察から記事差止めを受けているわけではない。言ってみれば、これは私が個人的に発見した事実なんです。そうしようと思えば、スクープを打つことだってできる。それはさすがに避けましたがね。ですから、これはここだけの話、という意味でお聞きくださればよろしいかと」
「その――」と先生が手を挙げた。「針が差してた、一時四分、でしたっけ。それは死亡推定時刻とは合致するんですか?」
 なるほど。痩せても枯れてもミステリ作家、目のつけ所が違う。
「十七日の未明、およそ午前二時前後と聞いています。微妙なところですね。ちなみに該当時の目撃者は、私の知る限りでは出ていませんでした」
「しかし、争っているうち時計をどこかにぶつけたとして、それで竜頭が飛び出したりするものですかね。しかもまた、なんで逆様なんだ……」
「ああ、時計と言えばですね、ついでにしゃべっちゃいますけど、もう一つちょっとした事実が見つかったんです。事件との関連性は微妙ですが」
 磯辺町の現場から遺体が運び出されてのち、捜査員らは被害者の前日の足取りを追うため、勤め先である辰巳書房へ向かったらしい。だが、記者さんはこれを別のルートから辿ってみることにした。北見さんが住んでいたアパートの住人に聞き込みをしたのだという。
「贔屓にしていた呑み屋か何か、ご存じないかと訊いて回ったんです。被害者は奇禍に遭ったとき、聞こし召していたと思われたものでね。はたして、同じ階に住む大学生が教えてくれました。よく北見さんが出入りしているのを見かける店があるって」
「おお、すごいな。ボクの書いてる私立探偵より、よっぽどいい勘してらっしゃる」
 あまりありがたみのない誉め言葉にも記者さんは笑って、
「JR磯辺町駅から歩いてすぐの、三業地の外れでした。〈志づ〉という名の小料理屋で、建物は年季が入ってましたが、中は小綺麗な感じでしたね。行って話を聞いてきました」
「そんな明るい時間から、お店、開いてたんですか?」と、これはわたし。
「それがラッキーなことにね、そこ、昼時にランチもやってたんですよ。なので昼食がてら取材ができたわけです。あ、逆か。まあ、それで判ったことなんですが……」
 内緒話でもするように、記者さんは口許へ手を当てた。
「問題の逆さ時計、被害者の持ち物じゃなかったんです。借り物でした。――まあ順を追って説明しますとね、ほら、〈G‐※※〉って、ご存じでしょう。かなりの強い衝撃にも耐えられることが売りの、多機能型デジタルウォッチ」
 もちろん知っている。某国内メーカーの人気ブランドだ。わたし自身はハマっていないが、ファンは多い。先生を見ると覚束ない表情だったが、記者さんは構わず話を進めた。
「北見氏は、これのマニアだったんですね。いわゆるコレクター。やれ限定モデルだレア物だと言っては買い集めていた。これらは基本、未開封の状態で保存し、部屋に並べて飾っていたらしい。鑑賞用ってやつです。実際に着けて歩くということは、していなかったそうです」
「お店の人が、そんなことまで知っていたんですか」
「ええ。それが女将おかみの口振りから察するに、どうも北見氏は、この女主人にご執心だったようで。三日に上げず通っては、自分をアピールしていた。仕事のこと、趣味のこと、いろいろ聞かせていたわけです。気を惹きたかったんでしょう。最近じゃあ、女将を海外旅行へ誘ったりもしていたそうで。なんとも憎めない人物じゃありませんか。まあ、女将も和服のよく似合う細腰で、まだ四十前に見えましたが、気立てのいい、確かにちょっと男好きのする女性ひとでね。あれで商売上、愛想よくもしてるんでしょうから、男なら多少その気になってしまっても、これは責められません」
 どういう顔をしていいか判らない。
「で、そんな北見氏にも、一つだけ実際に使っている〈G‐※※〉がありました。これはレアでもなんでもない、通常に売られている現行商品で、大切に扱いながらも普段用に下ろしていたんですね。こいつをやっこさん、一つ前の店に置き忘れてきてしまった」
「うわぁ」と先生が天井を仰ぐ。
「女将が言うには、なんでも北見氏は席に着くと、きまって時計を外すんだそうです。そいつを自分の左手前に置いて、腰を据える。ときにはシャツの袖をまくり上げることもあった。そうやって腕周りを楽にする、解放する。これは、ようはげん担ぎだったんですね。本人曰く、何かの折にそうするようにしてから、なぜか運気が上がりだした。こういう発想は、氏の傾向としてよくあったらしいです。歩き出すときは右足からとか、新聞は最終面から開くなど、独自の決め事があった。その一つが、飲食の際は時計を外して卓上に置く、だったそうで」
「つまり、いつもの習慣で外して、そのままうっかり出てきてしまった、と」
「ええ。店へ入ってきて、カウンターに着くや否や、アッと声を上げたそうです。坐る段になって思い出したんですね」
「その、一つ前の店、というのは?」興に乗ったのか、先生は矢継ぎ早に〝取材〟する。
