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持ち仏

石田 瑞穂

骨董市や古美術展をのぞくのが、むかしから好きだ。

柳宗悦の唱えた古玩や道具たちのもつ素直で健康な美に、コロナ禍に遭ってからもますます魅せられている。

市にゆくと、陶芸、雑貨、書画、古裂のほかに、かならず仏教美術が露店に列んでいる。

日本の古美術界では〝残欠〟と呼ばれ珍重されている品がある。瑕けた物、不完全な物に侘びた美をみいだす美的観点があり、それらはときに完器を超え値があがる。

秋草のような儚さですらりと無明指を天へのばす木彫千手観音飛鳥仏のいっぽんの腕。フォンタナのごとき傷がお顔にはいった鎌倉期の薬師如来坐像。それらは仏であるだけに、より無常の美を際立たせている。

仏たちの残欠になってなお美しい容(すがた)、いや、救いの容に、おもわず眼と指はのび愛おしげにふれてしまう。それでも、ぼくがその仏たちを家につれ帰ることはなかった。できなかった。仏さまは文字通り生命のかよう信仰の対象であり、ぼくにはそれらをモノとして視ることができず、ましてや譲ってもらうことなどできそうもない。だれがそう呼びはじめたのか。偶像、という言葉ほど無理解な言葉もない。

ところが、十五年ほどまえ。旅先の骨董屋で、この仏さまと出逢ってしまった。

銅製の仏さまは産着のような巻貝にすっぽり半身をくるまれている。いく世代もの指と掌に撫ぜられ、祈念され、その微笑も合掌もつるつるに磨耗し古流木の輝きをおびていた。七センチほどの小体は持ち仏にぴったりだ。

近現代の精緻な作ではなく、美作ともいえない、簡略そのもののアルカイックな造形で、いわゆる山銅作りだろう。掌にすっぽり納まるおおきさと容形は、この古銅仏が最初から持仏、旅仏を用とし作られたことを物語る。

かなりデフォルメされているが、宝冠らしき頭頂部に仏顔をいただき首飾をし印も合掌であることから、十一面観世音菩薩ではないかと考えている。問題はこの巻貝。後背からおおきく鋭くそりかえった外殻は花弁のようにもみえるし、するとこの貝殻は蓮華座でもあるだろうか。

ちいさな骨董店は南紀にあり、年季のいった古民家の店先には紀の松島からの潮騒がとどいた。ゆえに補陀洛山寺からも店はちかく、ぼくにはこの鋳造仏が、この地の渡海仏の容をしているようにおもわれた。渡海仏とは、平安時代の南紀独特の信仰である。西海の果てには補陀洛とよばれる観世音菩薩の浄土がある。山寺の僧たちは渡海船という木っぱ舟に独りのり、那智湾を西方浄土めざして西へと漂い去るのだった。そのほとんどの僧が臨終の老僧で、そのまま海上で往生成仏を遂げる。

そうではないか、とぼくは老僧めいた禿頭の店主に問うた。ちがう、この地の仏像ではなく、たぶん安南(東南アジア)の出物でしょう、との答え。たしかに、面長のお顔とほりの深い鼻梁は東洋的ではないのだが。

ともかくも、ぼくはこれを百千万毫難遭遇の機ととらえ、仏さまを拙宅へおつれしたのだった。帰宅するとぼくは自行で開眼供養を施し、般若心経をお唱えした。だからこの古銅仏はモノではなく、仏さま、なのである。

あれから、この巻貝古銅仏はぼくの机辺に安置されている。原稿用紙やノートの文字に倦むと、ぼくは仏の微笑に眼をとまらせて安心をえる。この仏さまのために仕覆も誂えた。海外へ旅するときには、かならず、仕覆におはいりいただき旅鞄のなかで同行していただく。

この仏さまと、日本各地、東南アジアや中国へもずいぶんと旅を累ねた。けれど、巻貝にくるまれた仏像はいちどもおみかけしたことがない。仏教美術専門の骨董屋に尋ねてみても、だれにもわからない。

製作年代も産地も不詳の巻貝舟にはいった仏さまは、どんなご縁で、時空の海を超えぼくの掌のなかに漂着したのか。古美術でいう稀ものの仏さまは、ぼくにとってまさに稀人、賓(まれびと)であり、そのお容はぼくの理想とするポエジーでもある。

〈CROSSING LINES連載エッセイ 「眼のとまり木」 第6回〉

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