『乃木オタ回顧録〜デビュー10周年を迎えるにあたって』#2
2012年初夏から初秋〜オタクへの一歩
セカンドシングル「おいでシャンプー」が発売されたのは5月頭、GW真っ只中。当時自分は自転車で転倒し肩を粉砕骨折、入院中のベッドでその発売日を迎えたのを覚えている。このシングルはAKB48の、当時異端児的存在だった指原莉乃のソロシングルと発売を同じくしオリコンでの順位を争っていた。結果、乃木坂46は初のオリコン一位を獲得し指原莉乃との勝負にも勝ち以後二者の間には奇妙な友情関係が結ばれる。とは言え「おいでシャンプー」のMVに指原莉乃が出演している時点で言わずもがなだが。
「おいでシャンプー」の大ヒットあたりから世間では乃木坂46を再認識され始める。夏、冬ごとの大型歌番組にも顔を出すようになった。この年の夏あたりまでは「おいでシャンプー」くらい歌わせてもらってたがいつしか呼ばれても持ち歌でなく往年のアイドルの懐メロのコーラスやバックダンサーだったりする事がしばし続いた。映画「悲しみの忘れ方Documentary of 乃木坂46」(2015年)のBlu-rayのボーナスディスクに収録されているインタビューで高山一実はそう言う歌番組でいつも肩身の狭い思いをしている、いつかもっと長尺でメドレーみたいな曲披露したいと夢を語っていた。それは後年少しずつ叶っていく。
しばらくは「乃木坂って、どこ?」や「乃木坂浪漫」をチェックするくらいの日々が続き初の夏曲「走れ!Bicycle」の発売が近づいたこの年のお盆頃、せっかく東京に住んでいるのに乃木坂46のイベントに行かないのは意味がないなとふと思い立ち唐突に何かイベントはないのか調べた。AKB48のように専用劇場を持たない(普通持ってないもんだが)乃木坂46が一体どのような形態でライブを行なっているのか全く知らなかった。そこでぶち当たったのが「16人のプリンシパル」だった。初演は9月1日、その日のチケットをチェックしたのは2週間くらい前だったろうか。9月1日の昼公演、まさに乃木坂の伝統となるプリンシパルの第一日目第一回の公演に行くことになった。これが初めて参加した乃木坂46のイベントであり、初めて生の乃木坂ちゃんたちを目の当たりにするのである。
「16人のプリンシパル」とは映画「コーラスライン」が如くオーディションを劇中に取り込んだような構造で一幕目にメンバー全てが観客に向けて自己アピールし二幕目までの幕間に観客が審査投票し二幕目のキャスト16人を決定し二幕目を選ばれたキャストで演じると言うもの。この時の演目は「アリスin乃木坂」と題し不思議の国のアリスを模したミュージカルショーだった。この公演のゲネプロ後の記者会見で生駒里奈が記者の質問に詰まってその場から去ってしまったのは有名な話。それだけ切羽詰まっていたのだ。
初めて触れた乃木坂46のイベントは意外にも手作り感のあるライブ的な印象だった。物販もまだそんなになくパンフレットすら無かったので公演自体を成立させていく事に必死だったのだと思う。
一幕、二幕の後は全員登場でのミニライブ。発売したばかりの「走れ!Bicycle」をメインに2〜3曲は披露してただろうか。全編通してお目当てはななみん!橋本奈々未であった。当時から人気メンバーであった彼女は二幕目にもなかなかの上位で出演するし、曲披露でもメインを張っているので見つけやすい。それを当然のように思っていた当時の自分の浅はかさには後々気づく事になる。
「16人のプリンシパル」に先立つこと約2週間前大阪と名古屋で開催された乃木坂46初のワンマンライブはそのタイトルに「乃木坂46 Live in Osaka〜がんばれ!今野〜」と乃木坂の運営委員長今野義雄氏の名前が冠されているではないか。自分は後でコレを知る事になるのだが、スタッフの名前をタイトルに入れるなんて何とAKB的発想か!と虫唾が走ったものである。流石に不評だったのか以後タイトルにスタッフの名前が並ぶ事はなくなった。しかし当時は当然AKBのスタッフが運営に多く関わっていたし乃木坂はそのシステムに乗っかって動いていたのは確かである。まだまだAKBグループにおんぶに抱っこ状態の乃木坂、暫くはそのしがらみから逃れる事は許されなかった時代。