「浅草の洋風居酒屋、ということでした。あの店のテーブルに置いたことは憶えている、知ってるところだから取っておいてくれるだろう、それは心配ない、問題は明日だ、夕方にならないと店は開かないから、それまでは時計なしになる、面倒だけど携帯電話で代用するしかないか。そんなふうに、ぼやいていたと言います。その都度時間を確認できないと落ち着かない、普段なら着け忘れることなどないんだが、今夜は舞い上がっていたからなあ、と。女将も、相手が常連さんですから放っておけなくなったんでしょう。困った困った、を繰り返すので――」
「ははあ。それで借り物、となるわけですか」
「はい。ずいぶん前に一見いちげんのお客が忘れていった時計が一つあった。女将はそれを出してきて貸してあげたわけです。当人は大いに喜んだ。針の時計でも背に腹は変えられないと言って、ありがたそうにそいつを填めて帰ったそうです。聞けば、やはりその時計は西洋風の洒落た作りになっていて、さっき言った扇状の窓から覗ける太陽がですね、夜は月に替わるんですって。人の横顔をかたどった弦月に。内部の円形の板が二十四時間掛けてゆっくり回転して、昼夜ひるよるを報せる、『一日計』のような仕掛けなんですな」
「ベルトが少し緩かったのは、他人のものだったからなんですね」先生はほうほうと頷いて、「……まてよ、そうすると逆さ時計も、それで説明がつくんじゃありませんか?」
「緩いから外れた、って言うんですか?」それはどうだろう、とわたしは首を傾げた。「外れて落とした。そこまではいいとして、じゃあどうして、それをわざわざ拾って着け直したんです? 通り魔に襲われてたら、そんな余裕もないでしょう」
「愛しの女将さんからお借りした大事な時計だぜ? 責任を持って返さなきゃ、という気持ちが働いたんだよ。襲われてる最中だったから、周章てていて逆様になってしまった。説明がつくじゃないか」
「拾えたとしたって、ポケットに入れるくらいが、せいぜいじゃないかなー」
 記者さんはわたしの意見に、んんんと返して、
「確かに、状況的には無理があるかもしれませんね。ただ、浮夜先生のご意見も捨てたもんじゃない。男性心理を巧みに突いた名推理じゃないですか。なかなか説得力がある」
 お世辞を返されているとも知らず、先生はいやぁと笑って鼻の頭を掻いた。
「聞くところによれば、被害者は即死ではなく、刺されてから数分は息がかよっていたらしいですから、拾うだけ拾い、たおれる寸前になってから腕へ通した、としても矛盾にはなりません。――女将から聞き出せたのはそんな程度でしたが、我々は一旦ここで帰社しました。相棒に写真を現像させるためです。私は彼を降ろして、すぐにまた今度は辰巳書房へ向かいました。通り魔の犯行という線は濃厚でしたが、どうも逆さ時計が頭から離れませんでしたし、もう少し北見氏の人物像を追ってみようと思ったんです。ところが……その途上で、コレです」
 記者さんは首のギプスを撫でた。
「いっとき、近くの病院に運ばれて検査を受けてから、専門医のいるこちらの病院へ移されました。例の写真は、飛んできた同僚に見せてもらったんですが、それきり事件の取材は私の手を離れてしまった……」
 沈黙が降りた。どう言葉を掛けたって、慰めにもならないだろう。だいいち、わたしごときがそれを口にするなんて、僭越な気がした。
「あの、ちょっといいですか」
 不意に、叔父の低声バスが場の静寂を破った。見ると、声の当人はカウンターの向こうで手刀を切っている。ご免なすって、みたいだ。
「はい」記者さんはすぐさま反応して、背筋を伸ばした。「なんでしょう」
「その、止まっていた時計なんですが、文字盤の窓には、太陽が見えていたんですね?」
「ええ。写真にも、はっきり写ってました。トランプの王様キングみたいな顔立ちで」
「となると、針が差していたのは、午後の一時四分だったことになりますね」
「……あ、確かに。あれ? 変だな」
 そう。被害者が襲われたのは午前二時前後のはずなのに……。
「北見氏の携帯電話が現場にあったかどうか、ご存じないですか」
「そうそう、言い忘れましたが、発見されています。ただ、やはり落としてしまったのか、ひどく破損していたそうで」
「北見氏は小料理屋さんで、『今夜は舞い上がっていた』と言っていた――」
「ええ。それでうっかりしちゃったんだ、とこぼしていたとか」
「その理由については、お聞きになっていませんか」
「舞い上がった、理由ですか? さあてね」
 次々と繰り出される脈絡のない質問に、記者さんは律儀に応じる。
「それは判りませんが、ただそういえば女将は、大切な時計を忘れてきて困っているわりには、ときどき何やら思い出し笑いをしていた、って言ってましたな」
「ははあ。……どうやら、判ったよ。沙英」
 つと、叔父はわたしと目を合わせた。
「え? 何が?」
「銀行へ行くべきは、北見氏のほうだったんだ」

 予想どおり、疲れのピークは二日後にやってきた。
