しんじつはいつも

真実はいつも無量大数ひゃくせんまん

土曜日の6時。名探偵コナンが始まる時間だ。
オープニングが始まると、コナンの決め台詞「真実はいつもひとつ!」を息子が茶化した。
「真実はいつもふたつみっつ!」
楽しくなった娘も、「よっついつつ!」と続ける。「じゅうにじゅう!」「ひゃくにひゃく!」……だんだんムキになった2人は、謎のマウンティングを始める。遂には息子の口から「無量大数!」という途方もない数まで飛び出す始末。兄より3つ年下の娘は、無量大数という言葉自体を知らない。それでも彼女は、それを超えてやろうと頭をフル回転させた。「真実はいつも無量大数ひゃくせんまん!」

もちろん、無量大数ひゃくせんまん、という数は現実には存在しない。
しかし、「真実はいつも無量大数ひゃくせんまん」という台詞に、私は妙に納得してしまった。

実際に起った現象を「事実」とすると、「真実」は、『「事実」について、語る人自身が「事実だ」と信じられる内容にフィルタした結果』ではないだろうか。「真実」は関わった人すべての数だけ存在する。それは矛盾も含みながら、個々人の中でアップデートされ、分裂し、増えていく。

例えば、シンデレラのガラスの靴が片方脱げてしまった場面。
「事実」としては「シンデレラが階段を駆け下りた」や「シンデレラの靴の片方を王子様が持っていた」だ。

「真実」はどうだろう。

目撃者Aさん「なにかとても慌てていたようです。それに靴も履き慣れていない様子でした。走って躓いたのか、片方脱げてしまった。それでも、履き直さずに靴を置いたまま走り去ったんです。」

目撃者Bさん「王子さまをからかっていたんですよ。これで自分を探し出してほしいとでも考えたんじゃないですか? どう見たってわざと、あれは。靴が脱げたふりをして、階段に置いていった、そうにしか見えない。」

目撃者Cさん「シンデレラは目に涙をためていた。かわいそうに。ここだけの話、あの王子様は手が早いと有名だから、何かされたのかもしれない。逃げるように帰っていったから。それに、王子様は彼女の靴を片方だけ持っていたんだよ。落としていったというけど、片方だけ置いていくなんて普通ありえないでしょ? なにかやましいことがあるから、落としたなんて嘘つくんだよね」

「真実」は、主観や噂話から、「事実」にないことも付加されていく。最初のうちは本人も信じていなかった情報(「真実」ではなかった情報)も、口に出すうちにいつの間にか本当のことのように処理され、「真実」として咀嚼されていく。

シンデレラは「わざとやった」なんて言わないだろうし、王子様だって酷いことなんてしていないと主張するだろう。でも、「わざとかわざとじゃないか」「相思相愛だったかどうか」は、「事実」としてはわからない。個々の胸の中を覗くことはできないからだ。それぞれの主張もまた、すべての証言と同じ「真実X」としてしか存在することはできない。

ただ、すべての真実が同じ質とは思えない。それぞれの真実には、相応の重さがある。語る人の信頼度、似たような真実を持つ人の数、声の大きさ、科学的な立証。様々な要因が重りになる。そして重ければ重いほど「事実」と同じように扱われていく。「嘘」だと思っていたことがある日「本当」になり、「当たり前」だと思っていたことが実は「間違っていた」りするのは、そのせいなのだろう。

「ねえママ!無量大数ひゃくせんまんなんて数はないよね!」

息子は断固として無量大数ひゃくせんまんの存在を認めようとはしなかった。半泣きの娘も「ある!」とゴネる。双方に納得してもらえる答えなど、未熟な母親に用意できるはずがない。ここはごまかすしかない。
「うーん……、こうりもごろうなら言いそうじゃない?『真実はいつも無量大数ひゃくせんまん!』」
野太いガラガラした声で台詞を言うと、2人は笑いながらツッコんできた。「もごろうwww 小五郎でしょ!」
「そうだっけ? ……あ、ほら。もごろうが登場したよ」
何も解決はしていないけれど、「無量大数」の話よりも「もごろう」に興味がいったようだ。笑いながらコナンに視線を移す子どもたちにホッとする。

アニメでは、コナンが語る「真実」には100t超の重みがあって、「事実」と同等に扱われていた。彼の世界では確かに「真実はいつもひとつ」で、その他は「存在しない」のかもしれない。正しいか間違っているか、白か黒かの2択の世界。単純明快で、すっきりして、気持ちがいい。だけど、もし自分がその「真実」とは別の「真実」を持っていたら。そしてそれを主張したとしたら。白黒世界でグレーな私は、いったいどう扱われてしまうのだろう。

真実はいつも無量大数ひゃくせんまんだ。
コナンには笑われるかもしれないけれど、忘れないでいたいと思った。

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