学習の限界

メモを残したいのだが、細かく記述できなくなっていてびっくりする。

知恵のラインをざっくりと

安心と信頼を山岸俊夫先生の分け方で考えると
古来より日本は安心社会(スモールユニット)で生きてきた。
明治以降、更に1965年から急速に安心社会が崩壊していく
当然と言えば当然で、近代社会のモデルが欧米である
欧米諸国は信頼社会なので、信頼社会への移行は自然の流れである。
其れが正しいと言う意味ではなく、当然の流れであると言うこと。
(安心=裏切れないから信じる 信頼=裏切られるかもしれないが信じる)

既に安心社会は存在しないと言う事実を知らない。

安心社会とはシステムなのでその対応人数が限られる。
その対応人数の枠で有る場所の破壊で人々は離散し個人として放り出される形になった。個人として社会で生きるには信頼関係が必要だが、ある程度まで企業が肩代わりした。しかしそれも長くは持たず結局個人という剥き出しの状態で社会に放り出される。

互いに裏切れない状態が安心とし、信頼とは裏切られるかもしれないと言う関係なので、信頼の方がユニットとしては最小から進められる。
日本人は現在ある意味で共同幻想と、自己幻想しか知らない。
幻想かどうかは置いといても、人は対から始まる。
それが対人でなくとも、共同と自己が生まれるのは対で有るはずだろう。
信頼という対の概念を持たない日本人にとって安心社会の崩壊は戦後から始まる大きな民主主義と言うプロジェクトの失敗を意味する。
その根拠は信頼関係が低くなり続けた米国の現状を見れば分かりやすい。

信頼という概念を持たないが故に課題先進国化

社会とは信頼で成り立つもので有ると言う民主主義から信頼が抜けると崩壊する。安心で信頼を賄っていた日本で、安心が失われ信頼構築を誤ると民主主義が機能しなくなる。民主主義の失敗は市民社会の失敗で有り、現在浮上してきた問題は内在的に存在していたが、遂に目に見えるところまで来たと考えると既にボロボロで有ると憶測できる。非常識な人間(私)が社会を知らなければいけないほどボロボロであると言える。

昭和と平成の時代の違い

昭和と平成の違いを私なりに解釈した。これは人と人の関係性から見た違いである。
昭和とは、違うと言う前提で同じになろうとした、していた時代で、
平成とは同じになってしまった人達が違うと言っている時代だ。
いや、平成とは其れが分断されておりスモールユニットで有る場所が破壊され全て混ざってしまった状態が令和とも言える。世代間での"老害"や"若者"と言う対立が起こるのは、そう言うことで、前提条件が全く違っている。

みんな違うと言う前提、みんな同じと言う前提

どうして、昭和はみんな違うと言う前提かと言うと、スモールユニットである場所(農村や方言)が存在していた事でコミュニケーションや見解が混沌としていたと想像するとわかりやすいと思う。皆忘れてしまったかのようだが、方言とはローカルでしか通じない言葉で、場所が存在していた昭和は標準語と言うある種の外側の言葉を覚える必要がある。戦時中に広がったと言われる標準語だが、意思疎通が出来ない事を避ける用途である。つまり、現在話す言葉(私は大阪人なので大阪弁を話しますが)は権威的な言葉で有り、場所から与えられていない外郷語と言える。外郷語である標準語が標準化していった時代を平成と捉える。
大阪弁と言うローカル言語が普及したのも平成ですが。

昭和の人は、違うのだから同じになれと言うわけだ。しかし既に同じになっている平成の人達はそれの意味が分からずに対立する。

昭和の人は場所から与えられた言葉や環境、体験が存在し
平成の人は場所も言葉も環境も体験も同じになっていく。

上妻世海氏が言っていた、日本人にとって場所の崩壊は言葉の崩壊でもある(その逆も)と言う考察もこれにある程度合致するかと思う。
同じであることに価値があった事から違うことに価値がある時代へ移行したとも言える。しかし面白いことに、自分自身が同じである事を知らない。プロフィールを見れば、権威的タグか、企業的タグか、病気タグか、精神タグかくらいの違いしかない。それくらいこの社会は個人がむき出しになり、関係性が希薄化している。

安心社会しか教えられていない

問題は安心社会の崩壊を知らない事と、安心社会というシステムしか教えられていない事である。なす術がない状態にある。友達も居ない、家族ともうまくいってない、地元への意識も薄い。そんな安心社会の無い状態なので皆共感を求め、安心をその共感から搾取する。もちろんその共感から金銭を搾取する人もいる。
更に場所を失った剥き出しの個人が共感する(安心を求めて)事は、ポピュリズムや権威主義、全体主義を生み出す要因となるので警戒が必要だ。

共感だけで生きていける時代の終焉

我々に備わる共感という能力は、場所が有ればとても良い作用があると言える。
共感のない家族や恋人、友人関係などは考えられない。しかしそれらが失われた現在に(安心を前提とした)共感で繋がる事はとてもつまらない事であると同時に先程あげた危険をはらむ。
既にこの社会は失われた安心を共感という媒体で不寛容になっていっている事を見るとそのつまらなさと危うさが感じられるかと思う。共感だけを軸に行動する事がそもそも危険な行為であるという事を皆忘れてしまっている。

目の前の人やものや場所マニアになる

宇野常寛氏の提案するものへの回帰は対と言う関係性を手に入れる作業をしようと言う提案と私は思っている。まさに関係と言われるものへ集中する事で信頼という概念がある種身につくであろうと私も思っている。
相手のことをたくさん知る事が相手の価値になり立つ力になる。それを相互にできればより良いだろう。そして、気をつけなければいけないのはそこに安心的関係を持ち込まない事だろう。

安心か信頼か全体か

安心社会は場所が有れば、可能で有ると思う。相互監視ではなく共存共栄の安心社会は場所との結びつき人との結び付きが濃くなり自尊心も養われるだろう。気をつけるべきは、監視を前提にせず信頼の上位状態として維持する事だろう。

信頼はとても小さく始められる。そして、とても大きくもなる。しかし、リスクも大きく、努力する事も大きく必要である。

全体は中国的なものととって良いのか、はたまた全体としての信頼ととって良いのか。全体と安心は同居させると危険かと思われる。

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