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柄刀一「クルアーンの腕」

 気配だったろうか。確かに、聞き慣れない金属音はしていた。しかしこの、なにかと雑然とした熱気のある商店街ではそれも珍しいことではない。ましてすぐ近くが大規模な建築現場であってみれば。この環境の中でなにかを察し、体が、首をすくめるような反射行動をしていた。
 大きな影が、頭上から視線の先に向けて路上を走った。金属の板が歪むような、凶悪な音。エンジ色の金属の柱――クレーン車のアームが右側から倒れてきている。十メートル先で、有り得ない光景――。
 打ちおろされたようなアームが、駐車中のファミリーカーの屋根を瞬間的に押しつぶす。四散するガラスと金属同士の衝突音。地を揺らす震動があったのかどうかはわからないが、腰が引けたまま尻もちをつきそうになる。
 ひしゃげた車をクッションのようにして、アームが跳ねた。歩道をこちらに歩いて来ていた青年の姿は視野に入っていた。それと、そろいの園帽子をかぶった男女二人の幼稚園児。アームは彼らのほうへ打ちかかっていく。
 凝然と立ちすくんでいた青年が、次の瞬間、咄嗟に、動きに転じた。園児たちのほうへ身を飛ばし、彼らを腕で抱えた。しかし二人を抱えあげることはできず、彼らを危地から遠ざけるように勢いよく押しやった。瞬時のその出来事を視野から消したのは、倒れたアームだった。視界をさえぎったそれは、耳を圧する轟音と共にアスファルトを砕き、外灯を折り曲げた。
 それに続く遠景としての町のざわめきは、相対的には静寂に等しかった。
 人々がようやく口を動かせるようになり、悲鳴同然の甲高い叫びや、怒号、息詰まるようなあえぎなどを交錯させた。
 自分の口からはなんの言葉も出ない。息を再開させただけだ。
 動けるように姿勢を整えた。
 近くの店から飛び出して来た二人の男たちが、つぶれた車に駆け寄って中を覗き込んでいる。足を進め、その場をすぎると、アームをくぐった。
 園児二人は数メートル先に転がっていたが、目を丸くしたまま起きあがるところだ。怪我は負っていない様子だ。
 外灯のほうへ視線を振った。あの青年の姿が――。
 目を覆う、とはこのことだ。反射的に目が閉じていた。うめごえが喉にこもる。
 彼の右腕が血にまみれていた。血を吸ったそでが腕に張りつき、服を通してさえ、腕が変形しているのが判った。肘の上あたりでつぶれているとしか思えない。
 酸っぱいものを飲みくだしながら、目をあけて青年を見る。激痛で顔が歪み、身をよじらんばかりだ。
 他人ひとと感覚を共有するたちではないが、自分も激痛に襲われている気分になった。奥歯を噛み、右腕を守るように左手を添えた。肌が冷えた。
 あの右腕……、クレーンのアームに直撃されたか……アームと外灯のポールに挟まったか。最悪に近い重傷だ。
 大丈夫か? などとかける声はむなしい。無意味だ。
 あちこちで、救急や警察に電話をする声があがっている。
 ――せめて
 身を屈め、ハンカチを取り出した。青年の右腕の付け根をややきつめに縛る。素人しろうとの止血がどの程度役立つか判らないが。
 無残な光景と血のにおいで、食べたばかりの昼食が込みあげてきそうだった。
「可能なら」自分の動揺も静めながら言う。「ゆっくりと呼吸してみることです」
 声をかけられ、激痛以外のものにもわずかに意識が向けられるようになったのかもしれない。脂汗に濡れた顔が動き、自分の右腕を一、二秒見た。そして目を逸らす。左手が胸元の服を握り締めている。荒い息で上下する胸……。
 膝をのばして立ち、辺りを見回しながら記憶を探っていた。この青年には見覚えがある。二十二、三歳で、肩幅はあるがやせている。やや太くて形のいい眉が、育ちのよさそうな顔立ちの中で目立つ。
 ……間違いない。取材対象だったことがある。無残な事件の被害者遺族だった。
 改めて目を向けた時、奇妙な表情が目に映った。
 苦痛を噛み締めながらも、青年の顔は複雑な表情をかすめさせた。
 それはあきらめだったかもしれない。諦念――。きたるべき大手術や重大な身体的な悲劇性への、つらい覚悟。しかしそこに、冷たい苦笑が混じっていたようにも見えた。見間違えとしか思えない表情だ。だがやはり、それはあったと感じる。自嘲のような、重い皮肉を受け入れるような……。さらに、訪れた運命に納得しているような……。
 自分の口が半開きであることに気づく。戸惑いが深かった。こんな大事故の重傷者の顔に見る表情ではなかった――。
 錯覚か。
 確かにそれは、表情の一瞬の揺らぎではあった。しっかりと見届けたわけではない、そう考えるほうが自然かもしれない。
 だが不思議と、瞬間の印象を捨て切れなかった。捨てないからといって、それがなにかにつながるかどうかも不明だが。
 日常感覚を失ったかのように、どこかぼんやりとなる。大事故の現場で発せられる切羽せっぱまった様々な大声が、耳の奥で、反響し合いながらうなっていた。

 編集長の席に集まっている連中は、誰もが興奮気味だ。
 こちらに気づいた同期の佐山さやまが、「よう! やったな、大町おおまち!」と腕を広げる。凱旋がいせんする功労者を迎えているつもりか。
「巻き込まれただけだ」
 言って、編集長の前に進み出る。
 『ウィークリー・アラート』初の女性編集長、殿川とのがわ理子りこ。年齢は非公開だが、五十代だろう。多少栗色にカラーリングしてある長めの髪が、両肩にわさわさとかかっている。編集方針は、報道とエンタメを融通ゆうずう無碍むげに。文芸はなし。
「その後も、体調に変化なし?」
 手元のタブレットから目だけをあげていてくる。
「お気づかい無用です。現場を離れれば、めまいの一つも起こしませんよ」
 彼女がタブレットで見ているのは、撮影しまくって送った現場写真だ。顔が写っているのは、つぶれた車に群がっている人間たちだけだ。どの顔も青ざめ、強張っている。車内に閉じ込められている者を救助しようとしているのだ。幼稚園児やあの青年の姿は写していない。
「やっぱり臨場感は凄いですね」後輩の声は、普段より一オクターブ高い。「見た目のインパクト! 写真ドキュメントの真骨頂って感じです」
「運が良かっただけとはいえ、タイムリー性では特ダネだ」
 いつものいやらしいトゲも含ませつつ、佐山が肩を二度三度と叩いてくる。
「文面を練りつつ来たんでしょう、大町さん?」殿川編集長が言う。「その彼を、あんまり叩かないほうがいいわよ。文字がぼろぼろとこぼれ落ちちゃう。すぐにパソコンに向かうべきね」
「そうします。……が、死者などの情報は?」
「スギさんが病院に回ってくれたけど、詳報はまだなし。今のところ死亡確認は出ていない」
「どう見ても、クレーン車を扱っていた業者の管理ミスだろう」佐山は高ぶる。「責任重大で、どの報道機関もそれを叩く。大騒ぎになるぞ」
「千文字でまとめて」
 編集長が指示を飛ばしてきた。差し替える記事を決めたのだろう。『ウィークリー・アラート』は今日が締め切り日で入稿にゅうこう間近。紙面はほぼ組みあがっていた。
「本文に合わせて写真を選びましょう」
 離れかけて、動きを止めた。
「腕を大怪我した青年ですが、やはり、小栗おぐり祐一ゆういちに間違いありませんでした」
「……そう」
「救急隊員に訊かれてそう名乗っていましたから」
「でも今は、その件はいいわ。事故の瞬間を描写して」
 うべなって、席に向かった。
 椅子をきしませると同時に、文書作成ソフトを起動する。
 五月十五日、午後一時をすぎたばかりの東京都町田まちだ原町田はらまちだの商店街、との書き出しで、五感に染みている情報を文字へと変換していく。集中したまま流れるように書きあげると、文字数もほぼ千だった。字数調整は時に厄介だが、今回はこれもスムーズに運んだ。推敲すいこうして、編集長のパソコンへ送る。
 ふと、仕事モードとは違う感触で事故現場の様子が甦る。その中心にいるのはあの青年だ。小栗祐一。
 次の指示がくるまでさして時間はないだろうが、その短い間でも記録に触れておきたくなった。一番下の抽斗ひきだしをあける。
 パソコンの中にも記録はあり、検索も楽だろうが、電磁気がどこかに記しているデータというのはこの中年の感覚には馴染まない。特に、時間経過を実感したい時には。追跡取材ではないが、経過する時間が、出来事に血肉の厚みを与えることがある。それは、モニターの薄さとは相容あいいれない。触覚や嗅覚を伴う、当事者的な再現性を求める時は肉筆に触れるのが一番だった。
 ちょうど二年ほど前の事件。二〇二一年の四月……。
 だとすると、前の手帳だろう。上から二冊めを手にする。文庫本より少し縦長の、茶色い革の手帳。ふちにはすり減っている部分があり、反り返っている角もある。
 三度めくると、その記載部分が現われた。メモ書きの箇所は叩きつけるような筆致。逆に、記事にはできない感情面をじっくりと書き込んだ数十文字もある。
 やはり急速に、当時の様々な情景が生々しく立ち現われてきた。それが五感をざわつかせる。幾つものライトが照らし出す山中の現場は、奇妙に作り物めいていた。地面深くの土のにおいが口をつぐませる……。夏の日盛りへと続く取材は、悲憤と哀悼のめまいの中にずっとあったようにも思い起こせる。
 悲惨な、許しがたい犯罪だった。

