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般若心経の超意訳

※最終更新: 2021/11/4

<帰敬頌 ※この部分は玄奘訳(日本で一般的に読まれる漢訳)では省略。>

oṃ namo bhagavatyai ārya prajñāpāramitāyai!

釈尊と聖なる「智慧の完成」を礼拝致します。

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

かんじーざいぼーさつ ぎょうじんはんにゃーはーらーみったーじ しょうけんごーうんかいくう どーいっさいくーやく
Ārya-Avalokiteśvaro bodhisattvo gambhīrāṃ prajñāpāramitā-caryāṃ caramāṇo vyavalokayati sma: pañca-skandhās tāṃś ca svabhāvaśūnyān paśyati sma.

────観音様と呼ばれる仏候補者が深く「智慧の完成」の修行を実践され、ある真理を見極められた。

その真理とは、人にとってこの世の全ては
「肉体的・物理的現象」「感受」「知覚」「意志」「意識」という、
五つの現象が集合して構成されている
ということである。

「肉体的・物理的現象」とはつまり、肉体における全ての感覚機能と、それによって感じることのできる全ての対象である。
「感受」とはつまり、快いとか不快だとか、あるいはそのどちらでもないといったことが心に生じる現象である。
「知覚」とはつまり、ものごとに対して知っている特徴が心に生じる現象である。
「意志」とはつまり、心の働きを作る力である。
「意識」とは心である。つまり、それぞれの現象を統合してものごとを認識する現象である。

観音様はまた、それら五つの現象は本来「シューニャター」であるということも見極められた。
「シューニャター」であるとはつまり、現象とは本来、他の現象との相互依存関係による仮の存在であり、
独立した不変の本質というものが無く、「存在する」「存在しない」といった概念で表すことができないのである。

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是

しゃーりーし しきふーいーくう くうふーいーしき しくそくぜーくう くうそくぜーしき じゅーそうぎょうしきやくぶーにょーぜ
Iha Śāriputra rūpaṃ śūnyatā śūnyataiva rūpaṃ, rūpān na pṛithak śūnyatā śūnyatāyā na pṛithag rūpaṃ, yad rūpaṃ sā śūnyatā yā śūnyatā tad rūpaṃ; evam eva vedanā-saṃjñā-saṃskāra-vijñānaṃ.

観音様は、釈尊の弟子シャーリプトラ長老へ次のように説かれた。

────シャーリプトラよ。

肉体的・物理的現象は本来「シューニャター」である。
つまり、肉体における感覚機能やその対象は本来、他の現象との相互依存関係による仮の存在であり、
独立した不変の本質というものが無く、「存在する」「存在しない」といった概念で表すことができないのだ。

肉体的・物理的現象と「シューニャター」であるということは互いに切り離せない。

つまり、肉体的・物理的現象こそまさに「シューニャター」であり、「シューニャター」であるということこそまさに肉体的・物理的現象なのである。

同様に、感受も、知覚も、意志も、意識も、みな本来は「シューニャター」である。
つまりそれらは本来、他の現象との相互依存関係による仮の存在であり、独立した不変の本質というものが無く、
「存在する」「存在しない」といった概念で表すことができないのだ。

舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄不増不減

しゃーりーし ぜーしょーほうくうそう ふーしょうふーめつ ふーくーふーじょうふーぞうふーげん
Iha Śāriputra sarva-dharmāḥ śūnyatā-lakṣaṇā, anutpannā aniruddhā, amalā avimalā, anūnā aparipūrṇāḥ.