 そして、あの刑事たちもまたやってきた。こちらは予想外だった。昨日の今日である。しかも今度は仕事場へだ。
 午前中は自宅で、依頼を受けていた数件の書きもの仕事に専念した。午後になって、いくつか打ち合わせの必要があり、代々木よよぎの複合ビルにある自分のマネージメントオフィスへ顔を出した。そうすることで疲労感を振り払おうとした。実際そのかん、躰は軽さを取り戻したかに思えた。
 証拠品の始末は、すでにあらかた終えていた。レインパーカや作業用グローブ、タオル等はカッターで細かく切り裂き、いくつものポリ袋へ分けて、早々に可燃ゴミへ出した。登山ナイフは血を綺麗に洗い落とし、それでもルミノール反応とやらを考えると迂闊に処分もできず、とりあえず元どおり書棚の抽斗ひきだしに仕舞い込んだ。打てる手は打ってある。狼狽する必要などないはずだった。
「ちょっと、ご報告をと思いまして。お時間、よろしいですか」
「ご報告って……なんですか、こんな場所にまで押しかけてきて」
 あとの調整は若手に任せ、一階のエントランスホールまで下りてきたところだった。
「これでも忙しい身なんですがね。すぐにでもげん……いや」
 事実急いでいた。これから一件済ませたあと、ディーラーとの契約も控えている。
「ほう。イヤ何、そんなに掛かりません。それに、銀行へ行くにはまだ早いでしょう」
 全身がカッと熱くなった。一気に汗が噴き出る。なんだ!? なんで判った? ただの当てずっぽうにしては勘がよすぎる。だいいち、「まだ早い」とはどういうことだ。
 立っているのがつらくなり、言葉を返せずにいると、
「立ち話もなんですから、そこへ入りましょうか」
 警部補は、ガラスの壁を隔ててエントランスホールと隣合う喫茶室を指差した。
 オフィスの階下にある店だが、俺自身は利用したことがなかった。表通りに面した入口のほか、屋内からも直接入店できるドアがある。そちらへすたすたと向かっていく。誘導されるまま、俺はあとにつづいた。後ろを下駄顔が黙ってついてくる。
 店内を奥へ進み、警部補は観葉植物が載ったパーティションの陰になる、壁際の席をこちらに勧めた。自分は部下と並んで、その正面に腰を下ろす。外の通りからは死角になる場所だった。
 オーダーを取りにきたウエイトレスが離れるのを待って、相手は口を開いた。
「さて、磯辺町の事件に関して、いくつか興味深い事実が浮かびましてね。――まずは、時計のことです」
「時計?」
「昨日、お話ししましたよね。被害者の腕に装着されていたのが、アナログ時計だったこと。先生も、あとから思い出された」
「……ああ」
「その時計、実は止まっていたんです」
「止まっていた?」
 咄嗟に記憶を手繰る。いや、秒針は動いていたはずだ。俺は慎重に言葉を返した。
「そうだったかな……」
「針は、一時四分を差していました」
 一時四分? あの駐車場でやつを刺したのは、たしかもっと晩かったが。
「そして、これは人為的なものでした。針は故意に止められていたんです。竜頭を引かれて。文字盤のガラス面に、被害者の左手の拇指紋が残っていました。さらに最も奇妙だったのは、その時計が腕に、逆様の状態で着けられていたことでした」
 ……なんだって?
 突然、閃いた。あの去り際に覚えた妙な違和感。そうか。あのとき、手のひら側にあった時計の筐体が、次に見たら腕の外側へ回っていたのだ。それで様子が最前と違っていると感じた。一旦外して、着け直していたのか。
「そこで私、考えました。これは何かの信号ではあるまいか、北見氏は息を引きとる間際、事件を解決に導くなんらかの情報を、我々に伝えようとしたのではないか。もし犯人が立ち去ったあとなら、手帳に記したり、流れ出る己の血で、地面に文字を残すこともできたでしょう。しかしおそらく、向こうはすぐに立ち去ってはくれなかった。こっそりメールを打とうにも、端末は争ううちに落として破損してしまっている。意識はだんだん遠くなってゆく。もう時間がない。氏は必死で頭を絞ります。何か犯人が目にしても瞬時には解らないような、巧い伝え方はないものか。――あったんですねぇ」
 若旦那然とした顔に、笑みが浮かんだ。
「そのときの現物が――」と、背広の外ポケットからビニール袋に包装されたものを取り出し、テーブルに置いた。「これなんですが、ほらこの時計、ね? 止められています」
 それは確かにあのときの時計だった。小洒落た意匠が鼻につく。
「示された時刻は、一時四分。ところがですね、ここに扇形の窓があるでしょう。そこにほら、お日様が顔を出している」
 飲み物が運ばれてきた。話が中断され、俺は落ち着かない気分で無言の時間が去るのを待った。場が再び三人だけになると、やおら警部補はこちらへ顔を寄せた。
「これ、時刻がもし夜中の一時四分だったら、こうはならないんですよ」
 言いたいことは、なんとなく察しがついた。
「よく見ていてください? これがね、日が暮れて夜になると――」
