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千澤のり子「名探偵になれなくて ――全裸まつりと無名の少女」

 大学の帰り、あたしはキャンパスのすぐ近くにある東池袋四丁目駅から路面電車に乗った。
 通称○○○○電車といって、昔は荒川線と呼ばれていたが、今は何とかライナーという。車両は一つ。路線バスみたいに、前方の乗車口から乗って、運転手さんに定期を見せるか、電子マネーや現金で運賃を支払う。座席は、前方は一人がけの優先席、中央は車両の側面にそって、横長の座席が向かい合わせに並び、奥は二人がけの席が両端に二個ずつ。
 あたしは進行方向の右手後方、景色が良く見える窓際に座っている。六月に差し掛かる時期は、線路沿いに植えられた薔薇の花が満開だ。何かのきっかけを見つけて乗りたかったので、ちょうど良い。
 まっすぐ帰宅はせず、終点まで乗って、これから三ノ輪にあるライブハウスに向かっている。数ヶ月に一度のイベント「シークレットまつり」が開催されるのだ。時間は十七時半から、しかも木曜日。こんな日程でも、三十人ほどの会場は、たいてい満席になる。
 ライブ内容は、二次元アイドルのコンサートだ。もともとアイドルを育成するスマホアプリゲームが発端で、最初は一グループだけだったのに、今は数十単位の膨大な数に成長した。
 あたしの推しは、四人の男性と二人の女性で構成された六人グループの「キラーマン」。なかでも、元天文学者という設定で、銀髪に銀縁眼鏡の「ヒロ」の大ファンだ。ダンスも歌もそんなにうまくないけど、済んだ低音が、ほかのどの男性アイドルにも負けないくらい美しい。見た目はすごく真面目なのに、口がかなり悪い。そのギャップがたまらないのだ。だから、リアルの同性代男子なんて目に入らなくなっている。
 今日のライブは、名前のとおり、公にはできない内容なのだ。ライブハウスの店長がアイドル育成ゲームの大ファンで、特にキラーマンがお気に入り。決め台詞「なりたい自分になりな!」にちなんで作ったという。
 開催は今度で四回目。キラーマンの声優たちが代わる代わるでMCを担当する。あたしは毎回参加している皆勤賞。今日のMCは、たぶん違う人だけど、次の回か、その次の回でヒロの順番が回ってくる。声優は無名の役者が多く、みんな役名を名乗っていた。

 六月半ばなのに、少し肌寒かったので、あたしは薄手のパーカーを羽織っている。インナーには、キラーマンのイラストが入った黒いTシャツ、いわゆるオタTに、ヒロの好きな赤いギンガムチェックのミニスカート。キラーマンを象徴する濃いグレーのベレー帽に、アクセサリーはごつめのクロムハーツ。もちろん、本物なんて買えないから、池袋の露天商で買った模倣品だ。パーカーのファスナーを開けているので、同士には分かるかもしれない。
 いつの間にか、王子駅に着いていた。ふと時計を見たら、十五時三十分。終点の三ノ輪橋駅まではあと三十分くらい。ライブの開始までどこかで時間をつぶさないとならない。
 JRへの乗換駅のせいか、王子駅ではほとんどの乗客が降りた。車内には、あたしと前方の優先席に座る小柄なおばあちゃんだけになった。
 機械音声の発車案内と同時に、かなり大きなトートバッグを提げた全裸の男性が駆け込んできた。肩で息をつき、中央の右手にある横長の席の前に立ち、つり革をつかむ。靴も靴下も履かず、裸足の状態だ。トートバッグは右肩に提げているので、バッグが目立ち、全身はよく見えない。

 男の裸なんて、見慣れている。

 乗ってくるときにちらっと見えたが、男性は完全に逆三角形の身体つきで、贅肉がほとんどない。色白で、髪の毛は色素が薄め。程よい短髪は将来銀髪になりそうな雰囲気で、体毛はふくらはぎを見た限りでは少なさそう。年齢は、あたしより十歳くらい年上くらいか。少し遠くを見つめる眼差しに、アンニュイな空気が漂う。
 おじさんにしては、かっこいい。
 大学一年生のあたしにとって、二十代後半でもおじさんはおじさんだ。服を着ていればもっとかっこよさそうだけど、年が離れすぎているので、恋愛の対象としては感じられない。でも、かっこいい人は目の保養になる。
 なぜ、白昼堂々と全裸の男性が都電に乗っているのか。
 これは、あたしの身体が特殊だからだ。
 先祖代々、あたしの一族の女性たちは、排卵期になると男性の衣服が見えなくなるという能力を持っている。排卵期は、だいたい十六時間から三十二時間続く。その間、ずっと男性の全裸を見ることになる。今月は、朝、大学に行くときに排卵期が来たことに気がついた。日常に不自由はしないのだけど、あまり気持ちのいいものではない。

