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燃えないゴミ

書いたことを発信することは、燃えないゴミを埋立地に捨てる行為と等しい。生きていると、自分の中に燃えないゴミが溜まっていく。燃えないゴミの原材料は、その時その場では言えない、もしくは言葉にはならないような違和感、モヤモヤだ。誰しも燃えないゴミを身体の中で作っていると思う。ただ、ゴミになる前に、それらを芸術として世に出せる人もいるし、私のようにゴミになる人もいる。(何をもって芸術とするのか、ゴミとするのかという話は一旦置いておく。)その燃えないゴミを捨てられる袋のキャパ(=自分の体内)には限りがあって、ある程度溜まった時には外に出さないと腐敗してしまう。発酵、熟成できれば良いのかもしれない(これが芸術?)が、自分にはそこまでの時間に耐えうるほどの忍耐力がない。だからnoteを埋立地としている。そしてその埋立地のサイズは無限大ときた。捨て放題である。

そんな燃えないゴミを人の目に触れる可能性があるところに捨てるのかよ、noteを掃き溜め場にしていいのかよ、いや、まずフォロワー数も少ないしそんなこと考える必要もないレベルだよ、とセルフツッコみをいれつつ、自分なりに考えた末の結論としては、捨ててよいと思う。誰に迷惑をかける訳でもない。それに、どれだけ捨てても埋立地がいっぱいになることもない。自分が自己嫌悪に陥るだけで、でもその痛みを伴うからこそ、自分の場合は、ある程度散文的な文章にならないようにと負荷がかけられるし、自分をより相対的に捉えることができる。

Chat GPTが公開されて、近頃はその話題でもちきりだ。AIの方がよっぽどまともな文章を書ける時代になった。膨大な量のデータを学習した上で文章を作成するのだから、間違いも少ないし要領も得ている。新たな視座が無い限りもう人間が文章を書く意味がない。(余談:アンディ・ウォーホルは「機械になりたい」と言ったそうだ。果たして今の時代に彼が生まれても、機械になりたいと言うだろうか。それに彼は機械になりたいと言いながら日記をつけていた。きっとそこに明確な意味は無かったと思う。)では、意味はなくても何が文章の価値になるかと言うと、ロジックでは説明できない面白さと人間が書いたというリアルな質感なのではないか。人が何を面白いと思うのかについては個人差もあるだろうし色んなポイントがあると思うので言及しないが、後者については極めてパーソナルなことが最も重要になるということだ。機械がどれだけ上手い文章を書いたとしても、あくまで人間が何かに使う為の意味があるだけであって、価値はない。自分が書いたとしても世間的には何も価値がないが、自分が書くことをやめるということは、自分にとって燃えないゴミを出す手段を失うということで、それは過激な言い方になるが死ぬのも同然だ。つまり、少なくとも自分にとっては価値がある。

だからこれからも燃えないゴミを生産し続けるし、燃えないゴミを捨てる一手段が文章を書くことだというような感覚を持った人の文章を読んできたい。


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