 相手は大胆にも、遺留品の時計をビニール越しにいじりはじめた。竜頭を引いて回し、針をクルクル動かしている。やがて手を止めると、文字盤をこちらに示した。針はやはり一時四分を差しているが、カレンダー表示の日にちは『17』が上部に消えかかって、窓が白眼を剥いていた。そして扇形の窓には、
「ね? 今度は星空をバックに、お月様が現れる。『サン・アンド・ムーン』と呼ぶそうですね。その時刻が昼か夜かを絵で識別できる。この腕時計はC社製の自動巻きで、調べたところ、この型式キャリバーは一様にこういう機能を持っていました。つまりですね? この時計が差していたのは、午後﹅﹅の一時四分だったんです」
 それがなんだというのか。何かの間違いで半日ずれていた、というだけのことだろう。
「北見氏は日頃から、デジタル表示の数字に愛着があった。それでこんな発想も自然に湧いてきたのかもしれません。いやそもそも、以前から思いついていたとも考えられる。好きだったマッチ棒パズルを考案しているうちに。――まあこれは私の勝手な想像ですが」
 警部補はここで穏やかだった口調を改めた。
「彼の中で、ついに恰好のアイディアが閃いたのです。しかしこのときは、たまたまある事情からアナログ時計を着けていた。天啓を享けたまではよかったんですが、それにはデジタルの数字が不可欠でした。でも仕方がない。氏はやむを得ず、それをアナログで代行させました。余分なワンクッション。針の〈形〉に置き換えたんです」
 ポケットからもう一つの品を取り出して、
「これは北見氏が愛用していたのと同型の〈G‐※※〉という時計です。課の者が持っていたので、ちょっと借りてきました。辰巳書房の編集部で伺ったんですが、北見氏は〈G‐※※〉のコレクターだったんですね。――本来なら氏は、この時計でそれ﹅﹅を伝えたかった。いいですか? 示された時刻は一時四分。しかしそれは午後の一時でした。そして氏は通常、時刻表示を二十四時制にしていた。すなわち、これは十三時四分」
 目の前に、数字が掲げられた。[図1参照]


【図1】

「さらに、そうそう、被害者はその時計を逆様に着けていたのでした。つまり……」くるりと引っくり返した。「こうなる」
 その文字﹅﹅が、俺の目を射た。
「大槻先生。これ、あなたのお名前だ」

   9

「……最初の〝エイチ〟だけ小文字なのが、残念なところですが」
 叔父はホールに出ると、手にした卓上デジタル時計を逆さにして﹅﹅﹅﹅﹅カウンターへ置いた。背面のダイヤルを操作して、時刻表示を「13:04」で止めたものだ。千尋先生と記者さんが立ち上がって、その液晶ディスプレイを覗き込む。叔父は「銀行へ行くべきは云々」のほうは一旦おあずけにし、まずは「止められた時計の謎」からお話ししましょうと言って、この卓上時計を持ち出してきたのだ。これは被害者のダイイングメッセージだったんだ、と大胆に宣言して、
「この真ん中の点々、時刻と分数ふんすうのあいだの区切りを、英語の発音記号にある『長音』に見立てているわけです。それで〝hO:EIホーエイ〟と読ませる」[図2参照]


【図2】

「はああ」わたしは脱力した。「なんとも斬新な……。今どき誰も書かないよ、こんなの」
 複雑な表情を浮かべるミステリ作家の顔が、目の端に映った。
「できることなら被害者は、流れ出る自分の血をインク代わりに、指で地面へ――『ホーエイ』でも『オオツキ』でも――文字を残したかったことでしょう。短時間で済むし、たいして体力もいりません。でも、それはできなかった。大槻本人がまだ立ち去らず、そこに居残っていたから、とこれは思われます」
 せっかく血文字を書いても、気づかれ、消されてしまう。その公算は大きかっただろう。
 叔父は、被害者がアナログ時計しか持ち合わせていなかった不運に同情し、それを代用してメッセージを残した機転に感心の意を示す。
「携帯も破損して使えなかった。そこで北見氏は、やむなく最も奇抜で困難な手段を選びました。敵が自分から目を逸らしている隙に――おそらく大槻は目的の作業に没頭していたんでしょう――竜頭を引いて針を止め、それを十一時間ほど進めて、十三時四分にした。単に『一時四分』でいいなら、わざわざ長針を何周もさせることはない。犯行時間は午前二時前後だったのだから、少し戻すだけで事足ります。それを律儀に何度も回したのは、昼間の一時であることを強調したかったためでしょう。すなわち太陽を登場させたかったんです、月ではなくね。そして、それを逆向きに着け直した。そうすることで、犯人を名指ししたわけです。瀕死の状態でさぞかし手間取ったでしょうが」
「なるほど、推理作家を目指した経歴のある人なら、こんなトリッキーな伝言を残すのも、納得できますな」
 結局芽が出なかったというのも、納得できる。
「つまり、ぽおちゃんはその時計表示が『ホーエイ』と読めることから、磯辺町事件の犯人を大槻朋英だと思ったわけ?」
「逆だよ。沙英の持ち出した『なぞなぞ』から、大槻朋英と事件が繋がったから――」
 え?