 初めて能力が発動したのは、中二の終わり、三月半ばだった。
毎朝起こしてくれるパパが、突然あたしの自室に裸でやってきたのだ。恐怖と困惑で声をあげられず、あたしは手元にあったクッションやカバンを投げつけるくらいしかできなかった。
 ベッドの上で震えていたら、パパは立ち去っていて、すぐにママがやってきた。ママが能力を説明して初めて、あたしは生理がきただけでは妊娠しないことを知った。
「そりゃあ、びっくりするよね。もっと前に話しておけばよかったわ」
 ママが嘆いても、もう遅い。
 パジャマのまま、窓を少しだけ開けてみた。向かいの一軒家から、ゴミ袋と通勤カバンを持ったおじさんが出てきた。
 けれど、服は着ていない。
 局部が見えないのは幸いだった。うちがマンションの三階にあって、道路とちょっと距離があるからではない。おじさんはでっぷりとおなかがたるんでいて、下腹部が見えなくなっているからだ。視線をずらすと、道を歩くほかの男性たちも、服を着ていない。あたしに全裸を見られていることも気付かずに、みんな足早に通り過ぎていく。
 気味が悪い。
 目をそむけて、カーテンを閉じた。
 ママは朝食をあたしの部屋まで運んでくれた。食べながら、もっと詳しく事情を聞く。といっても、たいした内容ではなかった。
 ママもあたしくらいの年齢からこの能力が備わった。三十代半ばになろうとする今でも継続中。ママのママ、つまり、あたしの母方のおばあちゃんにも同じ能力があって、おばあちゃんのママやおばあちゃんのお姉さんにも起きたらしい。おばあちゃんは自分のおばあちゃんまでは伝聞で聞いているそうだ。けれど、それより前の世代については、分からないとのことだった。
 結婚する男性がどんな人であれ、生まれた子供が女の子ならば、この能力が備わっているみたいだ。ただし、ママに女きょうだいはいない。あたしは一人っ子。だから、ここ最近の継承条件は、正確には分からない。
 男性の衣服が見えなくなったときは、排卵期である。なので、この時期やそれより少し前に「まぐわい」をすれば、かなりの確率で妊娠するそうだ。
「危険日と安全日が分かるから、とっても便利なのよ。あなたにもいずれ役に立つ日が来るわ。でも、さすがにうら若き乙女だとつらいわよね」
 この能力が生じたとき、ママはショックのあまり、相当グレたと語り出した。家出して、夜な夜なバイクを乗り回し、女の子だけで派閥を組んで、絡んできた男どもに喧嘩をふっかけていたそうだ。
 ある日、ママは仲間の一人が彼氏に騙され、薬の売人を手伝わされていることを知った。単独でそいつの隠れ家に殴り込もうとしたところ、張り込みをしていた刑事たちによって保護された。隠れ家には売人たちが潜伏していて、負傷者多数の大乱闘となり、刑事の一人は大怪我をして部署を異動せざるを得なくなった。責任を感じたママは、まっとうな少女に戻った。
 その刑事が、パパらしい。
 親子ほど年が離れているせいか、ママはパパからまったく相手にされなかった。それでもどうにかこうにかして、お付き合いすることに成功。ほどなくして、妊娠が判明した。
 あたしのことだ。
 パパとパパの両親はかなり責任を感じて謝罪されたが、ママのママとパパには分かっていた。
「ママ、計画的に妊娠したのね」
「だって、パパと結婚したかったんだもん」
 我が家の玄関に竹刀が飾ってあり、ママがなぜか黒の革のつなぎをくれた理由も分かった。町内で一番若いママというのも、ちょっとだけあたしの自慢だった。パパも優しくて頼りになるし、ママと結婚してから、ものすごく出世したんだって。でも、それより何より自分が生まれたのだから、能力に感謝しないとならない。
 ママとは違って、あたしはグレなかった。だって、世界はこんなに楽しいのに、反発していたらもったいないもの。
 たしかに、月に一回男性の全裸を目にするのは気持ちが悪い。けれど、「すぐに慣れる」と言われたように、数ヶ月で抵抗感はなくなった。むしろ、中学時代は男子の身体の仕組みに興味が生じた。一年生でもすっかり大人の子や、三年生でも子供の身体付きの子、いろいろな子がいることが分かった。
 でも、あたしが女子校に進み、女子大に通い、二次元男子にしか好意を抱かなくなったのは、男性の裸を見慣れすぎているからかもしれない。

 熊野前駅でも、多少の乗り降りする人たちがいた。もちろん、男の人たちはみんな全裸だ。中央の降車口付近に立った小学生は、裸にランドセルを背負っている。運転手さんも、もちろん裸だった。帽子もかぶっていない。
 この能力、なぜかリュックサックやカバン、ショルダーバッグのような手荷物は見えるのだ。なのに、指輪などのアクセサリーや腕時計は見えないから、基準がよく分からない。
 帽子は見えない。カツラも、しかり。さっきのかっこいいおじさんと、あたしの座る席の間に立った男性は、ママくらいの年齢なのに、髪の毛がない。きっと、普段はカツラをかぶっているのだ。エクステはどうかというと、たぶん、見えない。そういった男性を、まだ見かけていなかった。
 町屋駅で大半の乗客が降りていき、車内はあたしとかっこいいおじさんと、反対側の席に座る、赤ちゃんを抱っこしたお母さんだけになった。スリングというゆりかごみたいな抱っこ紐の中にいる赤ちゃんは、裸だった。男の子なのだ。
 すぐに終点の三ノ輪橋駅に着くというアナウンスが入った。かっこいいおじさんが、あたしから見て左手にある降車口に向かって半回転した。一瞬だけ、形のいいおしりが見えた。
「えっ……」
 思わず、息を呑む。
 おじさんの左肩あたりから背中のほうに向かって、泥水が跳ねたような、赤い点々が付いている。
 血だろうか。
 ううん、「だろうか」じゃない。
 これ、血しぶきだ。
 あたしも立ち上がり、降車口に向かった。
 おじさんの背中には、手のひらくらいの赤い痕がある。
 何これ……。
 同じく、血だろう。
 自分で自分の背中に血の手形を付けるなんて、ちょっと考えられない。
 ならば、誰かの血だ。
 服で隠れて、ほかの人には見えない。あたしだけが知っている。
 どうしよう。どうしたらいいの。
 あたしの困惑には気付かず、おじさんはドアが開くと同時に、路面電車を降りていった。

