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本阿弥光悦は江戸時代のアナーキスト?

東京国立博物館で開催中の「本阿弥光悦の大宇宙」を鑑賞した。

本阿弥光悦は、江戸時代初期の「数奇者(すきしゃ。芸道に執心な人物)」として紹介されている(Wikipediaより)。代々続く刀剣鑑定・研磨の家業の家に生まれたが、むしろ陶芸や能楽(謡い)などに通じ、とりわけ書の分野では「寛永の3筆」と呼ばれたほどの名人だとされている。現代風に言えば「マルチ・クリエイター」ということになるだろうか。

展覧会では「第1章:本阿弥家の家職と法華信仰-光悦芸術の源泉」「第2章:謡本と光悦蒔絵」「第3章:光悦の筆線と字姿」「第4章:光悦茶碗」の4つのパートで構成されている。

第1章では、家業(刀剣)や法華信仰を通じて培われた人脈ネットワークが後の活動への下地となっていることを紹介している。クリエイターであると同時に、プロデューサー的な資質を持っていたようだ。また、光悦が遺した数少ない刀剣の刀装(鞘)は金蒔絵で表現されていて、後の「光悦蒔絵」への伏線ともなっている。

第2章では、大きな鉛板や螺鈿(らでん。美しい貝を使用する装飾)による光悦蒔絵の数々が展示されている。そのほとんどが当時の画の巨人・俵屋宗達とのコラボレーションによって制作されている。

宗悦蒔絵として最も有名なのが「舟橋蒔絵 硯箱(すずりばこ)」。

『舟橋蒔絵 硯箱』

盛り上がった硯箱に「後撰和歌集」に収められた源等の歌「東路のさのの舟橋かけてのみ主渡るを知る人そなき」が銀文字で描かれている。が、「舟橋」の文字はない。
実は硯の表面に金の舟が描かれ、その上に鉛板の橋を渡してあり、文字とビジュアルの掛け合わせで歌の世界を表現する粋な仕掛けが施されているのだ。

第3章(光悦の筆線と字姿)に展示されている「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」は、光悦の書の力が最大限に発揮された代表的な作品で、私自身、最も感銘を受けた。

『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』ポストカード

俵屋宗達による横幅13メートルの鶴の大群が飛翔する姿に、光悦が平安期の三十六歌仙の和歌を散らし書きしている。この「散らし書き」とは、俳句や和歌を行頭の高さや行間の幅を自在に変えて自在に書く日本古来の手法だということを本展覧会で初めて知った。

この散らし書きを宗達の画との絶妙なバランスによってひとつの作品として成立させている点が、本作品のオリジナリティということになる。書の配置だけではなく、濃淡をつけることで遠近感も生み出している。ビジュアルと言葉を巧みに組み合わせるこの手法は、現代のアート作品や広告作品を手掛けるクリエイターにも大きな示唆を与えるのではないだろうか。

また、この作品の筆致を観ているとまるで音符のようにも見える。謡にも通じていた光悦は、この書を音を感じながら描いていたのではないか、彼は共感覚(複数の感覚を同時に持つ)
を有していたのではないか、という想像を巡らせた。

光悦は、55歳の時に脳血管障害を患い右半身が不自由になったと言われており、書にも乱れが生じているのがわかる、しかし、老境に入ってからの書にはむしろ軽やかさが増している。視力が落ちた後も睡蓮を描き続けたモネや、晩年になって切り絵の作品を生み出したマティスにも通じる、最晩年期のアーティストの「軽み」は、現代の私たちに少しだけ勇気を与えてくれるようだ。

展覧会の最後に掲げられているのは、光悦という人物を言い表したとされている、この言葉だ。

生涯へつらい候事至てきらいの人

光悦は1615年、58歳の時に徳川家康から京都郊外の鷹峯という土地を与えられ移り住んでいる。どうやら、京の公家や武家、朝廷と広範なネットワークを持つ光悦を恐れ中心地から追い出した、というのが真相とされている。

しかし、この鷹峯の地に多彩な芸術家が移り住み一大芸術村が出現し、多くの作品が生み出されていった。

本阿弥光悦は、権力に服従せず連帯によってイノベーションを興す「江戸期のアナーキスト」とも言うべき存在だったのではないだろうか。

本展覧会では目を見張る作品群に接することができた。しかし、惜しむらくはこうした光悦の実像を明らかにするには至っていない点だということを最後に触れておきたい。

#本阿弥光悦の大宇宙  


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