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レンカをめぐるノイズあるいは断章

石田瑞穂

 気がつくと、彼女は、淡い光のなか、木の床のうえで上体をゆうらりゆすらせ微動していた。観客ひとり一人の視線と、彼女の瞳を触れ合わせて。そうやって彼女は、虹彩だけで、踊りだしていた。

 ここに書きつける言葉は、レンカという身体の表現、いや、彼女のからだと不器用に触れ合う音信となろう。

 彼女の踊りとともに詩の朗読を試みるとき、リハーサルというものをしたことがない。彼女には譜面もコード進行も計画も練習もないから。彼女はからだに街のプラグをいれる。板橋の地下ギャラリーで、新宿の雑踏で不意に踊りはじめるからだは一振りのノイズギターだ。

©︎Keita Ikeda
©︎Keita Ikeda

 朗読は、声によって文字を聴かせる、のではない。むしろ詩的朗読は手術にちかい。本の腹をひらき、語と語を切りはなし、インクで汚れた紙から離脱し暁色の楮を次の器官と皮膚に接木すること。

 レンカのちいさな筋肉質の背中がうごめく。汗で湿って輝いている。街の、知らない男たちや女たちが、不思議な光を放つ蜘蛛の巣を宙に織るのがみえた。つまり、レンカも、ぼくも、自分の背中がみえていない。自分の背骨の匂いを嗅ぐことはできない。他者ができることは記憶をほどくことだけ。虚空の紙をおさえる左手が、左に遠ざかる。声のペンをつかむ右手が硬く縮む。切り離された両の手の知覚に、言葉が凍えた蝿になって静止する。

 外には硬い鏡、内には半透明な繭が光り…ある哲学者の、どんな意識も声である、という言葉。しかし、意識も声も、だれにも属さない、と消えがての手が書く瞬間。声は白く遠くなる。その白紙に滲んでゆく語。

 ぼくは、いつしか、個人の朗読ができなくなった。
 彼女は、いつしか、みずからの身体表現を、コンテンポラリーダンスや舞踏とよべなくなった。いまやダンスにも、舞踏にも、個人もしくは集団のパフォーマーによる定形的なムーヴメント、署名入りの所作がある。ダンスカンパニー、肉体のスクール。もはや彼女は稽古という概念をもたない。夜な夜な、新宿のストリートに躍りでては、ミュージシャンやマジシャン、たんに往き交う人とセッションしていた。

 彼女はよく「ただの踊り」という。彼女は台本や演出なしにただ筋肉、骨格、膚、反射神経を踊らせ軋ませて、一瞬一瞬、肉体に潜む相貌を跳躍させてゆく。それは身体の奏でる思想の連続と変容、からだの流れとよどみにみえる。そんなからだはジャンル批評の対象となりうるだろうか。水の流れを批評する、あるいはできる者がいるだろうか。

 四肢をもたない。作業記憶を保てない。そんな身障者たちの踊りを彼女は「すごい」と讃嘆する。彼女の踊りや舞にはしばしば踊る身障者から学んだムーブメントや所作が浮上する。彼女の踊りは肉体の形而上学ではなく、頑健でしぶとい日常の地に足をおろしている。

 うすあおく翳った天井のほうへ、ライトへ、秋の虎杖のあわあわした蔓花穂をおもわせる白い腕をそよがせていたが、不意に、手刀を水平に切って舞いながらはしりだす。風を切って。疾走と回転の速度もあがり、ひきしまった上腕二頭筋から外腹斜筋にかけて、影の傾斜が深まるたび、詩も声も脳髄の外へひっぱられてゆく。詩と踊りのあいだ、その余白ではたらく、謎めいた張力、揚力。

©︎Keita Ikeda

 詩と踊りの振動が止み、暗転する世界に静寂がみちる。同一性は、あいまいなひろがりのなかで、ゆれている。「ぼく」や「レンカ」や「観客」もすこしずつゆれ、分子の軌道を逸らして。同一性が拡散し、ただ時間の襞となってひろがり、観えなかったもの、聴こえなかったものまで折りたたむホワイトノイズになって。
 雪が、踊る。

 踊りのつづきが時空を超えて新宿でも生起する。映像作品「従足直行」のなかで。新宿駅構内外の固い路面、新宿という物質を踏む足につき従う奇妙な直線的散策。彼女は雑踏のなかでやおら身をかがめ舞い踊りだす。それから、突風のように新宿駅前の横断歩道へ「不意に、手刀を水平に切って舞いながらはしりだす。風を切って。疾走と回転の速度もあがり、ひきしまった上腕二頭筋から外腹斜筋にかけて、影の傾斜が深まるたび」

 こんどは無数で匿名の往来者が、彼女が路上で創りだす踊りの景色のなかで、ばらばらの方角へと「奇妙な直線的散策」をくりかえすようにみえる。掌を翳して屈み静止する彼女に好奇の眼をむけ歩き去る者もいれば無視する者もいる。しかし、液晶画面で交差し離散しつづける無数のめくるめき歩みはすべて彼女の踊りの景色として踊るのであり、意識するとしないとにかかわらず「従足直行」を踊るのだ。新宿も、映像も、躍りだす。

