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松本寛大「かっこうとかささぎ」

Photo / Unsplash  for  Patrick Hendry

 馬鹿みたいな青空と草っ原。新緑がまぶしい。鳥が飛んでいく。
 子供があっと声を上げた。おれは首を振る。あれはカササギではない。
 カササギが羽を広げた姿を後ろから見ると、揚羽蝶のようだ。実はさほど似ていないのだが、染め分けられたような黒と白の模様に加えて、尾羽が光沢を帯びたように輝いているあたりも手伝って、ほんの一瞬、そう思わせる。少なくとも子供のころのおれにはそうだった。
 大学の博士研究員だと自己紹介した電柱みたいに痩せた男が、それではいきましょうと合図した。マンガに出てくる博士は爺さんばかりだがこいつは若い。話の前半を聞いていなかったので名前はわからなかった。仕方がない。きょう一日、こいつは電柱だ。
〈カササギの営巣場所見学ツアー〉ご一行様総勢二十二名が、だだっ広い公園をぞろぞろと移動する。こまっしゃくれた子供を連れたしょぼくれた夫婦だの、暇そうな年寄りだの。それから、図体がでかく目つきの悪いチンピラだの。おれのことだが。
 先頭は五嶋ごしま准教授。奴の息子の債務が原因でおれはツアーに参加する羽目になった。
 聞く気はなくても電柱の話が耳に入る。福岡の一部と佐賀にしか生息していないはずのカササギが、北海道の中南部を中心に各所に定着していることは、二十数年ほど前から知られていたという。
 漢字では昔に鳥と書いて、カササギ。織姫と彦星の出会いのため天に橋を架けた逸話で知られ、中国では縁起の良い瑞鳥ずいちょうである一方、西欧では魔女と関わりの深い凶鳥とされています。日本には十六世紀に朝鮮から持ち込まれて定着したという説が有力です。へえええ。勉強になるううう。
「すごおく興味深いお話ですが、このあたりには、そんなにたくさんカササギがいるんですかね?」
 おれはあくびをかみ殺すと、手を上げて電柱の話をさえぎった。五嶋は無表情だ。素知らぬふりというわけだ。
「営巣は百カ所以上。二百羽を超えるつがいが確認されています」
 電柱の返答におれはうなずいてみせる。中年女がこちらを見て、それから目をそらした。我ながら堅気には見えないから無理もないとはいえ、人様に失礼な態度を取ってはいけないと教わらなかったのだろうか。育ちが知れる。
「カササギの飛翔距離は短く、渡り鳥のように海を越えて来るとは考えづらいです。そうなると、北海道で繁殖しているのが不思議ですよね。皆さん、なぜだと思いますか? このクイズの答えはツアーの最後に」
 おれが北海道までやってきたのは二年前、船に乗ってだ。カササギも同様だろう。この街は韓国や中国との航路を持っている。貨物にまぎれてきたのに違いない。
 カササギはおれに故郷を思い出させる。なじみ深い黒白の鳥のつがいが北の街の果てしなく広がる草原の上を飛んでいるのを見たときには驚いた。
 おれが来たのはカササギとは異なり巣作りのためではなく、この街でカジノ誘致が続いているからだ。乗じて、健全な商売や不健全な商売が動く。あまりたちのよくない不動産屋も動けば水商売の男女も動く。先鞭をつけた者が勝つのは世の習いだ。
 誘致に関しては推進派と反対派とそれ以外と、大勢の人間の思惑がもつれてからみあっている。何がどうなっているのかおれにはわからない。とにかく、誘致計画の見送りと再検討はここを離れる機会をおれから奪った。
 佐賀の高校を出たのちに福岡で路頭に迷った。おれを拾ってくれた恩人はナイトクラブの経営者で、彼のために働くようになった。学も愛想もないおれにできるのは女たちの世話と借金の取り立てくらいだった。
 恩人の口癖は「誰も助けてはくれない」だった。その割に面倒見のいい男だった。おれがそう軽口をたたいたとき、珍しく返す声に不快さがにじんだ。「おれはおまえを助けることなんかできない。自分で這い上がれなくなったら終わりだ。チャンスを逃した奴の負けなんだ」
 恩返しは昨年、彼の急死による離別という形で終わりを告げた。心疾患、五十歳。葬儀が終わってから報せを受けた。おれが福岡に戻ることを疎ましく思う連中がいたせいだ。
 この生活も潮時だろう。土を焦がす佐賀の太陽にも、寂しい枯れ野を吹く北風にも疲れた。福岡には戻れない。ほかに土地勘があるのは広島くらいだ。恩人が故郷へ帰るというのでお供をして、半年ほど過ごした。記憶の中の広島の陽の光はまばゆく、瀬戸内の海は穏やかだ。路面電車も好ましい。カープは好きでも嫌いでもないが、そのうち好きになれるだろう。
 恩人の店の系列店であるスナック経営を真面目に続けながら、おれは機会をうかがっていた。後ろ盾はとうに失っているが、周囲に知られるわけにはいかない。五嶋の件に関わったのはそんなときだ。
「CLUBたんぽぽ」の開店準備をしているところへ、瀧野たきのから電話がかかってきた。
沢里さわさとさんにしか頼めないんですよ」
 おれの福岡帰りを阻止した張本人だ。やつの狐みたいな目を思い出したおれの顔つきが変わったのを見たのだろう、ママは店の外へ出て行った。去り際にこちらを振り向いたので、頭を下げた。またひとつ小さな借りができた。借りてばかりだ。