 二〇二一年の四月二十五日、日曜。小栗美津子みつこの捜索願が出された当日だった。彼女は二十歳はたち。地元図書館の職員。前夜自宅に帰らず、電話やメールへの応答がないうえ、位置情報が得られるはずだと兄の祐一がアプリを何度起動させてもこれにも反応がなかった。そのため翌日曜、家族が警察に届を出す。日頃の生活態度から自発的な失踪とは考えにくく、また、二百万円ほどの大金を所持していた事情も加味され、事件に巻き込まれた可能性が無視できないとして警察はすぐに動いた。
 神奈川県、厚木市。本厚木ほんあつぎ駅からバスに乗って十分ほどで下車、そこから歩いて十五分で彼女の自宅だ。母親、兄、妹との四人暮らし。周辺には、住宅街というよりやや田舎いなかの雰囲気が漂う。最後に確認された姿は、コンビニエンスストアの屋外用防犯カメラに映っているものだ。午後六時五分に店の前を通りすぎて行き、この先の足取りはつかめない。
 ただ警察は、ある男たちの様子を気にした。映像に記録されている三人の若い男。コンビニから出て来て、小栗美津子の後ろ姿になにかと視線を向けている。それからやや急ぐ様子で車に乗り込み、発進させる。後を追ったような印象を受けるが、まったくの無関係かもしれない。
 彼らの車は黒い4WDで、聞き込みの結果、鐘ヶ嶽かねがたけから奥へと連なる山のふもとでの目撃情報が得られた。すでに日没を迎えており、聞き込み捜査は続けるが、警察は山に分け入るのは翌朝からと判断した。身動きできない遭難を考えるなら、山林は有力な捜索対象だと家族は気がいた。自ら捜索に入りそうな彼らを、二次遭難の危険があるからと警察はいさめる。まずそもそも、そのような危険を冒してまでたどるべき読み筋は立っていない。犯罪被害を想定しても、コンビニにいた男たちが美津子の失踪にかかわっているという根拠はなく、黒い4WDが同一のものかどうかもまったく不明である。
 警察の指示に家族は従った。が、それは一時いっときの装いだった。男たちは山の捜索に散ったのだ。美津子の兄の祐一、伯父の小栗和雄かずお、他に、同じ町内に住む山に詳しい元巡査や、美津子たちとは子供の頃から顔見知りである交通見守り監視員の初老男性などが……。
 穴が埋め戻されたばかりと見える場所を見つけたのは、小栗和雄だった。この発見を祐一たちに伝える一方、土木工事を請け負う小さな会社を経営している和雄は、会社の若い者にスコップを持ってこさせた。慎重に土を掘り始め、途中からは祐一も加わって無言の作業が進んだ。そして遺体が発見される。顔を確認する前に、彼らの動きは止まる。確認する必要がなかったからだ。遺体の上に衣服が投げかけられており、バッグも目についた。それらはどれも、小栗美津子の所持品に間違いなかったのだ。
 二十二時四十分、警察への通報がされる。
 陵辱後に殺害、絞殺である。彼女が所持していた防犯ブザーは、本来の帰路から少し離れた耕作地脇の水路で発見された。使おうとした時に落としたか、犯人に咄嗟に奪われて捨てられたと思われる。サイフやスマートフォンなどは残されていたが、ネックレスと二百万近い現金は奪われていた。
 この手の事件が発生すると一部には、被害者に対してもしたり顔の苦言を呈する者が出る。浮ついた服装になっていないか気をつけるべきだし、安易に大金を持ち歩くから危険な目にも遭う、などと。美津子の女友だちや同僚らは、目を泣きはらし、あるいは力強く、このような発言には反論した。美津子はおとなしすぎるほど純な性格で、慎重でもあり、華やかな装いをしていたのは同期生の結婚式に出席したからだ。そして現金は、そこで集められたカンパだった。
 同じく同期生で、美津子の親友でもある女性が、ある難病にかかっていたのだ。長くむずかしい治療と大きな手術が必要な彼女のために、結婚式の後で寄付金が募られた。その額が百九十七万円。この現金を、寄付活動の発起人の一人であり簿記の資格も持っている美津子が持ち帰って再集計し、寄せられた数々のメッセージカードを添えて自らの手で親友に手渡すことになっていた。
 誰もが、美津子は緊張感を持って善意の現金を預かっていたし、不用意に人の目に触れさせることも絶対にしない、と口にした。
 根がしっかり者であったのも確かだろう。それは、当時二十一歳の兄の祐一にも言える。感情を荒げることもなさそうで、若殿様的な境遇にいるように顔立ちからは窺えるが、決してお坊ちゃん育ちであったわけではない。家族仲は非常に良かったが、母親が病気がちなこともあって経済的に恵まれた家庭ではなかった。しかも、父親が心筋梗塞で急死。大学入試に合格していた祐一はそれを辞退して勤めに出る。母や妹たちは自分が守るのだという気持ちが強い青年だ。

 三日ほどで、三人の男たちが逮捕される。例のコンビニの、店内にあった防犯カメラ映像から割り出された男たちだった。捜査の過程で、東京の大田区で前年の九月に発生していた同様の殺人死体遺棄事件で浮かびあがっていた犯人像と、人物構成や使われた車種が重なるということで彼らの容疑が強まっていた。
 身柄が突き止められれば、彼らに言い逃れの余地はない。DNA鑑定によって有罪は明らかだった。
 西坂にしざか青太せいた(31)、松柳まつやなぎ三郎さぶろう(29)、林原はやしばら宏人ひろと(26)。
 自戒や悔悟の念などとは無縁の、良心なき者たちであったが、数々の物証の前に罪は大筋で認めるしかなかった。
 この者たちであれば二件の殺人以外にも同様の大罪を犯している可能性もあり、余罪も慎重に調べられたが、幸いにして人命にかかわる事件はなかった。しかしあの時点で逮捕されていなければ、罪なき被害者はさらに増えたであろう。うまく隠蔽いんぺいできていることに増長し、はなはだしい人命軽視に拍車がかかって暴虐非道の度が増したのは間違いない。
 小栗美津子と面識はなかったという。まさに、防犯カメラに映されたコンビニから出る時に目をつけたのだ。
「防犯ブザーはうまく叩き落とせた」と語り、殺意に関しては、「壊れたんだろうけど、なんかそれでいて変に超然としている女で、生きたままたたってきそうで怖かった」などと松柳は吐露しているが、大田区でクラブの女性を殺害した時の経験が、低俗なる彼らの根底に色濃くあるのは疑い得なかった。彼らにしてみれぱ、前回のは成功体験なのだ。後腐れなくすべてを葬れて、冷酷無恥の徒にとっては不安がすぐに消えていく日々だったようだ。前回の事件で被害者の首を絞めたのは西坂で、今回は松柳であったらしい。
 さらに呆れる言い草であったが、金品を奪った記憶はないな、と、彼らはのらりくらりと否定していた。確かに、大田区の事件でも被害者の金品には手をつけていない。しかし、主犯格である西坂の前科には、傷害の他に恐喝がある。松柳の前科は強制わいせつと睡眠薬窃盗だ。
 財布の中には手をのばさなかったにしても、二百万近いさつを目にすれば放ってはおかないだろう。
 小栗美津子からの強盗行為をただされた林原は、「その点は知らないが、羽振りが良くなったなんてことはなかった」と供述している。
 エメラルドのネックレスをったな、との尋問に、「そんな感じの物がいつの間にかポケットに入っていた」と、ふざけたとぼけ方をしたのは西坂青太だ。宝石は売りづらいし興味がないから、女を釣るエサに使ったとの言い草だった。「エサだけ取られちまって、大していい思いはできなかったが」と。
 はっきりしているのは、彼らの周辺から当該ネックレスは見つかっておらず、故買された形跡もないということだ。この点では物証がなく、処分の仕方も立証困難であることを承知していて、強奪行為を曖昧にしようとしているのは明らかだった。謝罪や反省の言葉は一切聞かれず、改悛の余地はまったくなさそうな連中であった。
 彼らは、強盗殺人及び死体遺棄、強制性交罪等で起訴され、裁判員裁判によって、西坂青太、松柳三郎には死刑、林原宏人には無期懲役が言い渡された。現在、被告人側による控訴中である。