「まさかと思いつつ、『止められた時計』を検証してみたんだ。これはメッセージではないか、と半ば期待してね。そしたら、瓢箪から駒が出た。で、話は変わりますが」
 いや、変えないでほしいんですけど。
「北見氏は〈G‐※※〉のコレクションのほかに、もう一つ趣味を持っていたと思うんです。お客様のお話を聞いていて、これは連想したことなんですが」
「ほう」再び椅子に腰を下ろしていた記者さんが身を乗り出した。興味津々だ。
「氏は験を担ぐことを常としていた。何か幸運なことがあると、そのときの状況なり行動なりを再現して、運を呼び込もうとする傾向があった。また、時計を忘れてきて困っているわりに、思い出し笑いを繰り返していた。本人曰く、その日は舞い上がっていたという」
「ええ、そう聞きました」
「加えて、被害者のバッグには『派手な黄色い札入れらしきもの』が入っていた。そして、それは『手つかずだった』といいます」
「捜査員の話では、ね。私はその現物を見ちゃいませんが」
「これは取りも直さず、その札入れらしきものには中身があった、中身は盗まれていなかった、ということを意味します。空だったら、手つかずだった、とは言わない。また、もしその〝札入れ〟ごと盗られていたら、そもそもこれに言及できるわけがありません。それがあったということは、紛失させるわけにはいかなかったのでしょう」
 どういう意味だろう。
「北見氏は自分のことを、何かと〈志づ〉の女主人に聞かせていた。その事実を犯人が知っていたか否か……それは判りませんが、いずれにしろ、氏の習慣に明るい者の存在を警戒する必要はある。だから、これは交換だったんだと思う」
「交換?」思わず声が出た。
「ときどき街中に、アイディア商品ばかりを置いている店があるでしょう」
 どうも叔父の話は、脈絡なく飛躍展開しがちだ。けれど、記者さんは柔軟に対応する。
「ええ、ありますね。たまに雑誌の裏表紙なんかにも広告が載る」
「はい。その手の店で見かけたことがあるんです。それだったんじゃないか――とすれば、いよいよ辻褄は合ってきます」
「ほうほう」
 記者さんの相槌から、自然と千尋先生に目が行った。案の定、豆鉄砲を喰らったフクロウがそこにいた。
「しかし、なぜ〈志づ〉の女将は時計集めの趣味だけ聞かせておいて、何か知りませんが、そのもう一つのほうはしゃべってくれなかったんでしょうな」
「会話の流れ如何によっては話題に上ったと思います。想像ですが、被害者の腕時計に関して話を振られたのは、お客様のほうなのでは」
「ああ、言われてみればそうでした。現場での不可解が頭にありましたんで、真っ先に北見氏の時計ってのは――と質問を切り出したんです。そうか、仮に氏の道楽は? などと訊いていたら、当然女将もしゃべったでしょうね。そんな質問が、あの時点で浮かんだとも思えないが」
「おそらく、警察のほうでは訊いているでしょう。バッグに残されていたんですから」
 わたしは我慢できなくなって口を開いた。
「待って待って、ぽおちゃん。全っ然わかんない。なんの話? 『銀行へ行くべきは』も宙ぶらりんのままだし。もう一つの趣味とか札入れとか……交換て、何を交換するの?」
 すると叔父は頷いて、ブロードシャツの胸ポケットから、あるものを取り出した。
「これだよ」

 ストローでグラスの中身をかき回しながら、警部補はわざとらしく目を剥いた。
「言いがかり、とおっしゃる」
「当たり前だ。時計の針? そんなものが証拠になるか。偶然に決まっている。というより、ただのこじつけだ。だいいち動機はなんだ。私に彼を殺める、どんな理由がある」
 まわりの目がある。声を絞って訴えた。こちらを窺うような視線は認められない。
「動機は、これでしょう」
 警部補は、今度は内ポケットを探り、一枚の紙きれを取り出した。それを目にした途端、視野が収斂しはじめた。
 こんなものに金を遣うのは初めての経験だった。
 あの日、場所が有楽町ゆうらくちょうだったのだから、いくつかの出版社で共同開催する講演会があった、先々週の金曜日のことだ。発売初日に早速買い求めたという北見は、「チャンスセンター」の前で俺の腕を引いた。
 ――今日が売り出しの最終日なんです。先生、ぜひとも買っておくべきですよ。
 ○○ジャンボ宝くじ。
 勧められたのはこれが初めてではなかったが、それまでは適当にあしらっていた。あのとき、自分がそんな気になったのは、講演を終えて気持ちが昂揚していたせいだろうか。執拗な誘いに仕方なく折れて、それなら一セットだけ、と千円札三枚を窓口のおばちゃんに手渡し、代わりに受け取ったのが、あのお粗末な封筒に入った薄っぺらな紙の束だった。
 実際、初めて手にしたそれからは、子供が遊びで使うおもちゃの紙幣のようで、なんの価値も重みも感じられなかった。帰宅してから、その紙封筒をテーブルに抛り投げたのを憶えている。あのときは巧く乗せられてしまったが、つまらぬ買い物をしてしまった、一等前後賞合わせて三億円? こんなものが億単位の現金に化けるなど、信じろというほうが無理な話だ。
 帰りの車の後部座席で、北見は自分のショルダーバッグから例のありがたい「開運袋」を取り出し――どこで売っているのか、そのド派手な袋の表面には『開運袋』の三文字が、これ見よがしに毛筆書体で刺繍されていた――、中身を見せながら言った。
 ――先生、もしどちらか一方でも大金を当てたら、そのときは誰にも秘密にして、うちらだけで祝杯を上げましょうよ。先生にも買っていただいたことだし、歓びは分かち合わなくちゃ。でしょ?