「単刀直入にご用件をお伝えします。秋丸あきまるに横領の疑いがあります。調査をしていただけませんか」
 きなくさい話だった。下手をするとおれの身まで危うい。というかたぶん、おれを巻き込むために連絡をよこしてきたのだ。
 聞くと、宮森みやもり孝之たかゆきという若造の借金が発端だという。宮森は札幌の大学に進学したものの学生の身分で幼稚な夢を見て起業、失敗して借金をこしらえた。コロナのために講義がすべてリモートに切り替わり、実家のあるこの街に戻った。札幌から追いかけてきて金を取り立てたのが秋丸だった。
「秋丸が回収したのは四月。百七十万です。五月には岸本きしもとにやらせました。さらに百五十万。返済が遅れたぶん、利子が膨らんでいますから、まだ若干の未回収があります。その催促をした岸本に、宮森が妙なことをいったようです。本当は四月には用意できていた。なのに盗まれたんだと。盗難の詳細は岸本に聞いてください」
「子供のいうことを鵜呑みにする気か?」
「秋丸が別組織のメンバーとつながっているのではないかと、以前から疑っていました」瀧野はあるアジア系の組織の名をあげた。特定のシマを持たず、ススキノのあちこちに顔を見せる不気味な連中だ。「百万や二百万の横領よりも、その金をなにに使ったかです」
 おれは秋丸が運を使い果たしていることに少しだけ同情した。あいつもあまり幸せではない半生だった。チャンスを逃した奴の負けだ。
「宮森の係累は」
琉菜るなという高校生の妹とふたり暮らしです。両親は離婚。母親は昨年亡くなっています。宮森は母親の旧姓です」
「その有様で、どうやって金を工面したんだ」
「父親からでしょう。五嶋やすし。東京の大学で教えています」
 大学教授というのは爺さんがなる職業だという思い込みがあった。追って到着した岸本からのメールに添付された写真の五嶋は痩せて自信なさげな顔をして見えた。貧相な中年というのは気に入らない。劣等感を爆発させることがある。自信ありげな中年はもっと気に入らないのだが。
「写真を見た。それで五嶋教授は――」言いかけると岸本は遮り、
「特任准教授です。大学教授ではありません」
「知らねえよ。話して五秒でおれをいらつかせるのはおまえの才能だと思うぜ。なんだよ准って。部長と副部長みたいなものか」
「その上に特任ですから。期限付きで、正規と違って待遇も悪いですね」
「とはいえ普通より金はあるだろう。母親の死後、子供達を引き取っていないのはどうしてだ」
「さあ。詳しくは知りませんが、家族がぎくしゃくしているようです。そもそも五嶋の女房の浮気が離婚原因らしいですし」
「金の動きについて教えてくれ」
 たずねると、岸本は瀧野の話をなぞった。それから、
「五嶋が四月上旬と五月上旬の二度、宮森のもとに出向いたことは確認がとれています」
「送金の記録は確認したか」
「宮森の通帳をこの目で見ました。金の出し入れはなかったですね。現金で受け取ったようです」
「待ってくれ。借金のことを知った五嶋は直接息子に会った。たぶん咎めるためだ。それはわかる。自然な行動だ。翌月の二度目はどういうことだ?」
「ずれ込んだ理由ですか? 大学の都合で、身動きがとれなかったんでしょう」
「だからさ、なぜ足を運んだ? 送金じゃダメだったのか? そのせいで返済が遅れ、利子がかさんだんだ」
「五万や十万、気にする懐具合じゃないのでは」
「それをいうなら、そもそも大学教授なら、三百万くらい用立てられそうなもんだ。なぜ四月の時点では百七十万だったんだ?」
「そんなところ、気になりますか? あと准教授です」
「前者は気になる。後者は気にならねえ」
「口座への送金を選ばなかったのは息子が信用できなかったからではないでしょうか。金の流れを通帳に残したくなかったというのも考えられます。金額が少ないのは、投資に回すなどしていてすぐには準備できなかっただけかもしれません」
「宮森、五嶋とそれぞれ接触してみるしかないな」
「実は五嶋は、来週から二週間ほど、北海道に滞在の予定です。IR候補地の自然環境調査のためです。そのタイミングでつながってください」
 カジノの誘致計画が見送りになったのは、コロナというタイミングの悪さに加えて様々な理由、ことに環境への悪影響が懸念されてのことだ。その後の調査の結果、問題はクリアできたと市は強気だった。
 候補地周辺の環境調査では、植物や鳥類、特に猛禽類への影響が確認された。猛禽類の営巣地から数百メートル離れて工事すればまあ大丈夫だろう(ほんとうに大丈夫かどうかは知らないが、おれには関係がない)という基準が作られたが、カササギについては言及がなかった。土地固有の種ではないからだろうか。カササギは天然記念物だから、その存在が見過ごせなくなれば再調査もあり得る話だ。
 しばらく前にも別の大学がカササギの営巣地調査や市民向けの公開講座等を実施したと聞いている。それをわざわざこうしてもう一度おこなうのは、カジノ関係者へのなんらかのアピールかもしれない。
「五嶋康さんだね。おれは借金の取り立て人だ。あんたの息子から聞いた番号にかけている」
 新千歳空港で張った。五嶋がJRで街まで移動したのち、タクシーで家具付きマンションに乗り付けたのを見届け、電話をかけた。顔を拝んだのは、おれがメール添付の写真を信用していないからだ。べつに岸本が瀧野側の男だからというわけではない。他人の撮影した写真を盲信するほど猜疑心と無縁の生活を送ってはいないのだ。羽田空港からずっと尾行していたと告げると(多少の潤色は必要だ)五嶋はうろたえた。