 後をつけてみよう。
 あたしは少し離れておじさんと同じ方向に向かった。
 背中の赤い手形がちょうど良い目印になっている。暑い日だったら、汗で流れて服に張り付き、消えてしまったかもしれない。今日の気温が梅雨寒でよかった。
 おじさんは両脇にマンションが立ち並ぶ道幅の太い道路を北上していく。あたしのよく知っている道のりだ。ここからすぐ先の交差点を進むと、幅の狭い一方通行の一本道になっていて、右手には小さなお寺がある。さらに行くと、児童遊園、向かい側には交番があり、もっと進むと、左手はお墓、右手はもっと大きな敷地のお寺に出る。ライブハウスは、道なりに大きなお寺の角を曲がり、月極駐車場の先にある一つ目のビルの地下だ。そこからもっと一本道を進むと、大きな二車線道路に出る。勝手に大通りと呼んでいる大きな道路だ。
 つまり、あたしとおじさんは同じ方向に進んでいるのだ。わざわざ尾行する必要もなかった。
「あの、お嬢さん」
 交差点を渡ったところで、あたしは正面から来たおじいさんに声をかけられた。つい、足を止める。おじいさんは右手を頭の上で軽く上げ下げした。帽子を取って挨拶したようだ。
「南千住の駅にはどうやって行ったらいいでしょうか」
 JR南千住駅は、三ノ輪橋駅から歩いてそんなにかからない場所にある。
「えっと、信号を渡って、すぐ先にある細い道を左に曲がってまっすぐ行ったら大きい道路に出るので、そしたら線路が右手に見えるから線路に沿って左手に歩くと……」
「はて……」
 説明した道なら分かりやすいのだけど、かなり遠回りだ。近道は、うまく説明できない。そうこうしている間に、おじさんの姿はどんどん見えなくなっていく。あたしは後を追うのを諦め、来た道を戻ることにした。
「ご一緒しますね」
「わざわざすみません」
 おじいさんの横に並んで歩き、南千住駅に続く路地に入った。
「私は暑がりでね。昨日までは職場で冷房をかけていましたよ。今日は過ごしやすくていいですね。制服がちょうどいいくらいだ」
「は、はあ……」
 いったい何の仕事をしているのだろうか。
 改めて隣を歩くおじいさんを見た。背はあたしよりちょっと低めだから、一六〇センチくらい。かなり引き締まった体躯をしている。背筋も伸びていて、肩幅が広い。腕は盛り上がっていて、軽く曲げただけで力こぶがでそうだ。武道の先生といったところだろうか。
「なんでも、急に後輩から呼び出されましてね。車はみんな出払っちゃっていたし、日比谷線で人身事故があって、電車も止まっていて。公金でタクシーを使うくらいだったら、JRで上野に出るべきだと思いましたが、まだ赴任してきたばかりだもんで、道に迷ってしまった。いやはや、私のような立場の者が、道をお尋ねするなんて、お恥ずかしい」
 あたしが無口なので、おじいさんは一気にしゃべってきた。ほかにもいろいろと話しかけられたが、「いえ」とか、「どうも」とか、曖昧な返事しかできない。
 次第に道行く人が増えてきた。みんな一つの方向に向かっている。駅が近づいてきた証拠だ。もちろん、男性はみんな全裸である。
「周りの人たちについていけば、迷わずに駅に着けそうですね。お嬢さん、ありがとうございました。助かりました」
 大きな片道二車線道路の信号待ちで、おじいさんは頭を下げてきた。先ほどのように、腕を頭上に振りかざし、上げ下げする。あたしもつられて深々とお辞儀をして、その場を後にした。
 腕時計を確認する。開場まで三十分、開演まで一時間程度の時間があった。大通り沿いにファストフード店を見つけたので、早めの夕食ついでに来店した。
 道路に面したカウンター席で、ポテトを頬張りながら考える。
 かっこいいおじさんは見失ってしまったが、何らかの事件が起きているのは間違いない。
 こういう時はパパに連絡すれば、早く解決する。あちこちに部下がたくさんいて、捜査本部が立ち上がらなくても、極秘で動いてくれるのだ。
 でも、今、パパはいない。定年のお祝いに数ヶ月の船旅に出かけている。ラインを送ったとしても、Wi-Fiのつながらない地域にいるかもしれない。
 能力についてまだ分からないことがあるから、ママとも話したいのに、パパに同行していた。あたしは一人暮らしを満喫していたのに、まさかこんなことが起きるとは。しかも、普段は過干渉なのに、肝心なときにいないなんて。
 あたしはカバンからシステム手帳とボールペンを取り出し、「見える/見えない」とインデックスを貼っているページを開いた。将来、女の子を産んだらその子が戸惑わないように記録しているのだ。スマホに書けばすぐに確認できるのだが、電子機器の記録は信用していない。大事な記録は直筆に限る。どういう状況だったのかも書いていた。
 当人の血は見える。以前、切り傷に包帯を巻いているらしき人を見かけたとき、傷口がパックリしていて、気持ち悪くてすぐに目をそらした。なのに、包帯は見えない。ほかのときに、手を変なふうに折り曲げている人とすれ違ったこともある。肩の感じから、三角巾で片腕を吊り下げているのだと判断した。
 汗も見える。鼻水も見える。鼻をかむときに顔にあてるティッシュも見える。
 バッグみたいな、身体に触れている手荷物は見える。でも、洋服のポケットに入っているものは見えない。駅の改札では、全裸の男性たちがどこからともなく電子カードを取り出し、通り抜けるとカードはどこかに消えてゆく。そんな光景は星の数ほど見ている。
 入れ墨は見える。ピアスは、意識したことないけど、たぶん見えない。
 身体についた雨のしずくや雪は見える。泥跳ねは見たことがない。ペンキをかぶった場合もしかり。髪の毛を染めている場合、染色は見える。
 ならば、他人の血が身体についた場合も、きっと見えるのだろう。これまで経験したことはないけど。
 能力の特徴は、ほかにもある。カメラで写真を撮ってみると、対象者はちゃんと服を着ている。テレビや動画の中の人も同様に、全裸ではない。
 リアルかつ、肉眼で目撃した人だけが全裸なのだ。
 だから、さっきのかっこいいおじさんを隠し撮りしたとしても、身体に付いている血は写らない。パパなら事情を知っているから調べてくれそうだけど、普通のおまわりさんなら通報しても相手にしてくれないだろう。
 おじさんの身体になぜ血がついたのかは、簡単に想像できる。
 おそらくおじさんは、誰かの血しぶきを浴び、その当人に背中を触られた。あるいは、背中は自分で触ったのかもしれないけど、そ の血は、おじさん自身の血ではないはずだ。
 ……非常にまずい事態なんじゃないかな。
 だって、おじさんは返り血を浴びているわけでしょう。だったら、誰かがたくさんの血を流す怪我をしていることになる。救急車を呼ぶなりして対応していたら、電車になんて乗る余裕なんかない。
 ということはつまり、おじさんは、誰かを斬りつけ、そのまま置き去りにしてきたのだ。
 車内の人たちは誰もおじさんを不審に思っていない様子だったから、血は服で隠れている。
 ならば犯行は、裸でいるときに行われたことになる。
 そうなると、被害者は、女性だね。男性かもしれないけど。
 なぜ相手が女性なのかは省略。公衆の面前で、そんな血の飛ぶ状況になったら、とっくに捕まっている。だから、まあ、二人っきりのときに起きたのでしょう。おまけに裸ならば、言わなくても分かる。白昼堂々とまぐわいなんて、大人はエロいなあ。
 そんなのんきなことを考えている場合ではない。
 あたし、殺人犯を見ちゃったんだ……。
 いや、まだ死んでないかもしれないけど。

