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私たちは本当に「見て」いるのだろうか

    アーティゾン美術館で開催中の「写真と絵画―柴田敏雄と鈴木理策」を鑑賞した。会場入り口の「ご挨拶」には、企画の趣旨として「人間がものを見て表現するという近代(モダニズム)絵画に共通する造形思考を感じる2人の写真家の作品を通じて、現代の写真作品と絵画の関係性を問う」と述べられている。

ジャム・セッション 石橋財団コレクション×柴崎敏雄×鈴木理策 写真と絵画ーセザンヌより | アーティゾン美術館 (artizon.museum)

   鈴木のコーナーでは、モネの睡蓮やクールベの絵画と比較しながら「画家は、いかに目の前の現実を描くのか」を探求した作品が紹介される。その際、鈴木は画家たちがいた場所を訪ねることで、その場所固有の光や空気感を体感する、というアプローチを採る。

クロード・モネ 睡蓮 1903年
鈴木理策  ジヴェルニー 16, G-41 2016年

 「睡蓮」を主題とした「水鏡(Water Mirror)」という作品で鈴木が主題としたのは「レイヤー(階層)」。モネは描く時、人間の眼に映る異なるレイヤーを描き分け、それらをキャンパスという面の上で統合したと感じ、それを再現することで、私たちが無意識に行っている「見ることに手間取らせたい、見るための時間を立ち上がらせたい」と解説している。

 モネが年齢を重ねて視力が衰えるに従い「睡蓮」も抽象度を増して行く。それでも作品の力が衰えるわけではなく異なった魅力が立ち現れるのは、画家が眼だけではなく空気感や季節感を感じながら全身で視ていたからなのだろう。鈴木の作品は、画家同様に「全身で視る」意味を提示しているようだ。

 一方の柴田は、カンディンスキーの絵画(「3本の菩提樹」)に見られる「プッシュ・アンド・プル(画面内の要素が、押したり引いたりし合うように見える視覚効果)」にヒントを得た作品(「栃木県那須塩原市」)を提示する。絵画は平面に奥行きや空間性を感じさせる「イリュージョン」を表現して来たが、柴田は写真でその試みを再現しようとしているのだろうか。

ヴァシリー・カンディンスキー | 3本の菩提樹 1908年
柴田敏雄 | 栃木県那須塩原市 2020年

   柴田は、セザンヌの絵画に触発されて身に付けた撮り方の基本をこう語っている。

風景を撮る場合も、生物を撮る時と同じように、という感覚がありました。人がいないところで、何処にでも在るけれど、何処にもないようなイメージを示しています。

  柴田の作品で最も印象に残ったのは、江戸時代の僧侶であり仏師だった円空の仏像にヒントを得た作品。「円空のような立体的なフォルムを平面に落とし込むことに関心がありました」と、その意図を説明している。

風景や自然の中に仏心を感じるのは、日本人独特の感性だと言われる。木の中に仏心を見出し、彫ることで仏が姿を現すかのような造形を生み出した円空同様、柴田の作品も撮るという行為を通じて風景の中に仏の姿を見出しているかのようだ。そこでは人口の構造物も自然の一部であるかのように表現されている。

円空 仏像 江戸時代17世紀
柴田敏雄 C-3333 山形県米沢市 2019

   会場にはレオナルド・ダ・ヴィンチの「絵画の書」からの言葉が紹介されている。

絵画の中に含まれるすべての分野を愛さない者は、普遍的な人間ではない。

   さらに、ダ・ヴィンチは同郷人・ボッテイチェリの言葉を引用している。

さまざまな色を含ませて海綿を壁に向かって投げるだけで、その壁面に染みが出来て、そこに美しい風景があらわれる。(中略)確かにこのような染みの中には人がそこに見出したいと思うもののさまざまな着想が見出される。

 カメラという機械を通じて対象を捉えて来たカメラマンが、自分の眼や身体だけを通じて作品を生み出して来た画家達の造形の道筋を追体験しながら提示される作品群は、発達し過ぎた機械や氾濫する情報にまみれた私たちに「本当に“見て”いるのか」という問いを投げかける。

#アーティゾン美術館 #写真と絵画  


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