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「火男さんの一生」No.59

               59,
帰りに所長に礼を云って、駅に向かうタクシー車内で、鹿木は、吉信との面会を振り返る。
吉信が最後に喉を振り絞って何か鹿木に訴えた、それを看守田所は、
「兄さん、迷惑掛けた、よろしく頼む」
と伝えた。だが、鹿木には、吉信がそんなこと云ったとはとても思えない。何を云ったか鹿木には解る筈もなかったが、吉信が、恨みと憎しみを溜めて鹿木を睨み据えるあの眼がそんなことを云う筈がない。看守にははっきりと何と云ったのか聞こえたに違いない、だがその呪いの、罵りの言葉を、折角面会に来た鹿木に、そのまま伝える訳には行かず、言葉を換えたに違いない。
便箋に書いた一句、
(ゆずのきの ねもとに一輪 くちなしの花) 「水筒の水」
看守田所は、柚子畑で、偶然見かけたくちなしの花に 驚いた様子を描いた秀作だと褒めたが、鹿木にはこの短い文章で、吉信が鹿木に対して何を云いたいのか、どんな感情を持っているのか、全てを表したものだと理解した。
(声を失い、一歩も歩けぬ体になっても、こんなざまに堕とされたこの恨み、一生忘れはしない、お前を煮て殺すも焼いて殺すも、この俺次第だ、あの水筒の水が有る限り、お前はこの俺から一生逃げられない)
 そして、別れ際、鹿木が
(出所後の生活は一切面倒見る、何も心配するな)
と云ったその時、気のせいか、その固まった目が、少し和らいだように鹿木には観えた、
吉信の、鹿木に出した口止め条件は、出所後の生活の保障、だったのだ。
 鹿木は、吉信に会うまでは、今日、面会に来たことを後悔していた、逃げ出そうとまで思った、だが、結果的に、会ってよかった、と今は思っていた、
何よりも、吉信には今すぐ、あの水筒を、誰かに、これは実は、と差し出すつもりがないと判っただけでも鹿木は大きく安堵出来た、
そして、出所後の、吉信の生活を見てくれさえすれば、俺は、一生、くちなしの花に成って、あのことは誰にも、何も云わない、と吉信の意志が判ったことは鹿木には大きな収穫だった。
鹿木は、暫し時間的余裕が出来たことで、今日まで、あれ程に散々悩んでいたことが一気に解決出来たと胸を撫で下ろした。
こういう事情となれば何も慌てて動くことはない、あと何年か、しかしさして先の話ではないが、それまでに、我が身の安全を図るための工作は何とでも出来る…
 
鹿木は、時間の余裕が心にゆとりをもたらせたくれたお陰で、集中して考えることが出来るようになった。
鹿木にとって、今や県会議員を何期か勤め、次期参議院議員選挙には、地元保守党からの推薦を得て、立候補する話もほぼ具体化している。
製材業から再起し、今や県内最大手のホームセンターを経営し、事業運営は姪の富子にほぼ任せっきりだが、その富子が意外にも優秀な経営能力を発揮して、順調に業績を拡大させている。
ただ、一つ、鹿木の脳裏に、いつもその隅に隠れ、夜中に突然泣き出す赤子のように鹿木の思考を狂わせる、癌のしこりのようなものが巣食っている。
癌のしこり、それは吉信の存在、吉信が生きていること、だった。鹿木には何よりも苦悩の種だった。今も、その度後悔する、あの時、吉信を、由美子と一緒に農薬を何故飲ませて頃さなかったのか悔やまれる、そしてその以前、事故に見せかけて吉信を殺しきれなかったことが、鹿木の苦悩の根源だった。
鹿木の脳裏に、スカイラインが岬の坂を猛スピードで走り抜ける光景が蘇る、スカイラインは、坂を登り切り、カーブを曲がり切れず、ガードブロックに衝突して宙に舞い上がり、ボンネットが崖下の磯の岩場に向かって落下する直前、人の影が車から飛び出した映像が蘇った、吉信は生き残った、そしてあの、「水筒」も生き残っている…
そのしこりが突然に痛む。時に、たった一行だけの、みみずの這った跡のような文字の表の宛名書き、その裏に一行だけの俳句を書いた葉書が送られてくる。
差出人の名前を「水筒の水」しかし住所地は書いていない葉書、郵便配達員から、また舟の船頭から、郵便物の束を受け取るたび、鹿木はその中に葉書が含まれていないか、もし一枚でも見つければ、鹿木の指先は突然に震え始めてしまう。
たった数文字の「水筒の水」は、
(声を失い、一歩も歩けぬ体になっても、こんなざまに堕とされたこの恨み、一生忘れはしない、お前を煮て殺すも焼いて殺すも、この俺次第だ、あの水筒の水が有る限り、お前はこの俺から一生逃げられない)
あの面会の際に、鹿木を睨み据える吉信の、怨念を溜めて睨み据える眼を思い出させて鹿木を苦しめる。
吉信からの葉書は、出所して施設に入所して暫くしてから届くようになった。以来、鹿木は、吉信からの葉書を見る度、立ち上がれない程その恐怖に打ちのめされる。もういったい何年続く…
この恐怖から逃れるためには何をどうすればよいか…毎日、昼も夜も、四六時中、狂信者が経を称えるように、この事ばかりに悩まされていた鹿木、或る日受け取った葉書を、呪符でも受け取ったように読みもせず引き破ろうとして、葉書に書いた吉信の俳号「水筒の水」が一瞬眼に映り、そして脳裏に閃くものがあって鹿木は手を止めた。
「水筒の水」、
諸悪の根源はこれだ、と鹿木は気付いた。これさえなければ、鹿木は何も恐れるものはこの世から消えて無くなる。

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