 つまり、運動の彼方の不動性がある。立つことの彼方には座った存在があり、座った存在の彼方には横たわる存在がある。ついには不動の散逸になって。

 言葉なきもの。雪、イン=ファンス。言葉の綾ではなく、ほんとうにそんなものがあるのだとしたら。それこそは、あらゆる言葉の格子と篩をすりぬけて、絶対不可知の闇のなかに音もなくこぼれ落ちてゆく雫のようなものであろうから。その存在を知覚する方途も、またそうできる因果もおそらくはないだろう。
 ただ、なぜだかぼくらは感知できてもいる。テーブルにふれる掌がその堅さ、冷たさ、杢目の沈黙にふれられるように。その存在が自分自身の内側にも外側にも偏在していることを。

 映像作品「2020911-2」。人が世界を、ではなく、世界と物質が精神を感じる出来事。通常のダンス作品を想わせるテクニカルなムーヴメントはいっさいなく、微動というより微震にちかい繊細でゆっくりとした動き。ごく緩慢に体軸をずらしつつ体幹を成長する樹木のように螺旋にめぐらし、関節と表皮にかけてわずかに隆起する背筋を流したりよどませたりしている。踊るからだはみえない大地となる。そんな「ただの踊り」に誘われて、硝子窓ごしにそよぐ緑、射しこむ陽光、反射する壁のやわらかな白光、部屋の空間を薄くみたす音の流れ、わたしたちが凝視める画面の走査線さえも…彼女のまわりで世界のほうが舞い踊りだすようだ。

 瞳をとざす。するとこれまで視覚と連動しながら意味を選択するために使役されていた耳、聴覚が微細な物音を聴きはじめる。記憶しているあれこれの音の痕跡とはいかにもそぐわない、唐突な違和感を伴って耳に飛びこんでくる物音たち。ジョン・ケージが「音(sound)は人間のものではない」と書き遺す音ずれ。

 この音ずれは、世界のほうからもやってくるようだ。それらは彼女がよく口にする「整え」として聴覚を組織しなおす。固着から解放された耳は、奇妙になつかしい、知っているはずなのに未知でもあるノイズが身体の内奥から膚へと泡だち昇るのを聞くともなしに聴く。
 そんな瞬間だ。すでにたどり着いているのにたどり着いていることをうまく表現できないもどかしさを、物言わぬ身体感覚だけが突破できたように感じるのは。

 眼、耳、膚とゼロ距離のノイズ。ニーチェは、語が、身体と密着した神経の刺激を音に変え、その音を受け手へとコード化して配信する機械であることを看破した。

 その微かな刺激、としかいえないなにかは、記憶はおろか無意識すら欠いたまま、神話を素通りし、ただ手指、四肢、膚、知覚器の反射運動として、無数の相貌という肉体のアレゴリーへと変奏されてゆく。音の極北をみいだそうと踊る意志が、むしろそこからの逸脱や偏差に錆のようにおおわれてゆく。意識には翻訳できないもの、無意識はおろか身体ともはぐれてしまったもの、によって。

 からだ/身体の歴史なしに。聖なる死骸や粒子化する肉体なしに。生まれたときが死ぬとき。生じたときが滅するとき。存在するときが存在をやめるとき。

 彼女は幽霊を信じないとおもう。

 相貌の踊り。その存在様式にはどこか儚げなものがある。彼女の汗だくになった憂い顔がだんだんと晴れて、微笑とも放心ともつかない顔の漣となる。さきほどの苦悩の表情はどこにいったのだろう。彼女の顔とからだはどこにもゆかない。現にそこに在る。それでも先刻の相貌は消えてしまったのだ。相貌の身ひとつの在り方と、物質不滅の事物の在り方をくらべたとき、なんとも心もとなく、無常を観ずる。プラトンも、相貌の母たるイデアには奇妙な存在様式をわりあてることしかできなかった…世界の身体という。

©︎Keita Ikeda

 声は肉体のような固形物ではない。にもかかわらず、彼女の眼差し、体温、汗、体臭といった非物質と同様、声は人の一部、彼女の欠けてはならない部分だ。それは身体と語にも共通する存在のありようである。彼女は一言も発しないが、からだは流動しながらそのせせらぎを叫ぶ。「叫」から声を、せせらぎから「流」を引き剥がすことはできまい。「唖」さえただ口をひらいているだけでは「人」から遠ざかる。声は身体や語の棄却物ではない。その生身の流動的部分である。

 ある人が朗読する声を聴くとは、とりもなおさず朗読者の精神と詩世界に触れることだ。詩語とその声を踊り、舞う、レンカのからだと相貌はポエジーと触れ合っている。互いに声を交わすとは、互いに触れ合うことでもある。触れ合いはときに愛撫であり、ときに闘争だが、日常の接触は穏やかな触れ合いであることがおおい。彼女の踊りを観ることは、固形的な触れ合いではないが、相互による肉体的接触である。そうとすれば彼女がからだで踊るのとおなじく、詩の声もからだで踊るのだ。レンカの踊りが日常世界との触れ合いによって織りあげられることにいかなる齟齬もない。

 映像作品「2020911」の圧倒的な「舞」。カメラは彼女の横顔へとクローズアップしてゆく。彼女の左眼がすこしずつうるみ、ふるえ、涙がたまる。それから、すっと、流星のように膚をつたい墜ちてゆく。言語の闇を貫いて。一滴の涙さえ、舞うことができる、とでもいうように。有情の雫の表面には、ぼくらと世界がともに写っているだろう。涙の舞につつまれて。

〈CROSSING LINES連載エッセイ 「眼のとまり木」 特別篇〉

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