 筆致が思い出させるあの夜。取材に駆けつけた時には、遺体はもう運び出されていた。
 闇の中で揺れる規制線テープ。土や樹皮の原始的なにおい。季節はずれに蒸し暑い風。
 日頃は、ただただ関心を払われない闇と孤独が立ちこめるだけの場所だろう。土を掘り返され、石をひっくり返され、地を這って隠れ場所を探す虫たちが放つ臭気が夜気に混ざる。亡骸が眠っていい場所ではない。
 遺体が発見された穴のほうに向かって、小栗祐一が立ち尽くしていた。ずっとそうしていたかのようで、この先もずっとそうしていそうだった。
 目が真っ赤で、こぶしが握り締めているのは、憤怒か、哀しみの慟哭どうこくか、神仏への問いかけやなじりか。
 不幸や不憫や不運などという表現では言い尽くせない事件でかけがえのない家族をうしなった彼。
 今また、不幸な衝撃的な事故で重傷を負い、身体欠損に至るかもしれない。
 過酷な人生は、取材当時のあの彼にいかほどかの変化を与えるだろうか。
 そして……、腕がもげそうなほどの激痛に襲われているはずの時に見せた、あの表情。
 見間違いとは思えないが、意味があるのかどうかは……。

 死者が出てしまった。クレーンにつぶされた車の中にいた男児だ。一緒に車中にいた祖母は頭部打撲と肩の骨折という重傷。祖父は近くの商店の中にいて無事。六歳の男の子は、車から救出された時にはすでに心肺停止だった。
 他に軽傷者三名。重傷者一名。
 この一人が、小栗祐一である。右腕は、ひじの上から切断するしかなかった。
 いたいけな命が奪われたこともあって世間の注目度が増したこの事故は、怒りの熱量も伴って、マスコミと社会による糾弾の言論を沸騰させた。工事を請け負っていた〝タチバナ重機施工〟の散漫な安全意識が明らかになってきたからだ。
 クレーン車の足場を安定させる基本がおろそかにされていた。加えて、風が出てきていたのに、風を受けやすいパネルを吊り下げたまま、操縦者がクレーン車を離れていた。
 問題はさらに根深く、この建設会社は過去にも同じような安全義務違反を犯していたのだ。三年近く前になる。工事現場周辺を囲っていた金属塀が強風で倒れ、登校途中の児童の列が巻き込まれた。幸い死者は出なかったが、企業体質的に安全が軽視されていると問題視された。高所作業時に命綱をしていなかったり、廃棄物処理でも手を抜いたりしている。
 この二週間、厳しい処分を求める声が高まり、前回は顔も見せなかった社長が謝罪会見はひらいている。責任の取り方を問われ、言を左右にしているが。
 孫を奪われた祖父は過激とも思える言葉をぶつけていて、波紋も生んだが、それも理解できる、責められないといった同情論が多かった。
「大町さん。二度めの記事は、体験した恐怖感を強調して」
 そう編集長に指示され、恐怖に身がすくむ大事故だったという文面を書きあげ、掲載した。そうした恐怖を味わいつつ男児は亡くなったのだという、痛ましさと同情を煽る効果はあったろうか。
 そして……
「取りつけた取材、今夜ね」
 編集長はパソコン画面に目を向けたまま、自分の頭にペンを持ちあげていった。真ん中の分け目でそれを前後に動かす。
「色落ち、目立つ?」
「自然なもんですよ。まだしばらくはなにもしなくても……」
 部下の観察力や表現能力への評価は何も感じさせず、
「幼稚園児を守った行為をあなたは強調したいみたいね。顔写真がOKなら、そこをポイントにした表情をね。もちろん、許せないという思いもあるでしょうから、その表情も」
「はい」
 小栗祐一から約束を取りつけたのは昨日の夕刻だ。
 美津子殺害当時に住んでいた家から、彼らは引っ越してはいなかった。暗さに反応して自動的に灯る街灯が、ちょうど点灯した。ためらって、もう一度消えるかもしれない。
 いささかくすんでいる白い塀から門の前へ出た途端、中にいた女性と目が合った。小さな、形ばかりの黒い鉄格子の門。それを盾にする女性衛士のような目つきに、相手はなった。
 前回の取材時にも顔を合わせている。末っ子、祐一と美津子の妹だ。
 向こうは覚えていないようだ。いや、覚えていても、こうした顔つきになるかもしれない。
「なにか?」
「お兄さんはご在宅でしょうか」名刺を差し出した。「少し、お話を伺えればと思いまして」
 名刺は受け取ったが、厳しい目のままだった。お兄ちゃんはわたしが守る、と言いたげだ。
「実は私も、あの事故に巻き込まれた者でして」
 同じ感情を味わっているかもしれないと説明を加えるが、うさん臭そうに応対する様子は変わらない。この人が兄の害にならないか疑わしいと直観したのだとすれば、それはあながち大はずれとも言えないか。ここ数日、事故の裏側と小栗祐一に結びつきがないかと調べていたからだ。そんな妄想をいだかせた原因は、例の表情だった。
 どうにも不可解な、あの数秒の表情。寂しい自嘲のような、納得の悲哀のような……。
 具体的に何度も記憶を呼び覚ますのは、やめるようにしている。自分の思い込みで無意識に記憶を脚色し、実態を塗り替えてしまいそうだからだ。
 だがそれにしてもやはり、あの印象は拭いがたい。それは消えてなくならない。
 そこで、あれほど無残な奇禍に遭いながらあの表情が浮かぶシチュエーションを思い描いてみたのだ。その最たるものは、まず有り得なかったがこのような背景だろう。似たような仮説だが、二つある。自分もあの事故に責任があると小栗祐一は自覚していて、大怪我も因果応報だと苦笑したというものが一つで、もう一つは、事故自体仕組まれたものだったが、それに自分が巻き込まれるとは計算違いだったという自嘲。
 しかしこれらはやはり、見当違いの妄想だった。小栗祐一があの時あの通りを歩いていたのは、勤め先である中堅婦人服メーカー本社から販売店へと回る日課の途中であり、疑わしい点はなにもない。また、あの工事現場や建設会社とも、彼は無縁であった。保険金、趣味的関心、どのような関係性においても接点はなにもない。現場に近付いた形跡もなく、関心さえ払っていないのが日頃の様子だった。
 他社が入手した情報も嗅ぎ回ったが、小栗祐一があの事故に遭遇したのがまったくの偶然であるのは動かしがたい事実のようだ。とんでもない逆転的な構図が隠れていたスクープとはならないらしい。
 そんな取材結果を思い返しながらこの門の前まで歩いて来ていたので、発する気配は小栗家にとって友好的なものではなかったろう。
「あっ……」
 女衛士の視線が通りの脇へと流れ、表情がわずかにほぐれた。
 視線を追うと、やって来る小栗祐一の姿があった。一瞬歩調を緩めたが、その後は真っ直ぐに進んで来た。
「また取材の人だって」
 妹から兄へと名刺が渡される。
 祐一は薄いネービーブルーのジャケットを着ており、中身のない袖が真っ直ぐに垂れている。そこに視線を留めないようにしながら、「大変重たいお怪我、お悔やみ申しあげます」と小さく頭をさげた。
 名刺に目を通していた祐一は、幾つかの記憶をつなげたようだった。
「『ウィークリー・アラート』の大町つよしさん……。妹の事件の時、取材陣の中に、この雑誌も……」
「私が担当でした。あなたとは、短時間ですが顔を合わせて言葉も交わしています。あの大変ショッキングな時間の中、数え切れないほどの記者が押し寄せましたからね、覚えていないのも無理はありません」
「……そのお顔、最近も――」
 思い出したようでハッとなった。
「クレーン事故の時、声をかけてくれた……助けてくださった」
「手助けはなにもできていませんよ」
 血色の良くない彼の顔に、仲間に向けるような笑みが浮かんだ。そして、すまなそうに、
「腕に巻いてくれたハンカチ、救急隊員がどこかへやったようで、お返ししようにも……」
 苦笑して手を振り動かす。
「百円ショップで買った品です、気にすることはない」
 そして、流れを途切らさずに用件に移った。取材依頼を伝えている間に、祐一は妹の肩に軽く触れ、彼女は家に入って行った。
 話の最後に、「幼稚園の子供たちを咄嗟にかばいましたね。かばう……、守るという思いが緊急時でどれほど形になるものか、などを探ってみたいのですが」と口にした。
「……明日の夜でしたら時間が取れます」
 二、三秒ののちにそう応じた小栗祐一は、時刻と場所を提案した。