 考えごとをしていたら、かなり時間が経ってしまった。
 トイレを済ませてからファストフード店を出て、片道二車線道路から裏道を入るルートでライブハウスに向かった。いつもの道、さっきあたしが歩いていた道とは反対方向だ。
 おじさんは、お寺を二つ抜けて、ライブハウスの前の道をずっと歩いて、この道路に出たのだろうか。
 それとも、途中でどこかの建物に入ったのだろうか。あの道は、結構マンションがあるし。
 ならば、殺人犯は、今もすぐ近くにいるのかもしれない。
 やはり、警察に知らせるべきだ。
 あたしはライブハウスの前を通り過ぎ、月極駐車場を過ぎ、大きなお寺の横を走って、児童遊園の反対側にある交番に入った。
 ……誰もいない。
 机の上には「巡回中」と表示された三角錐の模型が置いてある。隅の電話には、「御用の方は」と電話番号の大きく書かれたメモが貼り付けられていた。
 詰んだ。
 もう殺人事件が起きたんだと決めつけてみる。
 裸になれる場所は、個室でしょう。だいたい自宅かホテル。ホテルならば、従業員が見つけて通報する。あたしの出番はない。
 おじさんの自宅で犯行がおこなわれた場合。見つかりにくいけど、死体なんて置いていたら、ニオイですぐに分かるから、数日後には見つかる。被害者の自宅の場合も同様。自宅に出入りできる人間なんて限られているのだから、犯人が判明するのは時間の問題だ。
 おまわりさんに言っても信用してもらえそうもないし、事が公になったら動けば良いか。

 今は、それより何より、キラーマンのライブが大事なのよ!

