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「てか水って何?」

アラスカの雪原のバーで、二人の男が酒を飲んでました。1人は信仰深く、もう1人は無神論者で、神の存在について、ビール四杯目くらいからガッと来る迫力というか頑固さで、議論をしていました。無神論者はこう言いました。「あのな、理由もなく神を信じないわけじゃないからな。お祈りやらなんやらだってやったさ。先月だってヒドい吹雪に巻き込まれて遭難したんだよ。何も見えないし気温はマイナス45度。もうダメだと思って一か八かで神様にお祈りしたんだよ。『助けてくらっさい。さもないと死んじゃう』って」この話を聞いた信仰深い男は、不思議な顔でもう1人の男を見て、こう言いました。「だったらもう神を信じるしかないだろう。こうやって今、君は生きているじゃないか。」すると遭難した男は、呆れた顔で答えました。「そんな神様なわけねーだろ。2人のエスキモーがたまたま通りかかって帰り道を教えてくれただけだよ。」
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真実はたくさんあって、そのどれもが平等だ(真実はいつも無量大数ひゃくせんまん)。命を救われる「事実」があったときでも、「神に助けられた」と信じる人もいれば、そうでない人もいる。どちらも事実から導き出された「真実」に変わりはないはずだが、人によって全く違う真実になってしまうのはなぜだろう。
デヴィッド・フォスター・ウォレスは、ケニオン大学卒業式のスピーチで、真実そのものばかりに目を向けるのではなくその背景を意識することが大切だと説いている。

先の話のポイント、それは、もう少し謙虚になること、自分の存在や確信していることを見つめ直すことこそが、「自分の頭で考えること」の意味するところではないでしょうか。今までぼくが根拠もなく自動的に正しいと信じてきたことは、大方間違っていました。何度もそれで痛い思いをしましたし、君たち卒業生もこれからすると思います。
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常識だと思っていること、気にも止めないことは、「無意識に処理されている真実(デフォルト設定)」だ。意識しない真実ほど、揺るぎない自信や確信が芽生え、誰かを攻撃する武器になってしまう。根拠もなく「正しい」と信じていること程、見つめ直す必要がある、と。

私にも、もっと無意識を意識していたら今とはまた違った人生を送っていたかもという経験がある。

小学生のころ、私は大人の言うことをよく聞く子どもだった。
学校やチャレンジの教材で「よい」とされることは正解で、そうでないことは不正解だと信じ、宿題はきちんとする、話は静かに聞く、テストはいい点数を取る、など褒められることに励んだ。中でも特に素晴らしいとされるのが、道徳の教科書に載っているような「親切で思いやりのある行い」だったので、思いやりがある(と評価される)行動をとるように努力した。

肝心の「思いやりとはなんぞや」という点については深く考えてはいなかった。「困った人に手を貸す」「ゴミ拾いやお手伝いを進んでする」「友達に優しくする」といった、みんなが喜んで、先生にも褒められそうなことが「思いやり」、というぼんやりとしたイメージで、理解したつもりになっていた。ゴミ拾いなんて面倒だしやりたくないな、という思いは悪魔の声だと蓋をして、誰かのために奉仕する。今日は1人で漫画を読んでいたいという日でも、友達から一緒に遊ぼうと誘われたら断らない。小学生の頃の私は、自分の気持ちを抑えつけながら、思いやりのある人物になろうとしていた。

でも、小学校高学年くらいになると、誰かのためにとしたことが、別なところで歪みを生み出していることに気がつき始めた。先生が喜ぶゴミ拾いの仕事をすると媚びていると陰口を叩かれたり、友達の言うことに同調しすぎて別な友達の悪口大会に参加せざるを得なくなってしまったり。同じようなシチュエーションが載っていない道徳の教科書は無力だった。こういうときに思いやりのある人はどう行動したらいいのか、正解がわからなかった。誰かのためにと何かをすると誰かを傷つける、でも、見ていて何もしないのは思いやりがない悪い人。そう考え、身動きがとれなくなった。親や先生にも聞けなかった。思いやりがわからないなんて質問をするのは、褒められる行為ではないから。
結果、あまり交友関係を広くしないで目立たないように生きるのがよさそうだ、という結論に至った。引きこもることはなかったけれど、中学からは部活もほとんど行かず、学校が終わったらすぐに帰ってゲームばかりしていた。私の人見知りな性格は、ここから始まったのではと思っている。

道徳の教科書はすべて正しい、先生に褒められる人は偉い、他人を不快にさせない人は美しい、自分を犠牲にすることは正義。いつの間にか私の「水」に溶け込んでいた。それらは信じても信じなくてもいい、「選択できる」ことだったのに。

2匹の若いサカナが泳いでおり、逆方向に泳ぐ年上のサカナに会いました。すれ違い様、年上のサカナはこう言いました。「おはよう少年たち。今日の水はどうかね。」2匹のサカナは特に気にもとめず、しばらく泳いでから、顔を見合わせて言いました。「てか水って何?」
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自分の「水」の存在を意識することで、泥水からも抜け出せる。クリアになった視点で他人の生を感じ、他の真実を見いだせる。
それは他人のためではなく、自分自身が幸せに生きていくための選択だ。選択の影響として誰かのためになることであっても、すべては自分のために行なっているという責任と自覚と自信を持つこと。誰かのためにという選択は、うまくいかなかったときや感謝されなかったとき、あの人のために自分を犠牲にしたのに、という考えに繋がってしまうから。
今の私はまだ、気を抜くとすぐに「誰かの気に入ること」が正解だと探してしまうけれど、すべての思考の始まりを「自分」起点でスタートし、その結果も「自分ごと」で終わるよう、濁った水を意識して生きていきたい。

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