 あけっぴろげな客たちの会話、グラスの鳴る音、店内は適度にざわめいていた。居酒屋の名は〝もだん〟。モダンという言葉自体、使い方ではもはや時代に遅れた感触が漂うだろうが、ここの店主はひねった自虐的なユーモア感覚の持ち主らしい。モダンなどと言われたら、店自体が赤面しそうな佇まいなのである。レトロなどを越えた、懐かしいばかりの古くささがある。
 短冊たんざく形の品書きは、酒焼けした壁に画鋲がびようで留めてある。隅のやや高い位置ではテレビが鳴っているが、これがまだブラウン管型だ。
 肌に吸いついてくるような白いビニールのテーブルクロスを挟んで、小栗祐一と向き合っていた。ビール一杯でも、うっすらと血色が良くなっている。頬が幾分こけて、目には疲労のおりようなくすんだ色がわずかにあるが、好青年の面持ちはほぼ健在である。ストライプ柄の長袖シャツを着ていた。
 テーブルにスプーンやフォークが用意されていて、それを自由に使えるというこの店の利点に彼は気づいたのかもしれない。左手のフォークで、少し苦労をしながら大根サラダを口に運んだ。
「左手で箸を使う練習は始めなければならないわけですけど、気持ちの切り替えといいますか、なにか……、よし! とスタートを切る意気込みになれなくて」
 言葉は見つからず、二度頷いた。
 録音は断られたので、テーブルの脇に手帳を広げてある。
 誠実な話し手とは時折出会うが、彼もまたその中の一人だと感じた。質問を受ける時、丁寧にじっと聞き入る気配がある。答える時、自分だけの言葉を真摯に掘り起こしている。少し間があく時があるのは、求めに応じているか自分自身問い直しているような時間であり、満足できるまで伝えるべき内容を練りたいという質実な性質ゆえのものだろう。表面を飾ることや、言い抜けなどに費やされる時間はなかった。
 傷の痛みについての話は済んでいた。麻酔が抜けた後の激痛はもう緩和されているという。ただ、切断面をぶつけた時に味わうのが、今までどおりの痛みなのか、傷の奥にある痛みが影響している苦痛なのかが判らないのだそうだ。物にぶつかった時の、以前の日常的な痛みの程度が思い出せない……。
「どれほど不便な生活になっているのか、こっちには想像も及ばないと思いますよ、小栗さん」
 表面的な同情の言葉として響かないようにとの思いはあった。
「不便……。もちろん数え切れなくあるのですが、有り得ない不思議な体験に驚くこともあります。例えばこうして、身を乗り出した時――」
 実際にそう動いた彼は、テーブルの右端にあるコップに視線を飛ばした。
「今、私の感覚では、右肘がコップに当たって倒してしまっているのですが、コップはかすかにも動かず、そこにあるのです」
「ああ……」
「身動きのすべてが、前と同じにはできなくなった不便さに満ちていますよ」淡々としていて、どこか他人事のようであった。淡々とならざるを得ないのかもしれない。「自転車の片手運転は得意だったのでやってみたのですが、これも駄目でした。バランスが変わってしまっているのでしょうか……。見ていた妹に、『少しでも危ないことはしないで』と、いろいろ止められましたよ。キャップをひねってあけることが難事になった。歯磨きチューブのキャップのように、力などほとんどいらないものでも。定規を置いて線も引けない。服のボタンも閉められない。……でも、こうした話を聞きたいわけではないのでしょう?」
「いえ。おっしゃりたいことは、みんな聞きたいですね」
「底の底まで吐き出させて、本音の源泉を書き留めるんですね?」いたずらっぽい、微笑の陰がよぎる。
「そうかもしれません」あえてペンを取って見せた。「お仕事には復帰したのでしょうか?」
 寂しい記憶でも探るかのように、視線がわずかに外された。
「仕事内容は変わりましたけれどね……。私はお客様のお洋服のコーディネート係だったのですが、お客様はほとんどが女性ですから、片腕の担当者では変に気をつかわせるといいますか、目のやり場に困るといいますか、雰囲気がそぐわないものになる懸念もあるということで……。サイトに寄せられる声の整理部署ですよ、今は」
 そうですか、と応じてグラスの中身を飲んだ。ウーロン茶だ。味覚が水割りを求めていたわけでもないだろうが、一瞬戸惑うほど味気ない。
 相手の興味がどこかへ移っている。体をひねって視線を追うと、テレビがあり、かすかに放送内容も聞こえてきている。河野こうの法務大臣が二度めの死刑執行命令を発したというニュースに続いたのは、まさにあのクレーン事故の続報だった。悲惨な事故を起こした者の責任を改めて追及している。世間にはもう何度も流れている、孫を喪った祖父の姿がまた映し出された。
 記者たちを掻き分けるように進む彼の、頬の肉も薄い顔には痛憤の色が濃い。涙を滲ませ、震える声で怒りを吐く。
『こんな事態を引き起こした連中は、時間をあの前に戻せ。できないなら神の罰を受けろ』
 向き直り、小栗祐一に問いを放つ。
「あなたは、小さな子供たちを咄嗟にかばい、その代償のように腕を失った。もし、あの直前まで時を戻せるなら……」危険球のコースに投げ込んでみる。「英雄的な行動は回避して、自分の身を守りますかね? 選択を後悔していませんか? もう一度、あの時があったら……」
「う……ん」ちょっと頭を傾けた。「仮定の話に意味はないと思いますが……。どういう設定なのか、曖昧ですし。事故が起こると判っていてあの前に戻れるなら、子供たち二人を安全な場所に移動させるでしょう。もっと時間的な余裕があるなら――」
「やはり、助けることは優先事項なんですね」
「体が動けばそうするでしょう。英雄的な行動、などとおっしゃいましたが、咄嗟にそうすることが不思議なほど特別な行動とは思いませんが。あなたもそうするでしょう?」
「……判りませんね」
「仮定の話ですからね」
 小さな笑いを投げ返してきて、しかし彼の表情はふとかげった。視線の焦点が遠い場所に移ったようだった。
「もし、時間を戻せるなら、あの時に戻しますよ。美津子が事件に巻き込まれる前にね」
 ――うっ、と息を呑み込む。
 それは確かにそうだろう。
「あの前に時間が戻ってくれるなら、もう一本腕を失ってもかまいません」
 キュウリ揉みの器を意味もなく動かす間に、言葉をまとめた。
「『神の罰を受けろ』の気持ちは判りますか? 判りますよね。全面的に同感できる体験をお持ちと思います」
「神の罰――それでしたら……」
 ペンを握った。しかし、待ち構えてキャッチしようとした言葉は途中で姿を変えたように感じた。言い淀んだ気配がかすかにある。
「神の罰ならほしい時がありますよ。切実にあった……。人は無力、私も当然無力ですからね。でも、神の力なら、裁きの前に、守り抜ける力をもらいたいものです」
 彼はビールを飲み干した。
「母が入院しているのですが、今度ばかりはかなり危なくて……。でも、私にはなにもできない。無力です。妹も守れなかった……」
 二、三枚、写真を撮らせてもらっていると、それぞれの主菜が運ばれてきた。向こうは羊肉のガーリック炒め、こっちは冷製おでんだ。
 祐一が目をあげ、口元を和らげて訊いてきた。
「大町さんは、ご家族は?」
 ――菜保子なほこ
 正直、動揺した。その名前が胸中で響くとは。我ながら、なにを引きずっているのか。
 表情の強張りに似つかわしいだろう返答を口にした。
「家庭を持てそうな時もありましたがね」
 相手は黙って、フォークに視線を落とした。

 取材への集中が乱れがちになる中、箸を動かしていた。
 目が合うと、「どうかしましたか?」と尋ねられた。
「えっ?」
 思っていたことが顔色に出ていたらしい。それを広げると、苦笑になった。
「ああ……。明日が四十六歳の誕生日だと気がついたんですよ」
「へえ、おめでとうございます」
 晴れやかな顔だ。誕生日といえば、家族やパートナーと祝うものというイメージしかないのだろう。
 笑みを浮かべる顔写真も撮らせてもらう。
 明日……。夜は呑みに出るか。祝う気持ちなどない。一つのきっかけだ。独りでの冷や飯にも飽きた。仕事がらみである今日の外食とは違う夜を……。それにすら、意味などないが。
「小栗さん。事故の被害で、あなたは元の生活には戻れない体にされ、快調に進めていた仕事も奪われた……」
 食べ物を摘まみ、メモ書きをし、取材内容は佳境に差しかかっていた。
「許しがたい怠慢で悲惨な事故を起こした責任者には憎悪を懐くでしょうね。恨みますか?」
 答えの前に、一度、目が閉じられた。
「恨むという気持ちはないかな。怒りは覚えましたよ、少なくともそのような感情は。腹立たしく、なじりたく……そう、責め立てたい気持ちもあった。この先は、あの人たちがどのような姿勢を見せるのかによるでしょうね。訴えるかどうかなどは、今のところまったく考えていません」
 手帳も仕舞い、対談のような空気もほどけたところで、最後の質問をストレートに放ってみた。
「私、事故の最中に小栗さんが一瞬見せた表情についてもお訊きしたいのですよ」
「表情……?」
「ご自分の腕の、むごい状態を目にした後でした」
 寂しい自嘲、納得の悲哀。そのように見える表情をあなたは浮かべたと思うのですが、と伝えた。
「そうですか?」
「あの時、どのような思いがわき起こっていたのかな、とお伺いしないではいられませんで」
「いやぁ、心当たりはありませんが」首をひねり、戸惑っている。「あの時、そんな感情なんて……」
 ふと、答えを探すように動いていた瞳が止まった。直後、それまで自然にあった感情の波を抑えたような声が出てきた。
「記憶そのものが曖昧でして……脳が痛みを忘れたがっているみたいに。苦痛や恐怖で顔の筋肉が痙攣するように動いて、たまたまそう見えたのでは?」
「そうかもしれませんね」
 おおむね率直であった小栗祐一から初めて、口を濁された印象を受けた。