 あたしは急いでライブハウスに戻った。
 シークレットライブだから、案内看板は出ていない。もともとここの開店時間は二十時。特別に店を開けているのだ。
 いつもだったら通りまで人が並んでいる。時間ギリギリだから誰もいないのだろう。地下に続く階段をくだり、右脇にあるかなり重い木製のドアを押す。「閉店中」という札がかけられているが、案内メールには「気にせず入ってください」と書いてあった。
 目の前には、重そうな暗幕があって、向こう側は見えない。右手には、映画館の切符売り場のような小さな窓口がある。透明の仕切板には黒い布が提げられているので、中の様子は見えない。
 たいていの日は会計をするための列ができている。ドアを開けっ放しにしているので、外の光が差し込む。こんなに真っ暗なのは初めてだ。スマホの懐中電灯アプリを立ち上げ、財布を取り出した。
「いらっしゃいませ。お一人様三千円です。お名前をおっしゃってください」
 黒い布の向こうから、男の人が呼びかけてくる。ライブハウスの店長だ。いつも頭から仮面をかぶっているので、素顔は分からない。今も、手しか出してこない。
 名乗って、五千円札を渡す。店長はおつりとドリンクチケット代わりのメダルをくれた。
 暗幕をくぐると、すでに客席はいっぱいになっていた。ステージには薄明かりが灯っていて、ドラムやキーボードが置いてあり、ギターも何本か立てかけられている。四隅にスポットライト、天井部には横長のカラフルなセロハン紙みたいなものがついた照明器具。中央にはスクリーンが準備されている。
 真ん中の席が一つだけ空いていたので、あたしは観客たちの間を通り抜け、椅子の上にカバンを置いた。前から三番目。後ろからも三番目。本当にど真ん中だ。隣席の男性が軽く頭を提げて、椅子と椅子のスペースを空けてくれた。足元に置かれた荷物の横には、ビールらしき飲み物の入った大きなプラスティックカップが置いてある。テーブルがないから、ちょっと不自由だ。
 ドリンクチケットを持って、ステージに向かって左奥にあるバーカウンターに行った。ここでチップを渡し、好きな飲み物と取り替えてもらえる。
 あたしはカウンターに立つ、革ベストに赤い蝶ネクタイを付けた金髪のおねえさんに、オレンジジュースを頼んだ。おねえさんとはちょっとした顔見知りだ。実際には違うけど、全裸の男性たちに囲まれているので安心する。
「ごめんね。ちょうどノンアルが切れちゃっていて、今買いに行ってるのよ」
「はーい」
 諦めて席に戻ろうとした。
「あ、ちょっと待って」
 おねえさんは、二百円を渡してきた。
「外の自販機できみの好きなものを買ってきて。おつりはいらないから」
 チケットはワンドリンク込みで三千円だ。飲まないと損なのだが、お金をもらってしまうのはなんだか気が引ける。
「女の子はきみだけだから、特別ね」
 バーカウンターのすぐ裏のドアからも、外に行かれると教えてもらった。ドアを開けたら、そこは非常口で、階段につながっていた。上ったら、月極駐車場の奥に出た。安価の自動販売機が並んでいる。
 とりあえず百円入れて、小さな缶コーヒーを買い、一気に飲み干した。残った百円を入れ、大きめのお茶を買う。
 たしか、駐車場の入り口にゴミ箱があったはずと、あたしは一旦、細道のほうを向いた。
 ちょうどそのとき、左手にビニール袋を提げた全裸の男性が通り過ぎていった。
 左肩のあたりに、赤黒いシミが見える。右肩には大きなトートバッグ……。
 間違いない! 
 さっきのかっこいいおじさんだ。
 あたしは小走りで駐車場の入り口に向かって、おじさんの歩いていった方向を見た。
 だけど、誰もいない。
 このあたりのビルに入ったのか――。オフィスか、住居か、それとも――。
 まさか、シークレットライブを見に来たのだろうか。
 だとしたら、キラーマンのファンが殺人犯なんて、許せない。ライブが終わったらとっちめてやろうじゃないの。いきなり殺人犯だと指摘なんてせず、交番に叩き込んであげるわ。
 まずはライブを楽しまないと。
 あたしは裏口から戻り、とりあえず自分の席に座った。
 暗がりの中では、あのかっこいいおじさんがいるかどうかは分からなかった。

 十七時半になった。
 すべての照明が消える。真っ暗闇で何も見えない。どこからともなく、カウントダウンが聞こえる。
 五、四、三、二、一、〇!
 一斉に、ケミカルライトがついた。あたしも手に握りしめている。
 同時に、ステージが明るくなった。背景はここのライブハウスと同じ仕様になっていて、スクリーンに映された映像だとはまったく感じられない。
 ギターの音がカウントをとる。どこからか、ギター兼ボーカルのユキヤが現れた。紫の髪に切れ長の目。髪と同系色のスーツ。二人目の登場は、ドラムでリーダーのリイナ。最年長で金髪ロングにグレーのリクルートスーツがさまになっている。三人目と四人目は、サイドボーカルとバックダンサーのカノンとアレン。男女の二卵性双生児という設定だ。二人ともスーツは白で、カノンはプリーツスカート、アレンはクロップドパンツを履いている。五人目がベースのユージ。最年長で、サングラスを外したことのないおじさん。メンバーの中で一番陽気な性格だ。
 最後に、白衣を身に着けたヒロが出てきた。毎回担当パートが異なっていて、今日はサックスだ。
 あたしは、ヒロの名前を叫びながら、ケミカルライトを振り回した。

 暗闇から手を伸ばした
 何かつかめるあてもないのに
 苦し紛れにこぶしを握ってた

 一曲目は「here」。よくアンコールで使われる曲だ。
 二次元のライブで盛り上がるなんておかしいと、あたしたちを笑う人はいるかもしれない。けど、リアルのライブとどこがどう違うのだろう。振動の有無くらいしか思い浮かばない。
 すごく遠くから豆粒のように見えるアーティストは、本物の人間なのだろうか。
 歌っている声や奏でている音は、あらかじめ録音したものを流しているだけではないのか。
 ならば、二次元のキラーマンを大好きな、あたしの行動は、三次元のアイドルファンと変わらないはずだ。
 ノンアナウンスで続く。二曲目は毎回歌われる少しエロティックな歌詞の「game」。出だしは、ヒロのマウスパーカッションだ。二番のBメロに入った。観客は少しずつ準備を始めている。