「あんたら親子には債権者が迷惑している。また電話する。これからもよろしく頼むよ」
 相手は大学教授だ。借金取りの扱いには慣れていないだろう。いや教授ではなかった。面倒くせえ。とにかく、奴はすぐぼろを出すはずだ。きっと秋丸の尻尾もつかめる。その上で、おれがどう立ち回るべきかを考えるのが差し迫った問題なのだ。そう思っていた。甘かった。

「糞を採取し、カササギの食生活について確認したところ、驚くべきことがわかりました。カササギの食べ物の半分以上が当初は予想もしていなかったものだったからです。ここでクイズです。なんだと思いますか」
 電柱の抑揚の付け方が大げさで気に障る。どう見ても人前で話すことに慣れていない。太鼓持ちを演じているのか塾講師なのか、スタンスがはっきりしない。
「そちらのかた、思いつきでけっこうですので、どうぞ」
 気の弱そうな爺さんが「木の実」、隣の丸顔のばあさんが「虫」と答えた。木の実や虫に意外性はないだろうに。
 続いて発言を促された親子連れの父親のほうは「生ゴミ」といった。
「惜しいですね」と電柱。「カササギは雑食性で、木の実や種子のほか、虫などの小さな生き物も食べます。正解をいいますと、ドッグフードです。つがいの一方が犬の気を引き、もう一方がその間に食事を済ませるという例が多数報告されています。カササギはカラスに近い種で、非常に賢いんです」
 見習いたいものだ。
「カラスとは違って営巣場所に近づいても人を襲ったりはしません。もう巣立ちの時期を過ぎていますので今日は安心と思いますが」
 桜並木はとうに葉桜。パークゴルフ場を左手に眺めながら池に向かう。おれはあえて行列から離れ、歩みをゆるめた。五嶋が周囲を警戒しながらこちらに近づいてきた。ほかの連中はカモに気を取られている。おれも立ち止まり、双眼鏡でカモを探した。
「何が目的でここまで?」
「鳥について学びたいと思ったからですよ。いけませんかね」
「失礼な人だな」
「似合わないことはやめときなさいよ。先生あなた、おれのことをチンピラと思って見下しているでしょう。メンツでメシを食う生き物ですから、チンピラにこそ虚勢は通用しないんですけどね」
「多忙で利子の支払いが遅れたことはすまないと思っている。すぐに払う。それでもう用はないはずだ」
「用があるかないかを決めるのはセンセーではありませんな。息子さんから聞いているのでしょう?」
「カマをかけるのはやめていただきたい」
「では直球で行きましょう。金が盗まれたとのご主張で?」
「息子の邪推だ」
「息子さんはなにを疑っておられるんですかね。我々? 別の借金取り? よく頭の回る息子さんだことで、さぞご自慢でしょうな」
 五嶋は露骨に眉をしかめてみせた。貧相な中年にしては気丈じゃないか。虚勢は嫌いじゃない。人には意地を張らなきゃならないときもある。

 先週のことだ。
 宅急便ですというおれの声で宮森孝之はドアの鍵を開けた。音でわかるが、チェーンロックをかけていない。ドアスコープの前で迷った雰囲気もなかった。信じられない間抜けだ。起業が失敗したのも当然だ。宮森はおれの顔を見てから、やっと事態を理解したようだった。おれは室内に滑り込むと後ろ手にドアノブのサムターンを回し、さらにチェーンロックをかけた。ここは三階だから、もとより窓からの逃亡はあり得ない。
「宮森孝之、聞きたいことがある。もちろん金の件だ。おまえ、誰かが盗んだといいふらしているそうじゃないか」
 宮森の目が泳ぐ。
「おまえがおれたちを疑っているように、おれたちもおまえを疑っている。それでこそ公平ってもんだ。違うか」
「あの」
「同意以外の返事はいらない。確認するから通帳見せろ。盗ろうってんじゃない。確認だ。信用の問題だよ」
「持ってきます」
「一緒に行くよ」有無をいわせなかった。靴を脱ぎ、ビールの空き缶がぎっしり詰まったビニール袋をまたぐ。
 部屋は狭かった。あまり豊かな生活をしているようには見えなかった。タンスの上に母親の位牌を見つけた。周囲にはほこりが積もっている。宮森は寝室のバッグから通帳を取り出した。
 通帳を開く。父親からの最低限の養育費。アルバイト先からの振り込み。奨学金という名の借金。家賃と生活費の引き落とし。その繰り返し。綱渡りのような数字の羅列。
「ほかの通帳」
「ないです」
 バッグをあさった。財布を見つけた。先ほど確認した通帳と同じ口座番号のカードがあった。それだけだ。
「この顔に見覚えは」
 おれは自分のスマホに秋丸、岸本の写真を表示して見せた。
「この人たちに金を返しました」
「いつ」日付をいわせた。それから、「五嶋教授から現金を直接受け取ったと聞いている。時期や手順について話せ」
 三月。父親に泣きついた。自分で責任をとれとの答え。その後、金の無心のため友人宅を渡り歩いたが、成果はほぼ得られなかった。四月のある日、駅まで来いと呼び出された。自分を見捨てたと思っていた父親がそこにいて、金をくれた。父親とは駅で別れた。帰宅後に確認すると、半端な金額だった。
「なぜ全額ではない?」
「考えませんでした。当座がしのげれば良いと」
「そのとき限り、そのとき限り……。だからダメなんだよ、おまえは」