 店の前で別れた。彼は立ち去りながら、二度、半ば振り返りつつ頭をさげた。急に、被災者の心の疲労によって表情が乏しくなったようでもあり、それでもなお、俗世で結び得るなにものかを丁寧に扱うとする風情もあるようにも見えた。

 謎を解き得る大きなヒントと出合えたのは、一つ二つと月をまたいだ盛夏の頃だった。
 あの取材以来、小栗祐一には会っていない。記事には、帰り際の写真を使わせてもらった。半ば振り返りつつ、小さく頭をさげている姿。心細そうな、なにに対してかは不明ながらすまなそうにも感じているような横顔……。犯罪の被害で遺族になったこともある彼は、憎悪や憤りよりも、自分の無力感と向き合っているようだ、との内容に記事はまとめた。
 事故を起こした建設会社〝タチバナ重機施工〟の社長と現場責任者が引責辞任、クレーン車の操縦者オペレーターも含めた彼らは業務上過失致死罪等によって起訴されている。男児の遺族と小栗祐一には慰謝料が用意されたが、遺族側は受け取りを拒んでいる。
 この慰謝料と、事故直後に小栗祐一が垣間見せた場違いな表情とを、無理に結びつけたこともある。俗な話ではあるが、彼が怪我の重大さに気づいた時、たんまりと慰謝料をもらえる! と踏んだとしたらどうか。あの表情にはならないか?
 表情の質がまるで違うと思いつつも、背景を調べに歩いてみた。これははっきりしたが、小栗祐一は経済的に行き詰まったりしていない。楽ではないが、堅実な生活が送れているし、母親の治療も含めて大金が必要な状況にもない。慰謝料額は不明だが、小栗祐一が額のつりあげを要求したりした様子もまったくなかった。
 そもそも、これで慰謝料が一億円もらえる、とあの瞬間に皮算用を弾いたとして、身をよじる激痛の中でニマリとできるだろうか。さらに根本的なことだが、してやったり、といった意味合いなどには微塵も見えない表情だったのだ。むしろ、他人ひとではなく自分を責めて嘲笑しているような……。
 どうしてあの一瞬の表情にこだわってしまっているのか、自分でも不思議だった。頭からなかなか離れてくれない。
 ……恩師である大先輩の言葉を思い出す。
 インタビューや取材の基礎は、表情を引き出すこと。経験を積めば、行間を読むように、表情という無言の会話を通して演出を深められる。そして、表情を捉えることは嗅覚と結びつき、かすかな表情から大ネタを嗅ぎ取れるようにもなる。
 当時は、記者ではなかった。福島県の地元テレビ局のディレクターで、対談番組やロケの多い番組を担当していた。大河内おおこうちは、県下に名をとどろかせる文化人だった。発せられる文筆の一つ一つに影響力があり、大きなイベントの演出なども手がけていた。テレビ局の顧問でもあり、なにかと助言を受けて出世の道を歩かせてもらっていたものだ。
 出合った無数の、表情、顔つき……。危険思想の新興宗教信者でなくても狂信者のかおを持つ者はけっこういて、増える傾向も感じられた。肩書きの自己暗示で肥大した傲岸不遜の貌。ある競馬の騎手は、爽やかな笑顔を向けていたのは馬に対してだけで、身近な人間は虐待していた。あの時見抜くことなどできなかったが、今でも無理だろう。局の防犯訓練で襲撃する犯人役をやらせた若い俳優の真に迫った表情に将来性を感じていたら、実際にコンビニ強盗を計画していてその予行演習だったという、とんでもない体験もあった。苦笑も凍りついたものだ。
 今回はどうだろうか……。
 小栗祐一への取材を通して大きな違和感を感じたのは、表情のことを問われて答えたあの時だけだった。裏がある、というほどのものではないかもしれないが、なにかが隠れていそうだ。そしてそれは、記者が気にすることもない彼の個人的な内情、ではないとも思う。なぜなら……。
 一億円の慰謝料の仮定においてもそうだったが、それほどの利得でさえ、あの重大局面で表情を変えさせるとは思えなかった。まして、日常生活のなにかを思い出したといった程度のことで、その感情が激痛を押して出てくるとは考えられない。
 そこまでの感情があるとすれば、それは事故の重大さや絶望的な痛苦に匹敵する出来事から生じるものではないか。彼の人生においてそれを探れば、妹・美津子殺害事件が思い浮かぶ。あの事件の折に感じたなにかが、クレーン事故の局面と重なって不意に飛来したのではないだろうか。
 そうした思いつきのもと、小栗美津子殺害事件を細かく洗い直してみた。すると一つだけ、疑問が浮かんだ。些細すぎて不審とも言えず、気にはなるな、といった程度の出来事だが。
 妹の帰宅が遅く、連絡もつかないので不安になった小栗祐一は、彼女の位置情報を何度も確認しようとしたという。これはまあ当然であろう。若干じやつかん不思議に思うのは、暴漢どもも被害者のスマートフォンには手を出しておらず、壊されてもいなかった点だ。電源すら切られていなかったらしい。祐一は真夜中近くから位置確認アプリを使ったようだが、以降、まったく情報は返ってこない。返す返すも残念だが、これはこういうことだろう。スマートフォンはすでに埋められて地中にあったため、電波が届かなかったのだ、と。
 ただ、この先、祐一が見せたやや奇妙な行動が、ある月刊総合文芸誌に載っていた。被害者の伯父の述懐だった。「(遺体が発見された後も)祐一くんは、妹を捜そうとするかのようにGPS情報を呼び出そうとしていてね」というものだ。「わかるよ」と、伯父は伝えている。「信じたくなかったからね。目の前にあるのは現実ではない。もっと捜し続ければ、生きている美津子に出会えるかもしれないとも思うさ。呆然とした頭の中で、捜索の必死の思いが急停車できずに慣性のように動いていたんだろう」。「胸が締めつけられたよ。誰にとっても、正気を保つのがむずかしい悲劇だった」と、述懐は結ばれている。
 確かに、それはそうだろうと思う。
 だから、小栗祐一は不可解な行動を取ったと注目するほどのこともなく、気にする者もいないはずだ。
 自分の中でも、暑さ対策などにも日々追われる中、小栗祐一の件は過去の出来事として意識から薄れていきつつあった。
 だが、ここへきて不意に、引っかかりを覚えていた些細な点に大きな意味が結びつく瞬間が訪れたというわけだ。
 編集部の自席で調べていたのは、スマートタグやらトラッカーやらの位置確認デバイスだった。学童の安全や老人の徘徊への対処法を記事にまとめようとしていたからだ。かなり執拗に調べ続けているとそれが出てきた。
 ――追跡デバイスネックレス。
 アクセサリー型のGPS搭載器という物があり、これは、エメラルドを思わせるヘッド部分がハート型になっている。あからさまなハート型ではなく、ハート全体もやや細く、そして右側が幾分長くなっている。やはりそれなりに、おしゃれにデザイン化されている品だ。
 この情報に接した直後、指が止まり、目が止まった。
 
 この一点に、忘れかけていた細かな疑問やデータが急速に集まってきて一つの形になった。
 記憶を確認するためにすぐに抽斗をあけたが、ページをひらいて見直すまでもない。手帳の表紙に触れただけで指先は止まった。
 小栗美津子が殺害される時に身につけていたのは、兄の祐一がプレゼントしたエメラルドのネックレスだ。そしてそれは、ハート型だったと、一部の報道にある。
 奪われたネックレス。犯人は、空疎で幼稚な弁明をした。……奪われたそれは、宝石だったのか?
 取材すべき先は、メモ書きの中にあるかもしれない。手帳を引っ張り出し、慌ただしくページをめくると、会社名はそこに書かれていた。