シャーリプトラよ。

全てのものごとには本来「シューニャター」であるという特性がある。

この世の全てのものごとは、他のものごととの相互依存関係による仮の存在である。
それゆえに人は何らかのものごとが、他のものごととの差異によって、
生じたとか消えたとか、汚れているとか清らかであるとか、増えたとか減ったとか認識してしまうのだ。

しかし全てのものごとは本来、独立した不変の本質というものが無く、「存在する」「存在しない」といった概念で表すことができない。
それゆえに、ものごとは本来、
生じることも消えることも無く、汚れることも清らかになることも無く、増えることも減ることも無いのだ。

是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界

ぜーこーくうちゅう むーしき むーじゅーそうぎょうしき むーげんにーびーぜっしんい むーしきしょうこうみーそくほう むーげんかい ないしーむーいーしきかい
Tasmāc Śāriputra śūnyatāyāṃ na rūpaṃ na vedanā na saṃjñā na saṃskārāḥ na vijñānam; na caksuḥ-śrotra-ghrāṇa-jihvā-kāya-manāṃsi; na rūpa-śabda-gandha-rasa-spraṣṭavya-dharmāḥ; na cakṣur-dhātur yāvan na manovijñāna-dhātuḥ;

それゆえにシャーリプトラよ。

「シューニャター」であるということにおいては、
肉体的・物理的現象も、感受も、知覚も、意志も、意識も、みな独立した不変の本質というものが無い。

全ての感覚機能も、つまり、
視覚機能も、聴覚機能も、嗅覚機能も、味覚機能も、触覚機能も、みな独立した不変の本質というものが無い。
そして心も独立した不変の本質というものが無い。

感覚機能によって感じられる全ての対象も、つまり、
色や形も、声や音も、香りも、味も、触れられる対象も、みな独立した不変の本質というものが無い。
そして心に生じる様々なものごとも、独立した不変の本質というものが無い。

全ての認識も、つまり、
視覚による認識も、聴覚による認識も、嗅覚による認識も、味覚による認識も、触覚による認識も、みな独立した不変の本質というものが無い。
そして心による認識も、独立した不変の本質というものが無いのだ。

無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽

むーむーみょう やくむーむーみょうじん ないしーむーろうし やくむーろうしーじん
na-avidyā, na-avidyā-kṣayo yāvan na jarā-maraṇaṃ na jarā-maraṇa-kṣayo;

さて、知っての通り、
人は十二の要因の連鎖を通じて転生を繰り返している。

前世にて真理を明かしていないことにより、因果の力が生じ、
因果の力により、現世にて受胎して意識が生じ、
意識が生じた次に、心と体が生じ、
心と体が生じた次に、感覚機能が生じ、
感覚機能が生じた次に、感覚への刺激が生じ、
感覚への刺激が生じた次に、感受が生じ、
感受が生じた次に、渇望が生じ、
渇望が生じた次に、執着が生じ、
執着が生じたことにより、来世にて存在することが決定する。
存在することが決定することにより、来世にて誕生し、
誕生すると、老いや死・憂い・嘆き悲しみ・肉体的苦痛・精神的苦痛・絶望を再び経験することとなる。

しかし「シューニャター」であるということにおいては、
「真理を明かしていない」ということ自体に独立した不変の本質というものが無く、
「真理を明かしていないということが無い」ということ自体にも、独立した不変の本質というものが無い。

さらに、老いや死にも独立した不変の本質というものが無く、
老いや死が無いということさえも、独立した不変の本質というものが無い。

つまりそれら十二の要因は全て独立した不変の本質というものが無く、
それら十二の要因が全て無いということさえも、独立した不変の本質というものが無いのだ。

無苦集滅道

むーくーしゅうめつどう
na duḥkha-samudaya-nirodha-mārgā;

知っての通り、四つの聖なる真理がある。

一つめは、不満という聖なる真理。
人は、誕生しなければならない、老いなければならない、病気にならなければならない、死ななければならない、
憂い・嘆き悲しみ・肉体的苦痛・精神的苦痛・絶望を覚えなければならない、憎んでいる者と会わなければならない、
愛する者と離れなければならない、求めても得られない。
つまり、この世で人が遭遇する全てのものごとは不満の種なのである。

二つめは、不満の原因という聖なる真理。
不満の原因は渇望である。
つまり、感覚を満たしたいという渇望、生きたいという渇望、嫌なものごとを無くしたいという渇望である。
渇望は消えても再生し続け、喜びと愛着を伴う。
人はいつでもどこでも、渇望に溺れてしまうのだ。