 何を夢みたいなことを、と思ったものだが、このとき、双方の意思のあいだに齟齬が生じていたことには、お互い気づくことができなかった。思えばそれが始まりだったのだ。
 ――新聞の発表とね、一枚一枚照らし合わせるのが、これがまた楽しいんですよ。
 そして一昨日、六月十六日の水曜日。
 単行本の打ち合わせが済んだあと、北見は俺をこそこそと廊下の隅に呼んだ。
 ――先生、発表見ました?
 何を言われているのか、咄嗟には判らなかった。
 ――○○ジャンボの抽籤、昨日だったんです。朝刊、見てませんか。
 なんだそんなことか。自分で買ったことすら、それまで忘れていた。すると、北見はつづけて、驚くべきことを口にした。
 ――私ね、やりましたよ。当てました。一等です一等。二億円ですよ!
 それは囁くような小声だったが、鋭く俺の鼓膜を刺した。まさかと疑いながらも、胸が躍った。ちょうど車検の期限が迫っていた。ワンランク上に乗り換える好機だ。
 自分が重大な勘違いをしていたことに気づかされたのは、外堀通りのパブで最初の一杯を乾したときだった。外では予報があたり、雨が降りはじめていた。
 ――え? 一億ずつって、なんですかそれ。
 交わした約束のことを繰り返すと、やつは目を丸くして笑い出した。
 ――何言ってんですか、山分けにしようなんて言ってませんよ私は。グループ買いじゃないんですから。歓びを分かち合うってのは、そうじゃないんです。ただ二人のうち、どちらかでも大金を当てたら、そのときは当てたほうの奢りで一杯やりましょうって、そういう意味で言ったんですよ。だいいち、私から一億もらったら先生、贈与税で半分くらい持ってかれちゃいますよ? いいんですか? ははは。
 それまでの高揚した気分が、一気に凍りついた。
 ――そもそも、もしそういう条件だったんなら、お互い買ったくじの番号を開示し合っていなきゃおかしいじゃないですか。
 確かに、言われてみれば自分の解釈には飛躍があった。だからこのときは、ああそうだったのか、と笑ってみせた。しかし、腹の底では一つも納得などしていなかった。念頭には置かずとも、こっちはそのつもり﹅﹅﹅﹅﹅だったのだ。
 相手が快諾したと見て取ったのか、北見は前祝いと称して上機嫌に酒をあおり、盛大に紫煙を吐きまくった。嬉々としたその振舞いが苛立たしかった。呑みたくもないアルコールを口に運び、友人の幸運を喜ぶ様を演じているうち、あることに気づいた。そうだ、俺も持って﹅﹅﹅﹅﹅いるんじゃないか﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅
 当たりくじはまだ換金しておらず、「いつものアレ」に収めてあるという。それが入ったショルダーバッグは今ここにある。だが、明日にもこの男は現金に換えてしまうかもしれない。そう考えると、気持ちが焦った。決行するなら、今夜だ。
 やつの箸遣いを目の端に捉えながら、俺は心ひそかに一計を巡らした。
 北見が常日頃から自治宝くじを購入していることは、編集部内では周知の事実だった。ことに、年に数回売り出される高額賞金くじ「ジャンボ」には熱を入れており、シーズンが近づくと必ずその話題を振ってくる。もはや風物詩です、と編集長も皮肉を言っていた。しかし、その十枚セットのひと束を裸で開運袋なる布袋へ入れ、バッグ内に保管して常時持ち歩いているという話は、今回初めて聞いた。例の祝杯の提案をしたとき、やつは俺に耳打ちしたのだ。以前に多額を当てた際の験を担いで、決め事にしているのだと。
 もっとも、こっちが今まで知らなかっただけのことで、その習慣もやつの周囲にいる幾人かは耳にしているかもしれない。さすがにあちこち吹聴して歩いているとは思えないが、編集部の近しい人間やあの小料理屋の女将あたりなら、いかにも聞かされていそうではないか。事件が発覚したとき、その誰かはきっと、バッグ内の宝くじのことを警察へ話すだろう。その蓋然性は高い。そしてそれが紛失しているとなれば、これはおかしいということになる。が、この問題をクリアする手段はあった。「交換」である。
 通り魔を装うのがいい。そうすることで、目的のものから警察の目を逸らす。通り魔なんて、だいたいが現金にしか興味を示さないものだろう。一歩譲って持ち物を物色する輩がいたとしても、時計やカード類を差し置いて、金になる保証のない宝くじなど盗っていこうとするだろうか。絶対とは言えないが考えにくい。換言すれば、その中のものが〝手つかず〟であっても不自然ではない。
 北見に勧められて、つき合い半分に宝くじなどというものを買ってみたのも、今にしてみれば運命的だった。それがなければ、この計画は成り立たなかったのだから――