 急な取材を勝手に入れたため、回ってきたゲラへの赤入れは後に回し、コラム担当寄稿者との打ち合わせは移動しながら済ませた。
 その宝石店の応接室で冷房に身をひたしてから、やっと、自分は猛烈に暑苦しい中を移動していたのだと実感した。室内を観察する余裕も生まれた。密談を意識させるほど狭くはなく、特別な親密感でゲストを迎える広さといえるか。床までが白い室内に、最小限度の、黒や木目調の家具を配したシンプルな内装には、引き算で生まれた高級感がある。
 ……受付にはなんと伝えたろうか。変にうろ覚えだ。
 二年ほど前に、小栗祐一がこちらで購入したネックレスについてお伺いしたい。五月のクレーン事故の被害者も彼なのですよ。取材をしていて、兄妹きようだい愛の象徴があのネックレズだと伺ったので、その事実確認を。
 そう言って、小栗祐一からもらっていた名刺も見せたはずだった。
 入って来たのは、黒いスーツ姿も涼しげに決まっている、四十代前半の女性だった。穏やかながら気持ちの入った表情を見せ、チーフマネージャーの梅沢うめざわと名乗った。
 挨拶をしながら向かい側に座った彼女は、個人情報がどうのといった点にはまったく触れなかった。小栗祐一当人から許可を得ている取材と思っているとも窺えたし、すでに一度事情を話しているという経験がそうさせているとも見えた。
「あの時」と語る彼女は、当時の顧客・小栗祐一の担当であり、警察の聴取に応じていたのだ。
「妹様の二十歳はたちのお祝いに、小栗様はお買いあげくださったのです」ネイルも綺麗な指が販売記録ファイルをめくる。「二〇二一年の、二月七日でございますね」
 当時の捜査官が、被害内容を確認するために聞き取りに訪れたのだ。
 その時の再現であるかのように定価も教えてくれて、梅沢は、
「大事に取っておいた、お父様の生命保険の残りもお使いになったようでした。妹様に、できる限りのことを、というお気持ちにあふれていました。お父様の思いも込めて、という贈り物だったようです」
 梅沢チーフマネージャーには、取材に対する警戒感や慎重さといった態度はほとんど見られず、どうやら、感じ入った家族間のつながりや、それだからこそ生まれてしまった残念な悲劇性を語りたいという意識が強いようだった。
「こちらがそのネックレスです」
 販売記録ファイルにおさまっている写真を見せられると、息を吸ったまま体の動きが止まった。視線が釘付けになっている。
 パソコンで調べ出していた追跡デバイスネックレスと見まがうばかりだ。
 勘にすぎなかった着眼が、明瞭な注目点になりつつある。
 釣り糸をたぐるように声を出した。
「当時、報道機関の者が警察と同じことを確認しに訪れましたか?」
「いえ。少なくともわたくしは、一度も対応させてもらっておりませんね」
 取材対象外なのも当然だ。警察は、遺族が口にした被害状況を確認しなければならないし、被害額や被害品をあやまたず書面に記載しなければならない。一方マスコミ側は、掘りさげる必要を感じなければ発表内容を取捨選択して事は済む。ネックレスはあの事件の主眼ではない。脇のほうで、被害品目としてあっただけである。事件の凶悪性に震撼してトルネードのように沸き立っていた取材攻勢の中では、ネックレスの実体は些末なことだった。それを探って時間を割く者はいない、当時の『ウィークリー・アラート』の編集方針も含めて。
 裁判では参考資料として映像が出されたかもしれないので、傍聴に行けば目にした可能性もあるが、だからといってなにかが閃いたろうか。
 今でさえ……。
 鉱脈はありそうだが、道筋ははっきりと見えない。なにをどう解釈すべきなのか……。
「このデザインなのですが、私、最近、位置をトレースできるデバイスでそっくりなのを見かけたのです。二つの間に、なにか関連はありますか?」
 ストレートな笑顔に、虚を突かれた。
「その発信器アクセサリーそっくりに作ってほしいと小栗祐一様にご注文いただいたのですから、当然なのです」
「なんですって」
 声も顔も強張ってしまい、相手に不審や緊張を懐かせないように、咄嗟に口調を変えて言葉を継いだ。
「ああ、もしかするとそこにも、小栗祐一さんの思いがこもっているのですか?」
「そうなのです。保護者さながら、妹様を思っておられました。もともとは、発信器アクセサリーが贈り物だったのです。もちろん、何事かあった時に、妹様の居場所がすぐに的確に判るようにという安全対策として、ですね。毎日、つけてもらいたかったわけです。ただその場合、勤め先の同僚との間でしたら、本物の宝石ではなくて、兄から贈られたGPSチップなのだと説明できるかもしれませんが……、でも、そんな説明をするのも、妹は恥ずかしいかもしれないと、小栗様は照れるように危惧しておいででした」
 その様子の微笑ましさを、梅沢は思い返しているらしく、目元が柔らかい。
「せっかく宝石のようなアクセサリーなのに、改まった場にはつけて行きにくいか、とも案じておられました。フォーマルな席で、『そのネックレス、イミテーションね』などと指摘されては、妹様が可愛そうです。それで、本物もあっていいとお考えになったのです」
「なるほど」
「二十歳を記念する大事な贈り物ですから、いずれにしろ、おしゃれな発信器だけでは手軽すぎます。宝飾品アクセサリーも贈りたい。その両方の思いを合致させたのですね。使い分けてもらえれば、発信器アクセサリーも利用してもらいやすいはずだと、小栗様はお話しになっていました。お客様の前ではエメラルドのネックレス。通勤時には発信器アクセサリー、という具合に。それにこれですと、宝石を仕舞い込まずに、身につけやすくもなりますわね」
「それで、同じデザインになった。……このこと、警察は当時、聞き取っていきましたか?」
「話には出ませんでしたね。被害品が存在することとその金銭的な価値を、さっと確認なさって写真を撮っていっただけです」
 ここまで答えた梅沢のおもてに、陰りが差していく。
「……あの事件の折、小栗様の思いが活きて、発信器が役立ってくれるとよかったのですが。間に合わなかったのは残念です……」
 事件のむごさを耐え切れないように語る梅沢ともう少し話してから、礼を述べて辞した。

「待て待て待て」
 口を突いてその言葉が溢れてきた時、目の前には、デスクに座っている殿川編集長の姿が。
「あっ、すみません。編集長に言ったのではなく、頭の中で発想が響きまして」
「かまわないわよ。部下が待てと言うなら、待ちますよ。我が社は風通しのいい――」
「では、しばらく黙っていてください」
 宝石店での昨日の取材内容が、今になって発光した。
 被害に遭った日、小栗美津子は結婚式に出席していた。ドレスアップをする、かしこまった場の典型だ。当然、華やかな装いもしていたという。では、ネックレスはどちらを身につける? 本物の宝石でできたほうだろう。
 だが、梅沢チーフマネージャーの話からすると、両方を持参していることもあるようだ。
 ……事件の日はどうだったのか?
 どちらも持っていたのだろう。だから、兄の小栗祐一は頼みの位置情報アプリを何度も起動させていた。
 すると、エメラルドのネックレスと、追跡デバイスネックレスの両方が奪われたことになる。遺体やその周辺から、ネックレス類など一つも見つかっていないのだから。
 ――そしてそもそもおかしいのは次の点だ。
 小栗祐一はなぜ、位置情報を発信しているのがネックレスタイプの物だと口にしなかったのか。アクセサリー型だったなどとは、どの記事やニュースにも出ていない。誰もが、スマートフォンにインストールされているアプリのことだと思い込んでいただろう。そのはずだ。
 無論、ネックレス型だったのですよ、などとわざわざ説明する必要はない。尋ねられもしなかったのだろう。だが、尋ねられれば答えたろうか?
 発信器に関しては、事実が完全に姿を隠していた。情報の断絶がありすぎる。そこに意図的なものはないのだろうか……。
「編集長」
「なに?」グラビアに使う写真候補から目をあげた。
「小栗美津子さんの事件の関係者、二、三人に訊いて回りたいことができたのですが」
「わたしが一分間も黙っていた甲斐のあることなの?」
「……正直、まだなんとも」
 まあどうぞ、との了解を得て、かつての関係者リストを洗い始めた。

