オリエント急行_2_

『オリエント急行殺人事件』をもっと楽しもう(後編)

※ 2018年5月12日、紀伊國屋書店札幌本店にて北海道情報大学公開セミナー『ミステリー×映画』がおこなわれました。当日は諸岡卓真氏、大森滋樹氏、谷口文威氏に加え、松本寛大が登壇しました。
 この記事は松本寛大の講演「『オリエント急行殺人事件』をもっと楽しもう」採録をもとに時間の関係で割愛した講演原稿の内容を追加し、あらためてまとめたものです。
(全2回。前編は以下のリンクよりご覧ください)

◆ 6 アガサ・クリスティー作品における「過去」

 さて、後編です。前編では『オリエント急行殺人事件』がノスタルジーを前面に押し出した豪華なオールスターキャストの映画であることを踏まえ、オリエント急行は過去へと旅する列車だったのだ、という話をしました。
 アガサ・クリスティーの小説を読んでいると、この、「過去」にまつわる作品が多いことに気づかされます。
『オリエント急行の殺人』のように、過去の事件を原因として新たな事件が起こるタイプの作品もあれば、過去の事件をあれこれと再調査するタイプの作品もあります。

 アガサ・クリスティーのデビューは1920年。亡くなったのちに刊行された作品をのぞけば最後の作品は1974年のもの。活躍の時期は、なんと五十年以上にわたります。
 一般に、後半の作品はあまり評価が高くありません。これは、本格ミステリーというジャンルにおいてはどうしてもトリック(ストーリーの意外性という意味を含みます)がもっとも重要視されることと無関係ではないからだと思います。実際、後半の作品では読者を驚かせるような仕掛けというのはだんだん減って、過去作と似たシチュエーションの繰り返しが見られるようになります。

 しかし、評価に関してですが、わたしはそう簡単に決められるものではないと考えています。
 ある作家が繰り返し似たような作品を書くのは、意識的にせよ無意識的にせよ、そのテーマにこだわりがあるからとしか考えられません。だから、何度も繰り返されるテーマを読み解けば、その作家をいっそう知ることができます。作家が晩年に至るまでひとつのテーマを追い続けるというそのことに、わたしは心を強く動かされます。

(追記・霜月蒼さんのすぐれた全作品解説『アガサ・クリスティー完全攻略』(ハヤカワ文庫)の意義は、従来の本格ミステリ批評の流れとは違った視点からいまクリスティーを問い直した点にあると思います。霜月さんが必ずしも初期から中期の作品より後期や晩年の作品が劣っているという評価を下していないのはたいへん興味深いポイントだと思います)

 クリスティーは、そのキャリアの中期以降、過去の殺人の再調査という作品を何度も書きました。
 その先駆けとして知られるのは、『五匹の子豚』という作品です。完成度も極めて高く、最高傑作という人もいます。
『アクロイド殺し』『オリエント急行の殺人』『そして誰もいなくなった』などのあまりに有名な作品に比べると地味で、ご存じない方もおられるでしょうが、未読の方はぜひ読んでみてください。
 殺人犯を母に持った娘がポアロのもとをたずねてきます。16年前の事件の再調査をしてほしい、母は無実だったのだと。ポアロは関係者をあたり、彼らが16年前の事件をどのように見ていたのかを聞き取っていきます。
 人間は自分が考えているほど理性的な存在ではありません。同じものを見ていても、自分自身の思い込みによって異なった解釈をしてしまう。真実というものは、実は人によって異なるのです。それらの歪められたものの見方を解きほぐすのが名探偵ポアロです。
 わたしはポアロと並ぶもう一人の名探偵、ミス・マープルのファンです。マープルの登場する作品の代表作のひとつとして、『鏡は横にひび割れて』を挙げたいと思います。過去の事件が長く尾を引くという内容になっています。これもぜひ読んでみてください。

 過去といえば、クリスティーが別名義で書いた、『春にして君を離れ』という小説があります。これは推理小説ではありません。
 年配の女性が砂漠で足止めを食い、身動きがとれなくなります。この設定は、まるでもうひとつの『オリエント急行殺人事件』であるかのようですね。彼女は、何もすることもなく、ただただ時間があるので、これまでの自分の人生について深く考える。これだけの小説ですが、わたしはことによるとクリスティーの代表作ではないかと思っています。