 秋丸が取り立てに来た。呼び出され、あるだけ渡した。借入残高を父親に連絡すると、翌月、あらためて金を持ってきてくれた。その後、岸本が取り立てに来た。想像以上に利子が高く、愚痴をこぼした。
「あのう……なにが問題でおおごとになっているんでしょうか。残りの金はバイト代から三ヶ月くらいで返せると思います。頼みます。少しだけ待ってくれれば」
「父親と別れた時間は」
 返事をせず質問を重ねた。宮森の答えを待って、スマホで時刻表を検索する。とりたてて疑わしいところはない。羽田行きの飛行機と問題なく接続できるようだ。
「父親から金を受け取って、帰宅したんだな。どの時点で金額の確認をした?」
「帰宅してすぐですけど」
「金を持っている間、誰かと会ったか。さっきの写真の男はどうだ」
「借金取りを疑っているんですか」
「おれは誰でも疑う。返事は」
「いえ、誰とも会っていません」
「その日、家に出入りしたのは」
「それも、誰もいません」
「スマホ預かるわ」
「え」
「何か問題でも?」
「あの、勘弁してもらえませんか」
「……びっくりした。本当に驚いたよ。勘弁してもらえると思っているなんて。おれのことをなめているんだね。そんなふうに見られちゃうのか。参ったな」おれは手を伸ばし、「出せよ」
 宮森はしぶしぶ従った。おれは片方の手でスマホを、もう一方の手で奴の親指をつかんでねじり上げた。
「指紋認証?」
 スマホに親指をあてる。動作しない。宮森の返事は言葉にならなかった。歯を食いしばっている。おれは手を離し、すぐに胸元をつかんだ。マスクをできるだけ乱暴に剥ぎ取る。
「顔認証?」
 実際、顔認証だったようだ。「座ってていいよ」
 ざっと数十分はスマホをいじくりまわしていた。友人に金を預けたり、オンラインで金を動かしたりした形跡は見当たらなかった。
「話を戻すぞ。盗まれたという発想が出てきたのはなぜだ」
「たいした理由じゃないんです。よく考えてみたら、父が飛行機で何度も来るのはおかしいから」
「おまえも考えることができたのか。意外だ。賢いな」
「二度目のとき、最初に全額くれれば良かったのに、また利息がついちゃったと、父に。そうしたら、おまえはなにもわかっていないと」
「確かにおまえはなにもわかっていない。なにか変か?」
「ぼくのせいで金を全額用意することができなかったっていっているように聞こえませんか。でも、思い当たることはなにもありません。ふつうに考えれば、金が用立てられないのは、父の事情でしょう。いや、きっと無理をしてくれたんだと思います。でもそれ、ぼくにわかるはずないです。父親とは五年ぶりに会っているんです。母が亡くなったときも会いませんでした」
「金がそんなに簡単に用意できるはずもない、おまえは世の中の苦労をわかっていない、という意味では」
「父は裕福ではないまでもそこまでお金に困っていないと思いますし、返済を二度に分けるデメリットの方が大きいような」
「困ったな」
「困った?」
「おまえのことを、ちょっと賢いと思ってしまって困惑している。ここまでの理屈は通っているよ。消去法で考えると、いったんは用意したものの、おまえのせいで足りなくなってしまったと、そういうことか」
「ですが、ますます思い当たりません」
「ほかの借金は」
「いま、ぜんぶひとつにまとまっているはずです」
「知っている。それ以外のルートの話をしている。いわゆるヤミ金だ。それなら利子の上限も糞もない」
「ないです」
 おれは少し考えて、「妹が金を盗んだ可能性は」
「たぶん、違います」
「なぜそういえる。おまえが借金して逃げ帰ってきたことも、父親に肩代わりしてもらおうとしたことも、妹は知る機会があった。そうだな」
「直接話してはいませんが、電話の会話なんかを聞いていたらわかると思います」
「金を受け取った日、妹は」
「不在です。短期入院のためです。体調崩して。家を出るときも、金を受け取って帰ってきたときも、ぼくはひとりです」
「それどっちの話? 四月? 五月?」
「四月の話です。もっとも妹は五月にも体調を崩して再入院です。そのときは父に比較的時間の余裕があったらしく、付き添っていました」
「あのさ、宮森くん。妹と仲、悪いわけ?」
「……良くはないです」
「なんで」
「ちょっと理由があって」
「想像はつく。戸籍にはそんなことは書かれていなかったけれど」
 宮森の目が丸くなる。戸籍まで見られているとは思わなかったようだ。調べるに決まっている。こいつはまだ巣立ちできていない雛だ、と思った。
「知られているんですか、父親が違うこと」
「おれもはっきりとは知らない」実際はかすかにも知りはしない。浮気が原因の離婚ときいていたのでカマをかけただけだ。
「妹はおまえより先に父親と接触した。それで金を無心するなり、盗むなりした。この推理はどうだ」
「そうは思えません。金を欲しがるようなタイプじゃないんで」
「本人は欲しがらなくても、男にそそのかされたのかもしれない」
「本当にそういうタイプじゃないんですよ。男もいません。相手にされないから。会えば嘘をいっていないってわかってもらえると思います。あの、金、ほしいじゃないですか。仕事もしたいし、強くなりたいし、自分はこれだけやったんだって思いたいじゃないですか」
「宮森くうん。なんの話?」