 週末、土曜日であったが、相手にとって都合が悪くはないようだった。
 佐々木という女性は、小栗美津子の高校時代の同期生であって当時は同じ図書館に勤めており、取材には打ってつけの人物だった。すでに二人、当時美津子と親しかった人物から話を聞いていたが、めぼしいものは得られなかった。今回こそが本命であり、期待は持てるのではないか。
 多目的ビルの十一階にある健康ドリンク会社のCM配信部が、彼女の今の勤務先だ。二時間ほど、ぽっかり時間があくという。
 広めの休憩室といった部屋だった。
 ドリンクサーバーの前に立っている彼女は、「犯人も逮捕されているのに、なにを知りたいのですか?」と、興味はありつつも冷めた口調だった。
「記者としてネタを追っているという感じでもないのですよね。個人的に、気になってしょうがないから、すっきりさせたいと思っているんです。気にしすぎなのか、どこかが説明不足なのか……。追跡デバイスのネックレスについてなのですけどね」
「へえ……」
 机に座った佐々木は、こちらの前にもアイスコーヒーを置いてくれた。半透明のプラスチックカップだ。
「これはどうも、ありがとうございます」
「あのネックレスのこと、知ってるんですね」ショートカットの髪をさらに耳に掻きあげるような仕草をして、頬骨の目立つ細めの顔に、興味の色を幾分か上乗せした。「誰かに聞いたの?」
「最近、たまたま嗅ぎつけたんですよ。あの件は内緒事なんですか?」
 少し、目を丸くした。
「どうして? そんなことはありませんよ。同僚はほとんど知っていましたよ。言いふらすことではないのは確かですけどね。まあ、お兄さんが一番、言うのが恥ずかしいというか、内緒にしたかったのかもしれないかな。妹の首に鈴をつけるほどの過保護ぶりは、自分でもほど照れるというか……。鈴じゃあ気が引けるから、エメラルドのネックレスもあつらえたってことね」
 アイスコーヒーは、よく冷えていて味も悪くなかった。
「本物の宝石ではないことに、誰かが気がついた?」
「いいえ」佐々木はクスッと笑った。「美津子が自分から言いましたよ。お兄ちゃんからのプレゼントだって。恥ずかしそうでもあり、自慢のようでもあり。お兄ちゃんのことがとても好きだったから、心配性のところも含めてね。発信器つきのネックレスは、いつもきちんと身につけていましたよ。それと、防犯ブザーね」
 友人との、様々な記憶を掘り起こす目になっている。
「防犯ブザーは高校生の時から持っていて……持たされていたって面もあるけど、わたしも両親から、あんたもそうしなさいって言われたな。GPSは就職してからだけど、うちの職場ってスマホの電源を切っておくことも普通で、美津子はうっかり屋のところがあるから、電源切りっ放しってことも多いのよ。退勤の時や、他を歩き回っている時なんかに。置き忘れる時もあるしね。だから、常時送信されていて身につけ続けているネックレス型ってのはいいアイデアよね」
「妹さんのことを知り尽くしているお兄さんの、クリーンヒットだ」
「そう。お兄さんのヒットは嬉しいでしょう。だから、他のネックレスやペンダントもして、あれはバッグに入れていてもよかったろうに、美津子はほぼ毎日、あのネックレスをしていたの」
「事件の日はどうでした? 結婚式に招かれていましたよね」
「もちろん、本物のネックレスをしていましたよ。ただ、帰りは別でしょうね。発信器つきのほうにしたはずです。引ったくられても高額の被害にはならないし、ひったくり犯の位置をたどることができる追跡防犯アイテムになるわけです」
「犯人を捕まえる役に立つかもしれない、と」
 事件の日、両方のネックレスを持っていたのは確からしい。
「本当に素直で思いやりのある、いいでしたよ……」
 ビールでも飲むかのようにアイスコーヒーをあおると、佐々木はカップを机に立てた。
「わたしはね! 死刑には反対すべきなんだろうな、って、それまでは漠然と考えていたんですよ。でも、あの鬼畜たち! あいつらが犯人であることは百二十%間違いない。他の人も殺していて、平然と生きようとしていた。犯罪者であっても人権の尊重ですか? 人命の尊さ? じゃあ、美津子の命と、人権はどうなんですか。踏みにじられて、そのままですか? 最期の時、生きていく権利も……人としての尊厳も……。どんなにか……」
 女性二人連れの社員が入って来た。おしゃべりの声を潜めると、離れた席に座った。
「当時二つ持っていたはずのネックレスなんですが……」極力、ビジネスライクな声を出した。「そうだとすると、犯人たちの供述に違和感が生じる」
「最初からでためじゃないですか、あいつらの言うことなんて。盗んだ覚えなどない、そういえばポケットに入っていたかな、なんて言ってたんじゃなかったですか? 罪を軽くするためならなりふりかまわない愚劣さですよ」
「ただそれにしても、捜査記録の中にもネックレスは一つしか出てこないのですよね」
「一つ? 両方ともられたんだと思ってました。ええと……、当時はショックでショックで、細かいことは――細かいことではないのかもしれないけど、見聞きできていないし、思い出せないこともあるし……」
「今までお話を伺った方たちもそうでした。衝撃の大きさが、かえって記憶を急速に遠ざけてしまうみたいで」
「でしょう? でも、双子のネックレスの事情を知っている人は、みんな、両方とも盗まれたと思ってたんじゃないかな……」
「二つめが発見された様子はないんですよ」
 佐々木は男っぽく腕を組んだ。
「あの男たちが宝石の目利きとは思えないから、宝石のネックレスだけを持ち去ったとも思えないですよね、確かに。目につけばどっちも持って行ったはず」
「当時の担当刑事に訊いてみたのですが、犯人たちの供述、そして身辺には、ネックレスはもちろん他の宝飾品なども影も形もないそうです。同じく、ご遺体周辺にも」
「じゃあ、三人の中の他の誰かがくすねていて、口をつぐんでいるだけなんじゃない?」
「それも有り得ますね」
 とは応えたが、長い捜査における尋問の間も、検察に身柄を移されてからも、口をつぐみ続けたというのだろうか。そこまで徹底する必要があるのか。
「そういえばあいつらは、現金も盗んでないとしらばっくれていたでしょう」佐々木は冷ややかに吐き捨てる。「とぼけた嘘八百じゃないとしたら、愚かすぎて、盗みが意識に残ってないんじゃない? 百九十七万円も、あいつらにとってはアブク銭だったから、気に留めていない」
「あなたたちにとっては、使い途に意味のある大金でしたね」
「そうよ! 大変な手術を何回かしなければならないサチへのカンパだったのに。びっくりするぐらい集まった。それをられたのよ。もう一度つのったけど、さすがに前ほど奮発できない人が多くて、五十万円ほどだったかな。
 大事な、気持ちと希望のこもった大金だったから、美津子も気を張って扱っていた。これもお兄さんの祐一さんのアイデアらしかったけど、バッグの底敷きというか、底板の下に隠しまでしていたのよ」
「底板の……」
「バッグの一番下にお札を敷く。その上に底板で蓋をする。そしてその上に、普段のバッグの中身を詰めるんですよ。ドジなところもある美津子がとしても、お札は転げ出ないでしょう? 万一バッグをあさられても、セーフの可能性が高い」
「……小栗祐一さんは気が回る人ですね」
「自分のことより家族のためには、特に。うちの兄なんかはねえ……」

 佐々木と別れて廊下を進む一歩ごとに、確信が強まっていく。
 証明はできないだろうし、想像がすぎるかもしれないが、奇妙に確信が育っている。
 仮定のスタートは、あのケダモノどもも事実を証言していたとしたら、というものだ。
 ネックレスのこと……、現金のこと。
 高層の窓の外に目をやる。
 小都市の風景ではなく、嘘のように青く抜けている空に視線は留まる。
 自分に向かっては、幻の石が幾つも投げつけられてくる。
 そして、小栗祐一に向かっては――。
 気が回りすぎるほど家族を思っている男。
 惨死させられた妹の魂に報い、最大の報復を企図した悲壮――。
 彼は復讐の神を動かそうとした。
 そして今回、神の裁きの斧が天から打ちおろされてきたのだ。

 編集長には、ものにならなかったとの報告をした。小栗祐一が自白でもしない限り、事件の真相が明らかになることはないだろう。自白を求める気はなかった。臆測、ひととおりの推定、なんと呼んでもかまわないが、それを彼にぶつけようとも思わない。
 パソコンの中のカレンダーが自動的に変わっている。分刻みの仕事に追われ、煩瑣な生活を送るうちに、様々な記憶が摩滅していくだろうが、あの兄妹きようだいのことは忘れないに違いない。
 妹の行動、兄の行動……。
 主犯格・西坂青太が供述したとおり、いつの間にかポケットにネックレスが入っていたとしたら? それができたのは誰か?
 小栗美津子も祐一も、発信器つきネックレスが犯人逮捕に役立つことを意識していた。ひったくり犯の位置をたどることができる、と承知していたのだ。
 ひったくりどころではない、あの無残な被害の最中、美津子からは抵抗の力も消え去っていく時があっただろう。犯人たちには油断が生まれている。ああ……想像しただけで胸が塞がるが、彼女には、殺されるかもしれないとの思いもよぎったろう。いや、命が助かるにしろなんにしろ、この鬼畜たちを裁くための手掛かりを残さなければならないとの思いは固めた。たどれる、アリアドネの糸を残す。
 懸命に、そして覚られないように腕を動かし、外れていたか自ら引きちぎったかしたネックレスを、相手のポケットに押し込んだのだ。
 祐一が追跡アプリを駆使し始めた時、犯人のポケットに入っている発信器は、通信可能圏外へと離れていたことになる。
 そして、遺体発見……。絶望と悲嘆の底から這いあがってきた祐一の理性は観察眼となり、ネックレスがないことに気づく。犯人が奪っていったと考えるだろう。だから、妹の死後であることにもかかわりなく、位置情報がつかめないか確かめようとしたのだ。この時も圏外で、手掛かりはつかめなかった。
 だが、こうした行動を通して冷静さが戻ってきた――伯父の目には、正気が戻っていない姿に見えたかもしれないが――彼は、妹の所持品を調べてみる気になったのだと思われる。近くには伯父たちもいたが、それぞれの慟哭どうこくに沈み、むごい現場から目を逸らしてもいたろうから、祐一には単独で動く時間もあったはずだ。妹の遺体が横たわる穴の中に屈み込み、彼はバッグの中を覗いてみた。するとそこに、ネックレスがあった。本物のエメラルドで作られている品だ。……疑問が浮かぶ。犯人は身につけていたアクセサリーを奪っただけで、バッグの中を見ようともしなかったのか? 祐一は続けて、バッグの底板も動かしてみる。するとそこにもやはり、現金がそのままで残されていた。バッグの中身をあらためるこうした行動の物音は、風か揺らす森の枝葉の音に掻き消されてまったく目立たなかった。誰にも気づかれることはなかったのだ。
 エメラルドのネックレスと二百万近い現金を奪ったのは、小栗祐一なのだ。
 殺人事件を、強盗殺人事件にするために。