 これらの作品を並べていくと、何かが見えてくるように思います。
 ひたすら過去を思うということからは、深く、哀しく、残酷な、人間を見つめる作者の目の存在が感じ取れるのです。

◆ 7 人間に対する冷静な視点

 たとえば、『春にして君を離れ』などは、そもそもクリスティーがなんのためにわざわざ別名義でこれを書いたものかすらわかりません。書きたかったからとしか言い様がない。あるいは自分のために書いたのかもしれません。詳しくはネタバレになるので言えませんが、そこに書かれているものは、過去の罪。他者への理解不足の罪。おろかさの罪であり、傲慢の罪にまつわる物語です。
 クリスティーの自伝には、「謙虚の心のないところ、人は滅びる」というセリフがあります。これは、そうした小説です。
 ミス・マープルものの最終作、『復讐の女神』でも同じテーマを扱っていることからしても、これがクリスティーにとって大事なテーマだった可能性もあります。
 そうですね、もしよろしければ『死との約束』(1938)と『春にして君を離れ』(1944)を読み比べた上で、『復讐の女神』(1971)を読み直してみてみてください。
 中期の『死との約束』におけるある種の登場人物の書き方がトリックの一要素であったのに対して、晩年の『復讐の女神』になると必ずしも読者をだますためという理由ではなく筆を走らせているのが読み取れると思います。(わかりづらいですよね。ネタバレを避けているため奥歯にもののはさまったような言い方しかできず、たいへん申し訳ありません)

 ミス・マープルは基本的には理性的・傍観者的な探偵ですが、クリスティーが年齢を重ねるにつれ、人間に対する深い理解と暖かみを見せるようになります。『復讐の女神』では、そんなマープルの魅力が存分に描かれています。
 これは、実はポアロも同様です。探偵小説的な衝撃度、完成度が高い初期や中期の作品では、ポアロはエキセントリックなキャラクターで、映画などではそうした点が強調されがちです。
 ところが、後期の作品になるとエキセントリックな部分は薄まっていき、あるいは記号的になっていき、後期の作品になると、人間に対して超然としつつも優しい名探偵として描かれます。わたしにはこちらのポアロのほうが真に偉大な名探偵に見えます。
 キャラクターに与えられた意匠をはぎとると、けっきょくは「人間を観察する、厳しくも穏やかな目」が浮かび上がってくるのです。それはクリスティー自身の目にほかなりません。

「人間に対する冷静な視点」の例を、ポアロの推理から見ていきましょう。
 原作の『オリエント急行の殺人』で、ポアロは見つけた証拠品が示すものをうのみにはしません。「わたしならそんなに早く結論には飛びつきませんな」と言います。

「でも、ほかに考え方がありますか?」
「ありますとも。たとえば、罪を犯した人物がいて、疑いをほかのものにかぶせようとしたら?」
(中村能三訳)

 ミステリに詳しい人なら、後期クイーン的問題という言葉をきいたことがあるかもしれません。疑いをほかのものにかけようとして犯人が偽の証拠を用意したとします。さて、そのとき、名探偵はいったいどうやってそれが本物の証拠か、偽物の証拠かを判断するのでしょうか。究極的には、両者を見極めることは困難です。これでは推理の大前提が成り立たなくなってしまう。そこをいかに克服するか。難しいテーマですが、あえてこのテーマにチャレンジした近年の作家もいます。エラリイ・クイーンのある作品に見られる主題なので、後期クイーン的問題という名称がついています。諸岡卓真さんがこれにつき詳細な論文を書かれています。

 ただしクリスティーは、そうした、こみいった難問という部分にはあまり興味がなかったように思います。
 わたしが着目したいのは、あくまでも、クリスティーの、ものの見方のクセです。ものごとをうのみにしないという、その点です。

