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お久しぶりです。

市民として、インターネットに彫刻する作業がアホらしくなっていたので(今もそう思っている)全く書いていませんでしたが、単にフィルムカメラ買ったので自慢したい。

自慢は無限に出来るわけだ。

僕は今年39歳。もちろんカメラの入り口はフィルムカメラだった。僕は体育会系の道をあまり好んでいない(サッカー部ではあったけど)のだが、とにかく反復する事がとても大好きである。反復と日常化に勝てる身体性獲得と継続は存在しないでしょ?
なのでフィルム現像で給料が吹き飛んだ事がある。愚かで可愛らしい。若き俺よ。
しかし僕の世代のフィルムカメラは絞り、シャタースピード、オートフォーカス(は付いてたかなぁ・・・)だったので写真の民主化よろしくバシャバシャ撮りまくっていた。
デジタルカメラになってからは一旦カメラを辞めていた(他にやる事が大量にある)
その後NIKONのデジタル一眼を買って撮りまくっていたが、パソコンに保存していたので全て消失した。写真を失う事は記憶を失う事にかなり近いので、NIKONのデジタル一眼のことはあんまり覚えていない。

何年前だか忘れたが、FUJIFILMのコンデジと一眼を買って写真を撮っていたわけでカメラにまたハマり出した。ここは一つフィルムカメラへ行こうかという事で遂にフィルムカメラを入手したわけです。

CanonのAEー1
まず、今更フィルムカメラ買うなら機械式だろうなと思っていたが一つ問題があった。それは光の強さがフィルムに焼き付く感覚がど素人だと思ったのだ。
単にこの光の強さの時のシャッタースピードと絞りはどれくらいという身体感覚が無い事に気がついたわけだ。これはやばいなという事でこのカメラにしたわけだ。

フィルムについてもかなり知らなくて楽し過ぎるし沼過ぎて凄い。

歳を食ったのでバカスカとる事はしないようになった事にただひたすらに賞賛を送りたい。俺凄い。

写真として残すと言う意味をも少し考えた方が良いと思ったのと
デジタルカメラで撮る事とSNS的なものとの関係性を考えたかったのと
市民としての生活の写真の位置はデジタルかマテリアルかみたいな事も考えたいなーと思って始めたわけです。

みんなの為にやる事と、我々の為にやる事をもっとちゃんと考えたかったのだ。

誰も見たことのない最高の写真。閉じられた世界の解放されない歴史の写真。
誰もが見れて誰もが良いと思う写真に価値があるという事に対する不信感。
僕達は、僕達の人生が全てであるという事を考えてみたい。

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