「神様」になりたいか?

仙台市の無職の男性(65)が殺人未遂容疑で逮捕された。
この容疑者は7日午前5時45分ごろ、
通りがかりに口論となった仙台市の飲食店経営の男性(62)を
持っていた小刀(刃渡り5.8センチ)で刺し、大けがをさせた。
2人は面識がなく、容疑者は
「犬を散歩中、(男性が)赤信号を渡ろうとしているのを
注意したことでトラブルになり、何回も刺した」と話し、
刺したことは認めているが、殺意は否認しているという。

これは、今僕がテーマとしていることが事件化した事件である。
それは、ある人(A)が、ある人(B)に対して、
「こういうふうにすればいいのに」とか、
「なぜそうしないのだろう」などと思って、
ただ思うだけならいいのだが、
それを、その人に強要したり、
周りの人に言って一緒にその人を批判したり、
ひどい時には暴力で無理矢理抑えつけようとするということで、
このようなことは家庭においても、
学校においても、職場においても、
そして、このような日常の路上においても、
ひんぱんに行われている。

たとえば煙草の吸殻をポイ捨てした人を、
非難するような目で見ること、
一緒にいる人とヒソヒソ話をして、
不快に思っているということをアピールすること、
その人に直接言って注意すること、
市役所や警察に通報すること、
その場所に貼り紙をすること、
これくらいまではまだ許容範囲だが、
持っていた短刀でその人を
何度も刺したとしたら、
それはちょっとやり過ぎだろう。

この勘違いした正義感からの行動、
どこで線引きをしたらいいのか、
僕にはわからない。

吸殻のポイ捨てはいけませんよ、というのと、
人を短刀で刺してはいけませんよ、というのとでは、
大きく違うということはわかるのだが、
人の行動を批判(禁止)しているということでは、
同じような行為ではないかとも思うのだ。

ここには「自分は正しいのだから、
他人を批判する権利がある」
という気持ちが見え隠れしている。

これを僕は「神様意識」と呼んでいる。
「神様意識」とは、このような考え方である。

自分は神様だ、
だから自分は正しい、
だから他人を批判する権利がある、
他人は私の言うことを聞くべきだ、
なぜなら私は神様なのだから。

最初の一行と最後の一行を削除すれば、
多くの人は似たような考え方をしていると思う。
問題なのは潜在意識下に隠されている、
最初の一行と最後の一行なのだ。

多くの人は神様という後ろ盾を持っているから、
自分の倫理観や道徳観を、
正しいと認識することを自分に許している。

これは巧妙な洗脳ではないだろうか、
なぜなら異なる神様を持った人の間では、
相手を短刀で刺すことが許可されてしまうからだ。

だからタリバンとかボコ・ハラムとかに、
「テロはいけませんよ」と言ったところで、
通じないのである。

どうしたものか、この「神様意識」。

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