 もう一カ所、『オリエント急行の殺人』から引用します。ポアロが関係者の証言の気になった点を追求しているシーンです。

「お答えにならないのですね、マドモアゼル?」
「申し訳ございません。お答えすることはないと思ったものですから」
「あなたの態度が変わったことをご説明願いたいのですよ、マドモアゼル」
「なんでもないことに騒ぎ立てていると、ご自身、お思いになりません、ムシュー・ポアロ?」
 ポアロはあやまるように両手をひろげた。
「そこがわれわれ探偵の悪いところかもしれませんな。人間の態度とは、つねに一貫したものだと思っているのです。気分が変るのを見のがせないのですよ」

 劇中、同じような、あるシチュエーションが二度繰り返されます。しかし、一度目はそれに対してリアクションをした人が、二度目はとくに何もしません。
 再読時、この部分を読んだときには、うなりました。今年出版された小説にこのくだりが使われたとしても、わたしは感心したでしょう。人は誰かが変わった行動をとったときには注目しますが、変わった行動を「とらなかった」ときには、気にもとめません。けれど、人がそうそう変わるわけではないのだから、そうした行動を「とらなかった」のは変なのです。そこに嘘や欺瞞がある。ポアロは見逃しません。

(余談ですが、坂口安吾がクリスティーを高く評価していたそうです。こうした人間の普遍的な心理の部分で、クリスティーの推理における目の付け所と坂口安吾の書いた推理小説には共通する部分が見られます。さらに余談をつづければ、人間の行動がそうそう変わらないというのは、現在の捜査におけるプロファイリングの基礎となっている考え方です)

◆ 8 なぜクリスティーにはこんな作品が書けたのか

 アガサ・クリスティーは詳細な自伝も書いてはいるのですが、実はつかみかねる部分があります。『春にして君を離れ』に書かれているテーマや、一度結婚に失敗しているあたりなど、プライベートにまつわる、あまり愉快ではないだろう部分については慎重に書くことを避けているせいもあります。
 クリスティーの人物描写は、「紋切り型」という批判を受けたことがあります。注意が必要なのですが、紋切り型であることは必ずしも批判にはあたりません。だからこそクリスティー作品は娯楽小説として楽しく、読みやすく、適度に理知的でゲーム的に優れた小説なのですし、これまで見てきたように、だからといって浅いわけでは決してありません。
 ただ、そうした人物描写からは、クリスティーその人を深く知ることはなかなかできないのは事実です。『春にして君を離れ』を愛するわたしとしては、作家の奥底にある部分が垣間見えるのみで、結局そこには触れることができず、膨大な作品があるだけという状況に、長年、もどかしい思いをしていました。

 先日、このイベントの登壇者のみなさんと居酒屋で話をしていたのですが、そのときにアガサ・クリスティー作品には典型的なタイプのキャラクターがよく登場しますよねという話になりました。
 その際、大森滋樹さんが、クリスティー作品に女優がよく登場することについて、演技というもののとらえかたの問題ではないかとおっしゃいました。
「ミステリーでは、殺人者がほかの人にまじって、ふつうのひとのふりをする、つまり演技をしているわけです。それは、クリスティーにとってはおぞましいことなのではないでしょうか」と。
 その話を聞いて、わたしははっとしました。長い間の疑問を解くヒントを手に入れたような気がしたのです。

 クリスティーはミステリーの女王と呼ばれ、その鮮やかなどんでん返しが伝説的に語られます。それは事実なのですが、わたしには、どうも核が別にあるように思えてなりませんでした。
 どんでん返し以外でいいますと、クリスティーの作品には、ほかの推理作家が描くような、不可思議な謎とか、奇抜な方法で人を殺害するとか、そういったこともあまりありません。たまにあっても精彩を欠く感じです。
 ではどんな特徴があるかというと、クリスティーの作品のトリックには、「実はうそをついていました」「実はだれだれに偽装していました」とか、「誰かの言葉を勘違いしていました」とか、そういったものが多いんですね。つまり、「人間関係と演技、勘違いや思い込みをベースにしたトリック」が多い。大森さんの言葉から、わたしはそのことを思い出しました。

 わたしの頭にあった作品の代表例は、タイトルは申し上げられませんが、『オリエント急行の殺人』の少し前に書かれた作品です。メイントリックは大胆なものでそううまくいかないのではとも思えますが、工夫が凝らされているために優れたものに仕上がっている作品です。

