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「火男さんの一生」No.58

             58,
「ここが面会室になっております。こちらで暫くお待ちになって下さい」
通された狭い部屋、中央に透明のアクリル板で仕切り、手前に椅子、アクリル板の向こうにも椅子、映画やテレビで見る風景だった。
 鹿木は、後悔していた、来るべきではなかったと悔やんでいた。このまま、会わずに帰ろうと、漸く決心して立ち上がりかけた時、アクリル板の向こう側の奥の扉が開いた。開けて入って来たのは先程まで棟内を案内してくれた看守、だった。
 続いて誰も入ってこない。吉信は来ないのか、何か体の具合でも悪くなって面会を中止したのか?
一瞬、そんな期待が湧いた、だが、看守が一杯に開けた扉の向こうから車椅子が現れ、そこに座る男、ここに来る直前に、訓練室で見掛けた、ひょっとこ顔の男、だった。そしてその眼は、鹿木の目の奥まで見透かすように鋭い視線で鹿木を睨んでいる。
 丸刈り、白髪頭、そして、頬は削げ、やたらと耳だけ大きく横に張り、首筋は触れば折れそうな程に痩せ細り、歪んだ口と、あの、人の目に絡みつくような視線が無ければ、正面の男が吉信とは判らない程、容貌はすっかり変わり果てていた。
「未だね、殆ど話が出来ないんですけど、入所してきたころから比べると、それでもすごく恢復しています。何か訊きますと、手書きでね、紙に返事を書いてくれて、意思疎通は出来るんです。トイレなんかも最近は、おむつもしなくなって、本人は、それが大層嬉しいらしくて、手書きで、ね、トイレ、だけは人間であることの最後の尊厳だ、なんて書いていましてね。
 出所までにはもう少し、色んな事が出来るようにと、中々、毎日頑張っています。今日も、鹿木さんに会えることが非常に嬉しいようで、何日か前から興奮気味で、血圧に良くないからと云うんですが、やっぱりね、身内に会えるとなると、どうしても、ですね。
 今日は、でも自分では話が出来ないので、事前にね、私に、手紙を書いてくれと、自分で書いてあった紙を渡されて、それを書き直して、これです」
看守は1通の封筒を出して、アクリル板に穿けた丸い穴から鹿木に渡した。
「鹿木兄へ」
と表に書いてある。この字を見て鹿木は、前に届いた吉信からの手紙を代筆した看守、確か田所何とかが書いたものとすぐ判った。
「あなたが、田所、さんですか?」
「田所、と申します」
「お世話になります」
吉信は車椅子を操って、アクリル板を挟んで向かい合わせに座った。そしてその眼は、何んとも表現のしようのない、複雑な感情を露わにしていた。
 鹿木は吉信が、その視線で何を云いたいのか全て読み取れた。実際に吉信の顔を見るまでは不安でならなかった鹿木、しかし吉信の、鹿木を見る目は、鹿木の、もしや長い拘留生活で心が変わり、互いに優しい、労りの言葉の掛け合いも出来るかも、との甘い期待が一瞬にして崩れたことで、また予想通りに敵意に満ちていたことで却って鹿木の心は落ち着いた。また吉信がその眼に表わさんとする一切の意志、感情を読み取れたことで、鹿木は対面する直前までの不安を消し去ることが出来た。そして、どう対処すべきか覚悟が出来た。
「開けていいですか?」
看守に尋ねて渡された封筒を開けた。
 便箋1枚、抜き出して開いた、前回と同じ看守の字、
「ゆずのきの ねもとに一輪 くちなしの花           
水筒の水」
 鹿木は、顔を上げ、そして吉信の顔を見た、その目にはっきりと憎悪を溜めている。鹿木は臆せず暫し二人は睨み合った。
 二人の間の険悪な空気を察したか、看守は
「字余り、ですけど、きっと、そこに在るべき筈のない、可憐な花を見つけた 一瞬の驚きを表現していて、なかなか、ですね」
 吉信が見つけたものは、そんな可憐な花などではない、のだ。鹿木は、看守に向かって
「伝えてやって下さい、出所後の生活は一切、私が面倒見る、と。何も心配せず、勤めあげて、その日まで、外に出てもちょっとは散歩が出来るようにリハビリ頑張ってくれ、と」
看守が言葉を伝える前に吉信は理解出来たのか、気のせいか、その固まった目が、少し和らいだように観えた。
「富子も、吉信おじさんのこと、心配していると伝えてと云っていた。富子ももう大学生で、この夏も友達と島でキャンプ張って、この前、東京に戻ったところだ」
富子には、以来吉信のことは何も伝えていない、富子も昔に何があったかなど一切尋ねたりしない。当然、今日の面会の事、富子は一切知らない。
それが嘘だと判るのか、吉信の眼に何も変化はなかった。
吉信は喉に痰が詰まったように絞り出すような声を出した、鹿木には何を云ったか解らない、だが看守は、
「兄さん、迷惑掛けた、よろしく頼む」
と訳した。
 鹿木は何度か頷いて見せ、そして面会を終えた。車椅子に乗って吉信は扉の向こうへと消えた。

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