 四六時中求めてみたり 飽きるほどすり寄せてきたり
 寂しそうな目をしたり 何だってんだ思わせぶり
 みだらな唇 気まぐれと動きそう

「なりたい自分になりな!」

 サビの直前、ヒロが叫んだ。今日のMCはヒロだったんだ。三回目は双子の男の子、アレンだった。だから、その次の四回目、今日はカノンの番だと思っていた。
 まさか、ヒロだったなんて!
 会場でも、一瞬のどよめきが起きた。やはり、みんなカノンだと思っていたみたいだ。
「カノン、何かあったのか」
 小さな声だけど、確実にあたしの耳に誰かのつぶやきが入ってきた。病気や事故でないといいけど。そういえば、日比谷線が人身事故で止まっていたみたいだし。電車が動いていないから会場に来れなかっただけだと思いたい。
「やけどしそうなシーソーゲーム」と曲はサビに入るのだけど、ドラムのソロが入った。
 観客たちは、一斉にキラーマンのオタTもボトムも脱ぎ捨て、トランクスやボクサーパンツを振り回す。会場ではあたしだけが、服を着たまま立ち上がった。
 このイベント、キラーマンの「なりたい自分になりな!」というコンセプトにちなんで、観客は全員全裸になるのだった。だから、観客は男性ばっかり。
 初回では、あたしもつられて服を脱いで、上半身はブラトップ一枚になった。でも、すぐにさっきのバーテンのおねえさんがやってきて、「女の子はお洋服を着てね」とささやかれたのだ。
 今日は排卵日と重なっていたので、みんなライブ開始から全裸だった。どこからともなく足元にTシャツが落ち、トランクスやボクサーパンツが宙を舞う。
 三曲目、昭和歌謡とラテンリズムを混ぜた「アジスアベバで逢いましょう」が流れた。

 出逢いはマスカル祭の夜 焔に揺れる端正な横顔
 私は瞳をそらせずに瞳と瞳があう 合言葉はアジスアベバで逢いましょう

「HA!」
 ボーカルのユキヤに合わせて観客の野太い掛け声が入る。
 お祭りソングのように盛り上がり、間奏、それから少しの沈黙が入って、二番に曲は移った。

 突然焔が闇に変わる 舞う火の粉愛のフィナーレ告げるの
 私の膝であなた泣きじゃくる 苦しいのは空気が薄いせいじゃないわ
 真夜中過ぎて何も言わず立ち上がり あなた、私の手を取って教会抜けて走る

 何も持たず、両手を頭上で振り回している人もいる。下着を頭にかぶっているのだ。イベント前は、お酒が飛ぶようになくなるらしい。素面では、とてもついていけないのだろう。あたしも、恥ずかしくて人に見せられないくらい踊り狂った。
 曲が終わり、ヒロのMCが入る。メンバーが一人ずつ紹介されていく。スクリーンの裏にいるのだろうか。もっと早く分かっていたら、出待ちしたのに! といっても、あたしはヒロの声優の顔を知らないのだった。
 MCは、顔見せをすることもある。ならば、あたしはヒロの全裸を見てしまうことになる。
 そんなの、見たくない。ヒロは、白衣にメガネでないと駄目なのよ。ううん、声だけでいい。生の人間のビジュアルなんて、いらない。
 あたしの心配をよそに、バラードが二曲続けて流れた。全裸の男性たちが各々浸る姿は、滑稽でもあり、人間の本当の姿を映しているように見えた。
 五曲目は、ヒロのソロだった。彼の好きな尾崎豊のカバー曲だ。誰もが知っているメロディーのラブソングでなく、不器用なアイデンティティを爽やかに歌う内容だった。
 会いたい。ヒロを生で見てみたい。
 でも、会えない。
 今日が排卵期じゃなかったら、どんなによかったことか。
 最後に、全パートのソロ入りのロックを歌い、ライブは終了した。鳴り止まない拍手のなか、アンコールが流れ出す。曲名は「地球儀」。

 どこから僕は来たんだろう
 どこへゆこうとしたんだろう
 どうでも良くなるほど優しく包まれてた

 裸の男性たちは、荷物を自分の座っている椅子の上に置き、脇に退けているテーブルを並べ出した。店内は、何事もなかったかのように通常営業に戻っていく。
「なりたい自分になれたかい?」
 ヒロの声がした。野太い歓声が湧き上がる。
「最後に記念写真だ。みんな、ステージの上に立ってくれ。おっと、SNSへの投稿は禁止だぜ。捕まっちまうからな。ありのままの姿で行くぜ!」
 みんなは一斉にステージに登り始める。あたしは、近くにいた男性たちに抱えられて上げてもらった。
「ハニー。女の子一人なのに、裸の男どもに囲まれてよく頑張った。みんな、彼女を真ん中にしてくれ」
 あたしは中央の最前列に立たされた。周りを男性たちが取り囲む。
 ヒロが、あたしを見てくれている!
 それだけでも、胸がいっぱいだ。
 バーカウンターのおねえさんも入ってきた。出入り口のほうから、すごく痩せた男性がステージに駆けつけてきた。見たことはないけど、妙に慣れている。
 この人、きっとライブハウスの店長だ。
 今日は排卵期だから、いつもかぶっている仮面が見えないのだ。思いがけず、素顔を見てしまった。
「行くぜ!」
 ヒロの掛け声で、一斉に観客席のほうを向く。ステージ上にはライトがあたっていて、観客席はまったく見えない。どこかに隠しカメラがあるのか、そうでなければ、きっと、あたしの知らないスタッフが撮影するのだろう。希望者は、次回来訪したときにプリントアウトした写真をもらえる。
「ヒロも入ろうぜ」
 誰かが幕の裏に向かって叫んだ。
「俺? 俺は……写ってるかもしれないぜ。ほら、前向けよ」

 五、四、三、二、一、〇!