「ふつうなら、ってことです。でも妹はそういうの、ぜんぶないんです。なに考えているかわからない。ただ生きているだけ」
「父親が違うってのは、なんでそう思った?」
「詳しくは知らないけど、昔、父さんがいってたから。でも、ほんとうにそう思います。おれや父さんと血がつながっているとはちょっと思えないところがあって」
「妹の部屋、見せて」
 壁に背をつけ、膝を抱えていた宮森が立ち上がった。「それは困る」のひと言すらない。
「母親のキャッシュカードは」
「ないです」
「母親が亡くなったことは銀行に届け出済みということ?」
「はい」
「妹の通帳は」
「僕にはわかりません」
 ドアを開けた。妹の部屋におれは戸惑いを覚えた。ゴミ袋が目に入る。生ゴミくさい。そこまでは想定内だが、壁紙が破られている。ソファの布は切り裂かれ、スポンジがちぎり取られている。おれは振り返った。宮森との共同スペースが目に入る。キッチン。テレビ。食卓テーブル。大きめのソファ。リビングテーブル。たしかに雑然とはしている。だが、それ以上でも以下でもない。宮森の部屋も散らかっていたし、だらしがない様子も見て取れたが、琉菜の部屋は種類が違う。
「おまえがやったのか。金を盗まれて、腹を立てて。あるいはそう疑って。ソファの中に札束が隠してあると思ったのか」
「僕じゃないです。疑いはしたけど、これは違う」
「じゃあドーベルマンでも飼ってるのか」
「ストレスでものにあたるんですよ。いつものことです。あいつ、ちょっとおかしいから。ぶくぶく太って、顔も吹き出物だらけで、いつも家に閉じこもって。きょうも病院いっています。心のです」
 心底うんざりした。無言でポケットから宮森のスマホを抜き、差し出した。手を伸ばしてきたから、指をつかんでねじり上げた。
「まだ確認し忘れたことがあったよ。――あ、悪い。指紋認証じゃないのを忘れていた」
 顔を検知して、スマホがぴろんと音を立てた。スリープから復帰したのだ。ちらりと画面を見て、
「もういいわ」
 手を離してやった。
 暗い部屋だ。その部屋を端的に表現するなら、廃屋の二文字だった。カーテンを開けた。ベランダと呼ぶのがはばかられるような小さなベランダ。公園に面している。陽光が差し込む。
 公園に人影を見かけて、スマホを取り出した。オプションの、高価な望遠レンズを取り付ける。手ぶれがひどいが、なんとか相手を表示できた。岸本だ。当然だが、おれはつけられている。おれと秋丸が接触すると瀧野は考えているのだろう。
「面倒くせえ……」
 どこかで福沢諭吉がむっつりした顔でおれを馬鹿にしていた。借金取り人生も、もう本当に潮時なのだ。

 カチカチという音がした。ほんの一瞬、おれの心は夢想に落ちた。家族がまだそろっていたころの粗末な部屋が脳裏をよぎった。明け方、夢うつつにあの音を聞くと、はっと窓を見たものだ。雨粒がトタン屋根をたたく音にも聞こえるからだ。天気が崩れると困る。傘を差して学校に行くのも面倒だし、終日の雨ならテレビの映りが悪くなる。晴れた空を切り取る窓に揚羽蝶にも似た鳥の姿を見つけると、ほっとしたものだ。
「カササギの鳴き声だ。坊主、探せ」
 おれはこまっしゃくれたガキの前で大げさに耳に手をあててみせた。カチカチという鳴き声から、カササギには「勝ち鳥」の異名がある。
 子供が指をさした。高い木の上にカササギがとまっているようだ。ほかの連中が双眼鏡を手にした。電柱がなにかうんちくをかたっている。
 おれも双眼鏡を目に当てた。一抱えもあるような丸い巣。カラスの巣はもっと平べったい。巣作りに用いられた枝はからみあい、そう簡単に落ちたりはしない。針金のハンガーも見えた。
「すみませえん」おれは手を振って電柱を呼んだ。「あそこにカササギの巣が見えます。季節的に子育ては終わったとのことですが、間違いないんですかね」
「巣によります。巣立ちが遅い場合も。ただ、あそこには雛はいないようですね」
「天然記念物の巣だから、気軽に撤去もできませんよね。たとえばですが、電柱に巣を作ったらどうするんでしょうか」
「お詳しいですね」電柱(人間のほう)が目を丸くする。
「出身が佐賀なんすよ」
「ああ、それで。――電力会社が巡視しているんです。電線に接触が見られる場合は道の許可が下り次第、撤去しています」
「ははあ、事前の申請が必要ですか」
「そうですね」
「わっかりましたあ。ところで五嶋先生」
 五嶋がぎょっとした顔でこちらを見る。
「あなた偉い人なんでしょう。いま申請します。あの巣、見てきますね」
「なに?」
 手が届く高さの枝は依託を受けた業者に事前に落とされてしまっている。おれは枝の切り口をつかんで、ぐっと力を入れた。足のひっかかる場所を探し、身体を持ち上げる。若くはない。あと数年もすればこんな芸当も難しくなる。チンピラもたいへんである。
 五嶋と電柱がこちらに駆け寄ってきたときには、おれはもう奴らの手の届く位置にはいなかった。学者に木登りは無理だ。自発的に下りるよう説得するのが関の山だ。むろん、おれが話をきくはずもない。話し合いで問題が解決できるなどと思える人生を送ってきてはいない。
 やがて宮森琉菜の部屋の窓が見える高さまでやってきた。そう。実はおおよそ正面なのだ。見上げる先、十数メートルのところでカーテンが揺れている。少女の影が見え隠れした。
