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人間性について

 それにしても、2022年のいま、これまで映像や本で見聞きしていた人間の残虐性を毎日のようにニュースで見せられるとは思ってもいなかった。ロシアがウクライナへの侵略を始めて1か月。既に数千の民間人の命が奪われ、避難民は400万人を越える(4月2日現在)と報道されている。だが、その様子を眼にしながら少額の寄付をすること以外、何もできない無力感がある。

 日本のメディアに比べて、毎朝NHK-BSで放送されるBBCなどの各国メディアは、容赦なく悲惨な状況を見せる。ロシアがかつてのナチスに(彼らが唱える「ウクライナの非ナチ化」は正に悪いジョークだ)プーチンはヒトラーに重ね合わされる。改めて戦争という行為はどんな理由があるにせよやってはいけないことなのだ、という当たり前のことをこれまでにない実感として思わせられる。

 その一方で。第2次大戦以降、日本が戦争というものを経験して来なかった一方で、ベトナム戦争を始めとして数えきれないほどの侵略や戦争が、常に世界中で行われて来た。だが、それらに比べて、ウクライナに我々がこれほどの衝撃を受けるのはなぜか。ロシアという大国によるもので、おそらく1962年のキューバ危機以降の世界大戦の危機をはらんでいることに加え「情報の非対称性」も関係している。これまでの侵略や戦争は、いわゆる非欧米圏で行われて来たために、その報道量も限られ、我々にとってもどこか「他人事」だった。出来事は、それを見る「メガネ」によって、いくらでも受ける印象が異なってくることにも改めて気づかされている。

 そのような中で、改めて手に取ったのは「ひとはなぜ戦争をするのか」という本だ。これは、国際連盟の企画として、アインシュタインが投げかけた問いに対してフロイトが答える両者による往復書簡。第一次世界大戦後の1932年のことで、その後、皮肉なことにアインシュタインは原子爆弾の発明に関わることになる。この中でフロイトは「人間には2つの欲動がある」とする。ひとつは保持し統一しようとする「生の欲動」。もう一方は、破壊し殺害しようとする「死の欲動」だ。誰にもこの2つの欲動が潜んでいるとすれば、自分の中にも「内なるプーチン」が潜んでいるということになる。

 コロナ禍によって人と直接触れ合うコミュニケーションが極端に限られるようになって2年以上が経つ。それによって知らず知らず、自分の中にかすかなコミュニケーション不全が起こっていると感じている。人との距離の取り方がわからなくなり始めている自分がいる。

 もうひとつは、自分の中にいまだ存在する「会社という病」とでも言うべきものだ。誰かと比べられて評価されるということを長年やってきたために、何事につけ誰かと自分を比べてしまう習性が身に付いている。これは高度成長と終身雇用のセットという稀に見る温床で育って来た日本の企業人に大なり小なり身に付いたものなのかもしれない。加えて、自分がいた会社の特殊性。広告代理店という、何かにつけて批判され揶揄(やゆ)される業界にいたことや、ある件で社会のバッシングを浴びた経験によって、業界やかつて身を置いた会社のことをとやかく言われると、自分でも制御できないほどに反発する「スイッチ」が入ってしまう(かといって、誉められるとそれはそれで否定したくなる。困ったものだ・・)。アカデミー賞授賞式でのウィル・スミスのような暴力沙汰こそ起こさなかったが、周囲も驚く過剰な反応をしてしまうことも何回かあり、それによって人との関係性に支障をきたしたこともある。

 プーチンにとってのウクライナが怒りのスイッチのように、私のスイッチは自分がいた業界や会社のことらしい。

 改めて、自分という「人間性」を磨きなおしてみようと思う。とはいえ、どういうやり方があるのか、わからない。まずは会社という病から解放され、スイッチを手放し、誰かと比べる習性を正すことから、だろうか。 

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