「昨日もおいとまの際、お話ししましたが」
 警部補の声で、俺は我に返った。
「北見氏は奇禍に遭われたとき、宝くじをひと組お持ちでした。十枚のワンセットで、〈トレンド&カルチャー〉の編集長から伺ったとおり、刺繍の入った黄色い布袋に入れてありました。ところがですね、その宝くじ、見たら連番だったんです」
「……連番」
 十枚入りセットの外袋に印字された、四角で囲ったその二文字が、脳裏を掠めた。
 確かにあの日、俺が窓口のおばちゃんから受け取ったのは連番セットだった。バラと連番のどちらがいいかと訊かれ、番号が連なっているほうが潔いと咄嗟に判断して、そちらを選んだ。そいつを、俺は開運袋の中身とそっくり入れ換えたのだ。
「私ね、ここで首を傾げました。これは同僚の方から伺っていたんですが、北見氏はよく、新聞に当籤とうせん番号が載ったら、それと一枚一枚照らし合わせるのが楽しいんだ、と言ってたそうなんです、もう口癖のようにね」
 俺も何度か聞かされた話だった。
「なら、氏が購入したのはバラでないとおかしい。なぜなら、連番セットでは番号が繋がっている﹅﹅﹅﹅﹅﹅から、最初の一枚で二等以下の結果まで見えてしまう。これでは興醒めでしょう。一枚一枚﹅﹅﹅﹅確かめる愉悦は、ランダムに封入したバラのセットだからこそ得られるものです。なのに、袋に入っていたのはなぜか連番だった」
 やつのはバラだったのか? 判らない。それは確認しなかったし、そもそも気に懸けていなかった。北見は十枚セットを裸で﹅﹅開運袋に保管していた。外袋がないから、それがどちらのセットであるかなど、ひと目では判らない。有楽町の売り場では、窓口に向かったのは俺一人で、北見は離れた場所で俺が買い終えるのを待っていたのだ。双方がそれぞれどちらのセットを選んだかなどという話も、一切出なかった。
「そもそも、その十枚には本人のものを含めて、誰の指紋も一切ついていなかった。これが不可解でした。裸で仕舞われていたのにねぇ」
 ……そうか。
「行きずりの通り魔事件は見せかけでした。真の目的から捜査員の目を逸らすためのね。あなたの目的は宝くじにあった。それをご自分のものと取り換えたのです。被害者が日頃から持ち歩いていることは周知の事実だったので、そうするほかなかった。それが消えていたら警察に注目されてしまいますからね。そう、北見氏が所有していたほうには、ある特別な価値があったんです。そして、先生はその果報を知った」
 警部補は、さらにこちらへ身を乗り出した。手にした紙きれをひらひらさせながら、
「ご存じですかね、数列のバラバラな宝くじが十枚あるとして、それが『バラのセット』なのか、ランダムに十枚を掻き集めたものなのか、は確かめることができる。連番ならむろんですが、バラでもセットなら1から9、そして0と、下ひと桁の数字がすべて揃っているんです。つまり連番でもバラでも、買えば『末等』は必ず当たるようにできている。だから、あなたはお手持ちの連番セットから、北見氏の持つ『当たりくじ』と下ひと桁の﹅﹅﹅﹅﹅数字が﹅﹅﹅同じ一枚﹅﹅﹅﹅を抜いて、それだけを入れ換えてやればよかったんです。どうせバラでは、数列そのものが連続していないのだから、見た目は交換したことなど判らない。もしそうされていたら、我々としても目的がそこにあったとは気づけなかったかもしれません。ご自分のが連番セットなので、相手もそうだと思い込んでしまったんでしょうか。その点が、知らずこの計画の瑕疵きずになっていた。やあ、惜しかったですね。――あ、ちなみにコレは、はずれです」

11

「……これ﹅﹅を巡って、おそらく北見氏は大槻朋英と争い、殺されたんだ」
 ポケットから出したものを、叔父は人差し指と中指で挟み持っている。わたしは、手を延ばしてそれを受け取った。一枚きりの、○○ジャンボ宝くじ。
「沙英があの『早すぎる』という科白の話をしだしたとき、すぐにこれが頭に浮かんだんだ。どう思うって訊かれて、ポケットから出そうとしたんだけど、タイミング逃しちゃって……」
 そうか、言われれば、叔父はあのとき何やら胸へ手を当てていた。千尋先生が横で呟いて、わたしがツッコミを入れ、そのまま話は逸れていったのだ。でも、わたしが語ったあの謎の科白から、ぽおちゃんはどうして宝くじなんか連想したのだろう。その疑問をぶつけてみると、
「沙英は買ったことある? 宝くじ。その裏に書いてある注意書き、読んでごらん」
 言われた箇所に目を走らせた。――なるほど、そういうことか。
 叔父が、皆に向けて説明を補足する。