「先生、五嶋先生。聞こえますか。雛はいません。卵の殻を見つけました。ひとつだけ色や大きさが違います。これ、カササギの卵じゃないように思います。カッコウとか?」
 しばらく時間をつぶしたあとで木から下りると、電柱は目を白黒させていた。これまで他人に対して直接に怒りを表明したことがないのだろう、やりかたがわからないのだ。平和な人生だ。少しうらやましかった。
「ああいう行動はほかの参加者の迷惑にもなります。ほんとうに困ります。やめてください」
「すみませんね。ところで、カッコウの件ですが、カササギでもそういうことってあるんですか? よければ説明してくれませんかね?」
「いや、いま申し上げたいのは……」
「なあ、不思議じゃないか。カササギの巣にカッコウの卵があるんだよ。知ってるか?」
 そう子供に聞いた。子供は「知ってるか」という言葉に弱い。そしてこの子供は知っているに決まっている。情操教育の名目で親に連れてこられたのではない。親の方がいやいやついてきたという雰囲気が垣間見える。要するにこの子供は鳥博士なのだ。
「知ってるよ。托卵たくらんでしょ」
 それからしばらく、電柱と鳥博士の托卵に関する会話が続いた。頼もしいことである。「餌が満足に得られない環境の場合、托卵された親鳥がどのように給餌するか知っています?」「ううん、わかんないです」「優先的にカッコウの雛に餌をやります」「どうして?」「それはね……」
 その間、五嶋はおれをにらみつけていた。

 池をカモが泳ぐ。ほかのツアー参加者は食事の時間だ。カモの尻のあたりで水面が乱れる。パンでも持ってくれば良かった。カモにはやらない。おれが食うのだ。
「秋丸か。おれだ。おれがいま、なにをさせられているかわかるか」
「沢里さん。本当に申し訳なく思ってます。どうか見逃してください」
 やっと直接に連絡を取っても大丈夫という確信を得て、おれは電話をかけた。秋丸は打ち明けた。横領は濡れ衣で、別組織との関連もガセだという。ただし疑われても仕方のない、後ろ暗いところがあった。瀧野の女を奪って逃亡中というのが真相だった。
「助けてください」
「助けてもらえると? なめてんのか、無能だからか。なめてるなら殺す。無能なら死ね。おまえのことなんかどうでもいい。なんの関わりもない。黙って消えろ。おれは助けない」
「恩に着ます」
「おれはきょう、鳥の教授のところで借金の取り立てだ。そこで教わったんだが、カササギの夫婦は犬をだまして餌をかすめ取るんだとさ。這いずってでも生きろよ」
 秋丸との通話を終え、五島に向きなおる。
「先生、おれたちの商売をなめちゃいけない。当初に準備した金が一度目の支払いよりも多額だったことは調べがついているんです」
 嘘である。わからないからこそ面倒が起きたのだ。
「目減りしたぶんが、おれたち借金取りの仲間割れを引き起こしました。若い奴が横領し、アジア系の組織とつるんでおかしなことをしているんだろうとの疑いがかけられているんです。麻薬と極端な暴力で知られる組織が関わっているのであれば、金額の多寡の問題ではありません。先生もすでに巻き込まれているんですよ」
「冗談じゃない。無関係だ」
「でしょうな。しかし避けられなかった。群れの存続のためには常に猜疑心が欠かせないからです。因果なもので、そのあり方は平穏とはもっとも遠いわけですが。先生ならわかるでしょう?」
「なにがいいたいのか、さっぱりだが」
「調査の過程で、先生のお子さんがたの住まいにもお邪魔しました」
「家に?」
「先生が嘘をついたのが、回り回ってこうなりましたな。犯罪組織どころか、実は極めて家庭的な話だったわけですが。そのお話の登場人物は、そうですね、まずカッコウ。別の鳥の巣に自分の卵を産む。続いてカササギの夫婦。自分の子でもない鳥を育てる羽目になる。そして、カササギの雛とカッコウの雛。托卵というスラングがあります。女が浮気相手の子供を産む。夫は何も知らない。いい面の皮だ」
「あんたはどこまで……」
 どこまで知っているんだ。どこまでおれを馬鹿にするつもりだ。どっちだ? だが五嶋は言葉を続けなかった。
「先ほどうかがった先生の部下のお話は興味深かったですね。餌の少ない環境では、カササギはより餌を求めるカッコウの雛にばかり与えてしまうとか。結果、カササギの雛は衰弱死し、カッコウだけが育つ。なぜカササギがそんな行動に出るかというと、巣の中の雛が全員死ぬよりは一匹でも元気な雛を育てた方が良いという本能ゆえ」
 実は、おれはカッコウの卵など見つけていない。世の中はそんなに都合良くはいかない。五嶋を揺さぶろうとしただけだ。
「鳥は、どちらかしか選べない場合は強い雛を優先するんですね。あの鳥博士の子供がどんな感想を持つのか、聞いてみればよかった。鳥は愚かだと思うのかな。おれならそうではなく、ただ、鳥は迷わないんだな、と思います。だってね、人は迷いますよ。その場の感情で間違った対応をしたり、ころころ変わったりね。そして悔やんだり、逆に意固地になったりするかもしれない。ねえ先生、あんたは本当に賢いんでしょう。それで、先回りして考えすぎる。人の行動の裏を読みすぎる。あんたは疑心暗鬼すぎた。誰だってそれほど単純でもないが、それほど深く考えて行動しているわけでもない。離婚の原因は奥さんの浮気ですって? 実際、どっちかは本当の子供じゃないんですかね?」