 シャッターが切られた。
「みんな、店に迷惑をかけないよう、とっとと帰ろうぜ。夢でまた会おう。じゃっ!」
 男性たちは次々にステージから下り、服を着始めた。オタTをカバンにしまい、スーツを着てネクタイを締める人もいる。ラフな格好をしている人は、早々にライブハウスを後にしていく。
「あ、あれ……」
 いきなり能力が終了した。今月の排卵期が終わったのだ。

 どうしよう。どうしたらいいの!
 あたしは児童遊園のブランコに揺られていた。ヒロの出待ちをするかどうか、迷っているわけではない。
 返り血のついた人を探したかったのに、排卵期が終わってしまい、みんなも服を着始めたので、殺人犯が紛れ込んでいるかどうかの判断がつかないのだ。
 ライブハウスのあるビルまで戻ってみた。月極駐車場の奥から出入り口まで、歩いて数十秒。駐車場の前を通り過ぎた人が姿を消すためには、ビルの中に入るしかない。ライブハウスの入っている雑居ビルは、一階は今日は休業日のお好み焼き屋さん、二階以上は怪しげなバーや風俗店っぽいお店が入っている。お好み焼き屋さんの関係者ではなさそう。店内には入るためにはシャッターを上げなければならないから、立ち止まっている姿を、あたしは目撃できたはず。
 もっと上の階に用事がある場合を考えてみる。エレベーターはライブハウスに続く地下階段のちょっと先、ビルの端っこにあった。ビル内に入る姿は目に入っただろう。
 ライブハウスのお向かいにあるマンションに入った場合。マンションはかなり大きめで、エントランスは片道二車線の大通りに面していた。管理室などの裏口があるかどうか探してみたけれど、見つからない。そもそも、ライブハウスの向かいの壁面は、マンションのゴミ置き場になっている。ゴミ箱に隠れるなんてことはしないだろう。なんで隠れるのか、理由がないし。
 やはり、ライブハウスに入場したのだ。
「写真に手がかりがあるかもしれない!」
 急に、頭がひらめいた。声に出してしまった。
 身体に返り血がついていることは、当人も知っているはずだ。服で隠れないところだけ急いで拭ってきたのに違いない。シャワーで全身を洗い流す時間的余裕はなかったのだろう。
 だったら、全裸になるイベントであっても、服は脱がないはずだ。
 集合写真に服を着た人が写っていたら、その人が殺人犯である可能性は高い。
 再びライブハウスに入った。
 出入り口が真っ暗なのは変わらない。受付から声がかからなかったので、暗幕をめくってみた。さっきまでの喧騒なんてなかったかのように、あらゆるものが撤収されている。お客さんもいなかった。
「どうしたの? 忘れ物?」
 バーカウンターから、おねえさんが声をかけてきた。
「写真を見たくて。もらってもいいですか」
「きみ、ヒロの大ファンだもんね。待ちきれないか」
 すっかり覚えられている。前回、ヒロの缶バッジで埋め尽くされたカバンを持っていたからだ。
「まだプリントアウトしてないから、見るだけでいい?」
「ありがとうございます」
 デジカメを渡される。男性の大半が全裸だった。しゃがんでいる男性たちの真ん中に、オタTを着たあたし。右の隅っこにおねえさん。左端には、仮面をかぶって、マントを身に着けた背の高い男性が写っている。マントの下には、ライブハウスの制服である革ベストと赤い蝶ネクタイがちらっと見える。店長だ。
 もう一人、服を着ている人物がいた。最後方の真ん中、何かの台の上に乗っていて、よく目立つ。
 首にはストラップのようなものを付けていて、サックスがぶら下がっている。白衣にメガネ。髪は銀色ではないけれど、ライトのせいでグレーに見える。
 ヒロだ。
 あたしより十歳くらい年上で、どこかで見かけたような顔で、アンニュイな雰囲気が漂う。肩から上しか写っていないけど、完全に逆三角形の体型なのだろう。
 声だけの出演だから、開演ギリギリの時間にライブハウス入りしても不自然ではない。
「大丈夫? ヒロにはまたいつか会えるから、大丈夫。ね、また何かイベントできないか、店長に頼んでみるからさ」
 涙が出てきた。
「今日、ヒロは急に出てもらったのよね。本当はカノンの予定だったんだけど、日比谷線が止まっちゃったから来れなくなっちゃって。ヒロに会いに戻ってきたんだよね。ごめんね。彼、本業が終わってすぐに来てもらったから、ライブが終わったらすぐに帰らせたのよ」
 だから、ヒロは返り血を浴びたまま、シークレットライブに出演したのだろうか。急いで家を出てきたから。同じ時間に都電に乗っていなければ、あたしはヒロの正体を知ることもなかった。
「帰ります。失礼しました」
 軽いめまいを覚えながら、あたしはおねえさんに頭を下げた。
 そのとき。
 スーツを着た数人の男性たちが、ライブハウスに侵入してきた。おまわりさんの制服を着た、六十歳くらいの男性が先頭に立つ。
「警察です。ちょっとお尋ねしたいことがありまして」
 まさか、シークレットライブが通報されたのか。公然わいせつ罪に該当しても、おかしくない。おねえさんが驚いている。男性たちの後ろには、仮面を外した店長がいた。
「あたしたちは別に何も……。未成年にアルコールは提供していませんし」
 おねえさんは冷静だ。
「そうではなく、スタッフの方に聞きたいことがありまして」
 ヒロのことか。
 事件が明るみになったのだ。
 ヒロは、ライブハウス内に残っているのだろうか。
 ステージの上のスクリーンが動いた。人影がバーカウンターのほうにやってくる。裏口から逃げ出す気だ。
「ヒロ! 逃げて!」
 あたしは叫んだ。
「彼が何をしたっていうんですか」
 おねえさんが警察を制するのも虚しく、人影はすぐに捕まった。
「……だな。殺人未遂と薬物接種の容疑で令状が出ています。上野警察署までご同行願えますか」
 暴れる男性を、警察の人たちが押さえつける。
「荷物はこれだけだな」
 おまわりさんの一人が、店長からあの大きなトートバッグを受け取っている。ヒロは荷物を置いていったのだろうか。ううん。本当は帰っていなかったんだ。おねえさんが嘘をつくような人には見えないけど、しつこいファンを追い払うためには仕方ない。
 騒ぎがどうにか収まってきた。
 革ベストに赤い蝶ネクタイを身に着けた男性が連行されていく。
 その姿を見て、安心した。排卵期だったら、きっと気がつかなかった。

