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「お前の大学5年目に何の意味があるのか」と言われた

「傍から見るに遊んで単位を落としているだけのように見えるが、そんな人間の大学5年目に意味はあるのか(いやない)(反語)」「ただの無駄な遠回りなのではないか」と言われた話です。

たしかに

たしかに自分でも「遊んで単位を落としている」と言っているし、実際にそうで、お金もたくさんかかっているわけだが。たしかに4年で卒業するよりも大学卒業に時間はかかっているわけではあるが。
だとしてもちょっとモヤモヤする言われようだなあと思ってしまった。

無駄な遠回りとは

10歩譲って、5年目に授業で学んだことは「4年のうちにできたこと」かもしれない。100歩譲って、遠回りであることは正解かもしれない。

が、その授業で感じたこと、5年目に参加した課外活動、5年目に出会った人があるわけで。それらは「5年目だから」出会えた必然であり、その人たちのおかげで今後の人生が左右する可能性がある、という点で「無駄」ではないと思ってしまう。有意義な遠回り。
「この人に会うために、この本を読むために、私は大学に5年いた。」十分意味になりうるのでは?

「意味の判断」の意味

もう一つのもやもやは、「5年目に意味があるのか」を今判断することに何の意味があるのか、という話。
今、「うわー4年で卒業しとけばよかったー。5年目まじ無駄だわー」と後悔していたとして、10年後、5年目に会った人と一緒に仕事していたら「あのとき5年通ったからできた縁だ。意味があったのだ」と評価が変わるかもしれない。
現段階で5年目に意味があるのかの評価をすることに何一つ意味が見いだせないし、上記のような可能性が否定できない以上、そもそも評価することはできないのではないかと思えてしまう。
(というか、あなたの理論でいけば、中卒で社会に出てさっさと働いて経験と技術を身に着け、働きながら資格取ることが一番「意味がある」ことになってしまうのでは?自分自身の大学生活すら否定してしまうのでは?と思えてしまった)

他者の人生の意味を判断できるのか

最後にこれは自戒も込めて書いときたい。
他者の人生の「意味」を判断したり問いかけたりしたくない。そんなことができるほど偉い人間なんているのか?

「旅して生きていきたい」「バリバリ働きたい」「今はゆっくり休みたい」「家族のために」「自分のために」を、「それは意味があるね」「それは意味がない」と判断する傲慢さ。相手への敬意のなさ。絶対やだ!
「そういう考え方もあるのか!」「自分はこれが「意味がある」と思ってきたけど、そういう「意味」の持たせ方もできるのか!」と影響を受けながら生きていきたい!!!

結果論という過程論

この「意味の持たせ方」は結果論に依存してしまうかもしれないけど、人生なんてそもそも結果論で、死ぬときにどう思うか、で判断するものだと思うし、
もっと言うと、「死ぬときに判断」する基準を作るのは「それまでの過程」であって、「判断が下せる価値観を形成している」という点で、すべての過程には意味があるんだよなあ、と思っている。

動機論

これに反論できるのは「動機論」だと思っていて、「お前は何を思って5年も通っているんだ」と言われると、言い返す言葉がなくなってしまう。なぜなら「遊んで単位を落としたから」になるから。「この研究室に入りたくて、1年延ばした」とかなら納得が得られるはず。
今の私に当てはめると、「留年しているけど、せっかく留年したなら○○をします!」と言い切れる何かを持っていたいですよね、という感じだと思う。

言えるように頑張ります。

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