「ここでそれに答える必要が?」
「いや、答えなくても結構ですよ。ただ、人は鳥じゃないですからね。疑うという、それだけで人間関係を壊すのは十分です」
「妻が疑われるようなことをしたのは事実だ」
「想像がつきますよ。家庭を顧みない夫。過度の育児ストレス。奥さんはヒステリックなタイプ? それとも、自分の内側にこもるタイプ? どちらでもない? じゃあたまには遊びたいと急に野放図になるタイプ? 顔色が変わりましたね。三番目ですか。先生は一方的にそれをとがめでもしたんですかね。なんて陳腐なお話でしょうか、これは。奥さんの名前は?」
「どうせ調べて知っているんだろう? 美咲みさきだ」
「美咲さんは疑われてもやむを得ない。なるほど、そういうことでいいでしょう。だから孝之と琉菜についてももう育てるのはやめたと? あんた、ひどいね」
「きみはなにもわかっていない」
 五嶋の身体が揺れ動いた。屈辱が身を震わせたか。
「血のつながらないきょうだいとともに育ったカッコウは、親から捨てられたと思い、自分の出自に悩むでしょうか。それとも、自分がカッコウだと気づかないままなんでしょうか。カッコウが問題行動を起こす場合もあれば、親がそんなカッコウにばかりかまけているせいで、カササギの雛がおかしくなってしまう場合もあるでしょうね。母鳥に認められたくて、ひとかどの人物になろうと焦って借金を作るかもしれない。母鳥を失って、ついには心を病むかもしれない。どっちがカッコウでどっちがカササギかは知りませんが」
 おれは歩き出した。集合時間まで少し余裕がある。散歩するにはいい天気だ。立ち止まってうつむいている五嶋を手招きした。
「カササギの話はもうひとつあるんですよ。鳥づくしですな」
 勝ち鳥の声がしたので五嶋に双眼鏡を手渡そうとした。拒否された。まあ、いい。おれは天を仰いだ。青空。雲。
「娘さんの部屋に入りました。生ゴミくさかったですよ。室内が荒らされていたものだから、ドーベルマンにでもやられたのかという連想が働きました。ただ、あながち無理のある連想でもない。ほら、カササギはドッグフードを食うって話じゃないですか。娘さん、ベランダに生ゴミを放置していたか、それとも意図してペットフードを置いたのか、どっちかでは? そして食事のついでにカササギは巣作りのためのハンガーといっしょにこれをくわえていった」
 おれはポケットからしわだらけの一万円札を取り出した。紙幣の半分近くは執拗に汚損され、原形をとどめていない。むっつりした顔の福沢諭吉がおれを馬鹿にしている。
「巣の中で見つけたのは二枚です。ほかの紙幣はあなたが部屋から持ち出したんでしょう。学がないおれが感づいたことを意外に思いますか。繁華街で、女の世話を何年もしていたんです。メンタルをやられる女も多い。やられているからこそ夜の街に働き口を探す女はもっと多い。同じ症状の女を見たことがある。娘さんはカササギでしょう」
「そう。パイカだ」
 おれはその場で検索する。

【Pica】
 異食症のこと。壁土、衣服、ティッシュペーパー、髪の毛、絵の具、小石、糞便などの非栄養物を食べる食行動異常の一種。ことに児童において顕著に見られるもので、青年期以降ではまれ。
 なお、カササギの学名は Pica pica。異食症 Pica の由来はその食性からである。カササギは雑食性で、穀物や果物の他、昆虫、蛇や蛙や魚、さらには他の鳥の巣を襲って卵や雛を食い殺しすらする。

「血がつながっていない可能性は息子さんに?」
「伝えていない。少なくとも直接には。気づいているなら、わたしと妻とのいさかいを、子供のころに耳にしたんだろう」
「それで妹さんがあなたの子ではないと思い込んだ」
「逆だ。わたしが疑っていたのは息子だ」
「そうですか」嫌な話を聞いた。どっちに転んでも嫌なのだが。
「あのときは、妻のことが憎かった。子供には憎しみの感情はなかった。DNA鑑定はしていないよ。してどうなる? 戸籍上も、心情的にも、あれはわたしの息子だ。出来は悪いが、関係ない。わたしは子供を捨てたつもりはない」
「愛していたゆえに血のつながらない可能性のある子から逃げてしまったと?」工夫がないと脚本家を咎めたいくらいにありふれた話だ。
 週末の公園には子連れの家族が多い。大型の滑り台の周辺から歓声が聞こえる。貸ボートに子供を乗せて櫓をこぐ父親が見えたから、手を振ってやった。
「息子さんではなく、娘さんに金を渡しましたね。なぜそんな重荷を負わせたんですか? それで娘さんは金を食って傍点しまった」
「息子はしばらく部屋を空けていたんだ。金の無心に友人宅を駆けずり回っていたそうだ。数日して、娘が泣きながら電話をかけてきた」五嶋は二度、この街を訪れたのではなく、三度だったわけだ。滞在時間の違いにも理由があった。四月の来訪はイレギュラーだったのだ。
「部屋に入ってみて驚いた。ソファと壁紙がボロボロだったからだ。精神科の診察券と本棚の本で察しがついた。異食症だ。娘のストレスの原因は、推測するしかない」
「嘘つきなさんなよ。そうならんほうがおかしいでしょうが」
「そうか。そうかもしれないな。金はこれ以上ないほどに細かくちぎられ、かなりの部分が食われていた。飲み込んでしまう場合もあるだろうが、大半は、ガムのように噛んで、吐き出すんだ。ひっきりなしに。壁紙も。ソファのスポンジもそうだ」