 小栗美津子殺害事件発生の翌月、改正少年法が可決、成立した。未成年者による犯罪の凶暴さと罰則の軽さのアンバランスを問題視していた世間には、厳罰化を求める声が多かった。それ故、成人と同様の刑事手続きを取る対象年齢の拡大などを盛り込んでの改正が行なわれたのだ。この少年法の改正は、社会でも長く議論されていた。
 それと、もう一つ……。
 〝誠実な取材対象〟であった小栗祐一が、取材の最中に気を散らしたことがあった。テレビに注意を向けていたのだ。確かにクレーン事故が扱われていたが、祐一はその前から注意を奪われていた。その時流れていたニュースは、法相が二度めの死刑執行命令を発したというものだった。
 河野法務大臣が就任したのは、小栗美津子殺害事件の二ヶ月ほど前。死刑執行命令に判をす、と表明していた。そして、その秋には一度めの死刑執行命令を出している。
 事件当時、小栗祐一の頭には、刑法を巡る知識や意見が自然と培われていたとして不思議はない。知性的でしっかりとした、生真面目さを持つ男だ。実際、防犯意識も強く、いろいろな犯罪被害を想定していた。
 だから知っていたのだろう。国家に対する犯罪という例外を除けば、強盗殺人が刑法上最も重たい罪になる、と。
 殺害までの経緯がどれほど残酷なものであっても……、量刑に影響を与えるのは当然としても、その罪名はただの殺人となる。これよりも強盗殺人罪のほうが罪は重いとの認識で、死刑か無期懲役の刑罰しかない。現実的には、大抵が減刑されて有期刑となるようだが。
 正体が突き止められたことによって、三人の凶悪犯が連続殺人犯であると暴かれたが、言うまでもなく、遺体発見時にそのようなことは小栗祐一に判るはずがない。妹をこれほどの目に遭わせた者に、ふさわしい償いをさせる方法はなにか?
 ここまで非道の犯罪であってもと、死刑も求刑されないだろう。だが、罪と罰を少しでも重たくする手段があった。
 小栗祐一は、強盗の罪も増えるようにと偽計を施したのだ。
 被疑者の手元にある現金が、奪われたものであると立証できないことは珍しくはないだろう。すでに使い果たされたと結論されるのも自然な流れだ。盗んでいないとの証明にはならない。
 〝ハート型をしたエメラルドのネックレス〟も、犯人たちの周辺で目にした者が現われるかもしれない。あるいは、闇に売りに出されるか。そのようなきっかけで、犯人たちがそれを手にしていたことの傍証は得られるかもしれない。捜査の過程で、そのネックレスは安価な位置情報発信デバイスにすぎないと判明する可能性もたぶんにあったが、そうなるまでは、小栗祐一が自分から、あれは本物の宝飾品ではありませんと申し立てる気は毛頭なかったのだ。
 捜査の初頭で犯人割り出しに手こずっているようであれば、位置情報が得られるかもしれないと警察に助言したことだろう。だが、防犯カメラ映像は手掛かりとして有望と思われ、実際、三日と経たずに容疑者たちは検挙された。
 そして、彼らの供述。「ネックレスみたいな代物は、いつの間にかポケットに入っていたな」。これは事実なのかもしれないと思ったのは、世界中で小栗祐一ただ一人だったのではないか。
 ――妹がやったのだ。
 死力を振り絞った、告発への一手……!
 魂が無言で泣き叫ぶような妹の絶叫に応え、祐一も歯を食いしばって沈黙を守り、妹が残した一手を最大限に活かせる復讐――合法にして違法――を進めたのだ。犯人たちの手元にはもうネックレスはない、という供述内容も聞こえてくる。位置情報発信デバイスだとバレる恐れはなくなり、言を左右にしても、彼らの手にあったことは事実として残る。強盗行為だ。
 偽計が露見すれば、当然、祐一も裁かれることになるが、そのようなリスクは目標の前には問題ではなく、すべて覚悟の上だった。そしてこの、罪を偽装するという兄の報復計画は見事に功を奏し、暴かれることもなかった。ただ……。
 小栗祐一の心底には、どうしようもない罪の意識が残ったのだろう。
 皮肉な話だが、妹の無念を安んじさせるために、妹の品を盗んだのだ。遺体の傍らで、札束を漁った――。相手が凶悪な無法者とはいえ、盗みの罪を人にかぶせた。
 クルアーンの法だ。

 イスラム教の聖典、クルアーンには、戒律を破った者への身体刑も記されていて、ハッド刑としても知られている。
 既婚者の姦通罪には投石の刑。
 窃盗を働いた者には斬手の刑。
 自分の人生が大きく暗転した時、これらの内容に目がいってしまい、今でも記憶に残っている……。
 テレビ局のプロデューサーとなって羽振りが良かった頃、気持ちを高めてくれる婚約者もいた。だがその時期、濃い情交を結んだ相手は、大河内の後妻である菜保子……さんだった。向こうのほうが二歳年上の三十七歳。
 長くは続かず……というより、菜保子がその関係に耐えられずに露見させた風でもあった。大河内の人格からして結婚生活を続けることも可能だったろうが、菜保子は自ら身を引き、海外へひっそりと去って行った。
 こっちは婚約破棄になり、冷淡視や倫理的に強調されたコンプライアンスによって職も失った。そのポストにいたから、地方では人脈も豊かに築かれ、調子のいい笑顔にも取り巻かれていた。タレントや著名人との顔つなぎ、制作会社への発言権、予算の裁量、各種の権利保有。……それらを一挙に失っただけではなく、過去の縁などないかのように、多くの者から冷ややかに関係を避けられた。誰であれ、大河内に顔を向けてこちらには背を向けるだろう。いや、自分がその程度の人間だったということに尽きる。婚約者がいながら不貞を働いたのみならず、大恩ある人物を裏切ったのだ。友人は蔑みつつ離れた。痛罵や絶縁、様々な石が投げつけられたが、これは自業自得だ。一方、小栗祐一のほうは……。
 ハッド刑をもとにしたイスラム刑法での斬手は、手首ではなく指を切断するもののようだ。無論、窃盗を犯せばすべてこの刑に処されるわけではなく、実行されることは極めて稀だ。罪が相当に重たい場合に限られる。
 禁固刑を何度も受けているような常習性がある場合。
 改悛の情を示さない場合。
 ……小栗祐一は、改悛の情を持っていたのか。
 罪の意識があったのは確かだと思う。それを明かすのが、あの時の表情だ。腕を失いそうなほどの無残な傷を見た直後の、複雑に揺らめいたあの表情……。
 ああ、なるほど、と思ったのではないか。斬手の刑か――と。
 居酒屋での取材の折、時間を戻せないなら加害者たちは神の罰を受けろ、との発言を受けて、あなたも同感できるかとただしてみた。彼は、「神の罰――それでしたら……」とまで言って口調を変えた。あの時彼は、神の罰でしたら私の身には降りかかりましたよ、と口にしかかったのではないか。
 妹の遺体から盗みを働き、裁きに不正を行なった者に、クレーンという神の斧は振りおろされた。
 ……損な性格の奴だ。
 だが、彼の中でも裁きは終わり、罪の多くは浄化されたのではないのか。
 いずれにしろ、すべては想像。
 この嗅覚など当てにはならない。

 前を行く青年の、シャツの長袖が、秋風にクルリと揺れた。
 小栗祐一だ。妹と並んで、歩道をゆっくりと歩いている。
 記憶に引かれて、傍らのビルに目をやった。やはりそうだった。三階に、義肢装具専門所がある。……リハビリがうまく進んでいるといいが。
 耳に入ってきている。母親は退院できずに病没したそうだ。彼女は、亡くなった娘や夫の思い出のある家から離れたくなかったらしいが、兄妹にすれば辛い記憶の多すぎる家だろう。どこかへ越すようだった。
 祐一に訊いてみたいことが一つある。バッグの底に隠されていた百九十七万円は、美津子が、難病に苦しんでいる親友へ届けるべきものだった。それをふいにすることには大きなためらいがあったのではないか。
 だからといって、代わりに届けられるほど単純なものではない。
 ほとぼりが冷めた頃に匿名でこっそり送ったとしても、これは話が漏れてしまうだろう。一種の美談であり、大金が絡んでいる。ひとたび注意を引けば、小栗美津子殺害事件との関連はあからさまとなり、祐一が為したことも瓦解する。わずかな危険も冒せないのは明らかだ。
 その現金とエメラルドのネックレスは、今どこにあるのだろう。
 美津子の墓か。海にでもかれたか。
 遠ざかる兄妹の後ろ姿には、幼い時分からの彼らの姿も重なるようだった。祐一にとって最後に残ったこの世でただ一人の家族。
 残った腕で守ってやるといい。守るべきものがあるうちに。
 ああ……、この世から消えた彼の腕が、妹の遺品を抱いて守っているのかもしれないな。


柄刀一(つかとう・はじめ)
一九五九年北海道生まれ。公募アンソロジー「本格推理」への参加を経て、一九九八年『3000年の密室』(原書房)でデビュー。日本推理作家協会・本格ミステリ作家クラブ会員。
『OZの迷宮』『ゴーレムの檻』『密室キングダム』「身代金の奪い方」が日本推理作家協会賞候補に、『ゴーレムの檻』『時を巡る肖像』『密室キングダム』『ペガサスと一角獣薬局』『或るエジプト十字架の謎』が本格ミステリ大賞候補に選ばれる。著書多数。
近作は『ジョン・ディクスン・カーの最終定理』(創元推理文庫)『或るギリシア棺の謎』(光文社)『或るアメリカ銃の謎』(光文社)など。

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