 クリスティーの真価は謎でもトリックでもなく「事件の構図の隠し方」にあるというのがわたしの持論です。当初の事件が解決編で実は違った様相を呈するという、そこに驚きが生まれます。
 結果として読者に提供されるものはどんでん返しなのですが、そこには「人間関係、演技、勘違い、思い込み」に着目する――否応なしに着目してしまう人間クリスティーの姿が垣間見えるようにわたしには思えます。

「人の思い込み」というのは、冷たい言い方をするなら、その人を形作る偏見のことです。それは、その人の過去のすべて、それまでの人生そのものです。
 クリスティーが人の思い込みをベースにしたトリックを得意とし、過去の事件の再調査を何度も書いたのも、『春にして君を離れ』のように、人が過去から自由になることの難しさをテーマとして選んだのも、クリスティーの発想のベースが人間観察にあったからではないでしょうか。
 そうであるなら、どちらかというとそちらがメインと思われがちなのですが、クリスティー作品における意外な犯人、鮮やかなどんでん返しというものは、人間というものの信じられなさ、嘘、演技。そういったものに対するおそれが産み出した、副産物だったとさえ言えなくもないのです。

 クリスティーの創作メモの研究書(注・『アガサ・クリスティーの秘密ノート』のこと)が出ていますが、あれを読むと、クリスティーは人物関係をノートに詳細に記し、それを様々な方向から検討して物語を組み立てていく執筆方法をとっていたことがわかります。
 まず被害者を考えて、被害者がなんで殺されたかを考えて、それから周辺人物の人間関係を考えて……というふうに発想しているんです。
 先に犯人を決めるのではなく、先に被害者を決めるというのは、決して多くない例だと思います。ふつうはトリックから考えるか、または犯人から考えるように思います。

(追記・クリスティーの創作メモは断片的なアイデアを記したものが多く、しかも複数のノートに散らばっていました。記述からは試行錯誤の様子が見て取れます。決まった方法論があるわけではなく、必ずしも「まず被害者を考えて」いたわけではありません。不適当な表現でした。お詫びして訂正いたします。クリスティーの創作メモは核となるアイデア(ささいな手がかりやちょっとしたシチュエーションなど)と人間関係の記述からスタートする場合が多く見られます。犯人が構想初期段階で決まっている場合はあまり多くなく、途中で変更されることもあったようです。読者が「作品のメイン」と思うような大きな仕掛けも同様で、試行錯誤の途中で思いついたものというケースもあります)

 クリスティーは、実はトリックではなくて人間をこそ書いていたのでしょう。
『オリエント急行の殺人』をはじめとする名作の数々は、深く人間のことを知っている作家が、ゲーム的な娯楽小説の形をとって、人間の嘘や演技や思い込みについて書いた小説なのだと、いまのわたしには思えます。

◆ 9 最後に

 人間観察というと冷徹に聞こえるかもしれませんが、クリスティーの場合、やはりのびのびとした明るさや前向きさというものも同時にあります。この両面があるからこそ奥が深いのです。
 クリスティーは自伝のまえがきに、こんなことを書いています。

 わたしは生きていることが好き。ときにはひどく絶望し、激しく打ちのめされ、悲しみに引き裂かれたこともあったけれど、すべてを通り抜けて、わたしはやはり生きているというのはすばらしいことだとはっきり心得ている。
(乾信一郎訳)

 シドニー・ルメット、繰り返すようですが社会派サスペンスの名手、リアリスティックな問題作を多く撮影した監督ですが、彼は『オリエント急行殺人事件』についてこう言ったそうです。「アガサ・クリスティーには真実はあってもリアリティはない。それがこの映画をつくる上でのポイントだ」と。
 クリスティー作品にはドキュメンタリーのようなリアリズムはないかもしれませんが、代わりにほかの多くのものがあります。
 それは普遍的な、人間を見る目の確かさ、真実です。
 だからアガサ・クリスティー作品は、いつの時代でも、誰が読んでも、面白く、奥が深いのだと思います。

(終)

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