「知ってますよ。昔つきあいのあった女の部屋もそうでしたから。思いを口にすることを彼女たちはしない。というかできない。自分を傷つけることで感情を表現するんです」
「琉菜は執拗に金を食っていた。おれと孝之がそんなに憎かったのか」
「また理屈で考えるんですか。借金の返済を邪魔しようとしたとでも? いまのおれの話、聞いていました? 憎いだけならしませんよ。どうしていいかわからないから食ったんです」
 五嶋がこちらを見た。はじめて目にする表情だった。
「……わたしは残っていたぶんをかき集めて、息子に渡した。飛行機の時間がなかった。そのときはどうしようもなかった」
 金を渡すためにやってきたのなら、全額準備をするのが自然だ。そうしなかったのは、用意した金が不慮の出来事で失われたゆえと考えるべきだろう。しかも、五嶋はその出来事をかたくなに隠そうとした。それならば犯人は娘だ。息子に対して隠す理由がほかにない。ドーベルマンが荒らした(違うが)部屋に入ったときに、そうひらめいた。望遠レンズのおかげで巣の中に一万円札が見えたとき、確信した。あとは芋づる式の推理だ。
「残金を送金せずに手渡しとしたのは、娘に会う口実ですか。息子に隠したのは? 妹に対して理不尽に怒りをぶつけそうだから?」
「そんなことはしないよ。暴力を振るうような人間じゃない。けれど、身勝手に恨む可能性はある。だから隠した。話はこれで全部だ。このあとどうしたらいい?」
「とりあえず、残金を払ってもらえますか」
「それはかまわない。組織のもめごとについてはどうなる?」
「あんたの知ったことではないです。この商売には、おれももういい加減あきあきしているんだ」
「要するに君の部下が横領したわけではないと証明できればいいわけだ」
「できますか」
「娘が汚損した紙幣はまだ手元にある。大半は噛まれて原型をとどめていないが。枚数が多いから、地銀だと取り替えてもらえない。日本銀行なら大丈夫だろう。満額の交換はあきらめてくれ」
「じゃあ残金はそれでもらいます」岸本にそのまま渡して、あとは知らないふりを決め込もう。「それと、あんたの息子を疑っている連中を丸め込みますから、手数料に色をつけてもらいましょうか」
「どのくらい」
「広島行きの片道切符が買えるだけの金額でいいですよ。恩人の故郷です」
 はじめはきょとんとした様子だったが、五嶋の表情はすぐに変化した。「まさかほんとうに今の商売にあきあきしている?」
「チンピラというのはメンツでメシを食う生き物です。嘘はつきません」
「広島。いい街だな。あそこは潮の香りがする」
 そのときだった。マンションの玄関に少女が現れた。丸顔でめがねをかけたかわいい子だ。こちらをうかがっている。琉菜だ。
「あの子が心配していますよ。父親がチンピラとにこやかに話しているから」立ち去ろうとして、思い出した。
「忘れていた。聞いていませんでした。クイズの答え」
「クイズ?」
「あんたの部下がいっていたでしょうが。海を渡ることのできないカササギが北海道で繁殖している理由。中国か韓国からの貨物船に乗ってきたんでしょう?」
「不正解だ。飛んできたんだよ」
「それ、クイズの前提を覆しているじゃないですか。反則だ」
「どこから来たと思う?」
「そりゃ九州でしょう。津軽海峡を越えたんだ」
「また不正解だ。答えはロシア沿海地方だ。サンプルを収集してDNA検査をした。北海道のカササギは、九州のカササギとは別系統だ」
「このクイズ、難しすぎませんかね」
「学者もみんな、誰一人、そんなことが可能とは思わなかった。でもできた。凄いじゃないか」
 どこまでも広がる、馬鹿みたいな青空を鳥が行く。揚羽蝶のような、見事な黒と白の風切り羽。
「おれはこれで失礼しますよ。納得がいったので」
「鳥がロシアから来るんだ。君はどこへだって行けるよ」
「あんたは?」
「おれはだめだよ。君のいうとおりだ。疑心暗鬼に凝り固まった罰だ。なにもなしとげられず、老いて死んでいくんだろうと覚悟している」
「それは救えませんな」
「おれはいいんだ。子供たちがそうでなければ」
 琉菜が手を振った。おれは五嶋に背を向けた。
 夏が近い。少し遅れたが、巣立ちにはいい季節だ。

〈了〉


参考文献
ニック・デイヴィス著、中村浩志・永山淳子訳『カッコウの托卵 進化論的だましのテクニック』(地人書館)
参考論文
藤岡正博、北海道に新規侵入したカササギ個体群の由来と定着条件の解明、日本学術振興会 基盤研究(C) 2014年 - 2016年


松本寛大(まつもと・かんだい)
一九七一年札幌市生まれ。二〇〇九年、島田荘司選・第一回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞した『玻璃の家』(講談社)でデビュー。他の著書に『妖精の墓標』(講談社ノベルス)など。探偵小説研究会会員。本格ミステリ作家クラブ会員。ホラーを中心に映画・小説の評論も手がける。評論分野の著書(共著)に『北の想像力』(寿郎社)、『現代北海道文学論』(藤田印刷エクセレントブックス)がある。また、「クトゥルフ神話TRPG」にも長く係わり、ソースブック等に寄稿。

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