 あたしが追っていた、かっこいいおじさんは、ライブハウスのスタッフだった。

 月極駐車場で目撃したときは、急遽ソフトドリンクを買いに行ったのだろう。集合写真のシャッターは、この人が押したのだ。
 男性が連行されていく姿を見た。さっきの写真に写っていたヒロの顔とは、だいぶ違っていた。
「あの……」
 あたしは、一番年長そうな、制服を着たおまわりさんに声をかけた。
「あの人と、たまたま同じ電車に乗ってここまで来たのですが、何か情報提供したほうがいいですか」
「今のところは大丈夫ですが、念のため、連絡先を教えていただけますか」
 身分証明書の提示も促されたので、あたしは学生証を見せた。おまわりさんは胸ポケットから手帳を出してメモを取っていく。
「大変失礼ですが、ずいぶん珍しい名字ですね」
「日本に一家族しかいないそうです」
「まさか……ご家族のご職業をお聞きしてもよろしいでしょうか。もちろん、任意なので、お答えいただかなくても構いません」
「父は今、無職です。今年の三月までは、警視庁に勤務していました」
「副総監のご令嬢でしたか!」
 おまわりさんの背筋が伸びた。
「あの……、あたしがここにいたことは、父には内緒にしていただけますか」
「もちろんです。本官も道をお尋ねしたことは、大変不躾なお願いですが」
「はい。黙っています」
 その後、あたしはおまわりさんの運転する車で、JR上野駅まで送ってもらった。

 シークレットライブから三ヶ月がすぎた。
 今日は第五回目のライブが開催される日だ。
 あたしは、前回のように東池袋駅から路面電車に乗った。排卵期ではないので、運転手さんも全裸ではない。
 王子駅を過ぎても、あのかっこいいおじさんは乗ってこなかった。一スタッフが起こした事件なので、ライブハウスは営業停止にならなかったそうだ。
 報道によると、被害者は、やはり恋人で、麻薬をやめるように注意したところ、斬りつけられたらしい。あまりの出血で、男性は恋人が亡くなったと思っていたそうだが、致命傷にはいたらなかった。自分で救急車に連絡し、救急隊員が警察に通報したという。
 返り血は見える。
 あたしの能力に、項目が増えた。
 推理はあながち間違ってはいなかった。けど、ザルだらけで、名探偵なんてとてもなれない。ううん。ならなくていい。事件はもうこりごりだ。
 終点の三ノ輪橋駅に着いた。乗客はあたしだけだった。中央部の降車口から、ホームに出た。

 ハニー。夢で会おう。じゃっ!

 聞き慣れた声がした。振り返ると同時に、ドアが閉まる。
 運転手さんがちらっとこっちを見て、軽く帽子を持ち上げた。中指には、ごつめのクロムハーツの指輪が見えた。


千澤のり子(ちざわ・のりこ)
 二〇〇七年、『ルームシェア』(二階堂黎人と合作、講談社ノベルス)でデビュー。本格ミステリ作家クラブ会員。羽住典子名義で評論も手がける。小説作品に『マーダーゲーム』(講談社ノベルス)、『レクイエム』(講談社ノベルス)『シンフォニック・ロスト』(講談社ノベルス)、『君が見つけた星座 鵬藤高校天文部』(原書房)等。評論の近作に『本格ミステリの本流 本格ミステリ大賞20年を読み解く』(共著、南雲堂)、小説の近作に『少女ティック 下弦の月は謎を照らす』(行舟文化)『暗黒10カラット 十歳たちの不連続短篇集』(行舟文化)がある。

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