三つめは、不満を制するという聖なる真理。
つまり、渇望から完全に離れることである。

四つめは、不満を制する道という聖なる真理。
つまり、これら八つの聖なる道である。
正しく完全なる見方、正しく完全なる思い、正しく完全なることば遣い、正しく完全なる行い、
正しく完全なる生活、正しく完全なる精進、正しく完全なる気付き、そして正しく完全なる瞑想である。

しかし「シューニャター」であるということにおいては、
それら四つの聖なる真理すらも、独立した不変の本質というものが無いのだ。

無智亦無得

むーちーやくむーとく
na jñānam, na prāptir na-aprāptiḥ.

さらに「シューニャター」であるということにおいては、
真理を知るということ自体にも、独立した不変の本質というものが無い。

また、この世には、
人に対してものごとをつなぎ止める作用と切り離す作用がある。
しかし「シューニャター」であるということにおいては、
ものごとをつなぎ止める作用と切り離す作用にも、独立した不変の本質というものが無いのだ。

以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙

いーむーしょーとっこ ぼーだいさった えーはんにゃーはーらーみったーこ しんむーけいげ
Tasmāc Śāriputra aprāptitvād bodhisattvasya prajñāpāramitām āśritya viharaty acittāvaraṇaḥ;

それゆえにシャーリプトラよ。

仏候補者たちの「智慧の完成」を頼りに、全てのものごとが本来「シューニャター」であると悟ると、
いかなるものごともつなぎ止めることが無くなるのである。
それゆえに、心がこだわりで覆われることも無くなるのだ。

無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

むーけいげーこ むーうーくーふ おんりーいっさいてんどうむーそう くーきょうねーはん
cittāvaraṇa-nāstitvād atrasto viparyāsa-atikrānto nishṭhā-nirvāṇa-prāptaḥ.

心がこだわりで覆われていないため、恐れることも無くなり、
誤った観点から超越し、「涅槃」という静寂な安らぎの境地へと至る。

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

さんぜーしょーぶつ えーはんにゃーはーらーみったーこ とくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだい
Tryadhva-vyavasthitāḥ sarva-buddhāḥ prajñāpāramitām-āśritya-anuttarāṃ samyaksambodhim abhisambuddhāḥ.

過去や現世や未来におられる仏様はみな「智慧の完成」により、最上級の悟りを完成されている。

故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚故

こーちーはんにゃーはーらーみった ぜーだいじんしゅ ぜーだいみょうしゅ ぜーむーじょうしゅ ぜーむーとうどうしゅ のうじょーいっさいく しんじつふーこーこ
Tasmāj jñātavyam: prajñāpāramitā mahā-mantro mahā-vidyā-mantro 'nuttara-mantro 'samasama-mantraḥ, sarva-duḥkha-praśamanaḥ, satyam amithyatvāt;

それゆえに知るべきである。

「智慧の完成」の大いなる真実のことばは、大いなる真理を明かす真実のことばは、
最上級の真実のことばは、比類なき真実のことばは、

全ての不満を取り除く。

それは偽りが無いため、真実なのである。

説般若波羅蜜多呪 即説呪曰

せつはんにゃーはーらーみったーしゅ そくせつしゅーわつ
prajñāpāramitāyām ukto mantraḥ; tadyathā:

その真実のことばは「智慧の完成」にて、このように説かれた。

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

ぎゃあていぎゃあてい はーらーぎゃあてい はらそうぎゃあてい ぼーじーそわか
gate gate pāragate pārasamgate bodhi svāhā

「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
(往くことよ、往くことよ、涅槃へ往くことよ、涅槃へ共に往くことよ、悟りよ、成就あれ)

般若心経

はんにゃしんぎょう
iti prajñāpāramitā-hṛdayam samāptam.

以上で、「智慧の完成」の真実のことばを終わる。


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