おばあちゃん、ありがとう

先日、父方の祖母が天国に旅立ちました。89歳でした。

おばあちゃん、今まで本当にお疲れさまでした。

おばあちゃんが歩んできた人生があって、自分が今この世に存在しているのだとういうことを改めて感じたよ。

戦後の大変な時期に若くしておじいちゃんが死んでから、

女手ひとつで4人の子供を働きながら育てて、

最初は教員の仕事をしていたことは初めて知ったよ。

電電公社の電話交換手の仕事をしていたことは聞いたことあったな。

僕が福岡に住んでいておばあちゃんが名古屋と離れていたこともあって

小さい頃名古屋でおばあちゃんに泊まるときは毎回初めは余所余所しくて緊張していたっけね。

おばあちゃんの家に行くとドラえもんの漫画が沢山おいてあって、いつもそれを見て時間を過ごしたり、近くのイオンみたいな大きい商業施設でおばあちゃんに買いたいものを買ってもらったな。

小学3年生ごろから、両親がお店を始めたこともあり、名古屋に行くことが3年に一回とか凄く頻度が少なくなって、だんだん会うことがなくなっていった。

誕生日の時に電話で話す程度で、もっと沢山話すことがあればよかったんだけど、電話越しだから、「誕生日のお祝いありがとうございます。って言っては、お父さんに電話変わります。」ってすぐに電話を変わってた。

そもそもなんで敬語だったんだろうって思うけど、それぐらい自分にとって、おばあちゃんという存在は中々会うことがないし、実感として遠い存在だったんだと思う。


おばあちゃんが数年前に家で転んで足を悪くしたせいもあって、動けなくなってから

痴呆症があっという間に進行して、施設に預けなきゃいけないことになった。

そこから3年前に福岡に半ば騙すように連れてきて、施設に預けたんだけど、その時にはもう僕の顔を見ても、誰?って感じで孫のことは忘れてしまっていた。

毎回おばあちゃんの息子である父が、「俺の息子よ、おばあちゃんの孫よ。」

って言っては、ひげの生えた僕の顔を見て、おばあちゃんは笑いながら、

「嘘よー、あんた(父のこと)よりおじさんに見えるよ!」

って言ってた。

自分のことをもう覚えてないのだという寂しさもあり、福岡にいるおばあちゃんに会いに行くことを止めた。

何か用事があるとか伝えては少しずつ父に任せっきりにしてしまっていた自分がいた。

施設に預けていたこともあり、コロナが流行りだしてからは一切会えなくなった。

そうこうしている間に息子が生まれた。

自分にとって生きている最後のおばあちゃん、おじいちゃんだったので、

生きている内に一度抱っこして欲しかった。

でも施設の決まりがあり、一度も息子をおばあちゃんに見せることができなかった。

でも本当にそれは決まりだったからなのか?

それはルールを楯にした言い訳ではないだろうか、と自分に問うた。

施設に入ることが出来ない決まりの前に従うふりをして、最善の方法を模索することをただ放棄していただけではなかったか?

施設に入ることが出来なくても

ガラス越しに息子をおばあちゃんに見せることは出来たんじゃないか。

ONLINEでつないでテレビ電話することだって出来たはずだ。

ただ自分を覚えていないという虚無感を感じることを拒絶した自分がそこにいたんだよね。だから行動を起こせなかった。

でもね、おばあちゃんの安らかに眠る顔を見た時に、凄くそんな自分を感じて、恥ずかしくなった。

おばあちゃんが自分を覚えていなくても、どんな顔をされようと、会いに行くことをすればよかった。

コロナを言い訳にしていただけだった。

自分の小ささを感じ、後悔の念が込み上げてきた。

今という時は無情にも過ぎ去っていく。

その一瞬一瞬に後悔ない自分でいることは今後も出来ないかもしれないけれど、ただその最中において自分の小さな恥ずかしさが元で行動を止めていないか

そんなことをこれからも問い続けていきたいと思っている。




おばあちゃん、貴方の存在があったから

自分が生まれて、息子という自分にとってかけがえのない存在に

出会えたよ。

本当にありがとう。おばあちゃんのおかげで、今愛を感じることが出来ているよ。

天国でゆっくりおじいちゃんと話してね。沢山話したいことあるだろうから。

そして、また生まれ変わったら、どこかで会おうね。次はもっともっと沢山おしゃべりしよう。

ありがとう。ありがとう。ありがとう。


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