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#43 やめられないとまらない/くろさわかな

【往復書簡 #43 のやりとり】
月曜日:及川恵子〈やさいおいしい〉
水曜日:泖〈中川家と動物〉
金曜日:くろさわかな〈手をつなぐ〉

手をつなぐ

今日は1日中、藤井風の「何なんw」をリピートしています。

及川さんにおすすめされてから藤井風をチェックするようになりましたが、改めて歌詞をじっくり読んでから曲と重ねてみたら、本当今さらながら「まじで何なん……」ってなりました。藤井風の要素が1ミリでも自分に染みこんでくれればという期待を込めて、狂ったようにループ再生しています。

何回繰り返してもまったく聞き飽きないのは、この内容を歌い上げる歌唱力があってこそですね。「…知らない方がよかった なんて言わないで居て」のところの最後の「居てーいえーいえいえっえっえー」の歌い方が最高に気持ちよくて、そこだけいっしょに歌ってみたり。難易度、星3つです。

こんなふうに、わたしの日々の暮らしには、短いスパンでちょっとした「やめられないかも?とまらないかも?」なことがやってきます。大抵はぱったりとやめてしまうのですが、それを乗り越えると習慣化して無意識の「やめられないとまらない」になっていきます。

それはたとえば「手をつなぐ」こと。

以前、及川さんと泖さんと「恋人と手をつなぐか」という話をしたことがありましたが、そのときにおふたりとも「あんまりつなぎたくない・つながない」と言っていたのが衝撃でした。(記憶力には自信がないので、間違っていたらすみません…。)

わたしはすぐに手をつないでしまうのです。
恥ずかしながら、今も寝るときは寝付くまで旦那と手をつないでいます。

これはもう好きだからつなぐというよりも、習慣という方が近くなっておりまして。毎日歯磨きをするみたいに。どんなに疲れていても歯は磨かないと寝られないじゃないですか。それと同じで、たとえ喧嘩をしてイライラして、今日の旦那に対して好きだという意思表示はしたくないという日でも、寝るときには手をつなぐ。それは「ごめんなさい」という意味でもないんです。当たり前にすることというか。

考えてみると、わたしも旦那も会話が得意な方ではありません。テンポよくポンポンと言葉を出すことが難しい。複数の人と話しているときなんて、自分の意見を頭の中で整理しているうちに、次の話題になっちゃっていたり。それに加えて、どうしても照れてしまって、純粋な感情をうまく言葉に乗せられません。素敵だなあと思ったことも、好きだなあと感じたことも、逆に悲しかったり怒ったりしたことも、言えばいいのに言えない。そうしてもたもたしていると、湧き上がっていた感情がすーっと消えていってしまって、ますます言葉にできなくなっていくのです。

そういう会話下手なところを補うために、わたしは旦那と手をつなぐのかもしれません。心のつながりって目には見えないし、テレパシーみたいになにかが具体的に伝わることはないですが、とりあえず次の日に喧嘩を引きずることはありません。わたしたちには、この「『会話』で不足した分を物理的に『手をつなぐ』ことで補う」というやり方が合っているみたいです。

心をつなげるのって、そんなふうに相手と自分とのバランスでベストな方法があるんだろうなと思います。会話の方を主にしたほうがうまくいく人たちもたくさんいるでしょうし、それ以外の方法、たとえば文章とか音楽とか写真とかがいい場合もある。だから人付き合いって難しくて、マニュアルどおりにはいかないんでしょうね。

・・・

「心を開く」っていう言葉、いまいちよくわからなかったんですが、こういう、自分へとつながる道の開通を許可するってこと……かな? と、今日、ちょっと整理できた気がします。自分につながる道を開ければ、曲を聞くだけで藤井風とつながれるということ。すごい。

この往復書簡も、“つながる”といいなあ。


くろさわかな

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