「この結論に辿り着けたのは、姪が出した『なぞなぞ』のおかげでした。僕は当初、話を聞いて、大槻朋英は宝くじでも当てたんだろうか、と想像しました。たまたま自分も持っていたので、ごく自然にそう考えたんです。ああ思い違いをしているんだろうな、と。一方、目の前では磯辺町事件の話が展開していた。聞くとはなしに聞いているうち、思いがけない繋がりが見えはじめました。『布製の札入れらしきもの』が、開運祈願グッズではないかというのは、北見氏の言動や人柄からの連想です。黄色は金運を呼ぶ色らしいですしね。そんな袋を所有しているなら、本人は趣味と呼んでいいくらいの宝くじマニアなのではないか。さらに、たびたびの思い出し笑い、海外旅行への誘い。さては宝くじで高額賞金を得たのは、北見氏のほうだったか。だとすれば、動機はこれか、となったわけです」
 そうか。「銀行へ行くべきは北見氏のほう」とは、そういう意味だったのだ。
「おそらく大槻は、自分でも同じ○○ジャンボを買って持っていたんでしょう。被害者の手元から紛失していてはまずいから、交換という手段で注目を避けた」
「あの席にいた二人は、じゃあ刑事さんだったのね」わたしは先生と目を合わせた。「そんな感じには見えなかったけど」
「いいなあ、本物が見られて」変なことを羨ましがるお方だ。
「なんで、ぽおちゃんがこんなの持ってるの?」と指先のものをひらひらさせ、訊く。「いつも買ってたっけ」
 叔父はカウンターの中へ戻って、マグカップに口をつけた。
「商店街のセールでもらったんだよ」
 千円のお買い物につき一枚くれるのだそうだ。数枚あったうち、この一枚だけが末等を当てたという。三百円か。
「そうかあ」と、先生がカラスみたいな声を上げた。「じゃ、もうそろそろかな」
「そろそろ、って?」
「警察の報道発表だよ。――ああ、でも微妙だな。沙英ちゃんの目撃した場面が任意同行なのだとしたら、発表は逮捕後の明日になるか」
 がたっ、と椅子をずらす大きな音がした。ABスポーツさんだった。立ち上がり、左右の手でテーブルの両端を把んで、宙を見据えている。何事かと思うのもつかの間、
「スクープ……、一面?」
 すうっと息を吸い、突如ピンク電話へ疾走した。

 あとから気づいたことだが、北見は確かに、バラのセットを持っていたのに違いなかった。やつは俺に、「一等です一等。二億円﹅﹅﹅ですよ!」と言った。もしそれが連番のセットだったなら、一等の二億円に加え、前後賞の一億円――もしくは前後どちらかだけ――も獲得できているはずなのだ。
 しかし、このときは冷静を装うので手一杯だった。決めつけるような相手のもの言いに腹も立てていた。視界はいよいよ狭くなってくる。
「何が惜しかったですね、だ。どこにそんな証拠がある。君の話はすべて、憶測の域を出ていない。――もう限界だ。私は行くよ」
 腰を浮かそうとしたところで、警部補が訊いた。
「この時計、止まってませんでした?」
 テーブルの遺留品を指している。
「昨日、おっしゃってましたよね、珍しいこともあるもんだって。ならば印象にも残っていると思うんですが、どうでしたかしら。ご覧になったとき、この針は動いていたんでしょうか」
 今更何を、と思ったが、答えないわけにもいかない。
「ああ……動いていたよ。いつ止まったのか、止められたのか、それは知らんがね。私が見たときには、正常に作動していた」
「間違いありませんか」
「何度も言わせるな」声は落としていたが、力がもった。「秒針がチクタクしてるのを、この目で見た。確かな話だ」
「どこで、ご覧になりました?」
「え?」
「先生はその秒針が動いているのを、いったいどこで目にされたんですか?」
「どこで、って……」
「私どもの調べたところでは、十六日の夜、北見氏は二軒目の、浅草の洋風居酒屋で自分の時計を置き忘れているんです。それまではいつもどおり、氏の腕には〈G‐※※〉が填まっていた。この時計﹅﹅﹅﹅は、先生と別れてのち三軒目の店で借りるまで、だから着けていなかったはずなのですが」
 意味を理解するまで、数秒の時間を要した。じわじわと疲労感が襲ってくる。
「ところで先生、思い違いをされていませんか。宝くじというのは高額当籤の場合、発表された直後では現金に換えてもらえないんですよ。早くて一週間くらい先になる。裏面にもその旨、うたってありました。ですので、今日いきなり出向いても、賞金は受け取れません。まずは手続きを踏んで、口座へ振り込まれるのは翌週あたりかと。もっともこれは、仮にその権利があなたにあるとして、の話ですが? ――いずれにせよ、何かお急ぎのご用があるようですが、もしそのおつもりだったのなら、今はまだ」
 ここで警部補は慈悲深い笑みを見せ、ゆっくりと上体を起こした。
「……銀行へ行くには早すぎる」

【了】

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